第五階層・人面犬(7)

 モネちゃんはトランクの上に片ひざを乗せて、どうにか犬をおさえこもうとしている。

 わたしは一瞬、迷ったけれど、結局はカギを拾って駆けだした。


 記憶をたよりに、さっき通った道をもどる。

 リノリウムの床を上履うわばきの音が、世界中にひびくような気がした。


 しばらくすると、さっきの階段が見えてきた。

 わたしは転がるようにして、牛の頭の南京錠のかかった引き戸のところへたどりつくと、ふるえる指で、カギを錠の穴にさしこんだ。

 カチン、と音がして、南京錠が外れた。

 引き戸の中にすべりこむ。

 扉のむこうには、見なれたつくりの階段がふつうにつづいていた。踊り場で折り返し、さらに下へと伸びている。


 戸に手をかけて、モネちゃんを待つ。

 ほんの数秒が、何時間にも感じられた。


 やがて、廊下のむこうから、タンタンタンタンとはげしい足音が聞こえてきた。

 トランクをさげたモネちゃんが、三つ編みをなびかせながら走ってくる。その数メートルうしろを、あの犬が追いかけてきていた。


「閉めてーっ!」


 叫びながら、モネちゃんが引き戸のこっち側へ飛びこんでくる。

 わたしがたたきつけるように引き戸を閉め、スライド式のカギをかけるのと同時に、反対側から犬が扉にぶつかってきた。


 バン、バン!

 ガリガリガリガリ。


 むこうがわから扉に体当たりしたり、ひっかいたりする音が聞こえる。

 そうとうくやしがっているらしい。

 そんな物音が、やがてピタリと止まったかと思うと、


「ゆずはしぬ」


「えっ」

「ゆずはしぬ。しぬ。ゆーずーはーしーぬー」


 そう言い捨てると、チャチャチャッと遠ざかっていく足音を残しながら、不気味な犬は去っていった。

 けれど、わたしの体はこわばったままだ。


「い、いま、わたしの名前……死ぬって……」

 助けを求めるようにモネちゃんを見ると、

「気にすることないわ。ただの負け惜しみよ。第一、人間なのだから、いつかは必ず死ぬに決まっているじゃないの」

 そんなふうに笑いかけてくれた。


 なんだか屁理屈みたいに聞こえたけれど、少しだけ気が楽になって、わたしは、ようやくかたの力が抜けた。

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