第18話 孫世代の成長と祖父の死
私が中1の冬か中2の初め頃だったと思います。
それまで普通に電話機があった増本さん宅ですが、なぜか、当時の黒電話でもなければビジネス用の電話機でもなく、ピンク色の公衆電話が置かれるようになりました。公共の場、ちゃうよ。一般家庭に、でっせ。
まだ民営化前の電電公社の時代でしたからね。少し遠距離になったら今以上に電話代が高かったですからね、そのような場合に備えて100円玉の投入口もありましたよ。そういう時代ですから、手紙やはがきは普通に流通しておりました。パソコンは黎明期で、インターネットなんてとんでもない時代よ。
ではなぜ、増本さん宅にそんなものが投入されたか?
この家の住人はどなたもすでに成人しているが、まだ親と同居している。そのことが電話代を増大させる要因ってわけです。そこは難とか、経費節減をせねばならないでしょ、ってことやな、家計的に。成人ともなれば、皆さん交友範囲が広まるやないですか。さすれば電話を使う機会も増えるし、長電話も増えますでしょ。
無論それは必ずしも悪いことではないし、そもそも良し悪しの問題ではない。
ちょうどこのころ、家庭裁判所の書記官をされていた親父さんはそろそろ定年を迎えようという時期。定年後は、在職中に得られた行政書士の資格を利用して自ら事務所をもって仕事されていました。母親のほうはと言えば合間に何か仕事位されていたのかもしれませんが、詳しいことはわかりません。ただ一つ言えることは、彼女は典型的な専業主婦の域を出ない人だったということ。
多少なりとも働きに出たところで、扶養の範囲に収まる程度の仕事をされていた時期はあったことは間違いありませんが、基本的には主婦そのもの。あと、お茶の師範をされていたことは前にも申しましたが、その程度。
今の私から見れば、実に世間の狭い人でしたね。
電話機の話に戻りますけど、要は10円玉をしっかり家人から徴収して家の電話代に充てていたということ。ある意味、受益者負担を徹底したということか。
お姉さんこそすでに仕事に出られていましたが、上のお兄さんは薬学部の大学生で、下の弟さんは大学に何とか行ったけど中退されて、その頃から勤めに出られていたように記憶しています。ただ、そうは言っても若い人たちでそんな高収入が得られるわけでもありませんからね。皆さん、この家に同居されていた次第。
そうなれば、電話で極力家の金を、要は稼ぎ頭の父親の金を食いつぶすわけにもいかないってこと。誰がこのアイデアを生み出したのかはわかりません。多分、母親だろうなというのが私の推測です。合理的に物事を考える親父さんも、その案に反対する理由がなかったでしょうな。
こうして、私が最初に来た頃から比べても増本さん宅は段々と雰囲気が変わっていくのが手に取るようにわかりました。外の目から見ても、ね。そりゃあそうだ。皆さん成長していくわけですからね、毎年1歳ずつ。
そんな中でも目立って変わらないのが、その母親。
子どもたちに対する愛情にはあふれていましたけど、あの頃からぼくは、彼女の愛情に対して、質量ともに違和感を持ち始めていました。
そんな中、唯一と言ってもいいほど、静かに変わらぬ立ち位置から、むしろ冷めた目でその家の中をじっくり見ておられる方がいました。
それが、親父さんでした。
これは中2の大晦日近くのことだった。忘れもしない。
オレたちひょうきん族という番組がありましてね、これ、見ていたのですよ。ただ、あのノリですからね、いかんせん。大いに呆れられた親父さん、静かにしかしキッパリとおっしゃいましたよ。
「何だ、このドタバタ劇は。観るに堪えない。直ちにチャンネルを変えなさい」
有無を言わさぬお言葉に、ぼくは黙ってチャンネルを変えたよ。どの番組に変えたかは覚えてない。ひょっとすると同時間帯の全員集合だったかもしれないけど、いかんせん年末年始でしたからね。そうでなかったかもしれない。
さすがにこの中2の年の冬は、いつものようにはいきませんでした。
なんせ、裏の母親の父親、善明寺の住職をされていた方でしたけど、この方が危篤状態で入院されていましたからね。お年玉ももらえないとか、そんな問題ではないのは確かだけど、そんな話が吹っ飛ぶほどのドタバタぶりでした。
結局おじいさんは、年明けの1月2日に亡くなられました。
ぼくのいた隣の部屋で、お姉さんが静かに泣かれていた。そのことが今も強烈なほどに印象に残っています。
そのため、翌3日は朝食にパンと何かをいただいた覚えがありますが、ことがことですからね。その後、早めに某園に戻ることになりました。
