山田は妥協を許さない

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第1話 スタートダッシュは青春で彩りたい

 ばか騒ぎをしすぎた。

 山よりも高く海よりも深い理由があって頭痛とのどの痛みに苛まれているため、今すぐふかふかのベッドで眠りたいけれど、あいにくと今日は高校生活初日。すぐ隣の窓から差し込む日光のせいで目が痛くても、クラスに馴染まなければいけない時間なのだ。

 だが、大半のクラスメイトの関心は俺とは対極に位置する、教室の右前の席に座っている生徒に注がれている。

「やはり、あの方は高校生にも人気がありますね」

「予想通りだな。伊達にダンジョン配信者の第一線なだけはある」

 この世界にダンジョンの存在が確認されてから百年近くが経つ。新たな階層の誕生や定期的に更新される宝箱など、未だにダンジョンに関する謎は尽きない。不思議の象徴であるダンジョンに潜って日銭を稼ぐことも珍しくなくなった今日、探索する様子を動画にする配信者は世界のトレンドとなっている。

そんな世の中で、何の因果か大手配信者事務所の売れっ子とクラスメイトになってしまったのだ。

「ところで、今日も午後から宴会ですか?」

「既にクラスのマドンナとなりつつある同級生の話題を差し置いて、宴会の話を持ち込むか。実にお前らしい」

「私たちが高校に入学したことを祝う宴会はありますか?」

「昨日しこたま騒いだから、今日はお休みだ。期待で目を輝かせているところ悪いが、皆が皆そんなにタフじゃないの」

「分かりました。それでは、次回のお知らせに期待しています」

 俺の席の一つ後ろには、常に学生証を首から下げていなければ高校生とは分からない小さな生徒が座っている。亜麻色の髪にぱっちりとした青い瞳、そして特徴的な身長という可愛らしい見た目とは裏腹に、教室に着いてからひたすら次の宴会を心待ちにしている。

 確かに倫理的にも俺の体調的にも今は全く歓迎できないけれど、彼女の言う通り宴会は楽しいものだ。

「数週間後に長い連休があるから、その最終日でどうだ?」

「待てません」

「気持ちよく提案を切り捨てたな。そんなに宴会をしたいなら、他の奴を誘えばいいだろ?」

「同僚を始め何人かには声をかけましたが、ことごとく断られました」

 恐らく高校生らしからぬ会話をしていると、スーツを着て四角い眼鏡をかけたベテラン感あふれる教師が教室に現れた。見た目を裏切ることなく、出欠の確認から入学式の説明までつつがなく進行した。

「担任はあの方ではなく、この後の入学式で発表されるようですね。こうした経験はあまりないので、かなりワクワクしますね」

「その感情は大切にしてほしいが、入学式は大して面白いものじゃないぞ。三年間を通して、直接関わることはまずないであろう人の話から始まって、しばしば起立・礼・着席を繰り返す儀式のようなものだ」

