海の水は、ただ眺めるだけのもの 2

「それで? キスのひとつでもした? 」ぶっ! 酢谷は勢いよく飲んでいたジュースを噴き出した。「お、おまえ! デリカシー! 」

 ドリンクバーのジュースを適当に一杯選び、個室に入り、意味もなくデンモクをいじっていた小野の顔は、言葉とともにほんのり歪んだ。「今更だろ。」「か、かおは男なんだよ! そういうのは……! 」「なにお前、まだそんな場所でウジウジしてんの? 」なんとかして部屋中に響くテレビ画面の喧騒を小さくできないかといじくり回しながら、小野は前頭部だけで疑問を呈する。

「もうとっくに、そこからは抜け出したんかと思ってたわ。」デンモクを抱え、画面から一瞬も視線を外さないまま、小さく呟いた。長い前髪の隙間からちらりと酢谷の表情をうかがえば、その顔はヒビが入りそうなほどぴきりと固まっていた。

「……気にしすぎ、なんかな。」卓上に置かれたままの、もうひとつのデンモクを一瞥しながら、酢谷は触れもせず、またしても深く項垂れた。「今日もさ、ほんとは来るつもりなかった。ただ、話を聴いてほしくて。」なんて。酢谷はお手拭きで卓上を拭きながら、その音でかき消そうとでもしているのか、随分と小さな声で話し続けた。

「でも、話を聞いてもらうならなにか理由がないと、って。じゃあドーナツ奢るってことにしたら、それよりも結婚するって報告って体で、あぁでもそれなら『おまえも結婚式に呼ぶ』みたいな話になって、やっぱり結婚式やんなきゃいけねぇのかなぁって。」うだうだと話していれば、自分が作り出した暗闇に呑まれていくようで。「酢谷ぁ? 」

 小野は普段以上にからっと渇いた声で、名前を呼び、目を覚まさせた。「お前考えすぎ。あと重い。そんな賢くないんだから、ダチといるときくらいなんも考えずに声出せよ。」言いながら、ほいっと投げられたマイクを、わたわたしながらも酢谷は受け取った。

「なに歌いたいとかある? おれ、あんまり歌とか知らなくてさぁ……。」「……ガチでカラオケすんの? 」両手でマイクを持ちながら、酢谷は呟いた。つもりだろうけども、小野がわざと入れていた電源が反応し、部屋中にその声が響く。

「なっ、お……っまえさぁ! 」「ひゃ、ははっ……! マイク通すとおまえ、声低いなぁ? 」あーおもしれぇ。大して面白くもないだろうに、小野は涙が出るほど笑い、そのままソファに背中を預け、寝転んだ。「おれ全然寝れてねぇからさ、気合い入れて寝とくし、マイク越しに全部吐き出してすっきりしろよ。」

 両腕を枕にした小野は、本気で寝るつもりなのか、静かに目を閉じる。「……え、」酢谷としては予想していない展開だったのだろう。小野の瞼越しでも、困惑は伝わってきた。「ま、真剣に聴いてほしいってんなら、どシラフで聴いてやってもいいけど。」

 勢いよく起き上がった小野の目に、鳥肌が立つ。それほどまでに、小野の視線はまっすぐで真剣だった。「お前は? どうなの? 俺に話を聴いてほしいの? それとも、ただ発散したいだけなの? 」小野の目にずっと見つめられていると、自分はアイスのように蕩けてしまうのではないか。酢谷はふと、そんな不安を感じた。

 だからといって、視線を外すこともできない。「……あ……、」畏怖に瞳をふるふると震わせ、無意識のうちに手が差し伸べられるのを待った。そして数秒経ち、そんな自分が居ることに気付き、うんざりする。耳の奥に、テレビから流れる女性アイドルの声がこびり付く。

「おれ、は……。」畏怖から逃れ、黙ったままだったら。痺れを切らして、酢谷が受け取りやすいような言い方に変えてくれるだろうか。そんな自分の馬鹿みたいな受動性が、ひとりの人間を狂わせたのに、まだそんなことを思ってしまうのか。

