寂しがりな先輩
バーを出たのは十一時過ぎだった。駅に着くと、人は僕ら以外には殆どいなかった。
丁度到着していた登り方面の各駅停車に乗り込んだ僕らは、空いていた席に座った。
隣に座る透子さんをちらりと見ると、度数の高そうなカクテルを飲んだわりには酔っているようには見えなかった。
「今日は付き合ってくれてありがとうね」
「こちらこそ、誘って下さりありがとうございました」
彼女は向かいの車窓を眺めているのか、正面を向いていた。
その横顔からはバーで見せた物憂げな様子は見受けられなかった。どこか遠くを見つめるようなぼんやりした表情で、窓の方に目を向けていた。
列車は静まり返った暗い街を通過していく。窓の外は時々街灯の明かりが後方へ流れていくだけで、車窓は乗客を映す一枚の大きな鏡になっていた。
僕も彼女のように、窓を見てみる。窓には少し疲れた顔の僕と、目を瞑った透子さんの姿が映っていた。
眠くなってしまったのだろうか。電車は次の駅を出発し、彼女の住むアパートの最寄り駅に近付いていたので、
「透子さん」
と呼びかけると、透子さんは眠たそうに「ん」とだけ言って目を開いた。
「そろそろ着きますよ」
「そうだね」
まるで他人事のように彼女は言った。
「大丈夫ですか」
「うん、多分」
透子さんはふあ、と小さく欠伸をすると、また目を瞑った。
「起きてください」
もう一度呼びかけたが、透子さんは答えなかった。
僕はどうしたものかと悩んだ末に、透子さんの肩を少し強くゆすった。華奢で丸みのある肩だった。僕はどきりとした。
「ん、起きてるよ」
透子さんはゆっくりと目を開いた。
電車は徐々に速度を落とし、彼女の最寄り駅に止まった。
「よかった。ほら、もう降りる駅ですよ」
「……帰りたくない」
「え?」
「帰りたくない」
透子さんはそう言ったきり、座ったまま動こうとしなかった。
発車を知らせるベルが鳴り、列車の扉は閉まってしまった。
「帰りたくないといっても、どうするつもりですか」
電車は再び動き出した。僕は戸惑いながらも、彼女に問う。
「どうしようかな。でも家には帰りたくない」
透子さんは帰りたくない、と駄々をこねる子供のように繰り返すばかりだった。
「家は真っ暗で寒いから、そんな場所に一人で帰りたくない」
凍えているかのように胸の前で手を組み、縮こまった透子さんは淋しげにぼそりと呟いた。
「……君の家に泊まらせてよ」
透子さんは少し潤んだ目で僕を見つめる。その眼差しには今にも壊れてしまいそうな危うさが潜んでいた。
僕は思わず目を逸らしてしまった。透子さんのそんな顔をずっと見ていたら、僕の中の汚い何かが溢れてしまいそうだったからだ。
「……僕の家だって、真っ暗で寒いですよ」
「でも、一人じゃないから」
駄目だ。こんなの、断れる訳がない。
僕は黙って頷き、家に彼女を招くことにした。
***
僕の住む学生マンションは駅から歩いて10分程の高台にある。駅を出た後に線路沿いをしばらく歩いた後、左手にある急な坂道を登ると建物が見えてくる。
五階建ての鉄筋コンクリート造のそれは今年で築35年だが、外観と水回りのリフォームや、新しい郵便受けと宅配ボックスの設置などの設備投資がされているお陰で、築年数の割には小綺麗で便利な物件であった。
ここに住んで半年以上が経ったが、僕はこの学生マンションに概ね満足していた。
一つだけ欠点を上げるとするなら、五階建てのマンションであるのにエレベーターが無いことだ。
僕の部屋は五階にある。部屋に帰るときは階段を上らなければならないので、運動不足の僕には結構大変だったりする。
今日は酔った透子さんを伴っているので、彼女が階段から転げ落ちてしまわないように気を付けなければならなかった。
透子さんは電車を降りてからはダウンコートのポケットに手を入れ、無言で僕の隣を歩いていた。千鳥足とまではいかないが、足元が少しおぼつかないところがあったので、彼女がバランスを崩しても下から支えられるよう、先に階段を上らせた。
「大丈夫。転んだりしないよ」
そんな僕の配慮に気付いたのか、彼女は少し笑った。
