木一堂とあたしの或る日④

「そのアイスを食べてからです。本が汚れてしまうと、本に申し訳がありませんので」


 言われてみれば確かにそうだ。読んでいる最中に水滴が落ちて本を濡らしでもすれば商品としての価値は下がるだろうし、何よりも本に悪い。読書好きな人間にとって、本が汚れてしまうのは自分が傷つくよりもキツイ物があったりする。


 男性に許可を貰い、カウンターの奥にある座敷でアイスキャンディーを食べることにした。部屋は昔ながらの畳部屋で、簡素な台所の他に、置いてある家具もちゃぶ台と本棚、それに食器を入れておく戸棚ぐらいで、特に驚くような家具も無かった。


「普段はこの店に住んでいるんですか?」


 アイスキャンディーが下に落ちないように注意して頬張りながら、思ったことを尋ねる。


「えぇ、こちらで生活させて頂いておりますよ」


 男性は急須から湯飲みにお茶を注ぎながら、何食わぬ顔でそう言った。


「えっ本当ですか?」


 その言葉に思わずアイスキャンディーを落としそうになるのをなんとか耐える。その様子を見て、男性は小さく笑った。


「冗談です。ですが、僕はここの店主ですので、査定などで泊まり込みになることはありますよ」


 やっぱりこの人は店主だったのか。そんな当たり前の事を思い直し、残りのアイスキャンディーにかぶりついた。口の中に強く冷たい刺激が襲い、キーンと冷える脳内に思わず顔を顰めてしまう。それを店主に見られたのが恥ずかしくて、あたしはそれを誤魔化すように口を開いた。


「そう言えば、どうして『改造』がこちらに?」


 これは紛れも無く尋ねたかったことだ。少々取り繕うような形になってしまったが、別に構わないだろう。


「あぁ、それはですね、この古本屋には様々な時代から、人が本を売り買いに来るんですよ。それだけです」


 店主は自分で淹れたお茶を啜りながら、何食わぬ顔でそう告げた。


「あー……もしかしてなんですけど、あたし今からかわれてます……?」


 あたしは少しだけ残ったアイスキャンディーを舐め取ることも忘れて、目の前で困り顔の店主を見つめる。


「からかってなどいませんよ。本当の事です」


 あたしはそんな彼の目を見つめて、もしかしたらこの人はあたしを騙すために言っているのか、それとも本当にそう思っている、頭の痛い人なのかを見極めようとした。


「まあ、信じることは難しいと思います。自分でも不思議ですし。なんなら、証拠となりそうなものを持ってきましょうか?」


 店主はそう言っておもむろに立ち上がると、そのまま多くの本が並ぶ店内へと姿を消した。それから僅か三分程度で一冊の雑誌を持って来ると、そのままゆっくりと腰を据えた。


「これは?」


「森鴎外の処女作である、『舞姫』が載っている文芸雑誌の『国民之友』です」


 そう言って店主は数ページ程丁寧に捲って、その該当ページを開いて見せた。なるほど。確かに見覚えのある冒頭がつらつらと並んでいて、これが『舞姫』であることは確かなようだった。


「森鴎外の処女作は、本当は『舞姫』ではなく、『うたかたの記』ではないかと言われていますが、一応文芸作品として世に出たのはこちらが初めてとなりますね」


 店主はそう自慢げに言うと、雑誌をぱたりと閉じてしまう。


「新品同然ですので、新たに刷られたかのように見えますが、本物です。丁度先日売りに来られました」


 店主は折り目が付かないようにそれを畳の上に置くと、今度はちゃぶ台の上に『改造』を置いた。


「どうぞ、お手に取って読んでみてください」


 あたしはその言葉にゆっくりと、少しだけ緊張で震える手を伸ばした。しかし、店主はその手をぐっと掴むと、にっこりと微笑んだ。思っていたより力強いその手に、あたしは思わずびくりとしてしまう。


「まずは手に持ったアイスを食べること。そして、手を洗ってよく拭くこと。本を読むのはそれからです」


 その言葉をもっともだと思い、いつの間にか溶けてあたしの手を伝う、アイスキャンディーのなれの果てを水道水で洗い流した。水はひんやりと冷たくて、まるでこの店に漂う空気のようだと思った。

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