その男は今日もドーナツを作っている

その男は今日もドーナツを作っている 1

「今日から入った酢谷くん。お前教育係頼むわ。」

 小野という男が酢谷海里に初めて会ったのは、もう三年も前のことだった。だが今でも、当時の記憶が色褪せることはない。


「えっ、酢谷お前、社員になんの? 」バイトの休憩時間、小野は豪雪や大雨の時期でもない限り、休憩室ではなく、バックヤードで煙草を吸って時間を潰していた。それは酢谷が入ってくる前からの日課で、当然のように今でも続いている。

「……話してる間くらいは、煙草やめろって言ってんだろ。」酢谷は壁にもたれかかりながら、階段に座り込んで一服する小野を見下ろす。これもいつもの構図で、小野は生返事をしながら携帯灰皿を取り出し、まだ長い煙草をすり潰した。

「そんなに言うなら、こんなヤニカスの隣に来なきゃあいいのにさぁ? 」小野が子気味よい嫌味に喉を震わせながら笑うと、酢谷の眉間の皺が深くなる。小野はそんな酢谷を見るのが、楽しくて仕方なかった。

 小野は、十分すぎるほどにわかっている。人間が苦手な酢谷が、休憩室では休めないことも。毎度小言を言うくらいには煙草を嫌っているけども、それ以上に小野という人間に懐いていることも。

「……お前まじだるいよ? 」紙パックの牛乳に刺さったストローを吸いながら、ずずず、と背中を壁に擦り、酢谷は小野の隣に座った。酢谷はアルバイトとして入ってきてから三年間、ほぼ毎回こうしてパック牛乳を飲んでいる。惚れた女の隣に立ってふさわしく見られるよう、身長を伸ばしたいらしいが、残念なことにどうやら彼の成長期はとうに終わっているらしい。

 哀れな身長差を見下ろしたかったわけではないが、小野はわざわざ立ち上がり、酢谷の頭をわしゃわしゃと撫でた。「っ、やめろ! 身長縮む! 」たしかに小野の力は強かったが、ただ頭を撫でただけで身長が縮むはずもないのに。そんな馬鹿みたいに素直な感情を、恥ずかしげもなく言える酢谷は、いつまでも小野にとって眩しかった。


 「……お前、やっぱり接客業向いてねぇよ。」だからこそ、小野は言葉にした。「接客業ってのは、誰に何を言われようと『わぁ、随分うるさいハエだな〜』って流せるようなやつがやる仕事なの。お前みたいに、たとえ貰ったモンが褒め言葉でも、助詞のひとつにつまずいちゃうようなやつがやる仕事じゃねぇの。」

 小野は手癖で思わず、煙草の箱を開き、新しく一本取り出そうとする。が、酢谷の睨むような目に、ぴたりと動きが止まった。「……でも、おれなんかが今から新しい会社とか入ったら、迷惑かけるだろ。」

 煙草の箱をポケットに戻しながら、小野は吐息だけで煙を吐いた。こいつは大方、アルバイトの研修時を思い返しているのだろう。

 アルバイトの研修なんて、ある程度のシフト数入っていれば通常は三ヶ月程度で終わる。でも酢谷は、約一年かかった。教育係だった小野の教える速度が遅かったわけではない。小野だって、最初は三ヶ月で研修を終えられるような計画で教えていた。だが酢谷は文字通り、普通なら三ヶ月で覚えられることに、一年要したのだ。

 酢谷より後に入った女子高生の方が、先に研修生のバッジを外していたし、店長がとうとう匙を投げて怒らなくなった頃、酢谷のメモ帳は三冊目に突入していた。そんな酢谷を見捨てず、根気よく教え、サポートし続けたのが小野である。

 「新しく入った会社に、お前みたいな世話好きがいるとは限らないだろ。……てか、中々いねぇよ、お前みたいなやつ。」両手で膝を抱え、顎に手をつき、酢谷はわかりやすくふてくされてみせた。

 「幼なじみくんは? 」そうわかりやすくふてくされれば、つつきたくなるというのが人間というもので。酢谷の肩が、びくりと跳ねた。「例の、全肯定幼なじみくんは、それこそ俺以上に世話焼きだったんじゃねぇの? 」小野の言葉に合わせ、酢谷の顔がずぶずぶと腕の中に沈む。

 「……うるさい。」沈みきった腕の中から、風よりも小さい声が漏れ出る。ついこの前秋になったと思っていたが、ツンと鼻を刺激する冷気は、冬の香りを感じさせていた。

 「いやぁ、そろそろ連絡してみてもいいんじゃねぇの? なんか送ってみないと、ブロックされてるかどうかもわかんねぇじゃん。」幼なじみがいなくなった、と言いながら、魂が抜け切ったような顔で酢谷が出勤してきた日から、もう一年年近くになる。

 いつも以上にミスを連発したせいで、早めの休憩を押し付けられた酢谷の落ち込み具合は、とにかくひどかった。そして小野は、それを看過するほど非情でもなかった。面倒なことに自ら首を突っ込むほど暇でもないが。