「酔っ払いの言葉は信用できません」
透子さんがこれから僕の部屋に来ることの非現実感を噛みしめながら、そう答えた。
僕の借りている部屋に着いた。玄関を入ってすぐの所には小さなキッチンとユニットバスの扉があり、さらに進むと扉を挟んで机とベッドのある部屋がある。この物件は家具付きで、机とベッドは元から備え付けられているものだ。
部屋は窓から伝わる夜の冷気でかなり寒くなっていたので、暖房を強めに設定した。とりあえず、透子さんには机の前にある回転椅子に座ってもらい、温かい紅茶を二人分淹れることにした。
「ふーん、結構綺麗にしてるんだね。男の子の部屋って、もっと散らかっているものだと思ってた」
透子さんは物珍しそうな様子で僕の部屋を見回す。
「あんまり物を買ったりしないから、散らかってないんですよ」
自分の部屋を透子さんに見られていることに恥ずかしさを覚えるのと同時に、いつもなら部屋干しをしている洗濯物を、今日の朝にちゃんと片づけていたことにホッとした。
電気ポットでお湯を沸かし終えた。安いティーバックを二つ取り出し、自分が普段使っているカップと、この間服屋で服を何着か買った時についてきた、新品の青いタンブラーに入れた後にお湯を注いだ。
「ひょっとして、いつでも女の子を連れ込めるようにしてる?」
いたずらっぽい笑みを浮かべながら、透子さんは僕を見つめた。
「そんなわけないじゃないですか」
僕はなるべくぶっきらぼうに答えた。内心の羞恥を悟られたくなかったので、ティーバックを手早くカップから出す作業に集中しているふりをした。
「これ、どうぞ」
タンブラーに入った紅茶を透子さんの前に置いた。
「お、ありがとう」
透子さんはお礼を述べた後、紅茶を飲んだ。
「……なんか味、薄いね」
「そうですか?」
僕も自分のカップの紅茶を飲んだ。確かに味が薄かった。どうやらティーバックをカップから出すのが早すぎたようだ。
この部屋に一つしかない椅子には透子さんが座っているので、僕はベッドに腰かけることにした。
「私だけ椅子に座っててごめんね」
「いいんですよ。透子さんはお客さんなので」
僕は薄い紅茶を飲みながら、椅子に座る透子さんの背中を眺めた。
自分の部屋に透子さんがいるという事実が未だに飲み込めず、実感が湧かなかった。
彼女はタンブラーを両手で覆うように持ち、椅子の座を回してこちらを向いた。
「どうしたの? さっきからソワソワして」
「何でもありません」
「そう?」
何でもなくなんてなかった。好いている女性と密室で二人っきりだ。僕は自分が主体性に欠けた人間だと思ってはいるが、今回ばかりは主体的に行動しろ、と本能がそう囁いてくる。それと同時に、本能のままに動けば後で悔やむことになるぞ、と理性が本能を押さえつけてくる。
どうしたいかの答えはわかっていても、それをそう簡単に実行できるほど、僕は経験もなければ勇気もなかった。
僕は何も言えず、ただ足元を見た。
透子さんは紅茶を飲み終えると、タンブラーを机の上に置いた。
「シャワー借りていいかな? 私、ちょっと汗かいちゃった」
そう言ってすっと立ち上がった。シャワー、という単語に思わずドキッとしてしまったが、「あ、はい、どうぞ」と何とか答えることが出来た。
「パジャマとかある? 」
「僕の部屋着で良ければ」
僕からバスタオルとベージュのトレーナーとズボンを受け取ると、透子さんはユニットバスへと入っていった。
壁越しに聞こえてくるシャワーの音が、僕の心をざわつかせた。薄い壁を挟んだ向こうで、透子さんが一糸まとわぬ姿で体を洗っている姿を思わず想像してしまい、僕はそんな自分に嫌気がした。
僕はもっと、自分が理性的な人間だと思っていた。そうありたいと思っていた。
だが、いざというときには理性なんてものは簡単にゆらいでしまうことがよく分かった。
僕は今夜、どうすればいいのだろうか。
腰掛けていたベッドに寝転び、天井を見つめる。自分の心を鎮めるために目を瞑ってゆっくりと深呼吸をした。
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