海の水は、ただ眺めるだけのもの 3


 酢谷海里は、小野という男のことを何も知らなかった。恋人の有無や家族構成も聴いたことがないし、それどころか下の名前さえなんだったっけ……? という認識である。

 酢谷は一度気になると、行動に出ない限り他のことが手につかないタイプだった。「そういやさ、おまえって名前なんだっけ。」寒空の下、前を歩く小野の背中に、酢谷は問い掛けた。

「なに、急に。」小野は浅く笑いながら、左側に屹立した自動販売機に立ち止まる。「小野だよ、そう呼んでんじゃん。」「そうじゃなくて、下の名前。」スマホで支払えるものだったらしく、小野はほんの数秒後には屈み、おしるこ缶を取り出していた。

「えぇ、なにそれ。気になんの? 」カシュッ。器用なもので、小野は片手でプルタブを起こす。「いや、別に……。」ふと気になっただけだが、どうしても訊きたいかと言われればそこまででもない。質問した時点で、酢谷の中の好奇心めいたものはほぼ解消されていた。

「下の名前ねぇ……。あんまり好きじゃねぇんだよなぁ……。」甘ったるい小豆と砂糖の塊をひと口飲み込んだ後、もったいつけて小野は答えた。「お前は? 自分の名前好き? 」

「名前? 」自分から振った話題なのに、酢谷の反応は相変わらずやや遅れる。「名前……あぁ、苗字は嫌い。」両手をダウンジャケットのポケットに突っ込み、口もとを埋め、風にかき消すように呟いた。

 が、小野の耳にはしっかりと届いたらしい。「へぇ、まじ? なんで? 」苗字が嫌いだなんて、夏生にしか言ったことがない。そんなことをなんで言うつもりになったのかはわからないが、酢谷も小野に倣って自動販売機に向かい、財布から小銭を何枚か取り出そうとした。

「おれさ、小さい頃、めっちゃ居眠りしてたんだよ。授業中とか、休み時間も気付いたら寝てた。厳しい先生だったら怒られたし、身体つねったり我慢したりしてたけど、コントロールできなくて寝ちゃうんだよ。普通に集中してても、無理で。それで、苗字をもじって『すーやん』ってあだ名つけられて、さ。」ようやく希望金額を取り出せたのか、酢谷は無造作に小銭を投入口にねじ入れる。

「結局、高校までそのあだ名だったよ。バイト中とか、社会人になったら寝るどころか座る暇もないから、その癖もたぶんなくなったけど。」お金を入れてから、酢谷の指は迷う。なにを買おう、そして同時に、どうしてお金を入れる前に目当ての商品を決めていなかったのだろう。淡い自己嫌悪が、また酢谷の身体を蝕んだ。

「……小学生の頃もさ、最初からいじめられてたわけじゃねぇんだよ。たぶん周りのやつらも、最初はおれみたいな異質で、理解できない存在にも、あだ名をつけて『からかう対象』として歩み寄ろうとしてくれてた。でも、おれがあまりにも異質だから、からかう程度じゃ済まなくなったんだろうなぁ。」言いながら、未だうろうろとボタンの前をさまよっている酢谷の前を、細く長い人差し指が過ぎる。

 ピッ、ガタン。その人差し指がボタンを押した途端、ふたつの音が酢谷の耳に落ちてきた。「あっ! おまえ! 」「自販機でなに選ぶかくらいで、人生変わんねぇって。」人差し指の持ち主はしゃがみこみ、取り出し口から黄色の缶を取り出すと、酢谷に投げ渡した。

「俺は別に、お前がコーヒー飲んでいなくたってガキだとか思わねぇし、俺に合わせておしるこ飲まないからって空気読めねぇやつとかも思わねぇよ。」酢谷が受け取った黄色い缶は、コーンポタージュだった。

「……おまえのその才能は、なんなの。」酢谷の肌が、やわらそばだつ。無理もない、そもそも酢谷が飲みたいと最初に思ったのはコーンポタージュで、悩んでいたことはズバリ小野が言っていた内容だったから。

