一滴一滴が、いつしか湖をつくる 2

「海里と? 」「うん、ごめんなさいねぇ、元々母さんが行くつもりだったんだけど、鈴木さんにお茶誘われちゃって。」

 翌日昼前、遅い朝食を食べ終えた後、自室に戻ろうとしていた栞は、母に呼び止められた。「お嫁さんが好きそうなお菓子を海里と選ぼうと思ってたんだけどねぇ。鈴木さんもお忙しい方だし、私もお話したいことたくさんあるし。」斜向かいに住む隣人を思い浮かべながら、笑顔で話す母の後ろには、喜んだ犬のようなしっぽが見えるような気すらしていた。よほど息子の結婚話をしたいのだろう。

「……海里ひとりでいいじゃん。」「だめよ! あの子ひとりのセンスだったら、安いチョコだけとかあるかもしれないじゃない? 」ぺしぺしと栞の肩を叩く背の低い母は、相も変わらず愛らしい女性だった。

「その点、栞ならセンスも安心でしょう? はぁ、こういうとき、女の子を産んでおいてよかったって思うわぁ。」見た目が愛らしいと、吐く言葉も全部ミルクになる。その甘さを真正面から受け止めてきた子どもたちが、こうも対極に育ってしまう残酷さに、栞はひとり辟易とした。


「とにかく、よろしくね! 」「……父さんは? 」「お仕事よ! いいから、たまには姉弟ふたり水入らずで行ってきなさい! 」

 こういうときの母さんは、珍しく頑固だ。毎年母さんの誕生日と結婚記念日に欠かさずプレゼントを贈っている父さんを召喚すれば楽だと思ったのだが、仕事ならば仕方がない。栞は諦めて息を吐き、海里の部屋のドアをノックした。


「はぁい。」その間の抜けた声と、腑抜けた顔を見ると、昨日散々こいつのせいで泣いてしまったことを思い出し、栞の顔は自然とひしゃげた。「えっ、どうしたの姉ちゃん。」部屋を整理していたらしい海里の手が、ぴたりと止まる。

「……なにが。」栞が眉間に力を込めたのは、弟の顔がおかしかったからだ。断じて、昨日の罪悪感を思い出して溢れそうになった涙を、堪えようとしたためではない。「変な顔してるよ、なんかあった? 」

 ここで躊躇なく『変な顔』と言えるようになったのは、成長なのだろうか。結婚相手に出会って変わったことなのだろうか。「別に。ただ、母さんがご近所さんと出かけることになったから、明日のための買い物に着いて行ってあげてって言われただけ。」栞は拗ねるような口調で言いながら、海里の壁を背もたれにして腕を組む。

「ご近所さん……あぁ、鈴木さん? あの人普段旅行ばっかりで家にいないもんね。」「……そうなの? 」組んでいた腕が、軽くゆるむ。「え、うん、たしか。電話で母ちゃんが言ってた。」

「……覚えてんの? 」実家のご近所さんなんて、栞は名前と顔すら一致しないと言うのに。「まぁ……。職業柄あんまり帰省はできなかったけどさ、電話は割としてたから。母さんも、父さんが定年になったら旅行したいってよく言ってるよな。」

 年に一度の帰省も難しい海里と、月に一度は顔を見せる栞。栞だって両親と電話はするし、会話だって多い。それでも、母が仲良くしている人のことまで覚えちゃいない。薄情、なのだろうか。

 いや、きっと、こいつが輪をかけて相手を大事にしすぎるだけだ。やっぱり、変わっていないんだな、人は変われないんだな、と、栞は組んでいた腕に今一度力を込めた。

「とにかく、車出してよ。私だって予定あるんだから。」嘘だ、予定なんてない。仕事は休みだし、家に帰ったって夫は仕事でいない。家で時間が通り過ぎるのを待つくらいなら、ずっと家にいる母の顔でも見に行ってやろうと休みの日には実家に赴くだけだ。そんな毎日を過ごしているくせに、母の交友関係すら把握しきれていないという現実が、なぜか栞を焦らせた。


「あんたって、やっぱりゴールド免許なの? 」人は変われないのだと、他人を見て思うのと自分の言動ではたと気付くのでは、また違うらしい。

 乗り慣れた実家の車の助手席でシートベルトを着けながら、慣れない横顔に話しかける。乱雑な話題を提示したのは、沈黙が気まずかったからでしかない。いくつになっても、この弟と話すのは、やたら体力を使う。

