その男は今日もドーナツを作っている 3


 おれさ、どこかおかしいんだよ。いつからおかしくなっちゃったのかはわかんないけどさ、おかしいんだよ。

 小さい頃の、一番最初の記憶ってある? おれはさ、小学校上がる前。母ちゃんに手を引かれて、でかくて嫌な匂いがする場所に連れて行かれて、なんかよくわからない『テスト』をたくさんした。今思えばあそこは病院で、おれは『障害があるかどうか』を検査されていたんだよなぁ。

 でもおれは、『テスト』に引っかからなかったみたい。『海里くんはちょっと個性的で、変わっているだけ』で、『人よりちょっと歩みが遅いだけ』なんだって。これは母ちゃんが病院の先生から言われたことらしいけどね。

 おれがものを忘れたり、なにをしたらいいかわからなくなって泣いちゃったりしていると、母ちゃんはいつもそう言ってくれた。母ちゃんはすっごく優しくて、大丈夫って言いながら抱きしめてくれたけど、おれはずっとずっと、ごめんなさいって思ってた。


 だっておれ、算数の宿題していても、筆算の線が曲がっただけで何回も書き直しちゃう子どもだったんだよ? 宿題の紙がくしゃくしゃになるくらい書き直しても、姉ちゃんにご飯の時間だからもうやめろって言われても、やめられなかった。

 近所の人に挨拶するのが怖くて、逃げ出しちゃったことだってある。「おいしい? 」って訊かれてんのに、もらった飴の味がわからなくて、そのまんま飲み込んじゃったことだってある。

 靴下も嫌いでさ、冬でも履きたくなくて、よく霜焼けになってた。なんで履かないのって怒られたこともあるけど、理由はうまく言えなくて、泣くことしかできなかった。え? バイト中は履いてるよさすがに。でもできるだけ履きたくなくて、去年くらいまでは冬でも裸足だった。

 人に見られるのが怖くて、不快にさせるのが怖くて、お願いだからおれなんかいないやつとして扱って、って何回も思った。


 まじでさ、病的なくらい自己肯定感低いよな。母ちゃんのことも父ちゃんのことも大好きだし、もちろん姉ちゃんだって大事。照れくさいけど、おれには見合わないくらい愛されて育ったと思う。

 どれだけ鈍臭くても殴られたことはないし、怒鳴られたことだって片手で数える程度。少なくとも、高校に上がってからはない。基本的に好き勝手させてくれた。

 って言っても、おれの中の『好き勝手』なんて、かおと一緒にいること以外なかったんだけどさ。


 かおとはもう、ずっと一緒にいた。おれは自分の名前も上手く言えない子どもだったらしいんだけどさ、かおのことは呼びやすかったのか、ずっと呼んでたんだって。

 幼稚園でも一緒にいてくれたし、おねしょしたり幼稚園の中で迷子になったりしても、かおはそばにいて助けてくれた。……あ、おまえ今笑いかけただろ? うるせぇ、おねしょくらい子どもならだれだってするだろ?

 ……とにかく、かおはいつもそばにいてくれた。小学校も中学校も、毎朝迎えに来てくれて、おれの跳ねた髪を治してくれた。忘れものないか? っていつも訊いてくれた。おれはいつも、ない! って元気よく答えるんだけどさ、普通に忘れものしてんの。毎朝毎朝、今日もかおが迎えに来てくれた! って嬉しさで頭の中空っぽになってさ、忘れものの確認とかしてなかったんだよ。まじホンモノのバカだろ? 自分でも笑える。


 かおはさ、いつもおれの後ろを歩いてた。小学校の最初の方は並んで歩いてたんだけど、周りにからかわれるようになったからか、いつの間にか後ろを歩くようになってた。

 隣にかおがいる安心感も好きだったけど、後ろを見れば絶対かおがいるのも大好きだった。何回も後ろを振り返って、安心して、そのせいで水溜まりにはまって、みたいなことも、正直数え切れないくらいあったよ。


 かおといる時間だけは、安心できた。おれのせいで不快にさせるかも、なんて、考えたこともなかった。冬でも靴下履かないおれを、かおだけは『まぁいいんじゃない?嫌なんだろ?』って肯定してくれた。おれの話や歩きがどんなに遅くても、かおはいつも待ってくれたし、どんなミスをしてもため息ひとつ吐かなかった。

 そんなかおと一緒にいるのは、楽しい、とか、どきどきする、とか。そういうのは全く無くて、ただ安心した。まじで熱すぎない、ちょうどいい温度の風呂にずっと浸かってる気分。わかる? え、風呂にはあんま入らない? おまえ……いや、シャワーもいいけど、たまには入れよ。


 ……だからさ、好きとか嫌いとか、考えたことも無かった。でも、母ちゃんとかおの母ちゃんがそんなに仲良くないことは、知ってた。

 おれの母ちゃん、悪口とか言う人じゃねぇんだけど、かおの話をしようとしたらいっつも顔が暗かったんだ。で、『親御さんには迷惑かけないようにね』って言う。

 幼稚園のときとかは、母ちゃん同士でお茶飲みに行ったり、お互いの家で遊んだりすることもあったから、小学生のときはなにがあったんだろう、喧嘩でもしたんかな、って、呑気に考えてた。じゃあ、母ちゃんたちが仲直りするまでは、母ちゃんにかおの話あんまりしない方がいいかなぁって思って、あんまりかおの話しないようにした。

 それが今の今まで、ずうっと続いてる。


 かおの話をしないようにしよう、と思ったら、おれが家族にできる話なんてゼロになっちゃった。

 小学校んとき、おれ、いじめられてたんだよねぇ。あっは、なんか言葉にするの初めてだから、変な感じ。あんまり言わねぇよな、昔いじめられてました〜とかって。

 え、もう別に平気よ? おれが受けてたやつなんて、そんな大したレベルじゃなかったし。おれだって、おれみたいなやつがクラスにいたらイライラしちゃうなぁって思うし。

 まぁでも、いじめることはしないと思うけど。ちゃんと持って来ていても、体操服とか教科書とか隠されて、酢谷のことだから忘れてきたんだろって言われて先生に怒られた。五年のときの担任は疑ってくれたけど、三年のときはしんどかったなぁ……!

