第29話 閑話:ジネット
やってしまった。
やってしまった。
やらかしてしまった!
ジネットの頭は後悔で埋め尽くされていた。
どうせ死ぬからと心の奥底に隠した欲望を開放したのに、何の因果か生き残ってしまったのだ。
自分の振る舞いはあちこちで噂になっている。
あの冒険者の女が歌にして広めてしまった。
こんなことになると知っていれば、乱戦のどさくさに紛れて殺したものを……! 後ろから斬りつけない、という騎士のマナーも忘れ、ジネットは懊悩する。
正直スッキリはした。
心のモヤモヤが晴れ、止まった時間が動き始めたかのような気分だ。
しかし、取り返しのつかない問題も招くだろう。
よりにもよって。
よりにもよって!
主君が想いを寄せている男に愛の告白なんて!
それも、衆目の面前で!
重い足取りでケアナ城へ帰還したジネット。
彼女を待ち受けていたのは、敬愛する主君からの呼び出しだった。
見慣れた執務室に、見慣れない主君がいる。
ユリアーナは窓の外を見つめたまま、無言。
言葉などなくとも伝わってくる。
メラメラと燃えるどす黒い妖気の漂動が。
脇に控えるアメリーが、バカな妹を諭す姉のように“妄言を撤回なさい”、“許しを乞いなさい”と目くばせしてくる。
……それはできない相談だ。
決して嘘を言ったわけではないのだから。
覚悟を決めて口を開きかけると、ユリアーナが目を伏せた。
「ジネット」
「は、はい、閣下」
「ここへきてから何年かしら」
「13年になります」
しばしの沈黙。
心に茨を巻き付けられるような錯覚。
「私は、お前のことを実の妹のように思っていたわ」
「……っ」
「私が拾って、幼い頃から家族のように接してきたんですもの。主従の誓いを越えてお互いを信じ合い、何でも話して、どんなときでも心が通っていると」
彼女は窓に額をくっつけ、ふぅーっと息を吐く。
「そのように思っていたの」
それは一瞬だけ窓を白めるが、夏の大気に熱されてすぐ水滴に変化した。
くすんだガラスにつうーっと水が垂れ落ちる。
「最近、詩人から興味深い歌を聞きました。ケアナの騎士よ、嘘偽りなく答えなさい」
「はい」
アメリーが眉根を寄せて、ぶんぶん首を振っている。
「エスト殿が好きなの?」
「はい、好きです」
「子供の頃からずっと?」
「はい、ずっとです」
「どうして好いたのかしら?」
「幼き日、ガルドレードで殴り合ったからです」
「殴り……?」
ユリアーナは意表を突かれるが、すぐに顔を引き締める。
「私がお前をかばって逃がしたとき、お前は彼と遊んでいたのね」
「……申し訳ありません」
「私が求婚に浮かれていたとき、お前はどんな気持ちだった?」
「諦めと安堵、祝福と妬みを感じました」
「彼の側で親しくからかわれたとき、お前はどんな気持ちだった?」
「…………」
「彼に愛を告白し、返事としてキスをされかけたとか」
「それは」
「頭が真っ白で夢中だった? それとも、鍵束に浮かれる愚かで無様な主君の姿が、わずかでも頭によぎったかしら」
彼女は振り返った。
水滴がまつげと頬を濡らしている。
「ジネット。どうして打ち明けてくれなかったの」
その声は、怒りを向けられるよりもずっとジネットの心を切り刻んだ。
「先に知っていれば、婚約が流れても未練には思わなかった。先に知っていれば、浮かれてお前を苦しめたりはしなかった。先に知っていれば――」
「お嬢様」
「――家族だと思っていられたのに」
ジネットは消沈しながらひざまずく。
「ユリアーナ様、私は……」
「言い訳は聞きたくない」
「私は!」
彼女の喉は震えている。
「ユリアーナ様のことが好きです」
「空虚な言葉ね」
「エスト様も好きですが、ユリアーナ様のことも本気で好きだったんです」
「ええ。それは私だって――」
「そういう好きではありません!!」
空気が固まり、動きが消える。
砂時計のさらさらした音だけが、時が止まってはいないと主張していた。
「……」
「……」
「そ、そういうこと」
言いつつも、ユリアーナの頭には疑問符が何個も浮かんでいる。
彼女が視線をズラすと、アメリーが額を抑えて天を仰いでいた。
「エスト様、ユリアーナ様、どちらか片方なら耐えられました。でも……でも! あの婚約話は、私の好きなふたりを同時に奪っていきました! 言えませんよ。言えるわけないでしょう!?」
「あの」
「エスト様から迫られたい一方で、大切な主君を押し倒したいなんて!」
「…………!?」
「告白はしましたよ! どちらも失われるぐらいなら、どちらか片方だけでもって、目の前の機会に飛びついたんです! もしあれがユリアーナ様だったとしても、私は同じことをしました! 言い訳はしません。これが私の本心です! 私は――」
ジネットは顔を上げて叫んだ。
「ユリアーナ姉様とも同衾したい!!」
ユリアーナは困ったように微笑んだまま硬直している。
その感情は、混乱の二文字だ。
「こうなった以上、もはやケアナにいる資格はない。私は忠誠を撤回します。閣下、育ての恩に感謝を。今までお世話になりました」
「え、あ、うん」
「命を懸ける用事があるときは呼んでください。必ず駆けつけます。忠誠は撤回しても、ユリアーナ様から叙任された騎士ですから」
「そ、そ、そうね。連絡する……連絡……」
ジネットはマントを脱ぎ捨てて剣を置き、宙を睨みながら執務室を出た。
アメリーが白目を剥きかけている。
「あ、あの。……知ってた?」
「知らなかったんですか?」
ユリアーナは放心し、返上されたマントと剣を見つめた。
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