 補足するならば、礼をするためだけに毎度立ち上がっては即座に座るという、パイプ椅子の耐久テストみたいなものだ。通販番組のモデルになってもおかしくない。

「入学式までまだ時間がありそうだし、自己紹介でもしない?」

 これから待ち受ける入学式に暗鬱たる気持ちになっている俺とは対照的な、明るく朗らかな声が対角線上から聞こえてきた。

「このクラスの中心が決まりましたね」

「予想はしていたさ。自主性に加えて、今みたく周りの生徒をその気にさせるカリスマ性まである。流石、トップに上り詰めた配信者様だ」

「では、彼女の自己紹介を参考にすればいいでしょうか? 私はこうした経験もあまりないので」

「見ていれば分かる。自己紹介には参考にすべき相手とそうでない相手がいるから、よく見極めて最適解を出せ」

 数多くの配信者がいるなかで、トップクラスに位置する存在だ。そんな彼女がどれほどのクオリティの自己紹介をするかなど、想像するまでもない。

「私、天野遥はクラスメイトの皆とどんなことにも全力で挑むことが目標です! 一年間、最高のクラスを目指して頑張っていきましょう!」

「あの領域に到達すれば今みたく拍手の嵐を生むことも容易いが、参考にできそうか?」

「誤算が二つあります。一つ、私の知っている自己紹介とは大きく異なっていました。二つ、画面を通さずに見るとより鮮明にオーラが伝わってきます」

「つまり?」

「二番目以降の方の自己紹介を参考します」

 大人気配信者のカリスマ性にそろって感嘆している間にも自己紹介は順調に進み、最後から二番目である俺の番となった。

 決して気心が知れてはいない相手からの視線を一身に集めているこの感じ、何度経験しても落ち着かない。

しかし、今日の俺は一味違う。伊達に頭痛に加えて目も喉も痛めているだけあって、緊張なんてしている余裕がない。ゆえに、やけに売れっ子配信者に見られていようとも、さして脈が速くなったりはしない。

「山田翔太です。食べることが趣味なので、お勧めの店があったらぜひ教えてください。一年間よろしくおねがいします」

 簡潔ではあるが、丁寧な物腰や趣味を示しておけばまず問題はないだろう。実際、大多数が受け取っているのと同じくらいの拍手は獲得できた。

 問題があるとすれば、そのサイズゆえに既に注目を集めている俺の友人の方だろう。彼女の知る自己紹介とこっちのありふれた自己紹介の差を上手く埋めてくれればいいが。

「私はフェルト=アイゼルと申します」

 そうそう、何よりもまずはっきりと名前を言うことが肝心だ。さっきも熱心にクラスメイトの自己紹介を見ていたし、ギャップについては杞憂だったかな。

「趣味はおさ」

「ゲッホ、ゲッホ!」

 全く杞憂で済んでいなかった。すっかり油断していたが、自己紹介の定番である趣味の話は、こと彼女に限ってはここでは絶対にタブーだ。

 どうやらフェルトもそのことに気付いた、というより思い出したようだ。喉が痛いなか無理して咳き込んだ甲斐はあったようだ。

「趣味はおさかなを見ることです。よろしくお願いします」

 不自然な間こそ空いたが、特に不審がる生徒はいないようだ。

 イレギュラーな事態は発生しかけたものの、どうにか無事に全員が自己紹介を終えた。その直後、タイミングを見計らったかのように体育館に向かうよう声掛けがあり、俺たちは廊下に並んで入学式の会場へと向かった。

「先ほどは助けていただきありがとうございました」

「いいってことよ。むしろ、アドリブでおさかなと言えたことの方がすごいと思うぞ」

 たいていの場合、魚の前におをつけると好印象を与えやすくなる。特に、フェルトみたいな外見でそれを言うと、その可愛さで濁った池におさかなが戻るくらいの威力を有することになる。

 改めて可愛さは正義であるという等式の正しさを確認しているうちに、多くの大人が拍手してカメラを構えている間を歩いていた。教師に合わせて礼をして、それからしばらく澄み渡った青空を窓越しに眺めていると、拍手が鳴りやみ一切の足音も聞こえなくなった。

 ついに、どれだけ時計を見ずにいられるかを競う我慢大会もとい入学式が始まるようだ。入学式が退屈することは言及するまでもないが、とりわけ不満に感じるのは椅子が用意されていないことだ。俺の予定では椅子に座って周りを見回し、より多くの同級生たちの様子を確認するつもりだった。だが、ふたを開けてみれば二本の足だけで立つことを強要されている。

 全くけしからん。この場で足腰を鍛えさせてどうしようというのだ。入学式でダンジョン探索に向けた鍛錬でも積ませるつもりなのだろうか。

結論から言おう。俺の考えは完璧なまでに的を射ていた。

 胃のざわめきに気を取られたその刹那、新入生が立っている床が一斉に抜け落ちた。束の間の暗闇を抜けて次に目に入ってきた光景は、今や動画配信における強力なコンテンツと化した存在であった。

「いつの間にフラグを建てていた?」

 旭第一高等学校。ダンジョンの発見以来最初に設立された高校であり、三年間を通してダンジョンに挑むだけの力を徹底的に養えるとはパンフレットを通して知っていた。

 しかし、ここまで本気だとは想像していなかった。

 高校生活初日、晴れ舞台である入学式にて、新入生総勢百八十名はダンジョンに突き落とされた。


 旭第一高校は、ダンジョンに挑む人物を育成するうえで首一つ抜けた教育機関である。この学校から輩出された多くの人物が、ダンジョン史に残るような大きな功績を残している。