「えっ、なに急に。」栞自身、免許は持っているものの、ほとんどペーパードライバーだ。たまに運転はするものの、実家の大きな車で運転する自信はない。それもあって大人しく助手席に腰を下ろしたが、だからといって弟が運転に慣れている印象があるわけでもない。

「いや、だってあんた、『かもしれない』運転ガチ勢っぽいじゃん。」というか、海里はもう十年近く関東で暮らしていたのだから、運転なんてほとんどしていなかったんじゃないだろうか。「ていうか、運転慣れてる? 大丈夫? 忘れてない? 」

 そう考えると不安が一気に襲いかかり、栞は口早に心配を口にした。「たぶん大丈夫。稲垣の仕事で送迎することもあるし、おれが住んでるところは関東でも車あった方が便利だし。」

 恐らく、栞の不安を感じ取り、いち早く解消しようとしてくれたのだろう。海里は片手でミラーの角度を調整しながら、慣れた手つきで運転の準備を整えつつ、早口でまくし立てた。

「……稲垣? 」そしてその中に入り混じってしまった失言を、栞は聴き逃せなかった。海里の動作が、ぴたりと止まる。

「稲垣って、だれ? 」海里の反応が、ただの仕事相手などではないことを物語る。「もしかして……結婚相手? 」「……たしかにおれゴールド免許だけど、もう免許証三回失くしてんだよねぇ。やばくない? 」へら、とした笑い方で、本気でごまかせるとでも思っているのだろうか。こいつは相変わらず、話の逸らし方まで下手くそだ。


「……婚約者のこと、苗字で呼んでんの。」エンジンがかかり、車庫から出ている途中、栞はたまらず訊ねた。『いい姉』ならば、聴かなかったふりをして下手くそに提示された話題に乗っかるべきなのだろうが、とてもそんなことはできなかった。

「なんで。好き合って結婚するんじゃないの? 父さんも母さんも、そう信じてるよ。」器用にハンドルを回しながら、海里は大人四人が乗ってもまだ面積が余るような大きな車を、軽々と車庫から逃がす。その間も海里の口は音もなく鼻歌でも歌うようにしているだけで、弁解はなにも出てきそうになかった。

「相手も……役者なんだっけ? 名前も教えてくれない上に、苗字呼びって……! 母さんたちはなにも言わずに手放しで喜んでるけどさ、私は気になるよ。なに、わかってる? 結婚って責任が伴うんだからね? 恋人とは違うんだよ? 人生を共にするっていうのは、それだけの覚悟と責任があるんだよ? 」こういうとき、海里は絶対話を遮らない。ただ音楽でも聴くように、無気力で静かな表情で淡々と日常の動作を進める。


 いつの間にか大人になった海里の運転は、ひどく日常的だった。でも日常を破り、人に答えようとするときは数秒経ってからちゃんと、深呼吸して答えを準備してみせる。こういう馬鹿みたいに誠実なところが、自分の身を傷付け続けてしまっているのだろう。

「覚悟は、してるよ。責任だって取ってる。」「責任取るって、あんた……! 」思わず手が出そうになった不安に、海里は何よりも早く否定する。「違うよ!? 子どもとか、ましてや乱暴なことなんてしてないから! 姉ちゃんが責任って言うから、そういう言い方しただけ! 」

「ちょ、ちゃんと前向いて!? 」「あっ、ごめん……。」衝動的に栞の方を向いてまで必死に否定した弟を、栞は注意した。でもそれは、運転が心配になったからではない。こちらを見ながらも、こいつがちゃんと前を気にかけていることはわかっている。ふたつのことが同時にできなかったはずなのに、いつの間にか少しは器用になったのだろうか。

 わからない。いくつになっても、何年経ってもやはり、こいつのことはなにもわからない。相も変わらず栞にとって怪物だ、こいつは。


「あぁ、でも、責任は取るつもりだよ。」さっき否定した言葉を、海里は別の角度から肯定してみせた。「好きになった責任。稲垣を、おれの恋愛に巻き込んだ責任。」しっかりとハンドルを握ったまま、ほのかに微笑んですらいるような横顔を見つめても、やっぱり弟の感情はわからなかった。

