第二十四話 導きの言の葉
襲ってくる異界の住人をどれほど斬り捨て、闇をどこまで走ったのか、何故息が切れないのか。そうしたことを考えることをやめて、どれほど経ったのか。
眼前に見えた眩い光に迷うことなく飛びこんだ登与は、周囲の空気が一変したことを全身で知覚した。
異界を抜けたのだ。ここは濁世。人の世だ。
何度も瞬きを繰り返しながら目を光と闇に慣らすと、水面に映っていた河原が登与の目に映った。
町どころかおそらくは屋敷からも遠く離れた山道は、虫や鳥の声がするばかりだ。満月より少し欠けた月はすでに昇りつめようとしていて、屋敷にいたときから随分と時間が過ぎていることを示している。登与はそれほどに走ったわけではないはずなのに。異界は距離どころか時間までも濁世と違う流れなのかもしれない。
まあまだどっかの昔話みたいに、家に帰ったら皆死んでたってのよりましだけど!
深く考えることをやめ、登与は月光に照らされた岩の上に横たわる久江のもとに駆け寄った。
「久江ちゃん!」
登与は声をあげ、首に指を当てた。脈があることにまず安堵し、久江の身体を揺さぶる。
しかし久江は目を覚まさない。血の気のない青ざめた肌の色のまま、規則正しい呼吸を繰り返すだけだ。
どうしよう――――っ。
登与の心の臓が早鐘を打った。歯をぐっと噛みしめると、久江の腕を肩に担ぐ。
ともかく屋敷へ戻ろう。辰臣さんに頼めば――――。
早く早く、と、賊から逃げていたときとは違う気持ちで登与は川辺を歩く。異界の住民の邪魔はないが、同世代の少女の身体を引きずるようにしてだ。そう簡単には前へ進めない。
それでも、ここで歩みを止めれば異界に飲まれてしまうかもしれないのだ。どんなに遅くても、歩くことを止めるわけにはいかない。
――――が。
音ばかりに気をとられて意識していなかったが、視界の中に異様な速さで動くものがあることに登与は今更気づいた。
かなり速くないだろうか。虫ではない。やたらと光っているような――――。
「……星…………?」
登与は呆然と呟いた。
間違いない。星だ。星が落ちてきているのだ。
しかも、この山のどこかに。
登与の脳裏に山道の惨状や、それを見たときに久江から聞いた話がよぎった。
「――――っ!」
登与は、星が落ちるほうとは反対方向に走りだした。どこへ落ちるにしろ、離れるに越したことはないと思ったのだ。
そうして疲れているのに気が急くばかりで、足元を見ていなかったからか。踏んだ地面が沈んだことに登与は対応できなかった。
「っ」
身体が傾く中、とっさに登与は久江の身体を抱きしめた。頭を抱きかかえ、自分も目を瞑る。
数拍して、登与の身体は地面に叩きつけられた。どさ、という音と共に、衝撃が体中に広がって登与は息を詰める。
そのうえ。
もはや身体に馴染んでしまったような気さえする、異様な気配が辺りを包んだことに登与は気づいた。顔を上げると数多の黒い影がゆらめきながら辺りに現れ、河原に黒いもやが見えている。
漂う黒いもやはますます濃くなり、広がっていく。川の音と月の光だけが涼しく正常だ。
嘘、賽の河原に入ってる――――!
登与は血の気が引いた。辺りを見回し、黒い影が自分たちに気づいたのを確認する。
全身の痛みを無視して登与はゆっくりと立ち上がった。袂に入れてある、辰臣にもらったお守りを布地越しに触れる。
大丈夫。賽の河原と重なってるのはこの辺りだけ。河原から離れたら濁世に戻ることができるはず……!
