エンディング

 しゃくり上げ喉を引き攣らせながら泣いている子どもがいた。暗闇の中、丸くなって肩を震わせている。

 ――ああ、あれは僕だ。

 歩み寄って行く足音で子どもは振り返る。大きな闇の穴の瞳から、黒い涙を溢している。感じ取れるのはただ悲しみ。そして無力感。心の中に渦巻く暗いものに支配された感情は、ただ僕を蝕んでいる。

 僕が差し出した手に、子どもは躊躇いつつ手を伸ばした。強く引いて立ち上がらせると、僕は力いっぱいに子どもを抱き締める。

「大丈夫だよ。みんな、きみを愛しているよ」

 宙で彷徨っていた細い手が、遠慮がちに僕の背中に回された。震える指先が、縋るようにシャツにしがみつく。

「もう誰も嫌う必要はない。誰も呪う必要はない」

 大きな瞳が揺れて僕を映し出す。静かに目を閉じた子どもは、さらさらと砂のように崩れ、呑まれるように消えて行った。もう、泣く必要はない。

 きみのおかげで僕の世界は変わった。役立たずだった僕が、誰かの力になれる。その喜びを実感することができた。

 誰かに愛される。誰かを愛せる。まるで、夢の中にいるのではないかと思うような世界。

 今度こそ、許されたのだろうか。

 僕として生きることを、許されたのかな。



   *  *  *



 瞼の裏が白むので目覚めを自覚する。この目を開いたとき、すべてが夢だったらどうしよう。そんなことを考えながら瞼を上げると、ふたりの少女が僕を覗き込んでいる。どうやら夢ではなかったようだ。

「ラゼル! 気が付いてよかった!」

 リーネが安堵に顔をしかめる。その横で、シーラも泣きそうな表情をしていた。

 僕はベッドの上に体を起こす。あれだけ大量の魔力を消費したが、特に体に異常はないようだった。

「私のせいで、おふたりを危険な目に遭わせてしまいました」

 シーラが沈痛な面持ちで言う。彼女の魔法が暴走したのはラゼル・キールストラの仕業で、シーラが責任を感じる必要はない。

「ほんとよ」リーネが唇を尖らせる。「なんでもひとりで抱え込むからいけないのよ。ジェマだって、頼られて悪い気はしないわ」

 むしろジェマの場合、シーラにはどんどん頼ってほしいと思っているはず。病気療養が明けたばかりのシーラには、不安なことも不便なことも不自由なこともあるだろう。人を頼るのは悪いことではない。

「こうして友達になれたんだし、これからは抱え込まないで周りに話すのよ」

「……ええ、ありがとう。あなたたちがいてくれてよかった」

 シーラは安堵に微笑む。僕の力が役に立ったのなら、それ以上に良いことはない。

 リーネが、ラゼルと話をしたい、とシーラを退席させた。シーラはまた礼を言って部屋をあとにする。きっと生徒会室で他のメンバーが待っているだろう。

「忘れているようだけど」リーネが厳しい表情で言う。「断罪イベントのあるレイデン殿下の誕生日パーティがまだ待ってるわよ」

「やっぱりこのあいだのは断罪イベントにカウントされないのかな」

「希望は持たないほうがいいわね。闇の魔法を退けたからって、安心しないほうがいいわ」

「でも、断罪はリーネがするんでしょう? こうして友達になったんだし、大丈夫なんじゃないの?」

 断罪イベントのことはよく覚えていないが、乙女ゲームにおいて断罪イベントはヒロインが悪役の罪を告発して悪役が裁かれるものだろう。僕は罪を犯していないし、ヒロインであるリーネとは友達になった。断罪されることは何もない。

「まだわからないわ。シナリオの強制力はラノベでよく見る展開だから」

「断罪イベントはどういうシーンになるの?」

「まずは最も好感度の高い攻略対象がラゼルの罪を告発するの。リーネは怯えながらもそれを認めるのよ。ラゼルは会場から姿を消して、キールストラ家に行ってお父様とお義母かあ様を殺すの」

 断罪イベントが破滅の始まりのようだ。キールストラ公爵と公爵夫人の殺害後、ラゼル・キールストラは闇の魔法を用いて破滅を招くはずだ。いまのラゼルは闇の魔法を持っていない。さすがに氷の魔法だけでは破滅させられないような気がする。

「それなら心配はいらないんじゃない? 僕が断罪されることはないんじゃないの?」

「わからないわよ」

「それに、リーネならどうにかできるでしょ? ヒロインなんだから」

 リーネはきょとんと目を丸くする。それから、呆れたように息をついて目を細める。

「ずるい人だわ。どうにもできなかったら『やっぱりヒロインじゃない』って言うんでしょ?」

「そんなこと言わないよ。これでもリーネを信用しているんだ」

「……ま、そうね。警戒しすぎてもしょうがないし、パーティを楽しむつもりでいましょ」

 レイデンの誕生日パーティとなると、社交パーティより大規模になるかもしれない。僕はまだお茶会にしか参加したことがないが、誕生日パーティなら、社交パーティほど格式張った会ではないはず。大きな失敗はしないはずだ。