 幼なじみがいなくなった、と、暗い表情で告白したのは、まるで昨日のことのように思える。当時の小野は、なにか事件性でもあるのかと前のめりになったものだが、実際はただの喧嘩でしかなくて、ぐったりと息を漏らしたのだ。

 かおがいなくなった、喧嘩みたいになっちゃったから謝りたかったけど連絡は怖くてできなくて、冬休み明けたら謝ろうと思ってたのに転校してた、家にいると思って隣の家に行ったら、かおのお父さんしかいなくて、引っ越しの作業してた。そんな取り留めのない話を、小野は煙草をふかしながら暇つぶしに聴いてやっていた。そういえば珍しく、あのときの酢谷は喫煙を諌めなかった。それほど余裕がなかったのだろう。

 まるで失恋したばかりの女の泣き言を聴いているみたいだ。今も二年前も、小野は同じことを思う。もちろん、今も昔もそれを口にするようなことはしないが。


 「……ブロックされてたら、どうしたらいいんだよ。」別にどうもしねぇだろ。小野は喉まで出かかった言葉を、ごくりと飲み込んだ。

 連絡を取って、返ってこなくて。それでも会いたかったら色々駆使して居場所を探せばいいし、諦めがつけば今いる日常の中で平穏に過ごせばいい。人間、誰しもそうやってままならないことに折り合いをつけて暮らす毎日のことを『日常』と呼んでいるのだ。ドラマを求めたければ、大事なものを捨ててでも行動しなければいけない。

 なんて、教訓めいたことをわざわざ言いはしないが。「そうなったら、そうなったときだろ? とりあえず連絡だけでもしてみねぇと、どうしようもねぇんだからさ。」まさに軽薄。惰性と要領の良さだけですり抜けてきた彼の人生を体現するかのように、小野はへらりと笑ってみせた。


 人が言われたくないことなんて、すぐにわかる。同時に、言われたい言葉だってわかりやすい。小野からすれば人間関係なんてものはイージーゲームでしかなく、それこそゲームの選択肢のように、言われたくないことを選ばず、言われたいことだけを選び続けてくればよかった。

 そうすれば、こうやって心に高い壁を築いているやつにだって懐かれる。腹の底で考えていることも知らず、簡単に懐いて本音を覗かせる酢谷のような人間を、小野は心底憐れに思っていた。

 「いいんだよ、もう。」酢谷の顔が上がる。小野が酢谷を憐れに思いながらも、いやに興味を引かれるのは、こういうところであった。「かおのことはいいんだよ。おれはちゃんと社会人になって、お金貯めて、外側だけでもちゃんとした人間になんの。」言いながら、また噛み付くようにストローを咥える姿は、過去に小野にすがりついてきたやつらとはどこか違っていた。

 「彼女ちゃんのため? 」小野はあえてからかうように言う。『訊かれたいこと』だったはずなのに、酢谷はがぶりとストローを噛み、小野を凝視した。「かっ、のじょじゃねえよ! 」「えぇ? でも何回も告白した上で、仲良くしてくれてるんでしょ? 高校で一目惚れしてからだから、もう三年経つじゃん? 」

 ねぇ、青春だねぇ。選ぶ気もない選択肢を前にうじうじしているより、想い人に顔を赤らめる方がよほど健全だ。そんな青さを目の当たりにしていると、どうも浮き足立ち、小野は路上の自動販売機の前へとゆらりと向かった。

「そんな簡単でもねぇんだよ。」「えぇ? 簡単だと思うけど? 」小野が制服の下の腰ポケットから小銭をじゃらじゃらと投入してボタンを押せば、青春の甘さ漂う炭酸水が二本、機械を揺らした。

 そう、簡単なのだ。小野からすれば、酢谷は難しく考えすぎている。「恋だろうがなんだろうが、仲良くしてくれるってことはそれだけその子の中にメリットがあるんでしょ? 都合よく受け取っちゃえばいいと思うけどなぁ。」ほい、と小野が缶ジュースを手渡すのと、酢谷の飲んでいた紙パックがガコッ、と空の音を上げるのは、ほぼ同時だった。


「……牛乳の後に、炭酸飲みたかねぇよ。」「まぁまぁ、背伸びばっかりしてねぇで、たまには青春の甘いところを楽しみなさいよ。」小野がそう言ってぐいぐいと押し付ければ、酢谷は断れない。そんな性質を知りながら、小野は酢谷の隣にどかりと座り、自分の缶ジュースのプルタブを起こす。

「『メリット』って。」肌寒くなってきたこの季節に、外で炭酸は合わねぇな、なんて思いながら喉を潤す小野の隣で、酢谷は言葉を零す。「そんなの、おれにはねぇだろ。」「まぁたそんなこと言う! 」勢いよく口を離すと、溢れた炭酸が小野の手元を汚した。

