第二十六話 今はただ、前を向いて

「これでよし……と」

 雑巾を床に押しつけるようにしてそう長くない縁側を行き来し、端で止まった登与は息を吐いた。振り返り、どこにも汚れがないことを確認して自慢そうに頷く。

 水が張った桶に一度雑巾を突っこみよく絞ると、登与はふと囲炉裏の間から土間を覗いた。すると土間の片隅で、久江が竈の掃除をしているのが見える。

「久江ちゃん。そっち、終わった?」

「うん、もうばっちりだよ。登与さんも?」

「中庭はね。あとはこのごみを捨てて、縁側と渡り廊下を拭くだけだよ」

 それで、ここしばらくのあいだちまちまと続けていた掃除も終わりだ。登与は妙に感慨深く、達成感ともさみしさともつかない気持ちで辺りを見回した。

 三日前。都と石雪の町を繋ぐ山道を塞いでいた土砂があらかた撤去され、復旧作業はついに終了した。あとは一時置き場に置いたままの土砂をすべて処分するだけだ。それは祭りの後始末も終えた町人たちがするということで、作業に従事していた旅人たちは少しずつ町を発っていた。

 登与が残っていたのは屋敷の掃除をしたかったからだけでなく、売れ残りの商品を久江の実家に売ったりしていたからだ。一日くらいは何もせず、働きづくめの身体を休めたかったというのもある。

 登与の商品の出来と評判は久江の実家でも認知されるようになっていて、嬉しいことに女将は前払いで引き取ってくれた。それも、少々色をつけた金額だ。ここに仏がいる、と登与が女将を拝みたくなったのは言うまでもない。

 桶の水を中庭の草木に撒いてやり、さらに登与の簪が失せた墓石にもかける。水飛沫や水玉がきらめいて眩しい。

 そうして掃除を終えたあと。掃除道具を片付け、登与は久江と縁側に腰を下ろした。久江が家から持ってきた茶葉で沸かした茶をすすり、夏の終わりの中庭を眺める。

 心地よい疲れと数日前より小さくなった蝉の鳴き声に登与が浸っていたときだった。

「ねえ、登与さん」

「んー何、久江ちゃん」

「登与さんは、昔話の女天狗なの?」

「っ」

 唐突に尋ねられ、登与は湯呑の茶を噴きそうになった。

「な、なんで……」

「お祭りの前に、この屋敷で男の人の名前を呼んでたでしょう? ほら、私が河原へ登与さんを連れていってあげた日。あのあと、家に帰るのが嫌でこっちに行こうとしてて。そしたら登与さんが誰かのことを呼んでたから、結局諦めて帰ったの」

「……」

 あれか……辰臣さんに無視されていらっとしたんだっけ。

 思いがけない目撃談に登与は頭を抱えたくなった。まさか、見られていたとは。

 登与は緩く首を振った。

「私は人間だよ。まあ神社の禰宜さんと巫女さんに術を教えてもらったから、普通の人とはちょっと違うかもだけど。ちゃんと、人間の十七の小娘だよ」

「……天狗の押しかけ女房じゃないの?」

「違う違う。えーと、私が話しかけてたのは昔話の刀鍛冶だよ。あの人、まだこの屋敷にいるみたいで。今まで人がいなくなってたのも、屋敷に悪さしてあの人を怒らせたからみたい」

「え……」

「それで私、ここへ来た日の夜ろくでもない人に襲われかけたところを助けてもらって……それ以来、顔を見たら話しかけるようにしてたんだよ。家主を怒らせちゃ駄目だしね」

 硬直する久江に、曖昧に笑って登与は説明する。かなりの部分を伏せてあるものの、事実である。矛盾はないはずだ。

 さいわい特に不振に思う様子もなく、久江は納得した表情になった。そっかと視線を落とす。

「……そのろくでもない人って、私を賽の河原に連れていった人のことだよね」

 確信の響きで、久江は呟くように言った。

「私、さらわれたときのことはよく覚えてないの。家でおばあちゃんに怒られて、夜中にこっちへ向かっていたことは覚えてるんだけど。そのあとはどうしたのかわかんない」

「……」

「でも、登与さんが私を助けようとしてくれてたのは覚えてる。死んだ人がいっぱいいるところで、私に叫んでくれてたでしょう?」

 久江は顔を上げ、登与を見た。

「ありがとう、登与さん。命を助けてくれて。それだけじゃなく、町を出る勇気がなかった私の背中を押してくれて」

 どこか必死のようにも、祈るようにも思える表情と声で久江は登与に感謝を告げた。

 登与はくすぐったい気持ちになって苦笑した。

「……私は、ほっとけなかっただけだよ。久江ちゃんが家にいたくなさそうなのもこの屋敷へ来たときに見たから、連れていくからって言えば久江ちゃんを助けられると思った。それだけの話だよ」

