第二十五話 そして、時は満ちた

 月を頼りに河原の下流を目指している途中で目覚めた久江に事情を話し、高台の屋敷の近くで登与が彼女と別れたのはもうすぐ夜が明けようかという頃だった。

 姿を見せる前の陽光に照らされた空は天頂こそ深い藍色で星の瞬きも多少あるものの、ほのかに明るい山の向こうはもう少し薄い色に染まっていた。そのおかげでまだ夜闇のまどろみに沈む山中の道でも、それほど心細さは感じられない。

 登与の体感としては一晩中大活劇を繰り広げていた気はまったくないのだが、思っていたより随分と時間が経っている。異界にいる時間が長かったからかもしれない。御伽噺に爪先だけ踏み入れかけた、といったところか。

 あーもう疲れた……今日は絶対昼まで寝てやる。仕事は何もしない!

 そう心に誓いながら歩いていた登与は、屋敷を覆う影の縁辺りに何か落ちているのを見つけて眉をしかめた。何の気なしに近づく。

「……!」

 落ちていたのは刀だった。しかし血がついており、戦いの中で捨てられたことが一目瞭然だ。

 これ……あの‘月烏’の頭領のやつだよね……こっちは本物だったんだ。

 あの黒天狗が死んだのだろうとは、久江の四肢を拘束していた黒い術の紐が消えていたことから登与はなんとなく察していた。あの傲慢な人外のことだ。大人しく登与を待っていなくても不思議ではない。

 登与は辰臣のことが心配になって、屋敷の中へ駆けこんだ。

「辰臣さん! 生きてますよねっ?」

 首をめぐらせ、登与は辰臣の姿を捜した。中庭へ突撃し、墓石があるほうを向く。

「――――辰臣さん!」

 捜し人を見つけ、登与は走り寄った。

 確かに辰臣は、墓石の前にいた。いつものように墓の前で鎮座している。夜明けを待つ薄闇の中、宙に灯る淡い光が彼をほのかに照らす。

 怪我、してない……?

 ぼろぼろの素襖の腕のあたりが赤黒くなっていて、軽くはない怪我を負ったのが明らかだった。けれど辰臣はまっすぐ背筋を伸ばしていて、弱っているようではない。肌の色だって普通だ。

「辰臣さん、怪我は……?」

「ない」

 墓を見下ろしたまま断ち切るように辰臣は言う。それでもう登与は追及の言葉を飲みこむしかなかった。きっともうこれ以上問いつめても苛立たせるだけだ。

「……黒天狗はどうしたんですか。戦ったんですよね」

「あれは闇に飲ませた」

 苛立ちをにじませせて登与が問うと、辰臣はそう答えた。つまり、あの外道天狗がこの屋敷や登与を狙ってくることはもうないということか。それについては、登与はほっとした。

