第17話 「してあげる」という言葉の表裏

 どんな言葉でも、表があれば裏がある。

 そう言ってしまえば言い過ぎかもしれないが、ある言葉のプラス面の裏には、必ずと言っていいほどマイナス面があるということです。

 あの増本さん宅の母親が、そのことを教えてくれました。

 もっともそれは、正面ではなく反面教師としてだけどね。


 彼女はねぇ、短期間とは言え反復継続的に私を自宅に招き入れ、そこで家族同然の生活をさせてくださった。そのことには大いに感謝している。年のいささか離れた兄や姉といった人も含めて、本当にかわいがっていただきました。

 そのことへの感謝の念は、今もあります。

 だが、それが幼いうちに終わっていればもっと幸せだったのかもしれないと、今ふと思った。なぜそうかというよりまず、少し仮定の話をして試してみたい。

 もしあの増本さん宅への泊りが中2くらいまで、長くてもあのあたりで終わっていたら、そこまで問題を複雑にしなかったかもしれない。

 できれば小学校の終りまでで終わっていたら、ものすごくいい思い出だけが残っていたかもしれない。


 だけど、そうはいかなかった。

 高3の終りまで、増本さん宅へのお泊りは大学受験前の冬まで続いた。こちらも成長するから、いつまでも小学生の頃の感覚で接していくはずもない。

 ぼくはここから、言うならその母親の持つもう一面をじっくりと感じさせられていくことになりました。


 あれは中1の夏だったか、冬だったか。

 とにもかくにも、妙にこんなことを言われ出した覚えがある。

 おおむね、こんな趣旨の言葉でしたね。


「あなたは人にしてもらうことばかりを覚えているけど、してあげることを考えてやっていかなくてはいけない」


 なぜこんな言葉が出てきたのだろうか。

 おそらくこれは、今思うにこんなところかと。

 私が当時から自分自身のために必死でいろいろやり出していたからね。

 それで、人とのつながり、とはいっても彼女の考える子どもらしさのようなものだろう、そういうものと当時のぼくが動いていたその動きがあまりにもかけ離れていたから、それで何か言わずにいられなかったのではないかな。

 あれは、あまりにも強烈だった。忘れもしない。

 なぜ彼女は、あんなことを言い出したのだろうか。今もって、その真意はわからない。ま、今さらどうでもいいと言えばそうかもしれないが、何なのだろうか。

 当時は圧倒されていたから気付かなかったが、今思うと、彼女の子離れの出来なさの表れだったのではないかと、そんなことを思うのね。


 一見尊く素晴らしく見え聞こえする言動をしている人物の裏側のようなものを、私はあのときいやというほど感じたのよ。

 それで、何かをしてあげることをしろとでも言わんばかりのことを言われた覚えもあるが、詳しいことは今もって覚えていない。

 あの手合いの女性は、昭和時代の福祉の現場なんかには多かったのかもしれませんね。実に、某園におられたベテラン保母さんも、いささかそれに近い言動をする人でしたから。

 あの母親のあの言葉、余程、自分は人に何かを「してあげて」いるという自負があったのでしょうな。その対価を求めるってわけか。それも自分自身ではなく、他者に対して述べ出したわけだ。しかも、その「してあげて」いる相手に、ね。

 その夫になる父親のほうからは、いささか注意みたいなことを言われた覚えはあるにはあるが、冷静な対応が目立っていました。まあ、母親のその恩着せがましさのような言葉を否定こそされなかったが、内心、これは大丈夫なのだろうかと思っておられた可能性は高いね。


 しかし何だろう、無償の愛と思えていたその愛情あふれる顔の裏には、してあげることを云々と正面切って人に言うような、それこそ、見境なしの愛情もどきを許容するかのような言動に思えて、今思い出しても、ちょっといかがなものかと思えてならないね。

 確かに、彼女の言う「してあげる」ことというのは、相手が求めている限りにおいては正しく、善行と言ってもいいかもしれない。しかし、相手が求めてもいないものを与えろと言うのは、明らかにそれは押し付け以外の何物でもない。

 そのあたりから、あの母親の化けの皮がとまで言うつもりはないけど、そう言いたくもなる側面がどんどん見えてくるようになってきました。


 そういうこともあって、私はこの家に行くことが、小学生の頃のように楽しみなものでもなくなってきていました。かと言って憂鬱とまではいかないが、まあ会ってもいいかな、って感じの時間へと変化していましたね、気付けば。


 某園のほうは、中1の夏にはいったん縦割りで組成した3つの寮を解体して、横割になりました。私は既に中1になっていましたから、中高生男子ばかりを集めた寮に移りました。そこでそれから3年半少々暮らしました。これで幼児や女子児童もいない場所に移動できて、まあ、気楽に動けるようになりました。

