海の水は、ただ眺めるだけのもの

海の水は、ただ眺めるだけのもの 1


 重い朝焼けだった。勤務中でもあくびを噛み殺しもせず、大口を開けてみれば、ドーナツの香りが喉を直撃する。寝ぼけ眼で出入口の外を見れば、まだ積雪はしちゃいないが、ぱらぱらとあられが降っているようだった。こんな冬を迎えるのは、もう何度目だろうか。

 平日の暇な時間帯とは言え、やっぱり久しぶりの朝番は堪える。人手不足だからって古参をこき使うのはやめてほしい。こちとらいつ辞めたっていいんだからな。

 なんて、勤続十数年のスタッフが言ったって、なんの説得力もありゃしないが。もう一度、くぁ、と大きくあくびをしながら伸びをする。どうせ客のひとりもいなければ、店員もひとりなのだ。……いや、改めて考えたらワンオペが過ぎる。いくらなんでもしわ寄せしすぎだろう。もう一度時給の相談でもしてみようか、と小野が肩を鳴らしたところで、「……っしゃいませ~。」自動ドアが開く。

 店長が来たのか? そういえばそろそろ、バイトの子もふたりほど来るはずだ。いや、でも来るとしたらバックヤードからじゃあ……、と目を開けたところで、小野の動作は止まった。いやに喉が渇く。思わぬ客の来訪に止まったのは、動作だけではなかった。


「お、久しぶり。」酢谷海里。もう最後に会ったのは十年も前になるだろうか。いや、十年来の再会にももちろん驚くが、それよりも小野は酢谷の目もとの青痣に言葉を失っていた。

「相変わらずテキトーにやってんなぁ。おまえひとり? 」大きめの眼鏡で緩和させてようとしてはいるものの、酢谷の顔を見ればまず目につく。それほどまでに大きい存在感を持つ痣には全く触れず、酢谷は悠々とショーウィンドウを覗きながら、ドーナツを選び始めた。

「おまえ今日何時まで? この後ひま? 」耳馴染みのない歌の鼻歌を口ずさみつつ、酢谷はアルバイト時代から好んで食べていたドーナツをふたつ注文した。それでもなお言葉を失っている小野に調子でも狂ったのか、酢谷は口角を引き攣らせながら問う。「……え、もしかして、覚えてない? 」

「覚えとるわ。」思わず、間髪入れずに答えると、酢谷は安心に脱力する。「なぁんだよかったぁ……! おまえが覚えてなかったら、おれただの不審者になるところだったじゃん! 」「ただの不審者には変わりねぇよ。」食ってく? あー、持ち帰りで。なんて言葉を挟みながら、十年前と同じテンポで会話を交わした。


「その痣、なんかあった? 」トングでドーナツを袋に入れながら、器用に会計も済ませた小野は、さも普通の会話とでも言うように本題に触れた。訊かれたくない、と、聴いてほしい、が入り交じった相手には、あえて不躾に踏み入ることにしている。

 案の定、酢谷は顔を強ばらせながらも、ふっと眉を下げた。「……なに、話聴いてくれんの? 」そして相も変わらず、柔らかすぎるがあまり得体の知れない声色と一緒に、下手くそに笑ってみせた。

「てかさ、奢るから。聴いてくんねぇ? なんかさ、おれ……、」「ストップ。」小野としては、話くらいどれだけでも聴いてやるつもりだけれど、さすがに勤務中はまずい。気の抜けた挨拶で入ってきた客を迎え入れると、酢谷も気付いたらしく、気まずそうに視線を下げて雑に紙袋を鷲掴んだ。気恥ずかしさもあったのか、酢谷はカウンターに近付いてきた客に対しても人形のようにぺこぺこと軽い礼を繰り返し、小野の視界からフェードアウトするように外へ出ようと後ずさっていた。