「責任。」海里の言葉を、栞は短く繰り返す。「責任、取ってほしかったの? あんたも。」「彼女さ、稲垣莉央っていうんだ。」栞が必死に紡いだ質問に、海里は答えなかった。「え? 」「名前。……Rioって名前で、俳優やってるよ。」

 形にした言葉が風に流れても仕方ないくらいの爆弾が、栞の頭の中で爆ぜる。と同時に、昨日母と眺めたテレビの映像が、走馬灯のように再生される。「……Rioって、あのRio……? 」目と口をぱちぱちぱくぱくと開閉し、なんとか現状を把握しようとするが、栞のキャパシティはとても追いつかなかった。

「あ、知ってる? 」そしてそんな姉の反応を前に、なぜか弟は少し嬉しそうであった。「なら良かった。おれはさ、どうせ明日会えばわかるだろうし、変に構えさせるのもアレだから言わなくていいでしょって言ってて。でも稲垣は、そんなに顔売れてないから名前くらいは言っておいてって言ってたんだよ。」

 向こうの気持ちもわからなくはないが、それにしてもまさかまさかの変化球だ。Rioが言うのとは違う理由で、身構えるために名前を言ってほしい相手ではある。

「だ、だってRioって、この前の朝ドラの主人公の妹だった子でしょ? シャンプーのCMだって、今度の恋愛ドラマのヒロインもあの子でしょ? 母さんだって知ってる、今売れてきてる女優じゃん!? 」「そう。元々こっちの出身で、モデルとかやってたんだよ。」なんてことないように振る舞いながらも、海里の口角はによによと上がっていた。

「えっ、じゃああのときの、高校時代初恋の人だとかなんだとか言ってたのは……! 」「うん、Rio。本名は、稲垣莉央。」苗字はもうほとんど名乗ってないけどね。でもネットとかで検索したら出てくると思うよ。こっちにいるときは本名で活動してたし。


 弟の声が、耳に入ってきても脳には入ってこなかった。

「たしかに、姉ちゃんが言うような『好き合って』じゃないかもしれないし、普段は苗字で呼び合ってる。けど、さ、明日とか、母さんたちの前ではちゃんと名前で呼ぶよ。動揺させてごめんね。」

 あぁ、また謝らせてしまった。そんな事実だけが栞の身体にずん、と落ち、放心していた彼女の身体を呼び覚ました。「別に、怒ってるわけじゃない。」それでも、口から出てきた言葉はどこかぶっきらぼうだった。

「……『好き合って』るわけじゃないって、どういうこと? 」栞は努めて穏やかな声色で訊ねる。「Rioはちゃんと、あんたのこと大事に思ってくれてんの? 」「んー? 」だが、栞の問いを海里は、右折先を確認する動作で誤魔化した。

「おれは大事に思ってるよ。それで十分じゃん。だから仕事も辞めるし。」「なに言ってんの? 」その疑問は、咄嗟に出てきたものだった。「えっ、全然わかんない。つまりあんたが一方的に好きで、ずっとその恋愛感情を利用されてて、いい年だから結婚しようかって、そういうことなの? 」思わず栞は前身を乗り出す。

「まぁ……簡単に言うと、そうかも……? 。「そんなの絶対認めないから! 」抑えていたのに、栞の声は荒がってしまった。「なにそれ、そんなのあんた利用されてるだけじゃん! 相手は女優だよ? しかもあんたわ仕事も辞めるって……母さんたちには言ったの? 結婚で仕事辞めて、恋心に責任持って一生捧げるつもりかもしれないけどさ。相手はよりどりみどりなんだから、いつ捨てられたっておかしくないじゃん……! 」

「稲垣はそんなんじゃないよ。」姉が隣でこんなにも動揺しているというのに、海里の声も運転も、恐ろしいほどに穏やかだった。「それに、結婚して片方が片方のために仕事辞めて家庭に入るなんて、別におかしいことじゃないじゃん。ちゃんとふたりで話し合って、ちゃんと考えてるよ。」

 その穏やかな横顔が、腹立たしかった。「……ッ、じゃあ、実家はどうすんの。」「実家? 」キュッ、という短い音と共に、信号機の前で車は停まる。「そうだよ、あんたは家を継ぐんだよ? いつか実家に帰ってきて、一家の大黒柱になる。それなのに、相手がRioであんたが専業主夫だったら……! 」