「ははっ。」小野のから笑いが、寒空に響く。「別に才能でもなんでもねぇよ。お前とおんなじ。色々考えてるだけ。」パネルタイプの車止めに浅く腰かけ、小野はまたおしるこを豪快に呷る。

「……じゃあやっぱり才能じゃねぇか。」いじけたように酢谷は唸り、一メートルほど離れた場所にある、腰ほどの高さのアーチ型をした車止めに、小野と同じように腰掛けた。「同じように考えてて、完成度が違うんだろ? それって才能じゃねぇか。」「なに? 今日はやたら褒めんじゃん。」

 片方の手をポケットに突っ込み、もう片方の手で持ったおしるこ缶を頬に当てながら、小野は前を見たまま白い息を吐く。「別に、世の中なんて三パターンだろ。なぁんにも考えてねぇやつと、考えすぎてわけわからんなくなってるやつと、考えてるけど早々に見切りをつけて答え出したやつ。」

 おしるこ缶を持った小野の手が、今度は左側の頬を温める。「俺は早々に見切りをつけてるだけ、お前は考えすぎちゃってるだけ。この人はこう思ってるかも? とか、これを言ったらこう感じるかも? とかは考えてるけど、考えすぎたらわけわかんなくなって、自分がどっか行っちゃうなぁって知ってるから、見切りつけてんだよ。」

 俺からしたら、お前の方が才能だけどね。小野は最終的に、両手で暖を取り出した。「最後の最後まで、相手のことでちゃんと悩んでんじゃん。テキトーに見切りつけて放り投げないじゃん。そんなお前だから、幼なじみくんは惚れ込んだんだし、そんなお前だから、彼女ちゃんは結婚に踏み切ったんだと思うけど? 」


「……そんなの、」冷めつつあるコーンポタージュ缶を握った酢谷は、白い息と一緒に感嘆を吐き出した。「そんなの、初めて言われた……。」「そんなの? 」粗方飲み干したのか、小野は缶の底をかんかんと叩いて最後の一滴まで甘受しようと足掻く。

「悪口みたいな意味での『優しいね』は、まぁよく言われるんだけど。なんか今のは、すっと落ちてきた。」「そ? 」喉を鳴らしたまま、小野は微笑んでみせた。「じゃあさ、」小野はそのまま、空になった缶を潰す。「お前はどんなところで、人を好きだ〜って思うん? 」缶が潰れた音で、酢谷は自分の手の中にある黄色い缶のことを思い出した。

「どんなところ? 」「うん。」小野が投げた空き缶は、弧を描くようにして綺麗にゴミ箱の中へと消えていった。「お前は、足りないところを埋めたくて、人を好きになっているタイプな気がするから。俺からしたら、別に足りてないところなんて思わねぇからさぁ。どこを足りてないと、思ってんのかなって。」

「いやおまえ……、それはさすがに冗談だろ? 」酢谷の手が、缶を強く握る。「足りないところだらけだろ、おれなんか。ふらふらしてるし、自分の気持ちの整理すらできてないし、色んなことすぐ忘れるし、ばかだし。」「じゃあお前さんは、はっきりしてて、自分の気持ちが整理できてて、色んなことをずっと覚えている、賢い人が好きなんだ? 」

 お前さんってなんだよ。なんでいきなり名前呼ばなくなったんだろう。なんて思いながら、酢谷は顔を上げた。「彼女ちゃんは、そうなん? 」「……そうだよ。」意識していなかったが、酢谷の声は拗ねたようにぶっきらぼうだった。


「彼女……稲垣はさ、まじでカッコイイんだ。初めて会ったときから、稲垣を見たら稲垣のことしか考えられなくなってる。恋って落ちるもんだって言うけど、おれはまさしく落ちたんだよ。」姉の反応を思い返し、稲垣莉央の名前は伏せようかと考えたが、こいつを前にしたらそんな鎧は馬鹿馬鹿しく思えた。

「恋を、しない人なんだけど、恋愛映画が好きで。それまで映画とかあんまり観なかったけど、少しでも稲垣のことを知りたくて、稲垣が好きだって言ってた映画全部観た。寝癖とか気にしたことなかったけど、稲垣の目に少しでもカッコよく映りたくて、毎朝鏡に向かうようになった。少しでも見合うようになりたくて、勉強も頑張った。」缶を持つ手が弱まる。コーンポタージュは、とっくに冷え切っていた。