 体育の授業で、おれだけペア組めないのが嫌で、保健室にこもったこともあったっけ。でも保健室の先生が厳しくてさ、男の子なんだから頑張れって、そのうちどうせ仮病だって追い返されるようになった。

 ……しんどかったし、絶対ゆるせないけど、今あいつらが目の前にいたとしても、おれはたぶんへらへら笑ってやり過ごす。いじめなんてなかった、って言われれば、そうだよなって笑って返す。


 ん、家族? あぁ、たぶん気付いてたよ。それこそ、さすがに高学年になるといじめもエグくなってきてたからさ、担任もおかしいって思うようになったみたいで。あとはあれだな、何人かクラスメイトがチクったらしい。なんだっけ、良心のかんしゃく、みたいな……あぁ、『良心の呵責』、それだそれ。……んだよ、笑うなよ……!

 まぁそんなこんなで、さ。担任が母ちゃんに言ったり、クラスメイトの親伝いで母ちゃんの耳に入ったり。でも、母ちゃんはなにも言ってこなかったよ。おれの体操服が泥だらけでも、月に一回くらいのペースで靴が片方失くなっても、なにも言わずに洗濯したり、新調したりしてた。

 なにも言ってなかったけど、顔は『ごめん』って言ってた。おれがただいまって笑うたびに、母ちゃんの目は泣きそうになってた。さすがにさ、そんな母ちゃんに『学校行きたくない』とか、『いじめられてるから助けて』なんて言ったら、泣かせちゃうなってわかるんだよ。だから、言えなかった。

 父ちゃんや姉ちゃんには、もっと言えなかったなぁ。父ちゃんは静かな人なんだけど、おれが言いたいことも言えなくてぐずぐず泣いてたら、さすがに堪忍袋の緒が切れた! って、何回か怒鳴らせちゃった。そんな父ちゃんに、おれのことで必要以上にイライラさせたくないじゃん?

 姉ちゃんは……すっげぇちゃんとした人。本当におれと姉弟なのかなぁって思うくらい。だから小さいときは結構イラつかせちゃった。まぁ今もイラつかせてるとは思うけど、ほら、姉弟って小さいときずっと一緒にいるじゃんか? え、あ、小野って姉弟いなかったんだ。ひとりっ子? 『俺のことはいいから』っておまえ……よく話聞きながらゲームできるよなぁ。


 で、なんだっけ。ん? かお? あぁ、かおにだけは絶対気付かれたくなかった。んん……そりゃあ守ってくれると思うよ? ていうか実際そうだったし。ちょ、待って待って、その辺は順を追って話すから、おまえは片手間で聴いといてくれればいいんだって。

 ……うん、兄弟。兄弟なんだよ、おれとかおは。先にそう言ってきたのはかおだけどね。『おれは兄ちゃんだから』って。……あ、違うな。先に言ってたのは、周りだわ。

 幼稚園の頃から、かおはずっとおれのそばにいてくれて、手を引っ張ってくれて、助けてくれた。今もそうだろうけど、かおの方が背高いこともあって、周りの大人によく言われたんだよ。『お兄ちゃんみたいね』って。

 かおの母ちゃんは嫌そうな顔してたけど、おれの母ちゃんは嬉しそうだった。まぁ最初だけだけどね。

 姉ちゃんには、そんなわけないじゃんって言われた。まぁそりゃあ、本当の姉ちゃんからしたら何言ってんだって感じだよなぁ。実際、一ヶ月の差だけど、かおはおれより年下だし。

 でも、おれは嬉しかったんだよ。一ヶ月の歳上のプライドがなかったわけじゃないけど、周りが名付けた関係に当てはまっていれば、ずっとかおと一緒にいられるってんならそれで良かった。

 けどおれが面倒なのは、それだけじゃ満足できなかったってところ。『それで良い』なんて言っておきながら、かおと対等な存在になりたかった。守る守られるって関係にしたくなかったし、あとは……そうだな、その関係にしちゃったら、かおの逃げ場がなくなっちゃうなって、なんかぼんやりと、思ってた。


 まぁ結局、かおにもバレちゃうんだけど。小学校の六年生とかでさ、林間学校的なやつあるじゃん? なんか山の方に行って、宿泊施設みたいなところに泊まって、肝試しとかキャンプファイヤーとかやって、みたいな。

 あれの肝試しでさ、おれ、いじめてたやつらと同じグループだったんだよ。六年のときの担任は、いじめなんかない、いじめられる方が悪いんだって考え方で。それもあって、いじめてたやつらが「酢谷が余ってるから、俺たちのグループに入れたらいいと思いま〜す」なんて言ったら、「これを機にもっと仲良くなれるかもしれないわね」なんて言ってたよ。

 偉い先生だったからか、その担任は忙しくて。いつも副担任みたいな若い講師の先生がいたんだけど、その先生は割と目をかけてくれてたけどな。

 で、案の定楽しい林間学校なんかになるわけがなくて。肝試しでさ、こう、目隠されて、しばらく歩かされてたんだけど、そのまま田んぼみたいな場所にドボン。痛かったし泣きたかったけど、頭ん中は『かおにバレたくない』って、そればっかりだった。

 まぁ無理だったけどねぇ。宿泊施設に戻れば、学年のみんながホールみたいな場所に集まってたし、当然その中にかおもいた。泥だらけになったおれに、副担任の先生だけが駆け寄ってくれたけど、おれはぐしゃぐしゃに歪んだかおの顔しか見てなかった。