 けれど登与は中庭から立ち去る気になれなかった。張りつめた空気をまとって墓石の前に座し続ける天狗から目を離せない。

 だって匂いがするのだ。あの甘い花の匂いが。

 正直もう寝たいけど、今寝たら辰臣さんともう会えなくなってそうな気がする……。

 だから登与は表へ戻れない。天狗の墓守はいなくならないと確かめないと、落ち着かない。

 夜と朝の狭間は瞬く間に情景が変わっていく。辺りはますます明るくなり、藍色の空の一部が赤く染まった。雲の底部にも光は当たり、白い雲を赤紫の綿に仕立て上げる。

 そして、黄金の光が彼方から空全体へとにじんだ。

 ――――夜が明けるのだ。

 それでも何も起こらない。辰臣は端座したまま、翼を広げたままだ。消えたりしない。

 そのことに安堵したのか、失望したのか。自分でもよくわからない感情が登与の胸にじわりと広がった。

 ……何やってんのかな、私。

 不安が少し薄れた頭でぼんやりと登与は思った。

 こんなものを見ていても、何にもならない。天狗が墓の前に座っているだけだ。貴重な時間をこんなもので潰すより、眠っていたほうがいいじゃないか。

 どうせまた、辰臣は登与の前に姿を現すのだ。だったら今度こそ、疲れた身体を癒す眠りに就くほうがよほど生産的だ。

 そう決意して登与は踵を返した。

 ――――返そうとした、そのときだった。

 甘く涼しい花の香りが一層強く辺りに漂った。

「――――!」

 登与は目を見開いた。半ば縁側へ向きかけていた身体を、辰臣のほうへ向き直す。

 そうしてまた言葉を失った。

 ただ苔むしているだけだった墓石の下から、それまでなかった芽が顔を覗かせた。芽は茎となり、生まれたての青々とした身を晒しながら、するすると葉を茂らせながら伸びていく。まるでその茎だけ、時間が何十倍にも速く進んでいるかのようだ。

 茎は辰臣の胸の辺りまで伸びると先が膨らんだ。膨らみは一度の膨張で止まらず、さらに大きくなっていくのだ。茎が伸びていったときほどではないが、それでも異常な速さである。

 膨らんで、膨らんで、膨らんで。白い頂の蕾は大きくなるのをやめた。代わりに一際大きく身を揺るがせる。身にまとわりついた不要なものを振るい落とすように。

 そして――――膨らんでいたときよりもさらにゆっくりと、蕾はほころびはじめた。

 甘く涼しい香りがまた濃厚になっていく。たった一輪が咲こうとしているだけなのに、登与は頭がくらくらしそうになる。

 時を追うごとにその存在感を増していく朝日に照らされ、中庭に落ちる影は一層濃く形を明瞭にしていく。その中でも、完全な姿を現した花の赤い斑点を散らした純白な花びらや真紅の花芯は鮮やかだ。

 すっごい存在感……。

 ただ匂いが甘く涼しく、強いというだけではない。小さな子供の背丈ほどの大きさしかないのに、頭を垂れて地上を見下ろす人ならざるものの風格さえある。花の帝、という表現がこれほど相応しい花を登与は他に知らない。

 これが‘白幻花’――――――――。

 数多の者たちが求めた奇跡の花に、雫が一つ落ちた。屋敷を覆う木々の枝葉から滴り落ちた夜露だろう。そのささやかな衝撃を受けて花はふらふらと揺れる。それに合わせ、露もまた花びらを伝い落ちていく。

 ただ見つめるばかりだった辰臣は、それでやっと目を覚ましたように表情を動かした。さらには首を前を突き出す。

「――――やっと、逢いにきたな。白織しらおり

 この場にたちこめる甘い匂いをそのまま表したような、この上なく甘く優しい口づけをしたあと。花から顔を離した辰臣はそう花に語りかけた。

 そこに浮かぶのは登与が今まで一度として見たことがない、ほのかではあるが確かな笑み。声音は表情と同じく喜びに震え、花に触れる指先はどこまでも優しい。

 辰臣の感情に刺激されたかのように花は姿をゆがめた。ゆがみは人の形となり、実体化する。

「――――!」

 登与は目を大きく見開いた。

 腰に届く純白の髪と赤い目の、登与よりも年上の女だ。緑の地に金の刺繍が施された着物の帯に白木の懐刀を差し、髪には登与が墓石に供えた簪を挿している。

 彼女もまた、なんて幸せそうな――――。

 白織と呼ばれた女は辰臣の胸へと飛びこんだ。辰臣は彼女を腕の中に閉じこめる。

『黒い花嫁衣裳なんてと言ってましたけど、辰臣さんもひどい恰好じゃないですか』

 今にも泣きだしそうな、けれど幸福がにじんだ声で白織と呼ばれた女は言った。

 ああ、そういうことか……。

 登与はすべてを理解した。

 この人が、かつて辰臣と共に暮らした押しかけ女房。

 しかしその本性は‘白幻花’の化身。辰臣を癒して力尽きたものの、墓の下で復活の時を待っていたのだ。

 そして長い時を経て今、二人の再会は叶った。祝言が挙げられた。

 この二人はやっと、夫婦になったのだ。

「――――」

 もはやこれ以上見る意味はない。そう思うものの踵を返すことはできず、登与は空を仰いだ。

 黄金と橙の光が未だ届かない藍色の空にぽつんと、暁の星が瞬いていた。

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