 小野の目は、ずっと酢谷の目を見ていた。随分長い退屈な時間だったろうに、なにも言わなかった。「……き、」どうしてこんなにも臆病なのだろう。酢谷の声は掠れていた。「きいて、ほしい……! 」

「……うん、了解。」たったこれだけの言葉で、喉が震え、涙が溢れそうな酢谷に、小野は柔らかく口角を上げ、座り直した。そして慣れた手つきで、テレビの音量を最小にして、酢谷に向き合った。



「幼なじみ、元気だったん? 」小野の口調は、園児に語りかける保育士のようだった。「元気、だった。」その優しさに甘え、酢谷は鼻をすする。

「姉ちゃんと買い物してた帰りの、駐車場に居た。当たり前だけど、お互いに運転できる年齢なんだなって思ったら、もう身体動かなかった。」酢谷はようやく、ずっと持っていたマイクの電源を切り、卓上に置いた。「姉ちゃんにも、彼女にもごめんって思ったけど、アホみたいに走って追いかけてた。髪の毛ぐっしゃぐしゃにして、ほぼ無理やり車に乗って、押しかけるみたいにかおの家に行った。」

 幼なじみは、最近地元に戻ってきたと言う。転職先がこっちなんだよ、と言われ、同じタイミングで地元の地を踏んでいることに、酢谷は大層喜んだらしい。「そのままコンビニ行って、お互いに酒が買える年になったんだなって当たり前のことに喜んで。久しぶりに会えたねって、それだけでテキトーに世間話して、おれ結婚するんだ、また会おうぜって別れたら良かったのに。もう少し、もう少しだけ、って、結局かおの家まで着いて行ってた。」

 幼なじみの家は、小さなアパートだったらしい。まだ段ボールがたくさん積まれていて、テレビとベッドと小さな机しかなかった。「昔行った、おまえの家みたいだったよ。」酢谷は遠くを見ながら、懐かしそうに回顧の声を漏らした。

「まぁテレビはめっちゃ大きかったけど。映画好きだから、そこはこだわったって言ってた。そう言われると、さ。観たくなったんだよ。かおが一番好きって言ってた映画。なんだっけ、なんとかのオレンジってやつ。」DVDとか持ってる? 酢谷がそう訊けば、幼なじみは渋々頷いた。でも『あれは友だちと観るような映画じゃねぇよ』と断りもした。「友だちなん? おれたち。」酢谷は思わず、吐露するように訊いた。

「そう言ったらさ、答えもせずに映画再生し出すの。おれは質問に答えてほしかったのにさ。変わってねぇなぁって思った。十年前で時間止まってんだなぁって。止めちゃったんだなぁって。」映画を観ている間も、酢谷は動く口を止められなかった。わからないことがあれば訊き、過激なシーンは騒ぎながら目を覆った。

「よくわかんなかった。オレンジっつってんのに、オレンジどころか果物全然出てこねぇし。普通に怖かったし。かおの好きな映画観たら、かおの考えてることとかわかるかなって思ったけど、余計わかんなくなった。で、いつの間にか寝ちってた。」小野は、幼なじみくんが可哀想だな、とぼんやり感じたが、それは後で言おうと思い、顎に手を置いて酢谷の声に頷き続けた。


「起きたら、映画終わってて。静かだった。そのままスっと目開けちゃえばよかったんだろうけど、さ。こう、メガネよりちょっと遠いくらいの距離に、人肌の温かさを感じて。うっすら開けてみたら、かおの顔があった。」ダジャレみてぇだな、なんて笑いつつ、酢谷は手振りでそのときの幼なじみとの距離を表そうとしていた。

「起きちゃだめだ! って咄嗟に思って。身体中に力入れて、目瞑って、手握って、かおを待った。」「……どうしてほしかったん。」「……どうしてほしかったんだろう……。」別に痺れを切らしたわけではないが、訊いてほしいように見えたから、小野はそう振る舞った。