 やっちゃったな、って思ったよ。このままバレなければ、かおがあんなに拗れることはなかった。そ、暴れちゃったんだよ。目の色変えていじめてたやつらのことぶん殴って、先生に止められても大暴れして、泥だらけのおれの手を握って何回も謝ってた。

 それまで、靴が失くなったときは「居残りになったから先帰ってて」ってごまかしてたし、髪の毛が濡れちゃってたときは「手洗おうとしたらまちがえた」って嘘ついてたのに、全部無駄になっちゃった。

 えぇ……? まぁ、かおも大概鈍感だと思うよ? おれの下手な嘘を信じてくれてたんだから。

 でもまぁ、そういうやつなんだよ。めちゃくちゃ素直で、臆病なやつなんだよ。おれの言葉なら、見え見えの嘘でも信じきっちゃう。そうすればずっと一緒にいられるって思ってたのかもね。……無欲なやつだよなぁ。


 ……うん、そうかも。おれ、自分がかおのこと好きかどうかなんて考えたことなくて、……ていうか、考えないようにしていたけど、かおからの『好き』は当たり前だった。ずっと変わらずそこにあって、めちゃくちゃ心地よかった。

 中学あがるときにさ、性格を明るくしようと思った。おれが鈍臭いままじゃ、またかおが爆発しちゃうって思ったから。少し経ってから理由訊かれたけど、かおは突然キャラ変したおれも受け容れて好きでいてくれたよ。ていうか、性格を変えられたのは、どんなおれになってもかおはおれを好きでいてくれるだろうなぁって信じてたから。それくらい、かおからの『好き』はおれにとって当たり前だった。

 母ちゃんも姉ちゃんも、少女漫画好きだったから、家にはたくさんあって。おれもそれを読んで育ってきたところ、あるから、おれはその中のキャラクターみたいになることにした。

 うじうじして、人の顔色うかがって。そんなおれでも一緒にいてくれるのはかおだけだし、そのままだったらかおも傷付けることになるって、ようやく気付いたんだよな。

 でもさ、所詮真似は真似だから。ずーっと明るい振りして、おれは人が好きなんだって言い聞かせて、爽やかな青春を楽しんでますって顔し続けても、疲れちゃうんだよ。は? バイトではそうでもなかった、っておまえ……。ちゃんと客に対しては明るい振りしてたよ。おまえにまでそんな振りする意味がねぇだろ。

 あぁ……でもまぁ、最近は化けの皮剥がれてたかも。なんかさ、だめなんだよ。明るい振りして、怖くても人の間に入っていって、そうすればたしかにいじめられることはなくなった。でも、今話している人を嫌な気持ちにさせちゃったかもしれないっていう不安は消えないし、むしろでかくなってた。

 けど、毎朝家まで迎えに来てくれるかおの顔を見たら、すっげぇ安心できた。中学になったら、かおも塾に行くようになったのもあって、毎日一緒に下校とかはできなかったけど、それでもかおの塾がないときは、おれの部活が終わるまで待ってくれた。

 うん、かおは部活に入ってなかったんだよ。なんでだろうなぁ、おれなんかよりずっと運動できるし、頭だっていいのに。……んー? へへ、それがわかんねぇほど鈍感じゃねぇよ。


 そうだな、かおとクラスが被ることは一回もなかったよ。部活も、かおは群れることも嫌いだからか、入らなかったし。おれが「陸上部は、チーム戦じゃない唯一の一軍の部活だから入りたい」って言ったときも、本気で理解できない顔してたし。

 おまえもそういうの気にしなさそうだよなぁ……まじ羨ましいよ。いじめられてもしょうがないおれから抜け出すために、おれはばかみたいに必死になってたのにさ。


 かおと一回も同じクラスにならなかったのは、かおの母ちゃんのせいなんだって。まぁそうだろうとは思っていたけど、高校に入る直前にやっと母ちゃんがはっきり言ってくれたんだよね。「伊藤さんはどうしても海里と息子さんを仲良くさせたくないみたいで、毎年『酢谷さんとだけはクラスを離してください』ってお願いしていたんですって」って。

 母ちゃん的には、だからできるだけ距離を取りなさいって言いたかったんだろうけど、そんなの、かおと同じ高校に行くって決まってから言われてもしょうがないよな。かおは他の学校への推薦もある程度決まってたみたいだけど、いつの間にかおれと同じ学校に進学することになってた。……いや、いつの間にかって言うとちょっと白々しすぎるな。


 おれ、ちゃんと知ってるんだよ。泥だらけのおれを見て、いじめてたやつらに殴りかかったときと同じようなことを、かおは中学でもやっちゃったんだ。それも、二回も。

 そのせいで、かおは必要以上に学校で孤立するようになったし、推薦だって流れた。責任取れ、もう二度と息子に関わるな、って、かおの母ちゃんがおれの家に殴り込みに来てたよ。そのときに色々叫んでたから、クラスが一回も被らなかったのもそういうことなんだろうなぁって察してた。

 かおは知らないんじゃない? かおの母ちゃんが怒鳴り込みに来たのは、おれが知る限り二回だけど、二回とも母ちゃんがかおの父ちゃん呼んで迎えに来てもらってたし。おれの家族もわざわざそういうこと広める気、なかったし。


 んー、たしかに、見方によっては無責任かもね。幼なじみでずっと一緒にいたのに、いじめに気付いていなかったのも、母ちゃん野放しにして他人の家に迷惑かけたのも。普通に考えれば、かおの責任で、かおは無責任な人間なのかもしれない。