「でも命がけだったんでしょう? 生きてる人があんなところへ行って、何もなく済むわけないし。このあいだも、うちのおばあちゃんが怒鳴りこんできたんでしょう?」

「……まあね」

 思いだし、登与は遠い目をしたくなった。

 祭りの翌日の夜明け前に帰宅し、家族共々充分な休息をとったあと。久江はさっそく、家を出たいと家族に打ち明けたのだという。この家はもう自分がいたい居場所ではない、だから登与と一緒に家を出る――――そういうようなことを言ったらしい。

『貴女なの? うちの孫娘をたぶらかした不届き者は!』

 般若の形相で屋敷に乗りこんでくるやそう怒鳴りつけてきた久江の祖母を見て、登与は久江の苦労を改めて理解するしかなかった。この祖母と、気の強さと口では負けない母親の真っ向勝負が頻発する家なのである。そりゃ逃げたくなるよね、としか思えない。

 そんな鬼女に立ち向かい、話を聞いて駆けつけてきた久江の幼馴染みたちや町長の助けも借りて、登与が久江の祖母を撃退してからしばらく。久江はとうとう、祖母に無断で家を出る決意を固めた。そして今に至る、というわけである。

「けど、ほんとに大丈夫なの? あの様子だと、奉公人さんに久江ちゃんを見張らせてでも止めそうだけど」

「大丈夫だよ。今日からおばあちゃん、町を出てるの。他の町へ行った友達が重篤だって文が昨日来て、どうしても最後に一目会いたいとかで」

「……」

「誰かが見張りを命じられてても、真面目に聞く人はいないでしょ。……私がいなくなれば、もうおばあちゃんとお母さんが喧嘩してるのを止めなくても済むし」

 登与が心配顔で尋ねても、久江はあっさりとしたものだ。中庭へ向けた顔には確かに陰が見えたけれど、それ以上に覚悟を決めた者の潔さが強く表れている。

 登与はなんともいえない気持ちになった。

 今家を離れればきっと久江は家からいなくなってしまうと、久江の祖母はわかっていたはずだ。それでも町を出たのは、死にゆく者のそばにいられるのは今しかいないから。どちらの別れを選ぶか葛藤しただろうに、これさいわいと久江を連れていくのはどうにも申し訳ない気もする。私がいなければ、と久江が口にするのも胸が痛む。

 多分、久江ちゃんのお祖母さんも悪い人じゃないんだけどね……。

 怒鳴りこんできたときは応戦するのに必死だったが冷静になってから振り返ると、孫娘が素性の知れない行商人の少女にたぶらかされたに違いないという思いこみが根底にあった。孫娘を心配していたのだ。今までの厳しい教育も、孫娘への愛情のつもりだったのだろう。

 だがそんな祖母の愛情を今の久江は理解も納得もできまい。もしかしたら、十年経っても。

 将来のためだから今は勉強しなさいって、目の前の楽しみや自由を取りあげまくってればそりゃね……。

 久江の母が少々色をつけて登与の商品を買ってくれたのも、娘の決意の強さを理解しているからだろう。渡された金額に驚く登与の手を握り、娘をよろしくお願いしますと頭を下げたのも。

 登与を見送るときの彼女の顔は女将ではなく、我が子を思う母親そのものだった。

 これはもう腹をくくるしかない。賽の河原で久江に叫んだのは、その場限りの気持ちではないのだ。

 さいわい故郷には、神社の禰宜と巫女以外にも頼りにできそうな大人たちがいる。神社の宿舎に住ませることができなくても、住む場所や仕事を紹介してやることはできるだろう。そうして視野を広げることができるようになれば、やりたいこともきっと見つけられる。

 拾われたばかりの頃、登与は何もできない子供だった。それでも今はこうして遠い町へ行商に出かけ、大人と交渉することだってできている。

 久江ちゃんは家を出ると自分で決めたんだもん。時間はかかるかもしれないけど、自分らしく生きるための力を身につけることはできるはずだよ。この私ができたんだし!

 そう己に言い聞かせると、少しばかり登与の重い胸中は軽くなった。

「……じゃあ、まずはしばらくは山道だから、へばらないよう頑張らないとね」

「うん。登与さんの足手まといにならないよう頑張る」

 真面目な顔で久江は頷く。そんなに力まなくてもと登与は苦笑した。

「私の故郷に着いて、しばらくしてから家族の人に文を書きなよ。そのときは私が持っていってあげるから。無理なら別の人に届けてもらえるよう手配するし。……おばあさんにも、思ってることを素直に書けばいいよ」

「……うん。そうする」

 登与が優しく釘を刺すと、渋々といった表情で久江は承諾した。

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