「姉ちゃん、考えすぎだよ。」海里の目は、赤信号しか見ていなかった。「父さんたちがそう言ったの? 結婚するって言ったときも、相手が俳優だよって言ったときも、父さんたちは普通に祝福してくれたよ。」「逆にあんたはなんでそう考えなしなの!? 」

 なにを言っても通じない、暖簾に腕押しとはまさにこのこと。あまりにも馬耳東風すぎて、栞は思わずダッシュボードを強く叩いてしまった。

 それでもなお、栞は冷静になれなかった。「わかってる!? 私は子どもを産めないの! 跡継ぎはあんたにかかってんの! あんたがちゃんとした家族にならないと、うちは途絶えちゃうんだよ!? 」もう二度と、両親にあんな顔をさせたくない。栞の脳内にはただ一色に、子どもが産めないとわかったときの両親の表情が埋め尽くされていた。

「私言ったよね!? 母さんたち悲しませたらゆるさないって、あんたはほんとに……ッ、! 」叩いたダッシュボードを見つめていた目を、ふと運転席へと向けると、栞は続く言葉を失った。まだ、そこにあるのが絶望に放心しているような表情であれば、栞も泣きながら慰めることができただろうに。

 海里の顔には、全てを諦めたような微笑だけがあった。そしてその目は信号機ではなく、こちらを向いているはずなのに、栞の姿は映っていなかった。ただひたすらに真っ暗で、栞はふと『世界一黒い鳥』を思い出した。


 ブーッッ!! 不躾なクラクションが、止まっていた時間を無理やり動かす。はっ、と目を覚ましたふたりは同時に前を向き、向き直った海里はアクセルを踏んだ。

「ごめんね、姉ちゃん。」口を開いたのは、海里だった。「こんな弟で、ごめん。」謝らないで、と言いたかった。言えなかった。

「……ねぇ、海里。」弟の名前を呼んだのは、随分久しぶりだった。「私さ、本当は『母さんたち悲しませてもいいから、幸せになって』って言いたいんだよ。」謝ることもできないのに、こんな虫のいいことを言ってしまうのは、どうしようもない罪悪感から逃げたいからなのだろうか。

「けど私、あんたの幸せがわかんない。好きな人と一緒に居られたら幸せなのかもしれないけど、それだけで突き進むほど、もう若くないじゃん。あんたは絶対、私よりもそれをわかってるじゃん。」こんなときの、いい姉としての最適解が欲しい。他の誰が相手でも、そんな風に思ったことはないのに、なぜか弟相手だとそう思ってしまう自分がいた。

「……私、あんたのことがわかんない……! 」その叫びは、幼い頃からずっと感じていたことだった。弟を怪物だと思ってしまう、身を蝕むほどの焦燥だった。

 昨日から思っていたけれど、なんで弟のことになるとこんなにも涙が溢れるのだろうか。この弟があまりにも憐れで、同情を誘うからだろうか。あの幼なじみくんにも、Rioにも訊いてみたい。こいつと相対していて、憐憫以外のどんな感情を抱くのか。


「おれはたぶん、姉ちゃんが思ってるよりもずっとわかりやすいよ。」栞の嗚咽が少し小さくなるのを待って、海里は優しく言った。「モットーとか、座右の銘とは違うけど。おれが一番怖いことは死ぬことで、一番望んでいることは、人生をイチからやり直すことだから。」

 そう言いきったと同時くらいに、信号で止まる。今日はよく信号に引っかかる日だ。「たったそれだけ。それ以外は、基本的に流れに任せてるだけだよ。」

 今度の信号では、海里の目はずっと信号を見ていた。「稲垣とのことも、さ。心配かもしれないけど、ちゃんと大丈夫だよ。稲垣からの気持ちがゼロでも、おれが百返せばいいだけ。おれにはそれくらいがちょうどいいんだよ。」

 そんなの、ずっと失恋し続けるようなもんじゃない。思っていたことが口に出ていたのか、海里の眉がぴくりと反応した。「まぁ、初恋は実らないって言うじゃん。」そう言う海里の表情は、微笑ではなく、カラッとした陽気な一笑であった。

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