「あ、お客様。」ここで名前を呼ぶような真似を、小野はしない。「後ほど担当の者が対応させていただきますので、『奥』でお待ちいただけますか? ご迷惑をおかけして、申し訳ございません。」まるで狐のように目を細くし、三日月のように弧を描けば、何も知らない客も、『店員が勤務中に客と私用の話をしていた』なんてクレームを、店に入れるようなことはないだろう。そして『奥』とひと言言えば、酢谷には『バックヤードで待ってろ』という小野の真意が伝わる。

 時勢柄、マスクで口もとが見えないのが惜しいくらいだ。小野は決して美形というわけではなかったが、生来の性質からか、とにかく人から好かれやすい。現に、酢谷の後に入ってきた親子連れの客にも、にっこりと微笑めば、客は照れくさそうに視線を逸らしていた。



「俺がずっとここにいれば、お前はいつでも会いに来られるだろ? 」そんな小野だからこそ、こんな言葉も軽々と口にできる。

 酢谷に「おまえまだここで働いてたんだな」と言われたからこその返事だったが、生憎酢谷からは好評でなかったらしい。見たことがないくらい、ぐにゃあっと顔を歪めると、酢谷はその顔のまま「うへぇ……」と不満を声に出した。

「相変わらず、ザ・軽薄みたいなこと言って生きてんだな、おまえ。」「ははっ、よく言うよ。」酢谷の歪んだ表情がもっと歪むだろうな、なんて思いながら、小野はいつも座っているバックヤードの階段に座り、煙草を一本取り出す。「その軽薄さに救われたくて、来たくせに。」

 小野の想像通り、酢谷の顔は歪んだが、それは煙草のせいではないようだった。「結婚するんだよ、おれ。」煙草に火をつけて咥えても、酢谷は嫌煙には眉をひそめなかった。

「覚えてねぇかもしんないけどさ、初恋の子。高校卒業してからも仲良くしてくれてて、ずっと友だちで。でも、彼女の中で『独身のままじゃ断られる仕事もある』って事実が大きかったみたいで。言葉にされたわけじゃないけど、それなら力になりたいって思って、プロポーズした。」酢谷は十年前と変わらず、壁にもたれかかって訥々と話し続けていた。

「彼女、一年以上考えてくれたよ。でも結局、おれのわがままを受け入れてくれた。」それが二ヶ月前。ガサゴソと紙袋からドーナツを取り出し、砂糖が溢れるのも気にせず、酢谷はがぶりと噛み付いた。

「決断したら早い人だから、事務所にもすぐ話して、SNSで報告もした。週刊誌に撮られるようにもなった。おれは元々仕事は辞めるつもりだったし、別に構わなかった。」そういやこいつ、無駄にひと口大きかったっけな。食欲が刺激される食いっぷりを横目に、かき消すように小野はまたひとつ煙を吸った。

「でもさ、なんか彼女おかしくて。週刊誌だけはなんかやたら怯えてるみたいだった。だから、しばらく仕事休んでどこか旅行でも行こうって言ったんだよ。そしたら、おれの家族に挨拶したいって。」ほんの三口ほどで、一個のドーナツは姿を消した。こいつ奢るとか言ってたのは忘れたのか? と思いつつも、酢谷がもうひとつのドーナツを取り出す様を、小野は黙って眺める。

「おれは、二度とここに戻ってくるつもりなんか無かったから。正直絶対嫌だった。電話じゃだめ? とか色々言ったけど、頑なだったんだよな。だから帰ってきて、挨拶して、これ。」二個目のドーナツはさっきよりも早くなくなり、粉のついた指を舐めながら、酢谷はもう片方の手で瞼を指した。

「父ちゃん。初めて殴られた。母ちゃんにも泣かれたし、姉ちゃんにもよくわかんねぇ顔させちゃった。」屈託のない声であっけらかんと言う酢谷に、小野はまだ長い煙草を咥えながら訊く。「いや、スタートとゴールだけ言って満足すんなよ。」ちょっと笑ったせいか、咥えた煙草がバランスを崩す。