 でもさ、責任なんてない関係なんだよ、おれとかおは。約束も責任も、なぁんにもない。いつ離れてもいいし、無理に繋ぎ止めようとしなくたっていい。幼なじみって事実だけは本当だけど、あとは全部ちょっとちがう。一応友だちっていう関係に収まってるくせに、『ずっと』っていう時間だけを求めてくるかおに、本当はちょっとイラついてた。

 言ってくれればいいのに、って思ってた。勝手だろ? 言ってくれれば、おれも自分のかおへの気持ちについて考えられるのに。そんなイライラは、いつの間にかちがう形になってた。『かおが言ってくれるまでは、このままでいよう』って。


 でも、かおは言ってくれなかった。ただただ、ずーっとパーを出し続けてた。え、じゃんけんだよ。えぇ……ピンとこない? おれの中で結構しっくりきてるんだけど……。

 そう、かおはじゃんけんしてくれねぇの。おれがグーを出しても、チョキを出しても、ずーっとパー。勝ちを譲り続けるわけでも、勝ち続けてくれるわけでもない。『おまえがしたいようにすればいいよ』って笑ってるだけ。

 だからさ、おれとかお、一回も喧嘩したことねぇんだよ。おれがイライラして、かおの意見聴きたいって思っても、結局かおは笑っておれの意見に頷くだけ。喧嘩にもならなかった。



 そんなとき、稲垣に恋したんだよ。

 高校に入って、初めてかおと同じクラスになって、すっげぇ嬉しかった。でもそれ以上に、稲垣っていう最高に綺麗でかっこいい子に会えて、嬉しかった。

 稲垣は、かっこよくて綺麗で眩しくて、おれの憧れ一直線だった。でももちろん、ただの憧れでもなかったよ。

 稲垣に会えると、嫌なことなんか全部吹っ飛ぶ。悩みとか全部小さいことみたいに思えて、視界がキラキラ光る。かお相手だったらそんなこと考えたこともなかったのに、『少しでも良く見られたい』って思った。考えるまでもなく、おれはこの人のことが好きなんだ、恋に落ちたんだってわかった。

 同じ場所にかおがいるのに、視界の端にも入らないなんて、初めてだった。稲垣が好きだっ! て気持ちに蓋をすることができなくて、溢れるみたいに毎日告白したよ。

 少女漫画で恋愛はたくさん見てきたけど、正しい恋のやり方はわからなかった。高校生で初恋なのも、たぶん遅かったし。

 でも、それこそ少女漫画のヒーローみたく、多少強引に引っ張っていくよりは、素直に気持ちを伝えた方がいいと思ったんだよ。好きです、おれはあなたのことを恋愛的な好意ありきで見ています、って、馬鹿正直に伝える方が絶対いいって思ってた。

 ……うん、そうかもな。おれが、そうしてほしかったからかもしんない。そう思うと、かなり勝手だよなぁ。稲垣のことを最初名前で呼んじゃってたのも、おれがかおにそうしてほしかったからだし。おれってほんとに自分勝手だわ。


 その身勝手さが、稲垣からしたら不快だったんだと思う。稲垣は、はっきりと拒絶することはなかったけど、たしかにおれを鬱陶しく思ってた。

 でも、おれはやっぱり稲垣を見ると気持ちが溢れちゃって、ないのに自分のケツにしっぽでも生えてんじゃないかって思うくらいテンションが上がっちゃってた。そうそう、犬が飼い主にぶんぶんしっぽを振ってる感じ。

 けどおれは犬じゃないし、稲垣を恋愛的に好きだし、でも稲垣はおれを好きじゃないから。理想的に話が進むことはなかった。


 おれは最初、稲垣はかおのことが好きなんだと思ってた。

 稲垣とかおは席が前後でさ、あ、かおの苗字が伊藤だったから。で、ふたりとも趣味は映画鑑賞。どっちも意思が強くて超かっこいいし、そりゃあ気が合うよなって思ったよ。

 でもまじで、出会いは笑えるくらい最悪だったけどな! かおは喧嘩腰だし、いやぁ稲垣がブチギレてるのなんて、あのときくらいだったんじゃねぇの? ってくらいレアだったし。え、いやいや仲良かったんだよふたりは。あー、まぁ、仲良いって言うとちょっとちがうかもしれねぇけど。



 ……えっと、突然なんだけど、小野って男女の友情ってやつ信じてる? う、うるせぇよ! おれだって突然だとは思ってる! おれが話すのへたくそなんて、わかってるだろ!

 ……へぇ、意外。ある派なんだ、おまえ。じゃあ、じゃあさ、それが好きな人と幼なじみだったら? あ、幼なじみいないのか、じゃあ好きな人と友だちだったら?

 好きな人がおれには冷たいし、壁作ってんのに、友だちには心ゆるしてるって感じでさ、ほら、お前だったらどうする? ……んだよ、おれそんなに難しいこと訊いてる? そこまで悩まれると思ってなかったんだけど?


 おれの場合は、よくわからなかった。まったくもやもやしなかったわけじゃないけど、どちらにも同じくらいもやもやしてた。で、それと同じくらい、「おれがあのふたりの間に入っていなくてよかったなぁ」って気持ちもあった。

 ……それなぁ、おれもよくわかんない。嫉妬もあったけど、安心もしていて。でも、手放しで喜べるほど単純でもなかった。

 稲垣はかおのことが好きなんだろうな、とは思っていたけど、かおが好きなのはおれでしょ、って怒りたくて。でも大好きなふたりだから、そこにおれが入っちゃだめだ、入りたくもない、このままふたりが幸せになってくれればそれが一番かな、なんて。

 わけわかんなくなって、頭ががんがんしてて、母ちゃんに相談した。って言っても、「おれ好きな子できたかも」って言いかけた瞬間、めちゃくちゃ喜ばれて本題は言えなかったんだけどさ。