 こう紹介されると、学校内には厳しい実力の序列があるように思えるが、実際には実力にちなんで生じる制度上の差はない。どのクラスにも優秀である生徒と平凡である生徒の両方が在籍していることに加え、クラスや学年の枠を越えて催される行事も少なくない。ライバル意識よりもむしろ仲間意識が芽生えやすい環境なのだ。

 しかし、旭第一高校には通常の学校と大きく異なる点が一つある。この学校は、ダンジョンに関する成績の全てを公表するのだ。それは、ただ全校生徒のランキングを公表するだけではない。どこで減点されどこで加点をされたのか、そうした要素が教師だけでなく生徒の誰もが知り得る環境が作られているのだ。

「にしても趣味が悪い。なにも、保護者が見ている前でダンジョンに突き落とすことはないだろ」

 それは配慮が足りないというような問題ではない。恐らく、たった今ダンジョンに降り立った生徒たちの様子は、体育館で上映でもされているのだろう。失態を犯せば、自身の保護者を始め体育館にいるすべての保護者にも知られてしまう。

「その点、自分の保護者が来ていないだけ俺はマシと言えるが……」

 周囲に敵がいないことや、生徒はダンジョンにランダムに配置されたことを確認し終えたところで気付いた。

 気持ち悪い。

 一時間前の時点で充分体調が悪かった俺が、いきなり床下のダンジョンへと落とされたのだ。俺の胃が何を訴えようとしているのか、そんなことは容易に想像がついてしまう。

 まずい、逆バンジーのごとく胃からこみ上げてくる感覚がする。自分の保護者がいないとはいえ、昨夜の夕飯兼今朝の朝食でお目汚しさせるわけにもいくまい。

「でてこ~い、でてこ~い」

 やむなく怪談さながらのテンションで声を出していると、少ししてお目当てのものが出現した。

「お前ならきっと来てくれるって信じていたぞ」

 俺の目の前まで来てくれたのは、風鈴よりも爽やかな見た目と、ビンテージ感のある剣と自然のぬくもりを感じる木の盾を装備したスケルトンだ。

 敵が現れたら素早く戦闘態勢に移行する。そんな赤ん坊でも知っているようなセオリーを反抗期らしく無視して、俺はあろうことかモンスターを前にして立ちながら大の字の姿勢をとった。

 もちろん、こんな真似を実際のダンジョンですれば瞬時に三途の川を見ることになる。だが、俺は断言できる。

俺たちが降り立ったこの場所は、決してダンジョンなどではない。

 ゆえに、

「あいたー!」

「致命傷を確認。これよりダンジョンから排出します」

 たとえ斬られようとも傷の一つだって付かないのだ。

 かといって体調が回復するわけでもないため、俺がやるべきことに何ら変わりはない。周囲の目線など無視して、素早くされど胃を揺さぶり過ぎない程度にトイレへ向かう、ただそれだけだ。

 まさか、高校生活の最初にトイレを使う用途が逆流とは思ってもいなかったが、経験値のおかげで一度に全てを出し切れたため今や清々しい気分である。

窓から吹き込む風に身体を撫でられる感覚を覚えつつ呑気に体育館へと戻ると、入学式とは到底思えないような熱気が立ち込めていた。

 生徒たちの間を縫って体育館前のスクリーンを見ると、熱気の正体がはっきりとした。

「ほとんどの生徒が脱落した中、今もなお疲れも見せずに戦いを続ける僅かな生徒たち、か。なるほど、そりゃ盛り上がっているわけだ」

しかも、残っている生徒の一人は若者たちから絶大な支持を集める有名人とくれば、ここがライブ会場になったと表現できるレベルだ。

 そんな多くの注目を集めている生徒たちの中に、よく知っている顔を発見した。

「あいつ、俺の数倍は飲み食いしただろうに……」

 小剣を片手に、艶やかな亜麻色の髪をなびかせてダンジョンを駆け抜ける生徒こそ、おさかな好きのフェルトである。

 もちろん、一番の注目を集めているのは同じクラスの大人気配信者ではあるが、その体格における最適な戦闘をして残っているフェルトにもやがて関心が寄せられだした。

「それでは、三十分が経過したところで最後まで残ったお三方に登場してもらいましょう」

 表示されていたカウントダウンの数値がゼロとなり中継が途切れると同時、そのアナウンスに合わせてステージ上に登場した三人の生徒にスポットライトが当てられた。

 次の展開は予想通りで、早くに脱落してしまった生徒たちもその三人の生徒と並び立てるように、という趣旨の話を聞くこととなった。予想外だったのはさらにその後で、きっと偉いのであろう人が数分間話すと、ただちに閉式の言葉となった。

