その男は今日もドーナツを作っている 2


「……おじゃまします。」「どうぞどうぞ〜。大したものありませんが〜。」退勤後、私服に着替えた酢谷を引っ張ってやって来たのは、六畳一間の古臭いアパートだった。

「適当に座っといてよ。なに飲みたい? 牛乳はないけど。」歌うように自分の城へと足を踏み入れながら、小野はツードア仕様の冷蔵庫を漁り始めた。「あ、狭いけど俺の後ろ通って、早くリビング入っちゃってよ。」

 狭いアパートの一室では、玄関のすぐ左手に洗濯機がある。その隣に洗面台、その隣に狭い調理台とシンク、その隣に冷蔵庫。所狭しと雑踏が並んだアパートは、酢谷からすれば、初めて目にする小さな居城なのだろう。それはさておき邪魔だ。小野は今一度玄関から動かない酢谷に声をかけた。

「あ、チューハイあるけど。俺甘いの苦手なんだよね、飲む? 」ふりふりと、片手で二本器用に掴んだ缶をゆるく振ると、小野は背中で冷蔵庫のドアを閉じ、布団がくるまったベッドのある『リビング』へ足を踏み入れる。

「み、未成年だろ!? 」そうやってわかりやすく餌をやれば、酢谷はようやく家に入ってくる。焦りながらもしっかりと脱いだ靴を揃え、自身を守るように両手でリュックの紐を握る姿は、産まれたての小鹿よりも情けなかった。


「た、煙草も! おまえ、だめだからな、そういうの! 」「え〜、なんで? 」小野はベッドに腰掛け、既にアルコールを入れたかのような微睡んだ目で、酢谷に訊ねた。

「未成年は、飲酒喫煙が法律で禁止されていて……! 」「え! 俺未成年に見える? ありがとぉ! ……って、そんなわけねぇじゃん。」浅いテーブルの上に缶を一本だけ置き、小野は器用に片手で缶のプルタブを起こす。「言葉のあやよ、俺が未成年なわけないじゃん? 」

 あ、自分が開けて今飲んだのは、ビールの振りをした発泡酒だったか。小野は喉にアルコールを流し込んでから、気付きに眉を動かした。「……嘘、ついたのかよ。」小野がちらりと目を動かすと、酢谷はなぜか傷付いたような、怒ったような顔をしていた。

「おまえ、いつもなんかテキトーだよな。」その顔を隠すように前髪をはらりと下ろし、項垂れると、その首の角度のまま、酢谷は粗野に座り込んだ。


「……いっつも考えすぎてるやつよりかは、よっぽど生きやすいけどねぇ? 」小野が煽るように、ちびりちびりとビールを飲むと、酢谷の顔が勢いよく上がった。

 その勢いのまま、酢谷の手が卓上の缶チューハイへと伸びる。次の瞬間、持っているビールが零れるのも気にせず、小野は酢谷の手首を掴んでいた。


「……み、」沈黙の気まずさか、小野の声は裏返っていた。「未成年はだめなんでしょ? 水道水でよければあるから、ガキは大人しく待ってな? 」だが、咳払いのひとつでもすれば、小野の口からはいつも通りの柔らかく甘い声がするすると流れ出る。


「……別に怒ってねぇよ。」小野が立ち上がり、狭い台所へコップを取りに行くと、酢谷はその背中を呼び止めた。「おまえがテキトーなことなんて、わかりきってることだし。」なんで、よりによって俺がお前にゆるされた気持ちになっているんだ? 小野は浮かんだ疑問を打ち消すように、勢いよく蛇口をひねった。

「店長から聴いたんだろ? 別に隠してたわけじゃねぇよ。ただ、ちょっとわかりやすく伝えるために恋人って言っただけで、別に稲垣は恋人じゃねぇし、ちょっと複雑っていうか……。」辿々しい酢谷の言葉を数秒遅れで追いかけていれば、蛇口の水が自分の手までを濡らしていたことに気付く。

 キュッ、と軋むような音を立て、蛇口はきつく締まる。「なに? どうした? 別に怒ってねぇよ? 」口当たりのいいホットミルクのような話し口調だった。小野はカップを持ち替え、濡れた手を雑に衣服で拭き、溢れた分の水をシンクに捨てる。

「ただ、遠くに行っちゃうんならさ、お別れ会とかしてぇじゃん? 」ほい、ともう自身は長らく使っていないマグカップを手渡し、小野は伸びをしながら再びベッドへと舞い戻った。そう言えば、昨日は三時間しか寝られていない。

 そりゃあ眠いはずだ、とあくびを噛み殺すこともせず、伸びした手を下ろして伸ばし、床に置いていた飲みかけの缶を掴み、ひと口呷った。「あぁ……でも未成年のお別れ会じゃあ、居酒屋はナシだもんなぁ……。まぁファミレスとかでいっか。女の子たち来るかな? 」

 また床に缶を置き、ぽちぽちと両手でスマートフォンを操作し始める。だが、なにを検索していいのかもわからず、惰性といつもの癖で、小野は愛用のパズルゲームアプリを開いていた。

 無音のゲームアプリの奥で、初めて耳にするため息が聞こえた気がした。その音に併せて、酢谷の重い腰がようやっと下ろされる。


「……なぁ、小野。」小野はこの空気が、なによりも嫌いだった。今から大切な話が始まりますよ、と言うような、窮屈で居心地の悪い空気。この空気を避けるためだけに、自分はこれまでカードを引き続けてきたのではないかと思うほど、小野はこれが嫌いだった。

「おまえって、トランプ上手いよな? 」スマホ画面で同じ色の球体を揃えていた指が、止まる。小野は眼球だけで酢谷を視認すると、何事もなかったかのように再び指を動かした。

「なんか、おまえと喋ってると、手札が全部見透かされている感じするんだよ。で、おまえはいつも『引いてほしい方』を引いてくれる。」だめだ、今日調子悪い。小野の指は右上の一時停止ボタンを押し、最初から、という箇所をタップした。

「おれはおまえの、そういう才能がすっげぇ羨ましかったよ。どうやったらそんなことができるんだろうって、ずっとずっと思ってた。おれにそんな才能があれば、かおを追い詰めることもなかったし、稲垣を不必要に傷付けることもなかった。」スタート、と、軽快でポップな画面が、音もなく空虚な明るさを演出しているようだった。

「だからさ、小野。」接続詞の使い方おかしいだろ、と思ったが、小野は言わなかった。学歴からして、こいつは俺よりずっと学があるのだ。そうじゃなくたって、思ったことを全部言うなんて馬鹿なことはしない。

 小野は静かに一時停止ボタンを押し、酢谷の言葉を待った。「今だけはトランプやめていいから、おれのひとりごと、聴いてくんねぇ? 」頷きはしなかった。ただ、重い瞼を伏せ、小さく唇を尖らせ、酢谷から発される音だけを静かに待った。

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