迫りくる黒い影を睨みつけながら、登与は逃げだす機会をうかがった。そうして周囲に視線を向けているうち、青ざめた月光に照らされる黒以外の色を見つける。
久江だ。久江の魂がいたのだ。
「――――!」
登与は己の血の気が引く音を聞いた。
確か魂は長いあいだ身体から離れてたからやばいんじゃなかったっけ……。
一体どのくらい久江の魂はここにいたのだろう。あの黒天狗に身体から引きずり出されたのだろうが、半日以上は経っているはずだ。
「久江ちゃん、待って! そっちへ行っちゃ駄目!」
久江の身体を抱えたまま、登与は大声で叫んだ。
だってここは賽の河原だ。ならばあの川は三途の川。舟が死者を乗せ、地獄を統べる閻魔大王の宮廷へ向かうための道としか考えられない。
絶対にあそこへ行かせちゃ駄目……! きっと濁世に戻ってこれなくなる……!
川辺へ向かいかけた久江の魂は、登与の大声にぴくりと肩を震わせ足を止めた。
登与は意を決して川のほうへ足を向けた。
「久江ちゃん! 家族の人たちも幼馴染みの子たちも、皆久江ちゃんを探してるよ! だから私もここに来たんだよ!」
「……」
「皆、久江ちゃんの帰りを待ってるんだよ!」
だから帰ってきてと、登与は繰り返し叫んだ。
――――けれど。
久江の魂はぎこちなく振り返った。しかしその表情は虚ろそのもの。瞳に力はなく、生気が感じられない。心の揺らぎや身体へ戻ろうとする意思さえもだ。
登与はぞっとした。
諦めている。久江はもう濁世に未練を持っていない。友達のことさえどうでもいいと思っているのだ。
久江の魂は再び歩きだした。
「――――っ」
もう川辺だ。彼女の動きが緩慢であるおかげで登与も随分と距離を縮めたが、それでもまだ追いつけていない。
貝のお守りの効果で、黒い影が登与の周囲から弾かれる音がする。けれど登与はそれを聞いていなかった。聞いていられない。
やばい。やばいやばい――――。
「家が嫌なら、私が外に連れてってあげるから! 私と一緒に行こう!」
ありったけの力を振り絞って、登与は叫んだ。
「――――――――」
川のほとりに立とうとしていた久江の魂が、再び歩みを止めた。ぎこちなく振り返り、登与のほうを見る。
そのわずかな時間で充分だった。
久江の魂に近づいた登与は、久江の身体の手を掴んで前へ伸ばした。身体を魂に触れさせる。
それはなんの根拠もない、ただの思いつきだ。重なるべきものが離れてしまっているのだからという、それだけの理由。
だが、正解だった。
登与の身体が触れた肩から魂は身体へと吸いこまれた。途端、久江の身体がずしりと重くなる。
見下ろした久江の頬は、青ざめていた肌がほんのりと赤みを帯びている。冷たかった身体も熱が灯り、登与の肌に瑞々しい生命の熱さを伝えてくるのだ。
――――生きてる……。
久江の魂は身体に入ったのだ。ならばそのうち目覚めるはずだ。
ひとまずはほっとした登与は、ぐるりと背後へ身体を向けた。
登与の周囲にはすでに、多くの影が集まっていた。ほとんどが登与の知らない顔だが、‘月烏’の術者たちも混じっている。どの顔も青白く瞳は濁りきっていて、人ならざる存在であるのが一目瞭然だ。
不可視の障壁に阻まれ様子を見ているだけだった黒い影たちが、またのそのそと動きだした。一番登与の近くにいた黒い影が貝のお守りによって弾かれる。
しかしその代わり、貝のお守りは大きなひびが入って割れた。とうとう限界を迎えてしまったのだ。
他の黒い影たちがそれを見ているだけであるはずもない。自分こそはと言わんばかりに、恐怖など死と共に忘れ去ったかのように、登与へと向かう歩みを止めないのだ。
こうなっては自分がやるしかない。割れた貝を足元に捨て、登与は腹をくくった。
「いっちょ行きますか……!」
己に活を入れる登与の脳裏に、不意に言葉が響いた。
『……死ぬなよ』
