木一堂とあたしの或る日③

 アイスキャンディーの袋を人差し指と親指で摘みながら、薄暗い店内を覗き込む。途端に、古びた本の、甘い香りがふわりとあたしを包み込んだ。


 良い匂いだな。そんなことを頭の片隅でぼんやり考えながら、足を一歩踏み出す。照明は必要最低限といったようで、外のようにぎらぎらとした明るさは無い。そのことが、少しだけあたしの心を安心させてくれる。


「あのー……」


 控えめの声で言葉を投げかけるが、奥からは物音一つしなかった。どうやらあたし以外の客もいないようだ。


 少し思案したが、恐る恐る店の奥へと足を進める。店内はひんやりと冷たく、最初は冷房か何かが点いているのかと思ったが、それは冷暖房独特の作った冷たさでは無く、森の奥のような、自然な冷たさだった。


 並んでいる本の背表紙も店内と同じような温度だったから、まるで本が眠っているようだと思った。


 店の一番奥に辿り着くと、無人のカウンターの上に、新聞が広げられているだけで人の気配は無かった。


「すみませーん」


 先程よりも強く声を出す。すると、店の奥から「はい。すぐに参ります」と落ち着いた声が聞こえた。そこから畳の上を歩く足音が聞こえたかと思うと、分厚いレンズがはめられた眼鏡を掛け、長い黒髪を一つに纏めた男性が、涼しげな紺色の着流しを着て現れた。年はまだ二十代前半ぐらいだろうか。見たところ姉と同じくらいの若さだった。まあ、この人の方が軽そうではない分大人びて見えるのだが。


「どうも、お待たせしてすみません」


 男性は人懐っこい笑みを浮かべながらそう謝罪した。


「あっいえ、待っていたって程じゃありませんので……」


 あたしの言葉に、男性はもう一度軽く頭を下げながら「申し訳ない」と謝った。


「お会計ですか?」


 男性はあたしが持っているアイスキャンディーを見て尋ねた。


「あ、はい。いくらですか?」


 遠慮がちに尋ねると、男性は先程と同じような笑みを浮かべたまま「三十円です」と言った。


「え?」


 あたしは思わず素っ頓狂な声を上げてしまう。


「三十円……ですか?」


「えぇ。僕は確かに三十円と言いましたよ」


「安すぎません?」


 思わずビニールの中で、綺麗な紫色をしたそれを眺める。スーパーなどで売られていると言われても納得できるような出来であったため、あたしからすればそれが三十円で売られていることが理解できなかった。


「そうでもありませんよ。手作りな分、安く提供できるんです」


 男性は、信じられませんか、と続けて首を傾げた。


「そういうわけでは無いんですけど……」


 あたしは、あははと愛想笑いを浮かべて、財布から十円玉三枚を手渡す。


「ありがとうございます」


 男性は笑みを崩さないまま言うと、机の下から雑誌を一冊取り出した。


「あっ!」


 その雑誌の表紙を見て、思わず声を上げてしまった。急いで口を押さえるが、そこに意味はなく、男性が不思議そうな顔をしただけだった。


「これがどうかしましたか……?」


 男性は『改造』と書かれた表紙をまじまじと見つめながら尋ねる。


「そ、それって一九二七年に発刊された総合雑誌の『改造』ですよね? 芥川龍之介の『河童』が載ったこともある!」


 あたしが早口で捲し立てるも、男性は嫌な顔をせずに、そうですよと言って笑った。


 どうしてこんな店にあるのだろうとか、そんな簡単に見ることの出来る雑誌だったっけなどと言った疑問が脳内を巡り続け、声を発せないでいた。人間は自分の理解の範疇を超える驚きを目にしたとき、声を失う生き物なんだと何かの本で読んだことがあるが、きっとその通りなんだと今の自分自身が証明している。


「見ますか?」


 そんなあたしを見かねたのか、男性は苦い笑みを浮かべた。


「い、良いんですか……?」


 高揚した気持ちから震える声で尋ねると、男性はうんうんと頷いた。


「そうだ、ですが一つだけ」


 男性がはっとした表情をしたかと思うと、あたしが手に持っているアイスキャンディーを指さした。

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