「そういえば、リーネは平民だけど招待されるの?」

「生徒会メンバーは招待されることになっているわ。そうでなければ断罪イベントは起こせないもの」

「リーネが参加しなければ、そもそも断罪イベント自体が起こらないんじゃない?」

 僕が悪戯っぽく笑って言うと、リーネはまた目を細める。冗談だよ、とまた笑う僕に、リーネは肩をすくめた。

「あーあ、隠し攻略対象を含めた逆ハーレムエンドを目指していたのに」

「残念だったね」

 そもそもそれが可能だったかどうかはわからないが、リーネが転生者のチート能力を持っているならそのルートに辿り着けたのかもしれない。

「でも、そもそもラゼルは望み薄だったんじゃない?」

「そうかもしれないわ。でも、あなたがラゼルでよかったわ。こうして分かり合えたんだもの」

 本来のラゼル・キールストラは、破滅を招くことで命をもって罪を償わされる。シナリオ通りなら、悪役令息ラゼル・キールストラとヒロイン・リーネは相容れない。こうして友達になるどころか、まともに言葉を交わすこともなかったかもしれない。

「きみはきっとラゼルを止められなくて、国は滅んでいたかもしれないね」

「またそういうことを言う」リーネは目を細める。「ラゼルがこんな意地の悪い人だとは思わなかったわ」

「リーネもちょっと前までヒロインらしかったのにね。元々は元気な人なんだね」

「あなたの前で猫を被っても意味ないでしょ。ヒロインは廃業だわ」

 夏季休暇前のことは覚えていないが、リーネは可愛らしく僕に擦り寄って来た。それこそヒロインらしく。いまの僕の前でヒロイン然としても意味がない。僕は本当のリーネをもう知っているからだ。それは決して悪いことではない。

「みんなと仲良くなれたんだからいいんじゃない? 友情エンドは最高の結末だと思うな」

「そうね。あとは無事にパーティが終わることを祈りましょ」



   *  *  *



 冬が始まろうとしている。夏季休暇から長いようで短い、短いようで長い時間が過ぎていった。僕の世界は驚くほど変わった。こんなに晴れやかな気分になったことはない。これが自分の人生だなんて信じられないとすら思ってしまう。それほど、前世とは正反対な日々だ。

 今日はレイデンの誕生日パーティ。シナリオでは断罪イベントの日だ。それでも、リーネがいればきっとどうにかなる。そう信じていることは、本人の前では気恥ずかしくて言えないけれど。

 それはそれとして、ネクタイが結べない。リリベスは別の用事を言いつけて他のところに行ってしまった。ネクタイなんて結んだことがない。あまりに不器用である。

 部屋のドアがノックされるので、どうぞ、と応えると、ジークハイドが顔を覗かせた。

「支度はできたか?」

「ネクタイが結べません」

「リリベスに任せきりにするからそうなるんだ」

 ジークハイドは呆れて目を細めつつも、僕のネクタイを結んでくれた。あれほどまでに僕を警戒していたジークハイドとも、こうして打ち解けることができた。と、僕は思っている。

「……夏季休暇から、お前は随分と変わった。人が変わったようにな」

「本当に人が変わっていたらどうしますか?」

「どうもしない」

 ジークハイドは相変わらず冷ややかだが、僕のことを認めてくれてはいるらしい。一時はどうなることかと思ったけど、なんとか上手くいったようだ。

 エントランスで待っていたアラベルとも合流して馬車に乗り込む。アラベルも穏やかに笑いかけてくれるようになったし、僕たちの関係は大きく変わった。もう誰も、僕を「悪役令息」だと思うことはないだろう。



   *  *  *



 パーティ会場はすでに大勢の貴族でごった返していた。さすが王太子の誕生日パーティだ。これだけの招待客だ。給仕の姿も多かった。

「ラゼル!」

 明るく呼びかける声に振り向くと、リーネが手を振っている。水色を基調にしたフリルの可愛らしいドレスを身に着けている。その近くには、ジェマとクラリス、シーラと、ウィロルとマチルダの姿があった。それぞれ綺麗に着飾っている。

「すごい人だね」

「こんなに大きなパーティに来たことなんてないから緊張するわ」

 実は僕も緊張している。自分が主役のパーティでもないのに。何か失敗をしてしまうのではないかと思ってしまうのだ。そもそも、僕は庶民も庶民。たとえ規模が小さかったとしても、パーティなんてものに縁はなかったのだから。