 そんなこんなで、迷子みたいになってる間……二年の夏くらいに、家が大変なことになっちゃったんだよ。姉ちゃんがさ、ちょっと、大変なことになって……。おれは難しいことわかんねぇけどさ。姉ちゃんは恋人もいて、子どもができたのもあって結婚した。けど、その子が……っ、〜って、ショックで家に帰ってきた。


 どうしたらいいか、わかんなかったよ。すげぇ悲しいし、苦しいし、ずっと汗かいてて、全身が痒かった。でも姉ちゃんはおれ以上に苦しんでるんだろうなって思うと、もっとどうしたらいいかわかんなかった。

 わかんなくて、わかんなくて。考えてるうちに、おれがいるだけでぶち壊しになるだろうなって考えに落ち着いた。だから家ではできるだけ存在感消して、空気みたいな顔して生活してた。


 姉ちゃんが、あんなに謝ってるのなんて、初めて見た。家族を……って、ごめんなさい、って泣きながら謝って、母ちゃんは言うんだよ。「大丈夫だから、栞が気にすることないから、海里がいるから」って。

 ……なに言ったか、正直覚えてない。海里がいるから、孫のことは気にしなくていいって母ちゃんが言った瞬間、空気の振りしてたおれの方を、みんながぶわって振り向くのがわかった。……怖かった。怖くて、痒くて、逃げたかった。

 全部決まってて、それが当たり前で、そこには当然かおはいなくて、稲垣も、……いるけど、それは稲垣じゃない。ただの女の人。もしかしたら、みんなが見ているおれすらいないんじゃないかって思うと、とにかく怖かった。


 その後に、さ。おれ、姉ちゃんに言っちゃったんだよ。

 おれより、ずっとずっと傷付いてる姉ちゃんに、かおと稲垣の話を、ちょっとしちゃったんだ。「幼なじみくんが兄ちゃんなんて、本気で言ってるの? 」とか、「幼なじみくんのこと、好きなんじゃないの? 」とか。姉ちゃんの言葉はどれも痛くて、でも全部本当だった。

 これが家族なんだな、って、思ったよ。ずっとパーを出してくれるかおとは違う。はっきりと言ってくれて、それは安心だけじゃない。

 ……姉ちゃんに言われて、さ。痒かったのが、なくなったんだよ。あ、おれ、かおのこと大好きなんだな、って。恋とかはわかんねぇけど、稲垣のこともめちゃくちゃ大好きだけど、かおのことが、兄ちゃんとしてじゃなくて人として、大好きなんだな、って、やっとわかった。やっと自分の気持ちの顔が見えた。


 でも、むりだよ。好きだから、なに? 稲垣のことが好きなのだって本当だし、かおが好きって気持ちと稲垣が好きって気持ちを比べることだってできない。かおとまったく同じものを、同じ量だけ返せる気もしない。今まで散々縛り付けてきたのに、よくわかんなくて汚いおれに、これ以上巻き込むなんてできない。ただでさえかおの家だって大変なのに、おれがこれ以上かおを迷子にさせたらだめだ。だって、だって本当に兄ちゃんなのは、おれなんだよ……!


 ……たった一ヶ月だけど、おれの方がかおより早く生まれてる。おれの方が、身長は低いしバカだし、なにもできないけど、それでも、だからこそ、かおの目を覚ましてやらなくちゃいけねぇんだよ……ッ!

 って、……ははっ、ばかみてぇに熱くなったわ、すまん。なんだっけ、あぁ、そうそう。……「わかってるよね? 」って。「母さんたち悲しませたら、ゆるさないから」って。

 うん、姉ちゃんに言われた。傷付いてなんかねぇよ? だって、おれもまったく同じ意見だから。

 おれだって、おれが好き勝手して、母ちゃんたちが悲しむなんて絶対嫌だ。そんなことになったら、おれはおれを絶対ゆるせない。


 バイト始めたのは、もうちょっと前。姉ちゃんのあれこれが二年のときだから。そ、バイトは一年の梅雨からだからな〜。そう思うと長いよ。きっかけは単純で、ずっとかおに頼るのはだめだと思ったから。

 かおの家も大変だったんだよ。父ちゃんがいよいよ帰って来なくなって、母ちゃんがかおのこと無視するようになってて。お金はもらってるから、って、かおは放課後おれにご飯奢ってくれたけど、それもだめだと思ってたし。

 いや、ちげぇんだよ。おれ用事あるから、とか、母ちゃん晩飯作ってるから、って言って断ったら、あいつ何も食べねぇんだよ。そんなの見てらんないだろ?

 それに、バイト始めて、ちゃんと人間にならなきゃとも思った。かおより立派な人間にはなれないけど、色んな人と関わらなきゃ、稲垣に作られた壁も壊せない。そんな感じなことを言ったら、先生も許可くれた。


 かおも、最初は見るからに不機嫌だったけど、まぁ結局おれの言うことに頷いてくれる子だから。ひどいよね。

 でも、そのめちゃくちゃ乱暴な優しさのおかげで、バイト始められたし、圧倒的社会不適合者なおれが社員になることだってできた。おまえ含め、店長にもスタッフのみんなにもめっちゃ迷惑かけたけどな。

 んー? いやまじで感謝してるよ。嘘じゃねぇって、小野が投げ出さなかったから、ここまで来れたわけだし。まじでめっちゃありがとうって思ってる! ……って、おまえもしかして照れてんの? なんだよ〜かわいいとこあるじゃん。


 ってぇな! 照れ隠しやめろって、わかった、わかったよ! もう言わねぇから!