「……かおがキスしてくるなら、別にそれでもよかった。昔姉ちゃんにさ、キスしたらわかるんじゃない? って言われたのも思い出した。おれの中のかおに対する気持ちがなんなのか、キスしたらわかるんなら、おれの唇くらいあげてもいいと思えた。」「キスしたくないとか、したい、はあったん? 」「……えぇ……? 」

 酢谷の表情が、困惑で笑顔に曲がる。「キス……できるよ、全然。でも、したいとかしたくないはわかんない。だからこそ、『あ、やっぱりかおって、おれにキスしたいんだな』ってなった。」でもさ。酢谷の声が、ワントーン低くなる。

「かおの行動を待ってる間、彼女や家族のこと、全く考えなかったんだよな。」酢谷は少し前から両手でコップを持っていたらしかったが、飲むタイミングが掴めず、そのままギリギリと握り締めているようだった。「後から気付いたとき、めっちゃ怖くなった。けどそれより、……かおがいなくなったことの方が、悲しくて、寂しくて。」

 そんなはずないのに、酢谷の握る力でコップが割れるんじゃないかと不安になるほどだった。「待ってたのに、かおがそれ以上近付くことは無かった。だいぶ経ってから顔を背けて、そのまま家を出て行ったのがわかった。かおの顔が離れたとき、思わず目開いちゃったけど、たぶんかおは気付いてねぇんだよなぁ……。」

 コップをぎゅうぎゅうに握り締めながらも、酢谷は笑った。どういう笑いなのか、小野には理解できなかった。

「……そんだけ! 連絡先も交換してないし、結局なんの仕事してんのかも知らねぇ。かおは相変わらずおれのことを苗字で呼んでたし、好きとかなんとかも言われてない。おれだって、結婚するって言えなかったし、家を出るかおの手を引いて呼び止めることもできなかった! 」

 ひひっ、と平仮名がふられるほどの笑顔を浮かべ、酢谷は眦を垂らす。そしてようやく自分の手が持っているコップに気付いたのか、一気に中に入ったジュースの全てを呷った。「散々泣いて、ガキみたいだけど疲れていつの間にか寝てて、起きたら四時とかで。鍵とか大丈夫か、まぁ不安になったけど、まだ帰ってないみたいだったし、そのまま出て、歩いて帰ったよ。」

 空になったコップが、卓上に置かれる。しばらく経ってもその指紋は消えなかった。「結構歩いたし、寒かったけど、むしろちょうどよかった。そしたら前乗りしてた彼女から連絡来て、彼女のホテル行って、ちょっと寝て。親に挨拶しに行った。」


「そんで、殴られた? 」「そういうこと。」酢谷はずっと笑っていた。「……父ちゃんにさ、言われたんだよ。なんで普通にできないんだって。結婚式挙げないのも、ただでさえゆるせないのに、おれのわがままで決めたのが尚更ゆるせなかったみたい。しかも仕事も辞めるとか、男のくせに、長男なのにって。結婚したら式を挙げて、子どもを産んで育てて、家を守るのが普通だろ。お前みたいなやつは、それくらいでしか社会貢献できないんだから、って。」酢谷はやっぱり、笑っていた。

「彼女はさ、今はそれぞれ家族の形があるから、それを否定しないでくださいって言ってくれたけど、『そういうのはちゃんと自分の足で立てる人にのみ許された特権です』って言われたら、言葉失ってたよねぇ……。」かっこいいでしょ、彼女。そう微笑まれても、小野は表情筋を動かすことすらできずにいた。

「……普段なら、そうだよねぇって、おれはなにもできないから、普通以外のことを望んじゃだめだよねって、最高の女の子と結婚できるだけで満足しなきゃいけないよねって。父ちゃんの言葉に頷けたと思う。でもなんか、だめだった。」へへっ。酢谷はまた笑った。

「おれちゃんとできます、馬鹿だけどちゃんと考えています、ちゃんと夫婦になって家族になるから、認めてくださいって土下座した。で、勲章貰っちゃった感じ、です! 」小野はその満面の笑みに腹が立って、無性に腸が煮えくり返って、気付いたら自分のコップに入った水を、酢谷に掛けていた。


