第二十七話 花のいわれ
そうして夕暮れ前に久江を屋敷の前で見送ったあと。登与は長い息を吐き出した。明日のために今日は早めに寝るぞ、と予定を考えながら登与は母屋へ戻る。
今日の夕餉は久江の姉が差し入れてくれた食材を使ったご馳走だ。妹が来る前にと登与に押しつけるように渡し、去っていったのである。彼女もまた旅立つ家族が心配だったようだ。
雑穀に漬物が添えてあるだけでも大違いだからありがたいよね……。鹿肉の燻製もちょっと食べて、あとは残しとこ。神社へ帰ったらさすがに食べられないし。道中で堪能させてもらおう。
めったに味わえない鹿肉の燻製の味を想像し、上機嫌で登与が竈のほうへ向かっていたときだった。
「いやあ、女の子同士の友情は麗しいねえ」
「……」
どっから湧いて出てきたんですか、天狗のくせに。
板の間から聞こえてきた声に、そんな感想が登与の頭の中で転がった。
振り向いた登与は間違いなく、嫌そうな顔をしていたはずだ。それをまったく意に介さず、板の間に腰を下ろした佳宗は爽やかに笑いかけてきた。
「やあ登与。お邪魔してるよ」
「……こんにちは佳宗さん」
挨拶されたので登与は頭を軽く下げて挨拶した。仕方なくだが挨拶は大事だ。
「いつ来たんですか? 掃除のときは見なかったですけど」
「いやあ、さっき来たところだよ。術で姿を隠してね。あの町娘がいたから屋根の上で待ってたんだ」
「……私と久江ちゃんが話してるのを聞いてたりとか……」
「最後のほうのやりとりを、少し聞いただけだよ」
姿隠して盗み聞きってただの賊じゃん。
悪びれない佳宗を見る登与の目が冷たくなった。確かにこれは、あまり気を許さないほうがいい。
佳宗はくすくす笑った。
「あの町娘を連れていくんだ。でもあの子、家に問題がありそうだったけど大丈夫なのかい?」
「まあどうにかなりますよ。本人は家を出る満々ですし。こういうのは本人のやる気が一番大事ですから」
登与は肩をすくめた。それより、と話題を変える。
「佳宗さんは辰臣さんの様子を見にきたんですか?」
「そうだよ。このあいだ、辰臣があの黒天狗をとうとう賽の河原送りにしたようだと妖たちから聞いてね。……‘白幻花’が咲いたとも」
そう言って佳宗は身体をひねり、中庭の奥のほうへ目を向けた。懐かしむ色を浮かべて目を細める。
登与の瞼の裏に、この世でもっとも美しい嫁入りの情景がよみがえった。
「……辰臣さんが黒天狗を倒した次の日の夜明けに‘白幻花’が咲いてるのを見ました。……私、押しかけ女房さんが‘白幻花’を持って逃げてきたと思ってたんですけど、押しかけ女房さん自身が‘白幻花’だったんですね」
「ああ、君は見たのか。……そうだよ。彼女が‘白幻花’なんだ」
ほのかに笑んで、佳宗は頷いた。
「‘白幻花’の生態については、私が住む里に記録があるんだよ。大昔に里が開かれてすぐ、‘白幻花’が滞在したことがあったそうでね。当時の里長が本人から聞いた話を書物に記してあるんだ。そのおかげで、私は彼女を見てすぐに‘白幻花’の精だとわかったわけだけれど」
佳宗は苦笑した。出会った日のことを思いだしたのかもしれない。
「‘白幻花’は花が本性の神霊なんだよ。だから花と人、二つの姿を持っている。そして自分が死ぬときに自分の分身……種を残す性質がある。天地の霊気を蓄えて再び芽吹くためにね」
「えと、それって生まれ変わりみたいなもの……ですか?」
「ああ、それに近いかな。でもそのとき、かつての姿と記憶を保っていられるかは運次第らしいよ。違う姿になったり、記憶を失っていたりする場合もあるそうだ」
「……」
ならば、かつての姿と記憶のままあの‘白幻花’の精が目覚めたのは本当に奇跡だったのだ。彼女の歓喜の表情は――――二人の口づけは、彼らが過ごした記憶なしにはありえないのだから。