 ……え? いや、店長が言ってた『恋人』ってのは、稲垣のことだよ? あ、ちがうちがう。稲垣がかおに失恋して、おれがそこに付け込んだわけじゃない。


 一年の頃は、稲垣と友だちにもなれない変な感じだったんだけどさ。姉ちゃんのあれこれと同じくらいの時期に、稲垣がなんやかんやあってさ。ちょっと、稲垣に作られていた壁の高さが、低くなったんだよ。あ……、ごめん、これは言えない。……物わかりいいね、おまえ。嫌味じゃねぇよ、ありがと。

 そう、で、稲垣とも話をするようになった。稲垣は、恋をしない人なんだって。しない、っていうか、できない? 最初から『恋愛』って機能が稲垣の中になくて、でも本人もそれでいいって思ってるんだって。

 めっちゃカッコイイんだよ、稲垣。「だって自分を愛するので精一杯だから。他人が私以上に私を愛せると思わないし、私が私以上に他人を愛せる気もしない」って言っててさ、おれまじでビリビリって、雷に打たれたみたいになった。

 稲垣は、おれが一生かかっても持てないものを持ってるんだよ。あーあ、おれが稲垣みたいだったら、なにも考えずにかおのこと好きって言えたかもなぁ、でもそうなったら、おれは稲垣に会えなかったかもなぁ。……かおも、稲垣みたいな最高の友だちに、一生出会えなかったかもなぁって思うと、わけわかんなくなっちゃった。


 わかんなかったよ、稲垣の言ってること。カッコイイとは思ったし、目の前はキラキラ輝いてたけど、稲垣はてっきりかおのことが男として好きなんだと思ってたし、じゃあなんでかおと仲良くできるんだろうって疑問だった。

 だって、かおは男で、稲垣は女の子だし。ほんのちょっとの恋愛感情もないのに、男女がふたりきりで放課後喋ってるとか、意味わかんなかった。けど、わかんないって面白いな、って思ったんだよ。

 わかんないなら、たくさんしゃべってわかろうとすればいい。知りたいって思うくらい、稲垣のこと大好きだし、稲垣が話してくれるならそれを聴きたいって思った。思ったし、それを稲垣にも言った。

 いや、実際には「おれ、味がわかんないものでも、最後まで食べるよ」ってよくわかんない宣言みたいになっちゃったんだけど。だって、それがおしゃべりで、それが楽しいんじゃん? って言った。


 そしたら、稲垣の壁が薄くなるのがわかった。

 だからと言って、男として見られるようになったわけではないし、やっと友だちになれるかもしれないって立ち位置になっただけ。けど、嬉しかったよ。やっとスタートラインだって思った。

 稲垣は、おれとも話してくれるようになった。まだ壁はあるし、かおと稲垣との関係とはまったく違うけど、愛想笑いで告白をかわされるよりかはずっと良かった。


 それが、一年の夏休みの話。休みに入る前に、休み明けの文化祭の演目を決めてたんだけど、周りのノリでおれがラブソング歌うことになってさぁ。

 稲垣の話聴く前に決まったこととはいえ、おれ結構最低なことしたんじゃないかって、頭の中真っ白になって。……でも、なんでかやる気になってるみんなを止めることも、できなかった。

 稲垣にはもちろん謝ったけど、「別にいいよ」って言われた。「酢谷よりも、伊藤にムカついてるから」って。


 かなわないなぁ、って思った。おれがどれだけ稲垣のことを好きでも、稲垣の中ではおれよりかおの方がでかいんだ。

 そんな、よくわかんない……れっとうかん? もあって、あの年の夏休みは一回もかおと会わなかった。連絡も、まぁ普段から最低限しかしてなかったけど、一回もしなかった。かおからも、来なかったよ。



 そんなのだったのに、夏休み明けてからもかおはいつも通りだった。いつも通り、おれのこと好きって目をしておれを見てきた。その目を見てると、すっごい安心できて、なんかもう全部どうでもいいやって思えた。

 かおといるとさ、ずっとハッピーエンドなんだよ。でも、なんて言うんだろ、おれにハッピーエンドは似合わないんだよ。

 じゃあなんで稲垣とは一緒にいたいんだ? って言われると、おれだってわかんない。でも、稲垣には隣で幸せになってほしい。一緒に毎日を幸せだねって笑いながら過ごしたい。でも、かおだって近くにいてほしい。でも、かおはたぶん、おれの近くじゃ幸せになれない。

 わかってたのに、おれは結局自分からかおを突き放すことはできなかった。


 いつも通りだったかおは、なんか稲垣と喧嘩してた。いいなぁ、喧嘩できるんだって思っちゃった。本当なら、稲垣がひどいこと言われてるかもしれないんだから止めに行かなきゃなんだろうに、おれは聴いたことないかおの声を聞きながら、内容だけは耳に入れないようにしてた。

 そしたら、さ。かおが言ったんだ。「映画撮らせて」って。

 え、あ、うん、そう。かおは映画が好きなんだよ。あれ? 言ってなかったっけ? わり。

 な、かおも大概突然だよなぁ。なんだかんだ言って、おれが断れないこと知ってんだよ? まじずるいよなぁ。

 でもまぁ、おれも乗り気だったし、普通にOKしたよ。楽しそうだったし、これで無視されないって思った。変だよな、かおがおれのこと無視したことなんてなかったのに、おれはずっとどこかで「おれ今、無視されてる」って感じてたんだ。

 いっつもそうだ。おれの気持ちは、おれの体よりずっと後ろにいて、毎回遅れてやってくる。だから運命も変えられないし、いつだって選択を間違える。


 かおが、酢谷で映画を撮りたいって言ったとき、おれ一個だけお願いしたんだよ。撮ってる間だけでいいから、名前で呼んで、って。

 いつからだったか、かおはおれを苗字で呼ぶようになった。わかってるよ、かおが色々周りの目を気にしてそうしたんだってことくらい。でも、だからこそ、おれは絶対かおって呼び続けようって決めてたし、これからだってそうする。あいつの苗字なんて、一生呼んでやらない。だからおまえも諦めてよって、そんな気持ちだった。