 いく筋にもなって垂れる水滴が、貼り付いた酢谷の笑顔を、型取りしているようだった。「……へへっ、」固まったまま、酢谷はまた笑った。「冬に冷水は、冷てぇなぁ……。」こいつの頬に水滴が流れるのを見るのは、初めてだな。なんて、場違いな感情が、小野を支配する。

「なんで泣かねぇの。」空になったコップを持ったまま、小野は訊ねた。「お前は傷付いてんだよ、傷付いてるときは泣けばいいんだよ。泣かないと、癒える傷も治んなくなんだよ。」下手くそな笑顔のまま固まった酢谷の顔が、落ちる水滴に合わせてゆっくりと垂れる。

「……きずついて、ねぇよ。」「傷付いてんの。」角の丸い言い方で反論する酢谷に対し、小野は角の尖った声色で反発した。「気付いてないだけで、傷付いてんの。お前はたぶん、悲しいことがあったときに悲しむんじゃなくて諦めてきたから、だから気付いてないだけなの。」

「きっ、」酢谷の表情に怒りが滲んだからか、水滴が少し舞う。「決めつけんなよ! 」「よく言うよ、感情の正解になる言葉が欲しくて俺のところに来たくせに。」いつぶりの嘲笑だろうか。小野は上がる口角に鋭い痛みを感じていた。

「ポテチを摘む感覚で話を聴いてほしいんならそうするけど、お前が思う『友だち』は違ぇんだろ? 幼なじみくんと彼女ちゃんみたいに、お互いにしかない感覚で特別な関係を築くのが『友だち』なんだろ? 俺にはわかんねぇけど、お前が俺の意見を欲しいって言うなら、ちゃんと決めつけてやるよ。」がたんっ。小野は机に乗り上げ、酢谷の顎を掴んだ。「泣けよ。」

 決めつけてほしいなら、涙腺にも命令してやる。小野の細い指が、水で濡れた。「幼なじみくんに振られて泣いたときみたいに、今も泣け。親父にクソみたいなこと言われて、殴られて、家族にも庇ってもらえなかった惨めな自分を受け止めろ。自分がそう扱われるのは当然だって諦めんな。ちゃんと傷付け、そんで悲しんで、それからブチギレろ。」小野の指越しの酢谷の頬が、振動する。反論が思いつかない唸りは、まるで子どものようだった。

「……お前のことだから、親父の言葉に傷付いたら、彼女との結婚を決めたことを否定することになるんじゃねぇかとか、幼なじみくんへの気持ちが固まるんじゃねぇかとか、クソめんどくせぇこと考えてんだろうけど。」吐き捨てながら小野が勢いよく手を離せば、酢谷の唸り声は止んだ。それでもその目は、小野を睨みつけたまま、涙を出していなかった。

「幼なじみくんへの気持ちも、彼女への気持ちも、ちゃんと本物だから、心配すんなよ。そりゃあ俺たちは残念ながら人間だから、しちゃいけないことは山のようにあるけど、あっちゃいけない感情は無ぇよ。」キャラメルみたいに甘く微笑むと、小野はマイクを掴んで立ち上がった。

「ってことで、俺は今からしばらく歌うから、お前はその濡れた顔なんとかしろ。全力の大声で歌ってやっから〜。」「……はぁ? 」ワンテンポ遅れて、酢谷は素っ頓狂な声を上げる。「おまえ、このタイミングで歌って……。」

「カラオケまで来て歌わねぇのは損だろ? それとも、なに? 」デンモクをテレビ画面に向けながら、小野は意地悪く片眉を上げてみせた。「もう一杯くらい、水掛けられたい? 」


 その子気味良い表情で、酢谷は察した。いくら愚鈍な奴でも、気付かざるを得ない、そんな心地好い友情に、酢谷は鼻を啜った。「……もう十分だよ、バカ野郎。」

 小野がテレビ画面に向き直るのと、酢谷の視界が大きく歪むのは、ほとんど同時であった。

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