「レイデン殿下とエゼリィは挨拶回りに行っている」ジェマが言う。「まだしばらくは戻って来ないだろうな」

「これだけ人がいると」僕は言った。「挨拶回りだけで終わりそうだ」

 みんな、幸せそうに微笑んでいる。この場所が破滅の始まりなのだとすれば、そんなことはあり得ないと断言できる。そもそも、こうして僕と笑い合うことはなかっただろう。

 それぞれ給仕から飲み物を受け取って歓談に興じる。僕たちのあいだに、闇の気配なんてひと欠片もなかった。

「断罪イベントってどう始まるの?」

 僕はリーネに問いかけた。

「よくあるパターンだけど、ヒロインが最も好感度の高い攻略対象にダンスに誘われるの。ダンスのあと、攻略対象がラゼルの罪を告発するのよ」

「ラゼルルートの場合は?」

「ラゼルにヒロインが告白するわ。ラゼルはヒロインの告白を受け入れずに、屋敷に直行するの」

「どうしてヒロインと結ばれずに屋敷に直行するの?」

「ヒロインに対する劣等感とか後悔とか、そういうのがラゼルの中でぐちゃぐちゃになるの」

 ヒロイン・リーネと悪役令息ラゼル・キールストラは、相反する魔法を持っている。互いに惹かれ合ったとしても、心に絶望を溜め続けたラゼルが素直にヒロインの告白を受け入れられるわけがない。光の存在と闇の存在。絶望の末に闇の魔法に手を出したラゼルにとって、きっとヒロインは眩しすぎるだろう。告白を受けて感情が爆発してしまうほど、ラゼル・キールストラは追い詰められていたのだ。

「じゃあ、今回は誰がリーネをダンスに誘うんだろう」

「誘われるまでもないわ」

 リーネが悪戯っぽく笑うので、僕は首を傾げる。そんな僕に、リーネはすっと左手を差し出した。

「踊ってくれるでしょう?」

 リーネは愛らしくウインクする。僕は一瞬だけ呆けたあと、微笑み返してその手を取った。

「喜んで」

 僕は誰かをダンスに誘うつもりはなかったが、一応、と思ってダンスの練習をして来た。リーネに恥をかかせない程度には上達しているはずだ。

 傍らでジェマがシーラをダンスに誘う。他の五人はフロアの外で見学するようだ。

 僕とリーネは、お世辞にも上手いとは言えないだろう。それでも、明るく笑うリーネと踊るのは楽しかった。レッスンは大変だったけど、練習したことに損はなかったようだ。

 曲が終わるまで踊ると、僕もリーネも爽やかな汗をかいていた。それに対して、ジェマとシーラは涼しい顔をしている。社交界経験の差が出たようだ。

「みんな、来てくれたんだね」

 朗らかな声に振り向くと、レイデンとエゼリィが歩み寄って来る。

「レイデン殿下! お誕生日おめでとうございます!」

 明るく笑いかけるリーネに続いて、僕たちもお祝いの言葉で声を揃えた。レイデンは微笑んで礼を言ったあと、ふと僕に視線を遣る。

「夏季休暇中、不思議な夢を見たんだ」

「夢、ですか……」

「ラゼルが血塗れで高笑いしている夢だ」

「あら、その夢ならわたくしも見ましたわ」

 そう言うエゼリィに、ジェマとシーラ、クラリス、ウィロルとマチルダが、自分も、と頷いた。ジークハイドとアラベルも同じ夢を見たと前に話していた。

「今日を無事に迎えることはできないと、なんとなくだが、そんな予感がしたんだ。杞憂だったようだね」

「ラゼルとリーネがシーラを救ってくれたからかもしれない」と、ジェマ。「感覚的な話でしかないが」

「そうかもしれませんわ」シーラが微笑む。「ラゼルさん、リーネさん。あのときは本当にありがとう」

 僕とリーネは顔を見合わせた。僕たちはどうやら、破滅の運命を回避することができたようだ。そう考えるとようやく安堵して、僕とリーネは微笑み合った。


 幸福な空気のまま、パーティの夜は更ける。そろそろ散会の時間だ。

「大丈夫そうね」

 安堵したようにリーネが言う。ここまでパーティが進めば、断罪イベントは起きないと考えてもいいのかもしれない。

「実は心配してたんじゃない?」

「うん……少しね。でも、ハッピーエンドを迎えられそうだね」

「なに言ってるの。終わってなんかいないわ」

 僕が窺うような視線を遣ると、リーナは明るく微笑む。

「私たちは、これからもこの世界で生きていくんだから。エンディングなんて存在しないわ」

「……うん、そうだね。もう絶望する必要はないんだよね」

「ええ。ヒロインがいるんだから、大丈夫よ」

「そうかもしれないね。きみに出会えてよかったよ」

 そう言って微笑みかける僕に、リーネは一瞬だけきょとんと目を丸くしたあと、得意げに笑った。

 破滅を招く悪役令息とヒロインが友達になるなんて、最高の友情エンドだ。僕はこの瞬間を待ち望んでいた。この世界でなら、きっと僕は幸福に生きることができる。安心して生きることができる。この世界に転生して来たことが、きっと僕の幸福の始まりだったのだ。僕はこの世界で、ラゼル・キールストラとして生きていく。闇に呑まれることのない、ただのラゼル・キールストラとして。





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破滅を招く呪いの悪役令息は攻略対象と仲良くなりたい〜ヒロインだって頑張ります!〜 加賀谷イコ @icokagaya

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