 かおは乗ってくれたよ。一ヶ月と少しだったけど、あの時間が永遠に続けばいいって思ってた。かおもそう思ってるんだろうなっていうのがわかったし、あの時間だけはかおが稲垣の方に行くこともなかった。

 文化祭があって、おれは予定通り本番もラブソングを全校生徒の前で歌ったけど、かおはなにも言わずにその日もカメラを回してくれた。歌ってる間は、頭が痛くて吐きそうで、自分が立っているのかすらわからなかったけど、終わってからかおが普段どおり「撮っていい? 」って言ってきたとき、やっと前がどこにあるのかわかった。


 撮り終わらなければ、よかったのに。


 映画が撮り終わっても、かおは見せてくれなかった。編集が終わったら、って言われたけど、そう言っている間に秋は終わって、冬になって……。

 ……あのときのおれ、まじで最低だった。だれに謝ったらいいのかわからないくらい最低で、なんで、あんなこと言ったんだろ……?

 かおは、おれに観せるより前に、ネットに載せたんだよ。それをクラスメイトから聴いたとき、おれの中で初めて黒くてもやもやしたものが出てきた。でもさ、ほんとはなんでかおがおれに見せなかったのか、わかってる。

 かおがネットにあげる少し前に、稲垣から「伊藤の映画が観たい。進捗とか聞いてる? 」って訊かれたんだ。おれはなにも聞いていなかったけど、稲垣と話せるのが嬉しくて、嘘ついた。その流れでご飯行くことになって、嬉しくて、かおに報告して……。たぶん、そのせい。おれのせい。


 結局、おれが観ていないかおの映画を観たらしい稲垣が、最高だったから私も撮ってほしくなった、あいつには才能がある、って言っていたけど、おれの中の黒いやつは素直に喜べなかった。おれは未だにその映画を観れてないし、観たくもない。おれはまず、かおからこっそり、秘密を共有するみたいに観せてほしかったんだ。それが叶わなかったなら、一生観ない。

 ……わかってる、頑固だし、最低だし、意地っ張りだとも思う。おれだって、おれの中にこんな自分がいるなんて思ってもなかった。

「無理だよ」って言ったんだ、稲垣に。「かおが撮れるのは、おれだけだよ」って。稲垣、すっげぇびっくりしてた。でも、意外とすんなり理解してもいたよ。「やっぱり気付いてたんだ」って、ひとり言みたいに言われた。おれはそのひとり言に、「みんな気付いてるよ」って返事した。


 文化祭の演し物を決めるときに、みんながかおの方をちらちら見ていたのも、映画を観たやつらがおれをからかってばかにしながらも、『ホンモノ』だって感じ取っているから当たりが強かったのも、全部理由は一緒。みんな、かおがおれのことを好きだって気付いてた。隠しきれているなんて思っているのは、かおだけだった。

 ……おれだって、できることならずっと気付かないふりしていたかったよ。



 一週間くらい経って、かおはようやく学校に来た。おれが映画を観ていないなんて、想像すらしていない顔をしてたよ。

 おれの顔見た瞬間、わかりやすく安心してんのに、おれが映画のせいでからかわれているのを見たら、全く動けなくなってた。かわいいだろ? かわいいんだよ、あいつは。

 その場しのぎの否定すらできないあいつを助けるために、おれは覚悟を決めたよ。兄ちゃんって言葉にすがりついてたかおを否定するみたいだけど、一ヶ月早く生まれたのはおれなんだからって、おれが兄ちゃんにならなきゃって。何回も何回も、わざとらしいくらい周りに否定した。おれはホモじゃない、かおがおれなんかを好きになるわけが無いって。

 かおは昔、おれに『おまえがいないと息もできない』みたいなことを、冗談みたいに言ってたけど、さ。たぶんあのときは、おれもかおも、お互いがいるのに息できてなかった。

 え、……いや、どうだろ……。おれの言葉でかおを傷付けて、それでもかおが離れないなんて、そんな自信があったわけでもないけど……。だからといって、あれがきっかけで離れられればいいなんて思っていたわけでも、もちろんない。

 なんだろうな……。あのときはただ、泣くこともできないくらいビビって動けないかおを、助けたかっただけなんだよ。その先のことどころか、それでかおが傷付くかもしれないとも、考えてなかった。『兄ちゃん』として、頑張って、かおを守らなきゃ、守りたいって思ってた。

 そういうところが、ダメなんだよなぁ、おれって。ぜーんぶ思っていた逆の方向にいくんだよ。裏っ返しの運命なんだよ。

 けどそれは、悪霊とかよくわからないもののせいじゃなくて、おれの不注意と考えなしのせい。


 わかってるよ、わかってるけど、止めらんなかったんだよ。

 稲垣が、かおに映画を撮ってほしいって頼みに行くとき、おれも着いて行った。着いて行かせて、一緒にいさせて、ってお願いした。

 たぶん頭がこんがらがってるかおが、稲垣にひどいこと言うかもって思ったのも本当だけど、かおがおれ以外を撮るなんて絶対いやだった。かおが夢を叶えるためならそんなこと言っていられないのに、おれ以外を撮るってことはカメラ越しにあんな目でおれを見るかもしれないってことだろ? それなら、かおの夢なんて叶わないでほしい、……なんて、最低なこと思った。

 最初は、そんな気持ち無かったのに、さ。かおが映画撮ってくれたことと、かおが最初にそれをおれに見せてくれなかったから、かな……。もう、わけわかんなくなっちゃった。


 けどさ、おればかだけどさ、さすがに『あれ』は言っちゃだめだってわかってたんだよ。

 かおは、想像してた通り、稲垣のお願いを断った。というか、あからさまになんか不機嫌だった。おれにはあんまり見せることがなかった顔だったから、なんか新鮮で、でもやっぱり悔しかった。

 悔しかったのと、嬉しかったのと、ぐっちゃぐちゃになって、ぱーん! って弾け飛んだ感じだったんだよ。な? 意味わかんないだろ? えー、笑ってくれねぇのぉ?

