先輩と後輩

 それから何分経ったかは分からなかったが、透子さんはひとしきり泣いた後に落ち着きを取り戻した。


「本当にごめんね」


 かすれた声で透子さんは謝った。


「私はね、これまでにしてきた選択のせいで苦しくなってるんだと思う。今だって、そう」


 彼女は少し身じろぎをして、顔を僕の胸から離した。僕と同じシャンプーを使ったはずなのに、僕とは違う甘く柔らかな香りがふわりと香った。


「進路も、人間関係も、その時の私なりに上手く選択したつもりでも、後々になるとそれが自分を苦しめる結果になるの」


 そう話し始めた透子さんの声は、今にもまた泣き出してしまいそうなほどに震えていた。


「いつもいつも自分の首を自分で絞めるようなことばかり。例えば、研究室選びもそう。二年生の私は今よりも真面目で勉強熱心だったから、忙しくてもやりがいがあって、意義のある研究をしている研究室が良いって思って入ってみたの。そしたら、私より数倍、いや、何十倍も賢くて研究熱心な人達しかそこにはいなくて。そんな彼らと一緒に行う実験や毎週のゼミ、論文紹介や研究の進捗発表に馬鹿な私は全然ついていけなくて。ああ、また選択を間違えたなって研究室に行くたびにいつも思う」


 透子さんはまた僕の胸に顔を埋めた。泣き止んで間もないからか、かすかに震えているのが腕と胸から伝わってきた。


「いつもいつも、取り返しのつかない状態になってから、また選択を間違えたんだ、って気づくから質が悪いんだ。もっと早くに気が付ければ、どうにかすることだって出来たかもしれないのに」


 透子さんは弱々しい声で話を続ける。


「私が苦しいのは、誰のせいでもなく私のせい。だから苦しいの」


 そう言うと、透子さんは僕のシャツをぎゅっと握った。


「多分ね、今こうやって君の好意に甘えて慰めてもらっているのも、間違った選択なんだよ」


「これは僕がしたくてしたことです。透子さんの選択ではないです」


「いや、これは私の選択だよ」


 透子さんはそう言い切った。


「今はこうして君に抱いてもらっているからとても温かくて落ち着けるけど、朝が来れば『君の温かさなんて知らなければよかった』って後悔すると思う」


「どうしてそう思うんですか」


「君がいなくなった時に、この温かさを思い出して切なくなるから」


 そう言うと、透子さんは僕の背中に腕を回した。僕と彼女の距離が縮まり、先程より彼女の体温と柔らかな感触が直に伝わってくる。心臓が激しく脈打ち、頭に血が上る。頬はどんどん火照り、また理性が保てなくなりそうになった。


「……ごめんね」


 透子さんはぽつりと呟いた。


 僕はなぜ彼女が謝るのか分からなかったが、「いいんですよ」と答えた。


 透子さんは本当にごめんね、とまた謝った後、僕のシャツの背中をぎゅっと握った。


「私が眠るまで、一緒にいてくれる?」


「……もちろん」


「ほんとうに?」


「嘘はつきません」


「よかった。こんなわがままを聞いてくれるなんて、君は優しいね」


「優しくなんて、ないです」


 この行動には汚い下心も含まれている。だから、これを純粋な優しさとは呼べないだろう。


「そうかな?本当はそういう優しさを他の女の子の前でも見せていて、案外モテたりしてるんじゃないの?」


「そんな訳ないじゃないですか。からかわないで下さいよ」


 これまでに女性と深い関係になったことが一度もないのを思い出し、恥ずかしくなった。でも、透子さんが軽口を叩けるくらいには元気になったようで、素直に嬉しかった。


「そういえば、今まで聞いたことなかったけど、君ってどんな女の子がタイプなの?」


「急な質問ですね…… これに答えたら僕だけ恥ずかしい思いをするじゃないですか」


「後で私も好きな男の子のタイプを答えるよ?」


 透子さんの好きな男の子のタイプ。それは聞く価値がありそうだ。


 僕はやはり恥ずかしかったが、ここは素直に自分の好みの女性像を答えることにした。


「たまに変なことをするけど奇を衒っている訳でもない、理知的で落ち着いた雰囲気のある女性です」


 僕の中にある、透子さんという女性像を言葉で表そうとしたら、意外と落ち着いて答えることができた。


「ふーん、なるほど。かなり具体的だね」


 透子さんはそれを聞くと僕の体から腕を離し、僕の顔を覗き込んだ。


 こんな至近距離で彼女の顔を見るのも、僕の顔を見られるのも初めてだった。思わず胸がドキドキとしてしまう。


 普段は前髪で隠れている白い額は、髪が横に流れて中心が見えていた。整った眉毛の下の涼しげな目元はまだ涙で潤んでいるが、その表情は晴れやかであるように見受けられた。


 近くで彼女に顔を見られているのが恥ずかしくなり、僕は目を逸らした。


「……それで、透子さんの好きな男性のタイプはどんなですか」


「うーん、そうだね」


 彼女はしばらく考えるような素振りをしてから、


「私と一緒に死んでくれる人、かな」


とだけ言った。


 一瞬、聞き間違えたかと思った。思わず、透子さんの顔を見る。


 彼女の表情は先程と変わらぬ、明るい笑みだった。


「それは、どういうことですか」


「どうって、言葉通りだよ。私が『死にたい』って言ったらそれを止めるんじゃなくて、私と一緒に死ぬことを選んでくれる人がタイプなの」


 透子さんは僕の目を真っすぐに見つめる。


「そんな人がいてくれたら、私の寂しさも少しは埋まるんじゃないかなって思ったりする」


 そう言うと、透子さんは目を伏せた。


「透子さんは、死にたいのですか」


「……どうだろう。でも、長く生き続けたいとは思わないかな」


 透子さんの言葉は、僕の心を強く揺さぶった。彼女がそんな人を求めているという事実が、僕を不安にさせた。


 朝になれば、彼女という存在そのものが消えてしまうのではないか、とさえ思った。


「僕は、透子さんがいなくなったらって思うと、すごく寂しいです。透子さんにずっといて欲しいって、思います」


 本心を透子さんにぶつけた。言った後に、かなり恥ずかしい発言をしたことに気が付いた。これではまるで告白ではないか。


 彼女を抱きしめてから、普段なら自分の本心や本音が漏れないよう制御している心のリミッターが外れてしまったような気がする。それが良いことなのか悪いことなのか、今の僕には判断できなかった。


 そんな僕の言葉を聞いた透子さんは、少し困ったように眉尻を下げながら微笑み、


「うん、ありがとうね」


と小さく呟いた。

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