「どこが好き、とかもちろんあるけど。しっかりと自分の意見を言えて、変わらない夢があって、そのためなら努力を怠らないところが大好きだけど。おれの中では、稲垣に出会ったことで自分が変わりたいって思えるのが、楽しかったんだよ。」にぎにぎ、にぎにぎ。どれだけ角度を変えて持ち直しても、一度冷めたコーンポタージュは温もりを取り戻すことはない。

「かおとずっと一緒に居たらさ、……うん、穏やかだと思う。全部認めてくれて、おれが今以上にダメなやつになっても、ずっとチョコレートが溶けるみたいな目で見つめてくれる。でも、一緒に居て楽しいのは稲垣だし、おれが幸せになれなくても、この人の幸せを傍で見ていたいって思うのも、稲垣なんだよ。」心のままに語ってから、はたと気付いた。

 これじゃあ、結局稲垣への気持ちが一番だと思われてしまうんじゃないだろうか。自分の気持ちに気付いているじゃん、と言われ、夏生とのことはなかったことにされて、『普通』の烙印を押されてしまうんじゃないだろうか。

 他の誰かなら、別にいい、きっと上手く笑ってごまかせる。でも小野にだけは、この飄々とした狐のような男にだけは、この複雑な思考回路を単純化してほしくなかった。


「お前の中には、たくさん部屋があんだね。」気付けば、小野はしゃがみこんで酢谷の顔を覗き込んでいた。「……部屋? 」驚きはしたものの、声を上げるほどの元気はなかった。

「部屋。お前は誠実だから、それぞれの人用に感情の部屋を分けてんだよ。幼なじみくんの部屋も、彼女ちゃんの部屋も、お前の中にはちゃんとあって、どっちもめちゃデカい。」それだけだよ。小野の手が、酢谷の頭を雑に撫でた。

「デカすぎてさ、好きって気持ちが自分のものじゃないとか思っちゃうかもしんねぇけど。そんなことねぇから。言ったろ? あっちゃいけない気持ちは無い。どう転ぼうと、それはお前だけの宝もんなんだから。」こいつ、案外大きい手をしているんだな、と、ツンとした鼻の奥で思った。

「……やめろ。」「なぁに、かわいくないねぇ? 」右手で手を払い除ければ、小野はけらけらと笑った。


 ひとしきり笑い終えた後、立ち上がった小野はまた、自動販売機と向かい合っていた。「でも、あれだな。」小野の呟きに、酢谷は首の角度だけで反応する。「俺とは『理由がないと会えない』とか言ってうじうじ考えてたのに、幼なじみくんとは『理由がなくても会えた』んだな。」

 酢谷の頭がフリーズする。それを感じ取ったのか、「……お前さぁ、『理由がないと会えない』みたいなこと、言ってたろ? 」小野は指でコーラのボタンを押しながら、受け取りやすいようにバトンを渡した。

「……たぶん。」今日の会話を思い出しては羞恥を覚えながらも、酢谷は頷く。「でも、かおとは偶然だよ。」「同じ場所に居たのは偶然でも、会ったのは必然だろ? 」小野の言うことは、よくわからなかった。

「偶然は転がってるけど、運命は掴まないと逃げてく。で、偶然を運命に変えるのは、生きてる人間だけ。」「……どういうこと? 」酢谷は素直に訊いたが、小野がその質問に答えることはなかった。

「まぁつまり、理由なんてもんは後付けってこと。理由なくても会いたいか、理由あっても会いたくないか。大事なのはそこで、そことは別で、理由がなくても偶然を運命にしたお前は偉いってこと。」答えをはぐらかされはしたものの、酢谷は自分の顔が赤くなるのがわかった。頬の紅潮を隠すように、口もとをアウターに隠す。

「『理由があっても会えない』よりかはマシなんだよ。」さっきまで座っていた車止めにまた座り、小野はコーラを喉に流し込んだ。

「理由がなくても会うのが愛で、理由をつくって会うのが恋。どっちも大事だし、クリスマスや誕生日を一緒に過ごすのが恋人でも家族でも友だちでもひとりでもいいってこと。」「……どういうこと? 」しばらく考えたが、やっぱり酢谷には小野の言いたいことが半分も理解できなかった。