 ……「かおは、おれだから撮れたんだよ。かおが惚れてるのは、おれだけでしょ。」

 はっ、笑えるよなぁ、観てすらいねぇのにさぁ。かおの夢を応援してんのに、芽生えたかもしれない自信もチャンスも潰してさぁ。しかも、かおがずっとおれにバレないように、おれへの気持ちをあたためてきていたことだって、知ってたのにさぁ……。

 ……まぁじで、最低だよ、おれ。あんときのかお、忘れらんない。裏切られたって顔してた。信じてたのにって顔だった。

 この人にとって一番言われたくないことだろうな、って言葉を言うのは、暴力なんだってやっとわかったよ。もう遅かったけど。


 おれが『相手にとって一番言われたくないこと』がわかるのは、たぶんこれまでもこれからもかおだけなんだよ。でもさ、おまえはたぶん、相手がだれでもわかるんじゃん? それってまじで、すげぇ才能だと思う。

 しかもそれを、おまえはちゃんと言わないじゃん。逆に、言ってほしい言葉をくれるじゃん。おれもさ、引いてほしくないトランプ、かおのしかわかんねぇなら、せめてかおのだけは引かなきゃよかった。おれが引かなきゃ、いつまで経ってもゲームが進まないからって、焦って引くんじゃなかった。ずっとずっと、おじいちゃん同士になってでも、待ってやればよかった。



 ……かお、とは、さ。それから会ってない。いちども。

 最低なことを言ったおれに、かおはびっくりして、逃げた。おれは追いかけらンなくて、稲垣が追いかけた。おれはしばらく、その場でぼーっとしてたけど、かおの大声が聞こえて、慌てて走ったよ。

 そしたら、かおが稲垣に手を振りあげてた。わかってる、かおが稲垣を殴るはずがない。たぶん、稲垣もカードを引いちゃって、かおは思わず、言葉じゃない部分で怒っちゃっただけ。わかってる。

 なのにさ、……おれ、稲垣が危ないって思っちゃったんだよ。稲垣を、守っちゃったんだよ。


 それから、うん、会ってない。

 そのまま冬休みに入って、一度も連絡取れなくて、来なくて。休みが明けたら、かおは転校してた。

 先生からホームルームで聴いて、教室飛び出して家に帰って、というかかおの家に行ったけど、かおの父ちゃんしかいなかった。「もう妻も、夏生もいません」って。「私も、荷造りが終われば戻って来ません」って。

 年末、おれたちがばあちゃんの家に帰省している間に、救急車がかおん家に来たんだって。それが、かおの母ちゃんが、……し、死のうとしたから、なんだって。

 なにそれ、おれなにも知らない、なんで、って。すぐにかおに訊きたかったよ。そんなことになってるなんて、全然知らなかった。大変なんだろうな、とは思ってたけど、そこまで追い詰められてるなんて知らなかった。

「妻はもう、この土地は限界なようです。夏生もそれを理解していたのか、すんなり転校しました。引っ越し先は誰にも教えないようにと、夏生からも言われてます」。かおの父ちゃん、そう言ってた。

 その目がさ、なんか怒ってて。おれ、ばかだし鈍いから、やっと気付いた。あぁ、おれのせいだったんだなぁ……って。全部。


 おれがかおの気持ちをひとり占めしたから、かおの未来も全部おれの身勝手でねじ曲げたから。

 謝ろうにも、もう顔も見たくないだろうし、そもそもどこに行ったかもわかんないし。そこまで言われてて、こっちから連絡するのも頭おかしいじゃん?

 離れられたんなら、このまんま、なんにもなかったみたいに、身の丈に合った速度の中で必死に歩いて行った方がいいんだよ。のろのろ歩いても後ろをついてきてくれる人はもういないし、全力で追いかけたってたぶん、かおは逃げていっちゃうし。

 それなら、違う場所に向かって、稲垣を応援するためだけに歩いた方がいいんだよ。


 そう、結構本気で思ってる。思ってる、んだけどさぁ……。早くここを離れたいんだよねぇ。

 だってさ、幼なじみって厄介なんだよ。どこ見たって、あいつとの思い出が残ってる。どこ見たって、目の奥に眩しいものを抱えているみたいにおれのことを見る、あのかおの目が、こっちを見てるんだよ。かおはいないのに、かおの目はずっ……とおれを見てる。この町で暮らしてると、それをめちゃめちゃ実感する。

 まじで、おれがどれだけ泣いたと思ってんだろうな、あの弱虫は。ひとりで思い出から逃げるなんて、ずるいよ。おれだって、逃げたいのに。



 だから、これを機に逃げようと思った。転勤? する先が関東なのは、稲垣が上京するから。稲垣も本格的にあっちで仕事するし、着いてきてほしいって言われたし、着いていきたいって思ったし。ストーカーじゃねぇよ? 恋人でもねぇけど。

 うん、友だちって言うのが、一番アタリかも。まぁそりゃあ、下心はあるけどさ。でもそれは、いつか恋人になれたらな、とかじゃねぇよ? どんな形でも、近くにいて力になれるならそれでいいってやつ。

 でもそんなの、誰彼構わず言ったって伝わりにくいだろ? だから店長には、恋人って言っただけ。稲垣の名前も出してないし、結婚どうこうもあるわけじゃない。同居もしねぇし、ただひとりにさせたくないだけ。


 っあ〜、長々喋っちまったわ! おまえよく寝なかったなぁ? で、どう? ゲームは進んだ?

 ……へぇ、過去最高点? やっぱおまえって器用で、……めっちゃ優しいよな。

 ん、へへ……ありがと。

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