「間を話せよ。彼女と結婚の報告に行って、なんでおまえが親父に殴られんだよ。」傾いた煙草を咥えなおし、小野はもう一度深く息を吸った。「……なんでだろうなぁ……。」煙草を見ていたのはほんの数秒のはずなのに、再び顔を上げれば酢谷の表情はさっきと大分変わっていた。

 ついさっき、大口を開けてドーナツを平らげたやつとは思えない。やたら憂いを帯びた表情で、酢谷はうっすら微笑みながら、ぼんやりと小野の咥える煙草を眺めていた。


「結婚式も、さ。挙げたくなかったんだよ。そりゃあドレスを着た彼女は見たいけど、職業柄見れないわけじゃないし。しかもウェディングドレスが白いのって、『あなた色に染まります』的な意味なんだろ? おれ嫌だもんそんなの。」またその表情とは別人のような、駄々をこねるみたいな声が上がる。

「でもさすがに、結婚式挙げたくない、苗字もおれが変える、子どもとかも現状考えてないっていうトリプルコンボは、父ちゃんの逆鱗に触れたみたい。」そして今度は、他人事のような物言いだった。

「わかってんだよ? 父ちゃんがちゃんとおれに家を継いでほしいのも、母ちゃんが孫欲しいのも、姉ちゃんがおれの未来に救われたいのも。……でもさぁ……。」これだけ長いこと喋ってようやく、酢谷の声に陰りが見える。

「……でもさぁ、結婚式って、人生の答え合わせみたいじゃん。上手くいっても嘘ついてるみたいだし、上手くいかなかったら彼女を傷付ける。それに、結婚式挙げて、かおが来なかったら嫌じゃん。苗字変えなかったら、一生かおに苗字でしか呼ばれないかもしれないじゃん。」小野は顔に見合わず大きな両手で、顔を覆った。「赤ちゃんはさ、彼女の希望だよ。まぁ、苗字だって半分は彼女の希望。でも理由は別にどうだってよかったから、父ちゃんたちにはおれのわがままって言った。もしかしたら全部受け止めてくれるかもって、思っちゃった。」そんなわけないのにさ。


 ずる、ずるる。酢谷の身体が壁を伝って地面に落ちる。

「甘えちゃったんだよ。おれの全部を肯定してくれる人を失っちゃったから、もしかしたらって期待しちゃった。……そんな物好き、この世でひとりしかいないのにさ。」小野がようやく煙草を吸いきりそうだという頃、酢谷はゆっくりと顔を上げた。その顔は真っ赤で、目は可哀想なくらい充血していた。でも頬は全く濡れていなかった。

「おれ、かおとあった。」あまりにも全てが平仮名で、小野は思わず口の中で復唱した。あっ、『会った』、か。意味を理解した途端、灰が地面にぽとりと落ちる。「会わなきゃよかった。」今度はちゃんと、漢字で発音される『会う』の否定形を聞きながら、小野は落ちた燃えかけの灰をぐりぐりと踏み潰した。

「全部、受け入れちゃえばよかったんかもなぁ……。」親の仇かのように入念に踏み潰し、携帯灰皿で吸殻も潰し切ると、小野はようやく重い口を開いた。「場所変えようぜ。」項垂れていた酢谷の顔が上がる。その表情だけで、小野は手に取るように感情がわかった。

「呆れたわけじゃねぇよ。ただ、いつ誰が来るかわかんねぇ場所でする話でもねぇだろ。」ほら。小野は携帯灰皿を仕舞うと、うずくまる酢谷に手を差し伸べた。「そこで奢らせてやるから。」「……お前ん家じゃねぇの? 」酢谷は小野の一瞥しただけで、自力で立ち上がる。

「あぁ……俺ん家は今ちょっと、な。カラオケとか、どう? 」立ち上がった酢谷の顔を覗き込むように見ると、酢谷はくすりと笑った。マスクの外からでもわかる、柔らかい表情だった。

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