 もっとも、群れ合いのような行事を大小合わせて何やらやっていくような動きは、あまり変わらなかったな。ま、某園のほうはいいでしょう。


 この頃になると、基本的にあの家に行くのは中学時代はもう夏と冬だけになっていました。中1の冬が、いささか印象に残っているかな。

 なんとなく、向うでもこちらでも正月のテレビ番組が流れていて、石油ストーブを焚いていた。水着を着たアイドル歌手が芸をしたり歌ったりしていた光景も覚えています。時間があれば裏の子と善明寺に遊びに言った覚えも、まだある。

 ぼくだけ既に中学生になっていたけど、裏の子はまだみな小6を筆頭に小学生でしたから、まだよかった。お年玉も、裏のおじいさんやおばさんにいただいたりして、なんだかんだ言っても嬉しかった覚えがまだ残っています。

 だけど、上の子もその年の夏には中学生に上がって、兄弟間でも少しずつずれのようなものが見え隠れするようになってきたようです。

 まして私なんて夏と冬くらいしか来ないし、前は近所とまでは言えないにしても同じ小学校区内だったけど、今や街外れの中学校からこの学区に来るわけだ。

 しかも一足お先に学年が上がっているわけだからね。

 最後に一緒に遊んだのは、中1の冬、もしくは中2の夏だったかもしれない。


 この頃、裏の家にはこの昭和58年夏頃から少しずつ変化が起きていました。

 増本夫人の父親である辻田の家のおじいさんの体調が、この1983年の夏頃から少しずつ悪くなっていたのです。ちょくちょく入院もされていた。

 詳しいことは覚えていないけど、その年の冬に増本さん宅に伺う前には、おじいさんがいつどうなるかわからない状態であることを前もって聞かされていました。

 そんな中、私は中2の冬、1983年の年末から84年の年明けに至るまで、いつもの年末年始のように増本さん宅でお世話になることになりました。


・・・・・・・ ・・・・・ ・


「朝から話している割には、なんだか重苦しい話ね」

「わしもそう思う。何と言っても夏にあの家で過ごした記憶というのが、段々と年齢が上がるにつれて薄くなっているのよ。冬については、必ずしもそうではないのだけどね。一方、中学生に上がって先は、大学の鉄研の例会に行った時のことや先輩の下宿に寄っていたこと、あとは国鉄の気動車区なんかに行っていたときのことはよく覚えているのだが、この増本さん宅で過ごしていたときのことは、あまり覚えていないのよ。かなり、記憶が薄れているのが自分でもわかる」

 作家氏はそこまで行って、珈琲をすする。


「ちょっといい、せーくん」

「いいけど、何?」

「あなたが最初言った、増本さん宅のお母さまのこと」

「あの母親のこと? メル姉、何か気づいた?」

「あの方は中学生のせーくんに、人にしてもらうことばかりでなく、人にしてあげることをしなさいと言ったのね」

「うん、言われた」

「彼女は、人にしてあげていること、とりも分けても何かをしてあげる対象になる少年だったあなたに、自分自身の人生観のようなものを押し付けようとしていた節を感じるのよ」

「それはわしも当時感じたし、今は明確にそうだと言える」

 少し間を置いて、大学教員の女性が思うところを述べ始めた。


「なぜ、彼女はそんなことをあなたにしきりと言ったのか。

 私はこう考えた。

 彼女はあなたの母親代わりとしての自覚が大いにあった。しかし、あなたは母親の要素を持った彼女の愛情を受け入れつつも、そこから徐々に自立し始めた。

 余計なお世話かもしれないけど、しょせん彼女は、あなたの母親ではない。しかし彼女にしてみれば、母親も同然の意識がある。

 そこで彼女は、あなたに対してどこかで、いつまでも息子でいてほしい、母親をさせ続けて欲しいという願望があったのではないかしらね」


 少し間を置いて、作家氏が尋ねる。

「いつまでも息子でいてほしい、母親でいさせてほしい。そういう願望があったということか。そのためには、彼女はぼくを母親として精神的な支配下に置いておきたいという思いがあった、と?」


 50代の男女はそれぞれ、目の前の珈琲のペットボトルの珈琲のキャップを開けてグラスにつぎ込み、さらに氷を入れてかき混ぜ、飲む。

 今度は、青い目の女性が答える。


「そういうことになるようね。そのズレはおそらく、せーくんのその後の増本さん宅のやり取りで明らかになるのではないかしら。そこが楽しみではあるけど、話す側にとってはある意味地獄かもしれないわね」

「でもやらなきゃいけないことだから、やりますよ。じゃあ、行こう」

 今度は、作家氏自らパソコンの動画ボタンをマウスでクリックした。


・・・・・・・ ・・・・・ ・

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