 小野の経歴はほとんどわからないけれど、とんでもない高学歴でもおかしくはないな、なんてことを、酢谷はたまに思う。それほどまでに、こいつの言葉の節々には知性が宿っていた。

「全部大事ってこと! 恋をしなくても愛を捨てる理由にはならないし、愛がふたつあっても優劣つける必要はねぇんだよ。」片手でコーラを飲みながら、小野のもう片方の指はピースをつくるように数字を表していた。


「……じゃあ、『理由があっても会えない』のは? 」「嫌い。」酢谷からしたら、ちょっとした悪戯心で訊いたのに、小野の返答は髪の毛一本の隙間すら許さない、とんでもなく速いものだった。

 その冷たく諦めた声に、酢谷は思わず震えた声で反論する。「そんな、簡単に分けられるもんでもねぇだろ……? 」反論なのに、疑問符がついてしまった。怯えがイントネーションに現れてしまうほど、小野の声には色がなかったのだ。


「うん、そんな簡単に分けられるもんじゃない。」対して、返ってきた小野の声は、口角の角度を感じさせるほど柔らかかった。「それが答え。結局人間って面倒だし、会いたいとか、話したいことがあるとか、色んな理由があっても、道が重ならなきゃ会えない。偶然はアホほど転がってるけど、選んだものが運命でしかない。」

 何の話だっけ。小野の言葉が一文字一文字心のスポンジに滲みてくるのに、次の瞬間その水が溢れて出ていってしまうような気分だった。その感覚は酢谷にとって、指先の感覚が消えてなくなるほど怖かった。

「後から振り返って、あっちが運命だったのかなとか、間違った方を選んだんじゃないかなとか思うけど、そんなこと言ったって選んだ責任はくっついてくるから。責任のためにも選んだ方を正解にしなきゃだし、それなら選んだ方を運命だと思い込んじゃった方が楽だよ。」嫌だ、きっといつかこの言葉たちを思い出して救われる自分が居るだろうに、自分の『足りない』頭がすり抜けさせていく。怖い、酢谷は震えた。寒いからではなかった。

「なぁ、酢谷。」久しぶりに、小野が名前を呼ぶ。「たくさんある感情や言葉から、全部を拾わなくたっていいよ。残ったもんがお前をつくるんだから、残ったもんがお前なんだから。」呼びかける小野の視線は、コーンポタージュより温かかった。

「ゲームでもさ、手に入れたアイテムでクリアしなきゃだし、ずっと持ってれば愛着湧くじゃん? 俺、愛着湧きすぎて進化させたくないポケモンいっぱいいるもん。」「……っふはっ! なんの話だよ! 」酢谷はたまらず噴き出した。鼻の奥はまだ痛かったが、コーンポタージュを飲んだらマシになった。


「え〜、あるあるじゃねぇ? 」「知らねぇよ、おれポケモンやったことないし。」「まじ? 人生の十割損してるって! 」「おまえの人生ポケモンなの!? 」

 友だちが欲しかった。恋を向けてくる幼なじみでもなく、恋を向ける最強の女の子でもなく、ましてや心を殴ってくるやつらでもない。馬鹿みたいに笑って、馬鹿みたいに泣ける友だちが欲しかった。

「でもまぁ、花を渡すだけ渡して枯らすのは、ほどほどにしなね? 」「……まじでなんの話? 」小野が言っていることの半分は理解できないけれど、それをよしとしてくれるのは気が楽だった。「いつでも水掛けてやるよって話〜。」「もういらんわ! 」

 昔のバイト先に赴いたのは賭けだったけれど、小野と会えたのは本当に良かった。これでようやく、責任に向き合える。そう笑いながら、酢谷はコーンポタージュを飲み干した。やっぱり甘すぎるものも苦すぎるものも、自分は苦手だ。



 小野の訃報が飛び込んできたのは、それから半年後の夏だった。結局酢谷は、小野の名前を知ることはないまま、友人と永遠の別れを遂げたのである。 

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