葬式は、近いうちに住職をされていた善明寺で行われることになってね、それはまあそうだろうけど、親族として参列したいという思いがわいておりました。
でもそこはさすがに実の親族ではないということで、一般の弔問者として学校を早退して私のいた寮の児童指導員さんとクルマに乗って善明寺にいって、揃って焼香して帰りました。
このことをこの母親、それだけ家族としてのきずなができていた旨の自画自賛的なことを後にかれこれ言っていたことがありました。
それは確かに、間違いではないと思っていますよ。
だけどね、それだけでは済まないもの、その母親の自己満足というか、それを満たすために利用されていたとも取れる何かを感じないわけにはいかなかった。
もっともそれは、大学に行って先に気付かされたことですけどね。
彼女や裏のおじさんにとって父親であるおじいさんが亡くなられたのを機に、まだ子どもだった裏の子らはともかくとしても、大人同士は、少しずつ、しかし大きな溝を感じ始めたようです。隣家の方々との接触が、盆と正月前後にしか来ない私から見ても明らかに減っているのが肌身で感じられるようになりました。とはいえまだおばあさんが生きておられたから決定打は出るに至っていませんでした。
おばあさんも、こちらの娘一家には時々来られていらっしゃったようですし。
おじいさんが亡くなられた1984年、私は中3になりました。この年も、夏には4泊5日で泊り込みに来ています。ただ、何をしていたかは前年や前前年の夏以上に覚えておりません。
とにかく、高校受験があるからそのことでいろいろ話した覚えがあります。結果がどうあれ、わかり次第報告に来るように、とのことでした。だけどその頃、増本さん宅に泊りに行ってどんなことをしていたか、さっぱり思い出せないのです。
でまあ、高校受験に失敗して先の話になりますけど、そのあたりから、私がもはやこの家に過ごせる余地のないところへとどんどんと進み始めました。
それなら高校受験で合格していればそんなことにはならなかったのかという話にもなるでしょうけど、そうなったところで、遅かれ早かれこの家の人たちとは決して相いれ合うことの出来ないものが、私自身に大きく育ってきました。
正直言って思い出したくもない話ですよ。
だけど、できるだけ思い出してここで話してみます。
・・・・・・・ ・・・・・ ・
ここで、少し休憩。陽はさらに高く上っている。もっともこちらは西側に窓のある部屋なので、さほど影響はない。外はそろそろ、通勤電車が西からどんどんやって来る時間帯に差し掛かっている。宇野線や山陽本線の上り線の列車の往来数が時間を追うにつれて増えている。
「朝から重たいお話ね」
「仕方ないよ。そういうお話だから。むしろ、夜にはしたくないね」
「だから、こんな朝早くからやろうって言ったわけ?」
「そういうこと。いやな話は早朝に限るってこと。まあ、早朝と言える時間かどうかはともあれ、早い時間でちょうどいいくらいの話だ」
そこまで行って、作家氏は珈琲を飲んで一息ついた。
「じゃあもう、高校時代の話は朝のうちにやってしまいたい?」
「そらそうよ。酒飲みながらやったら、酒がまずくなるどころか酒の味さえしなくなってしまう。酒にせよ食べ物にせよ、美味い不味いと言っていられるうちが華だし、味を感じられての物種よ」
「命あっての物種みたいな言い方ね」
「そう言われてみれば、そうかもね」
青い目の女性がここで珈琲を飲み終え、銀のポットから継ぎ足した。この珈琲は、休憩に入る前に彼女がルームサービスで頼んでいたものである。
「せーくんも飲む?」
「うん。今回は砂糖をしっかり入れて飲みたいね」
「いつもブラックなのに?」
「こういうときは、なんだかね、砂糖を入れたくなるのよ」
「ということは、結構、体力も気力も消耗しているわね」
「確かに」
そう言って、作家氏は珈琲に砂糖を多めに入れて溶かしつつ、さらにその上にミルクを少し多めに入れて一口飲んだ。
「こういうときは、これに限るよ」
「紅茶でも、そうするの?」
「無論。紅茶なら、1杯目はストレート、2杯目からミルヒ元帥を投入するのが定番や」
「ミルヒ元帥って、何? ドイツの軍人さんのこと?」
「ま、そゆこと。牛乳元帥さんや」
さらに珈琲をひと口飲む作家氏に、同世代の大学教員が有無を言わさぬ一言。
「牛乳元帥はわかったから、行くわよ。しっかり、ね」
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