「人と関わるのなんて、アホみてぇにめんどくせぇのにその中でもハードモードのお前を選んでんだ。ある程度の好意か、その子がすげぇバカでもない限り、説明がつかないだろ。」小野はごしごしと雑にエプロンで手を拭うと、また缶ジュースを呷る。

「……そんなもんかな……。」そんなもんだよ。小野は喉仏だけで返事をした。



 酢谷と小野は、別に特別仲がいいわけではない。休憩時間が被れば話をする程度。それも、片方にその気がなければ話もしない。小野が眠気の限界で、休憩室で突っ伏していることもあったし、酢谷が教科書にかじりついていることもあった。

 そんなときにわざわざ話しかけることはしなかったし、バックヤードで鉢合わせても毎回世間話に興じるわけではなかった。バイト仲間の何人かにふたりの仲を訊いたとて、十人中十人が『ただのバイト同士』だと答えるだろう。

 別に間違っちゃいない。ただ、酢谷が社員になったらやっぱり『社員さん』として敬わなきゃいけないんだろうなぁ、面倒だなぁ。なんて、小野はぽりぽりと頭を掻きながら、退勤の打刻をした。

「……れ〜っす。」慣れきった猫背に身体を丸め、片手をポケットに突っ込み、もう片方の手でスマホをいじる。シフト作成のため、パソコンと睨み合っている店長を尻目に、小野は部屋を後にした。

 そうか、酢谷が社員になったら、シフト作成なんかもあいつがやることになるのか。じゃあ絶対朝勤には入れないように圧かけとかなきゃな、絶対入れるなって言ってるのに、店長月に数回は入れるんだよなぁ。

「あ、小野くん。」あくびを噛み殺しもせず、くぁ、と大口を開ける小野の後ろから、呼び止める声がする。「……ぬぁい? 」あくびをしていたせいで、変な返事になる。だが、店長よりも長くこの店舗で働いている小野の態度に、文句を言うやつは誰ひとりとしていない。現に、小野の規定よりもやや明るい髪色や、その髪の間からちらちらと見えるフープピアスを見ても、店長はなにも言いやしない。

「酢谷くんから、聞いた? 」「……あぁ、社員になるって? 」ポケットから手を取り出すこともなく、すごすごと戻ってきた部屋の中で店長を前に、軽く伸びをする。「そう。それで彼、年度末でいなくなっちゃうから、小野くんのシフトちょっと増やしてもいい? 」

「……は? 」ぐぐぐ、と伸びていた筋が、止まる。「え、あいつ社員になるんですよね? 」伸びをしていた手が、下手なパントマイムのように胸の前で硬直する。まるで小野の前に、見えないガラスの壁でもあるかのようだった。

「そうだよ。あ、その辺は話していないのか……。」今度は店長が、こめかみを掻く。「なんか恋人さんのお仕事に合わせて、関東の方で働きたいんだってさ。本当なら、アルバイトから社員になるとき最初一年くらいは、働いていた店舗で試用期間っていうのが通例なんだけどね。まぁ向こうも人が足りないし、許可下りたんだよ。」

 卓上に置かれたエナジードリンクをひと口飲み、店長は独り言のように話を続けた。「まぁ、代わりじゃないけど、本社もひとり社員さん寄越してくれるって言うし。その人が慣れるまで、一ヶ月……二ヶ月くらいかな? 小野くんに負担かかるかもしれないけど、時給もちょっと上げさせてもらうから。お願いできない? 」

 店長の、お願いとは名ばかりの決定事項なんて、小野にとってどうだってよかった。「……別にいいっすよ。」そう、どうだっていい。


「お疲れさまです……。」タイミング良くか悪くか、退勤らしい酢谷が部屋に入ってくる。また残業でもしたのか、同じ退勤時間だったはずなのに、酢谷はまだ制服を着ていた。

「あ、酢谷くん。小野くんに今話してたんだよ、転勤の件。よかったよね? 」店長はもう話を終えたらしく、パソコンに向き直りながら、酢谷を見もせずに軽くあしらう。「え、あ、はい。」退勤の打刻をしながら、酢谷の目は行き場もなく、愚かなくらいふらふらと泳いでいた。

 はい、と返事したくせに、まだ現状の把握ができていないようで、酢谷の口は意味をなさない喃語を繰り返していた。そのまま、男子更衣室に入ろうとする酢谷の肩を鷲掴んだのは、小野の手だった。

「なぁ酢谷ぁ、飲み行かね? 」お前、弁明したいんだろ? そんな本意を包み隠し、小野は笑って酢谷の目を覗き込んだ。だがこの愚鈍な男は、本音に気付くはずもない。「……おれ、未成年……。」「言葉のあやじゃん。ダイジョーブ、俺も未成年未成年。」

 明らかに困惑した顔の酢谷を置き去りに、小野は酢谷を更衣室に押し込んだ。あれ、そういえば俺って何歳だったっけ? 小野は突っ込んだ手の先にある煙草の箱を指先でつつきながら、疑問をごまかすように小さく口笛を吹いた。

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