ぼそりと。伝えるためではないだろうというくらい小さな声で、異界へ飛びこもうとする登与に辰臣は言った。ここで死なれるのは目覚めが悪い、という気持ちからだろう。
それでも登与は嬉しくなった。屋敷に滞在してから重ねてきた、ささやかなやりとりが報われた気がした。
戻ってやる。絶対に。
あの不愛想な天狗のもとに、絶対帰ってやる――――。
登与は久江を一端足元に寝かせると、腰の鞘に収めていた小太刀をもう一度抜いて構えた。目を閉じ、己の身の内を巡るものを強く意識する。
それに呼応するように登与の内側の深いところから力がぞわりと湧き出し、めぐった。
「掛けまくも畏き月読の神に――――――――」
声に力を注ぎ、登与がそう言葉を紡ぎ始めた途端。賽の河原を照らす月が姿をゆがめた。白金の雫が数滴、賽の河原に降り落ちる。
すると、賽の河原に神聖な儀式を思わせる清さと重圧が広がっていった。死者の世の気配が清冽な空気に駆逐されていく。
踏みしめる大地の様子が一変したことに気づいた影たちは、その場で足踏みした。地面を見下ろし、自分たちとは相反する大地を見下ろしうろたえる。
‘月烏’の術者だった者たちだけはこれから何が始まるのか理解したのか、登与のほうを向いた。虚ろだった目に強い光を浮かべ、登与を睨みつけて術を唱えだす。
しかし月の神の力が死者の術ごときに揺らぐはずもない。登与はその中で死者たちから目を離さず、詠唱を続けた。異形の影たちは神の力を恐れてか、登与に近づこうとしない。
そして登与は小太刀を振り上げた。
「――――畏み畏み申す!」
そう登与が詠唱を終えたのと‘月烏’の術者たちの術が登与めがけて放たれたのは、ほぼ同時だった。
刹那、登与の通力が及ぶ全域の大地が光り輝いた。それは一瞬だけだったが次の瞬間にはあらゆる影たちの身を光が包む。
影たちはもがくが光の縄は外れない。‘月烏’の者たちはどうにかして術を詠唱しようとしているようだが、縄は彼らの口を塞いでしゃべらせようとしないのだ。
だから、‘月烏’の者たちは登与を睨む。どろりとよどんだ、けれど感情でぎらつくいくつもの目が登与に注がれる。
何故、と恨むような。どうして、と我が身を嘆くような。
――――あるいは生への激しい未練か。
だが生きていたいのは登与も同じなのだ。
「次はまともな人間になってよ…………っ」
心からの祈りを籠めて、登与は小太刀を振り払った。
光の縄が弾け飛んだ。自由になった影たちは再び大地を歩くことなく、ものすごい速さで川辺へと吸い寄せられていった。宙に浮かんだまま、不可視の十字架に縫いとめられる。
そのとき突然、上流に一つの小さな灯篭が流れてきた。同じものが次々と川面に浮かび、集まって青白い舟となる。
舳先に立つ灰色の頭巾を目深に被った渡し守は川辺に目を向けると、死者たちは次々と舟へ吸いこまれ消えていった。その代わり、舟に仄暗い色の光が増えていく。
磔になった死者たちがすべて舟の中に吸いこまれると、渡し守は棒を操り上流へ舟を進めた。登与のほうを一瞥もしない。
月読の命は月以外にも、暦や寿命を司るのだという。不老長寿の水を持っているとも言い伝えられている。つまり、時の流れや死を司る神でもあるのだ。
だから、死者が集う賽の河原へ介入することができる。三途の川の渡し守を呼び、死者たちを閻魔の宮廷へ運ばせることだってできるのだ。
養い親たちから行商の許可を得るため、必死で体得した術だ。神様を召喚する場面なんて普通は出くわさないでしょと、心の中で文句を言いながらだったが、
まさかこんなところで役にたつとはね……。帰ったらお礼言わないとだわ……。
「お金、払ってなかったけど大丈夫かな…………」
激しい疲労感でその場にへたりこみ、荒い息を吐きながら登与は力ない声で笑った。賽の河原の渡し船といえば、一人あたり六文銭と昔から決まっている。
まあ、自分でどうにかしてもらおう。
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