8
マグカップのなか、残りすくなくなったコーヒーに、晴れやかな慎太郎の顔が映っている。
心配で駆けつけた先輩のもとに、重い病は、そもそも存在しなかった──。
これ以上がないかたちで、雨のなか天に託した自分の願いはかなったのだから、この寂しさを、これ以上ここに居座りつづける理由にしたくない。
彼は、その気持ちの矛盾に踏ん切りをつけるように、さめたコーヒーに名残惜しい唇をつけ、空にしたカップを置いた。
そして言った。
「旦那さんが、いらしたんですね」
和室から、生地にあたるアイロンの滑らかな音がしている。
「うん。サイズが合ってよかった」
そう言う由里子の手元でも、アイロンからの感触が、そのセンタープレスの仕上がりを告げている。
「ばかよね。捨てられなかったの」
男物の肌着なんて、いつまでも持っていて、いったい何の時に使うつもりだったのかしらねと彼女は自分を
「だから、かえさなくていいから」
──そう言いながら、さきほど盗み見てしまった彼の
慎太郎は、視線を窓の外に移した。
風はともかく、雨はまだ止んでいない。しかし──
帰る彼は、いよいよ名残惜しそうに、きっとこれが最初で最後になるこの部屋を、まぶたのうちに柔らかく切りとって持ち帰るように、食卓から見渡した。
壁にかかったままの冬物のコートは、サイズからして、今は亡きその旦那さまのものだろう。
本棚には三冊の手帳と、フィルムの写真を収めるような厚い表紙のアルバムが一帖。
棚の上には、香でも焚くのか薄く灰を盛った長方形の木皿が一枚。
あとはカウンターの電気ケトルと、出窓のフォトスタンド。その白い木枠のなかにある海は、どこの浜か夕焼けの海を正面から捉えている。
そんな余白の多い部屋に、彼女は伴侶をなくした一対の食器と共に暮らしている。
「さて」
と、彼は椅子から腰をあげた。
「では、ご迷惑をおかけしました」
玄関先で、革靴へと湿気取りに丸めて詰めていた新聞紙を抜いて捨てさせてもらうと、慎太郎は、
「それじゃ、明後日。また会社で」
キーチェーンを外し、ドアノブに手をかけた。
由里子が、
「あした、じゃなくて……?」
とたずねると、
「しこたま雨に打たれましたからね。……明日は病欠です」
と彼は笑顔で答えた。
「じゃ」
しかし、
「待って」
由里子は引き留めていた。
彼の手は、まだドアノブにある。
「ちゃんと、伝えておきたいの」
心の支度をするように、彼女は胸に息を吸った。
「何をです」
雨音が、なぜかつよく聞こえる。
ゆっくり息を吐いて彼女は、心臓のうえに手をあててから、言った。
「誰が、この中にいるのかを」
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます