一滴一滴が、いつしか湖をつくる 3


 初恋は実らない、だなんて、どの口が言うのだろう。海里が頑なに幼なじみについての話題を避けていることは、あまりにも如実だった。それはきっとつまり、海里の中で終わらせられていない感情があるということの証明なのだろう。

 海里が指す初恋は、本当にRioへの感情なのだろうか。考えたってわかりゃしない。栞は結局頭痛に根負けし、窓に頭を預け、静かに目を閉じた。

「姉ちゃん、着いたよ。」海里の運転は存外快適で、栞はいつの間にか眠ってしまっていたらしい。最初に指定したショッピングモールには、いつの間にか到着し、栞は寝ぼけ眼を擦りながら車を降りた。


 お菓子を選んでいる間、海里は幸せそうだった。稲垣はあれが好きなんだよ、こういうのも好きでさ、あれは嫌いなんだけど。そう、ころころと変わる表情を見れば、どうしようもなく恋い焦がれていることがよくわかった。

 だからこそ、その恋が結ばれることのない現実が、重くのしかかった。

「ちょっとお茶してく? 」目当てのお菓子を購入し、早速帰ろうとする海里の背中を、栞は呼び止めた。驚いた顔がこちらに振り向く。「どうせ帰ったって暇だし、新作のフラペチーノ飲みたいんだよね。」

 なぜか冷えた手をポケットに突っ込みながら言えば、海里の表情がふにゃりと柔らかくなった。「了解。奢るよ。」「は? 運転してもらった上に奢らせるほど、鬼じゃないんだけど。」「お菓子選んでもらったお礼ってことにしておいてよ。」

 こうやって話していたら、ただの姉弟なのに。栞はまたしても泣きそうになった。

 もっと早く、こいつの言葉を聴いてやる機会を設けてやればよかったのだろうか。それこそ、まだ海里が高校生だったあの頃、乱暴でひとりよがりな言葉ではなく、海里のための言葉をかけてやれれば。

 いや、あの頃それができなかったとしても、『この人ならいつでも悩みを相談してもいい』と思えるように、幼い頃から手を差し伸べ続けられたなら。なにをやろうとうまくいかない海里から目を背けるのではなく、根気よく付き合ってやれたなら。


 目の前でキャラメルのフラペチーノを飲みながら携帯をチェックする弟を見ながら、栞はふっと笑った。無理だ、そんなこと、自分にはできない。

 たとえ時間が戻って、幼い頃からもう一度やり直せますよ、と言われても、きっと自分は同じことをしてしまうだろう。そしてまた、同じように後悔するのだろう。

「美味しい? 」「んぇ、? 」ワンテンポ反応が遅れるのは、相変わらず。母譲りの丸い目をぎょろりとこちらに上げながら、ストローから薄い口が離れた。

 あぁ、そうだ。父に似てすっきりとした顔立ちの自分は、海里の甘く柔らかい顔立ちが羨ましかったのだ。小さい頃、可愛いわね、妹ちゃん? と海里が褒めそやされる度、自分が可愛くないと言われているようで居心地が悪かった。それでも両親は可愛い可愛いと言ってくれたし、逆に海里は見目についてもほとんど褒められていなかった。

 周囲の家族でもない無責任な大人たちが、海里の容姿を褒めそやしたのは、海里がなにもできなかったからだ。古典でも、『かはゆし』は『可哀想』と訳されることが多い。幼い栞の耳にも、大人が言う海里への『可愛い』は『可哀想』に聞こえた。だからこそ、幼い栞の中で『可愛い』は褒め言葉ではなくなり、同時に両親からは目をかけてもらえる海里が羨ましくなり、だんだんと『いい姉』からはかけ離れてしまった。

 これも呪いなのかもな。栞は浮かんだ声をごまかすように、甘いフラペチーノに味覚を埋めた。


 海里が幼なじみの話を避けるように、栞だって妊娠や子どもの話はできる限り避けたい。十年前のあのことがあってから、できるだけ幼い学年は持たず、専ら高校生に古典などばかりを教えている。ここ一、二年はないが、街でベビーカーを引く母親を観て過呼吸を起こしたことだってある。

 話せない傷というものは誰にでもあって、それを聴きたがるのは野暮なのかもしれない。たとえ家族であっても、家族だからこそ、踏み込んではいけない場所なのかもしれない。

 そう思うと、なんだかふっと肩が軽くなる気がした。

 ストローから口を離し、ふと海里の方を見ると、なんだか右手薬指に光る指輪が目についた。婚約指輪だろう、恐らく無意識で時々それを撫でながら、海里はフラペチーノをぐるぐると混ぜた。

「姉ちゃん。」「んー? 」我ながら、聴き返すトーンが弟と似ているな、と思った。「ありがとね。」海里はずっと、フラペチーノを混ぜていた。

「……なんで? 」指輪を凝視しながら、渇いた声で訊く。「おれ、さっき謝ってばっかりだったからさ。姉ちゃんには謝りたいこともたくさんあるけど、感謝したいこともたくさんあるから。」ちゃんと言わなきゃな、って思っただけ。

 ぐるぐるぐるぐると混ぜ終えたのか、海里は飲みもせずにカップを置き、右手中指で結婚指輪を撫でた。その所作を見ていると、私も姉としてありがとうと言うべきなんだろうな、と感じた。それでも、栞はなにも言えなかった。

「……そう思ってんなら、来月の誕プレ期待しとくわ。」言いながら、今度は栞がぐるぐるとストローでフラペチーノを混ぜた。甘くて胃に響いたけれど、味は学生時代と変わらなかった。

 青春の甘さを味わいながら、栞はただ一心に、もう弟にだけは呪いをかけずにいられますようにと願っていた。



 それなのに。栞はどうしようもなく運命を呪った。こればっかりは、自分ではなく運命を呪ったって仕方がないはずだ。

 そんな正当化も、目の前の景色には薄く霞む。


 数分前、栞は買いたかった服のショッパーも海里に持たせて、車までの広い駐車場を歩いていた。「姉ちゃぁん、買いすぎだろ……。」「いいの! 偶にの買い物くらいしか、お金使ってないんだから! 」

 栞の背中を追いかけながら、海里は両手に袋を抱えてぽてぽてと歩いていた。「あっ、海里。鍵は? 」「ん、ポケットだわ。」「あぁ、取る取る……! 」海里が若干差し出したパーカーのポケットに手を突っ込み、栞は車の鍵を取りだして解錠する。もちろんそれだけで助手席に乗り込むほど無情でもなく、トランクのドアも開けてやった。

「おっ、ありがと。」たったそれだけのことなのに、素直に礼を言う弟が、なぜかこそばゆい。「ッ、ふぅ……重かったぁ……! 」「うるさいな、そんなに重いものは買ってないでしょ。」軽口と一緒に背中を叩けば、海里は眉を困った角度に下げて、へへへと笑う。

 三十を超えてようやく姉弟らしい距離感でいられているのかと思うと、やはりどこかこそばゆかったが、居心地が悪くはなかった。

「なんかのんびりしてたら、結構いい時間になっちゃったねぇ……! 」言いながら大きく伸びをし、いそいそと助手席へ戻る。が、運転席に乗り込もうとしているはずの弟は、いつまで経っても運転席のドアを開けようとしなかった。

「……海里? どした? 」助手席から上半身を伸ばし、運転席側の窓をとんとん、と叩きながら見上げてみても、弟の顔は見えなかった。仕方なく、一度車を降り、弟の隣まで小走りで駆け寄る。

「どうした? なんかあったぁ? 」このときまではまだ、気の抜けた訊き方ができた。おかしい、と本格的に思ったのは、近寄ってもまだ、海里からの反応が無かったからだ。いつの間にか栞よりも高い位置になった頭は微動だにせず、ただ一点だけを見つめているらしかった。

「……海里……? 」ちらりと見上げた先の弟の表情は、やや暗くなりつつある夕方の空のせいか、やっぱりあまり見えなかった。返事のない弟に痺れを切らし、今度は海里の視線の先を追う。そして海里と同じように、時間がビタリと止まったのだった。


 あいつだ。栞は自分の瞳孔が開くのがわかった。荷物でボコボコになったレジ袋を肩に引っさげ、駐車場の歩道を歩くひとりの男。こちらに気付いている素振りは全く無い。それどころか、足早にせかせかと忙しなく帰路に急いでいるようで、夜風に髪が吹かれようともなりふり構わず歩いていた。

 栞自身が最後に会ったのは、まだ海里と幼なじみくんが小学生の頃だったから、正直面影だとかはわからなかったが、海里の反応を見ればそれだけで確信は持てた。そして同時に、是が非でも海里をここから離れさせなけばという使命感に駆られた。

「……ねぇ。」差し迫ったような、縋るような声が出る。弟の右腕を引っ張り、なんとかこちらに意識を向けさせようとするが、海里の視線は成長した幼なじみへと釘付けになったまま、動かなかった。

「ッ、海里……! ねぇ……! 」名前を呼び、腕を引っ張る力を強くしても、弟は瞬きひとつしなかった。それはまるで、瞬きという動作すら忘れているかのような表情で、ただひたすらに恐ろしかった。


 だめだ、今海里に行かせてしまったら、ふたりの止まった時間が動いてしまう。どんな形であれ、ようやく海里が家庭を持てるというのに、なんで、どうしてよりによってこのタイミングで。明日になれば、両親への挨拶も済ませて、後戻りできなくなってくれるのに。なんで今日、このタイミングで、海里の手が届く位置に居るんだよ。

 きっと、無意識だろう。海里の右足が、ほんの数センチ前に出る。栞は思わず右腕を掴む力を強くし、そのおかげもあってか、すぐに海里の右足は元の位置に戻った。

 それでも、海里の視線はまだ動かなかった。目を開き続けているせいか、やや赤くなっているようにすら見えた。

 口が意味を持たない言葉を紡ぐように、はくはくと開閉し、そして強く固く結ばれる。せめて向こうが気付いてくれれば。気付いた上で、あからさまに驚いて、目を逸らしてくれれば、きっとこいつは全てを諦めて、なかったことにして大人しく車に乗り込んでくれるのに。

「……海里ッ!! 」栞の視線が、海里の視線の先と、海里の表情と、強ばっているのに動かない右腕の三点を何度か行き来した後、視界にひとつの光が入り込む。左手の薬指に光る、何度も愛おしげに撫でていた、結婚指輪。

 改めて近くで見ると、シンプルながらに高級さが伺える。きっと中にはふたりのイニシャルが入っているのだろう。家族の声が届かなくとも、ついさっきまであんなに柔らかく愛情を向け続けていた婚約者との未来なら。

「海里ッ!!! 」栞は、道行く人に振り返られかねないほど大きな声で呼びながら、弟の横顔をまっすぐ見つめた。こんな大声を出したのは、生まれて初めてかもしれないと思った。


「……あ。」幼なじみの一挙手一投足へと向けられていた、海里の全ての意識がほんの少しだけ、こちらに向く。視線は動かなかったが、声と右手の指が数本、ぴくりと反応する。

 栞は必死だった。必死に左手と意識を向けてほしくて、「い、今何時? 」よくわからない問いをかけた。全く繋がらない言葉をかける方が、意識を向けてもらいやすいとでも考えたのだろうか。栞自身、本能でやったことだから真意はわからない。

 でもそれは、結果的に功を奏したらしい。「……いま……? 」意識のない暗い目がふわりと漂い、左腕を肩くらいまで上げる。同時に栞は右腕から手を離し、海里の反応を待った。

「……ッ、! 」海里は、右利きだ。腕時計で時間を確認するとき、当然左手首に着けられた文字盤を見る。そしてその視界には、薬指に嵌った指輪も入ってくる。


 幼なじみにしか向けられていなかった海里の全神経が、薬指の指輪と、ちょうど半分に分割される。それでもまだ、幼なじみの姿を諦められはしないようで。指輪と見比べるように、自分の車に乗り込もうと車に駆け寄る幼なじみを視界に映しているらしかった。

 せめて、幼なじみの横に誰かいたなら。栞は何度目かの『たられば』に耽る。なんでひとりなんだよ、なんで今なんだよ、なんで気付かないんだよ。どれほど恨み言を思っても無意味だと知りながらも、唇を噛み締めずにはいられなかった。ただただどうか、どうか海里がこちらに笑いかけて「帰ろっか」と言ってくれるのを願い、待った。


 賭けだった。そして賭けに負けたのだ。

「姉ちゃん、ごめん。」海里の左腕が、ぶらりと垂れ下がる。それに合わせて、右腕を掴んでいた栞の手も離れた。「……ごめん。」二度目の謝罪を口にしている間も、海里の視線は前から動かなかった。幼なじみくんは荷物を入れ終えたようで、トランクをしっかりと閉じた。その強い音をスタートの発砲音だとでも言うように、海里は走り出した。

「……ッ、だめ!! 」反射だった。ただ勢いだけで再び弟の右腕を掴み、助走なしで走り出した弟を止めた。そのせいで、弟の身体はつんのめるが、謝りたくはなかった。そんな余裕はなかった。

 ようやく、弟の視線がこちらに向く。「……姉ちゃん……。」「だめ! 帰るよ、だってあんたは……! 」そこまで言って、次の言葉が見つからなかった。

 あんたは、なに? 結婚するんだから? 長男なんだから? 男なんだから? どれも呪いだ。もう二度と呪いをかけたくないと、ついさっき誓い、願ったはずなのに、ほんの数十分で破ることになってしまう。

「……姉ちゃん。」弟の声が、耳にへばりつく。甘えているような、縋るような、必死に願うような。弟のそんな声は、初めて聴いた。「ごめん。」その声で言うなら、せめて『お願い』と言ってほしかった。

『お願い』なら、『しょうがないな』と返せたかもしれないのに。『ごめん』だったら、手を離すことしかできない。


 栞にとって、贖罪だった。弟にかけてしまった呪いに対する、贖罪。弟の謝罪をゆるすことはできない代わりに、自分の謝罪を押し付けたのだ。言葉にする勇気もないくせに、手を離すだけの行為で自分の罪悪感をもみ消そうとしたのだ。

 浅ましい。自分の浅ましさに、涙が出てくる。「……ごめん。」こいつは何回謝るつもりなんだ、と辟易していると、これ以上謝らせたくないと思った。「……免許証なら、持ってきてるから。」こいつの前だけでは涙を見せたくなかったからか、栞の口から出た言葉はただの独り言のような大きさだった。

「あり……っ、」弟の口は二文字だけ言って、言葉に詰まる。「……ごめん。」口を結んだ後に五回目の謝罪だけを投げて、弟はまっすぐに前を向き、今度こそしっかりと、見たことがないくらいの全力疾走で、走り出した。栞はもう、手は伸ばさなかった。


 きっと、弟が『ありがとう』をかき消したのは、感謝してしまったら栞が背中を押したことになってしまうから。そんなことまで気にして、『ごめん』で感情を上書いたんだろう。

 遠のいていく弟の背中を見ながら、栞は鼻を啜った。相変わらず走り方が下手だ、元陸上部だとはとても思えない。ぼやけつつある弟の背中は、幼なじみが乗り込んで今出発しようとしている車に追いついたようで、助手席の窓を叩き、割とすぐ、乗り込んだようだった。

 栞は意味もなく、しばらく動かない車を眺めていた。もしかしたら、そのまま降りてくるかもしれないなんて、淡い期待でも抱いていたのだろうか。

 結局、数分間の静止の後、車はランプを点灯させ、ゆっくりと発進した。出口がこちら側ではなかったせいで、弟の顔を見る機会は失ったが、別に顔が見たいわけではなかった。見れたとしても、こんなぐしゃぐしゃな顔は見てほしくないから、きっと隠しただろう。


 もしかしたら、これが最後の別れだったかもしれないな。メイクが落ちるのも気にせず、思いっきり目もとを拭うと、栞は運転席に乗り込んだ。

 ゆっくり帰ろう。ゆっくり、しっかり法定速度を守って、両親への言い訳を考えよう。よくわからない覚悟を決めて、栞はずっと右手に握られていた鍵を挿した。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る