ねえ、と佳宗は口を開いた。
「‘白幻花’はそのあと、散ってしまったかい?」
「……多分。私はそのあとすぐ寝ちゃったんですけど、起きてからずっと、辰臣さんも押しかけ女房さんも見てませんし。……奥座敷から何かの音とか声がしたこともないです」
感情をできるだけ出さないようにして、登与は佳宗の問いを肯定した。
あの日。暁の星を見上げた登与は、そのまま足音を殺して縁側へ上がり、辰臣と‘白幻花’の精の姿が見えない板の間で眠りに就いた。もう身体が限界だったし、二人を見ている理由はないのだ。意識を手放すのはあっというまだった。
昼に目覚めて中庭を見てみると、辰臣も‘白幻花’の精もいなかった。中庭へ下りて墓石へ近づけば、そこにあるのは何も供えられていない墓石と‘白幻花’のかすかな残り香だけ。今日まで登与は、辰臣の姿も‘白幻花’の精の姿も見ていないのだ。
奥座敷にいるかもしれないとは考えたが、自分が近づいていいと思えなかった。そういう状況ではないことくらいはわかる。
だって辰臣さん、また押しかけ女房さんを看取ったってことだもん。なんて声かけていいかわかんないし。辰臣さんだって私に慰めてほしいわけないし。
だから登与は辰臣のことが気になりながらも、あの日から普段と変わらない生活を続けていたのだった。
登与が告げる結末は、予想していたのか。驚く様子もなく、悲しそうに佳宗は息を吐いた。
「……そうだろうと思ってはいたのだけどね。彼女が生きているなら、この中庭はもっと生命の輝きにあふれているはずだし。彼女自身、賑やかな人だったし」
「みたいですね。辰臣さんに聞きました。それに、家事が壊滅的に下手なんでしたっけ」
「そうそう。ずっと黒天狗の屋敷に囚われていたからか、やることなすことがどれも少しずれていてね。辰臣はよく怒っていたよ。それでもこの屋敷から追い払ったりはしなかったけど」
「あー……」
土間に散らばった雑穀を拾う辰臣が簡単に想像できて、登与は苦笑した。皿を割るのも珍しくなかったに違いない。
やっぱりそういうのでしょ辰臣さんが押しかけ女房さんに惚れたのって。手がかかるほど情にほだされる話って、行商で色んな人と話してると時々聞くし。
だからこそ、辰臣のことが登与は心配だった。
「……辰臣さん、大丈夫なんでしょうか」
「そうだねえ。二度目なわけだし」
「……佳宗さん。このあと奥座敷に行くんでしょうけど、あんまりいつもの調子で話しかけちゃ駄目ですよ」
「もちろん。状況はわきまえているよ」
「後ろにお酒を隠し持ってるのに、説得力ないですよ。どうせその巾着も盃が入ってるんでしょう? こういうときにお酒って発想はわからなくもないですけど」
登与は佳宗の背中を覗くようにして言う。登与と佳宗の立ち位置の関係で、振り返るときに見えたのだ。
しかし、佳宗が辰臣を友として心配しているのは間違いない。軽い気持ちで酒を持ってきたのではないはずだ。それは信じていい。多分。
さて、と佳宗は腰を上げた。
「奥座敷へ行ってくるよ。君も来るかい?」
「行きませんよ。これから夕餉を作るところですし。二人で仲良くあの押しかけ女房さんの昔話をしててください」
「じゃあ、酒のつまみを作ってくれるかい?」
「佳宗さん、図々しいって辰臣さんに言われたことありません?」
呆れ顔で登与は言う。夕餉を作ると言った端からそれか。
冗談だよと笑い、佳宗は今度こそ奥座敷へ向かう。登与はそれを見送らず、竈のそばに置いてある鹿肉の燻製を手にする。
これは駄目だけど、野菜が余ったらつまみを作ってやるか。
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