眠る先輩

 しばらくして、透子さんが風呂から出てきた。僕の部屋着のトレーナーとズボンを身に着けているのだが、彼女の魅力は全く損なわれていなかった。


 透子さんは僕の部屋着を着こなしており、地味なそれも彼女が着ると洒落た服装に見えた。


「部屋着ありがとう」


 長い袖をつまみながら、彼女は両手を広げてサイズを確かめるようにした。そんな仕草に可愛らしさを感じた。


 透子さんの次は僕がシャワーを浴びた。


 ユニットバスから出て部屋に戻ると、透子さんは椅子に座って薄い文庫本を読んでいた。


 本には紙製のブックカバーがかけられており、タイトルは分からなかった。


「早かったね」


 透子さんは本を閉じると、机の上に置いた。


「男の風呂なんてこんなものですよ」


 僕はバスタオルで短い髪を乾かしながら答えた。


 その後、僕はクローゼットから客人用の綺麗な布団を取り出して敷いた。


 敷いている間、このまま寝てしまってもいいのだろうか、という問いが何度も頭の中で繰り返されていた。しかし、僕は勇気を振り絞って行動に移すことが出来なかった。


 透子さんは僕の敷いた布団を眺めてから、


「ここに私が寝るの?」


と聞いてきた。


「ベッドの方が良ければそちらでも」


「ううん。ここで寝る」


 透子さんは長い髪の毛を軽く手で整えると、ゆったりと布団に横たわった。


 布団に寝そべる彼女の姿を見続ければ、また僕の心がざわついてしまうので、さっさと部屋の電気を消して自分のベッドに入った。


 おやすみなさい、と互いに言った後、部屋に沈黙が訪れた。


 僕は全く眠れる気がしなかった。寝返りを打ち、ベッド横の壁を見た。カーテン越しの月明かりで浮かび上がっている壁紙の凹凸をなぞるように眺め、気持ちを落ち着かせようとしたが駄目だった。


 だが、目を閉じると透子さんのかすかな息遣いを意識してしまう。


 また寝返りをして、彼女が寝ている方をそっと見る。透子さんは僕に背を向けており、呼吸のたびに肩が規則的に少し上下していた。


 もう眠ってしまったのだろうか、と思ってしばらくその動きを見ていたら、その肩の上下は段々と不規則になっていった。


 次第にうっうっ、と何かがつっかえるような音が聞こえてきたが、それが透子さんの押し殺した嗚咽だと気が付いたのは鼻をすする音がしてからだった。


 彼女の背中はぎゅっと縮こまり、必死になって泣くのを我慢しようとしているのが伝わってきた。


 僕はどうしてよいか分からなかった。分からなかったが、泣いている彼女をこのまま放っておきたくなかった。


「透子さん……?」


 僕は透子さんに呼び掛けたが、透子さんは泣き止むことに精一杯なのか、答えることはなかった。


 不思議なことに、さっきまでの心のざわつきは収まっていた。今の僕はただ、目の前の彼女がこれ以上辛い思いをしなればいい、とだけ思っていた。


 相変わらずどうしてよいかは分からなかったが、とにかく透子さんを安心させたいと思った。


 言葉だけでは彼女を安心させることは僕には出来ないだろう。僕はかなり迷ったが、なけなしの勇気を振り絞った。


 彼女の布団に入り、後ろからそっと抱きしめた。


 心拍数がどんどん上がっていった。僕はなんてことをしているんだ、と思った。自分の体が自分の物のように思えなかった。自分の行動が現実味を全く帯びていなかった。


 だが、これは現実であるということは腕の中の確かな温もりが伝えてくる。


 透子さんは僕を拒むこともなく、僕に抱かれるままだった。


 彼女はごめんね、と小さく震えた声で呟いた後、僕の胸に顔を埋めた。そこからはくぐもった嗚咽が聞こえてきた。


 透子さんの熱い息と涙で僕の胸が湿っていくのを感じた。


 透子さんが泣き止むまで、僕は彼女を抱きしめ続けた。これが間違った選択だとしてもいい、と僕は思った。

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