 結局のところ、旭第一高校の入学式は仮想ダンジョンに生徒たちを放り込むだけの行事に過ぎなかったのだ。

「おつかれさん。三十分間、体を動かしてどうだった?」

「正直なところ、物足りませんでしたね。現実ではないことは瞬時に気付きましたが、もう少し楽しみが欲しかったというのが本音です」

「確かにそう思うのも無理はないが、他校と比べたらかなり恵まれている部類に入るぞ」

 体育館から教室に着くまでに交わした他愛もない会話は、到着するや否や中断せざるを得ない状況に追い込まれた。

「どうかしましたか、皆さん?」

 ダンジョンの敵と邂逅すると即座に死んだふりの格好で脱落した俺とは対照的に、俺の隣を歩く生徒は最後まで戦い抜いた。加えて、深夜のコンビニの駐車場ですら見かけないような目つきの悪い今の俺とは比較するまでもなく、フェルトは可憐である。無論、体調が万全であれば、俺の可憐さだって少しは上昇するはずだ。

 ともかく、実績と外見という二つの条件が揃えば、フェルトに待ち受けるシチュエーションにも容易に想像がつくというもの。

「やったねフェルト、お友達には困らなそうだ」

「睡魔と闘いながらもお褒めいただき恐縮です」

 フェルトの人気にあやかれば、入学前からの友達という実績を利用してクラスメイトとコミュニケーションをとることも簡単だ。しかし、俺はそのやり方を歓迎しない。あくまでも、ここはフェルトのターンである。それに、人間関係を学ぶ機会を取り上げるのはナンセンスに他ならない。

「じゃ、重要な連絡がされそうなタイミングで起こしてくれ」

「かしこまりました」

 フェルト人気に甘んじず、俺は俺の意志を貫き通す。ゆえに、おだやかな陽光の差す自身の席へと一直線に向かうのだ。

 

「翔太様、下校の時間です。起きてください」

「この上なく重要な情報をサンキュー。それじゃあ帰るか」

「はい、帰りましょう」

 時計を見ると、教室に戻ってからは小一時間しか経過していなかった。そういえば、このクラスの担任が誰であるかは分からずじまいになってしまったが、それは来週のお楽しみにしておこう。

「ところで、他の生徒に一緒に帰ろうとでも誘われたんじゃないか? 起こしてさえくれれば、クラスメイトと一緒に帰ってもよかったんだぞ」

「確かに誘われました。ただ、私が一緒に帰りたいのは翔太様ですので、丁重にお断りしました」

「ラブコメの主人公にでもなった気分だ。本音を言うと、最初は連れてくるのが不安だったが、フェルトを選んで良かったと心から思えた」

「今の台詞こそ、完璧に主人公のそれだと思いますけど」

 ゲームであれば、うっかり誰ルートを選択するか決定づけてしまえるカウンターだ。

 可愛いに何か訴えたげな眼差しが加わると破壊力が増大するという今日一番の収穫に胸を躍らせつつ、俺とフェリオは帰途についた。


「ただいま~、我が愛しのダンジョン」

 この発言を万が一にも他人に聞かれたら、病院に連絡されてもおかしくない。だが、実際には救急車を呼ばれる筋合いはない。傍から見れば乱雑に扱った配線コードより複雑な事情のために、我が家というかフェルトというかその他大勢の家はダンジョンである。

 ダンジョンに対する一般的な印象は、モンスターやトラップなど危険な要素があるとともに、鉱石や魔石、宝箱といった魅力的な要素を兼ね備えた場所。その一方で、発見されてから百年近くが経過しているダンジョンであっても、未だに新たなルートや階層が発見される謎の塊とも形容されるだろう。

 しかし、ダンジョン地下深くの住人たちは全く異なる視点を持っている。それっぽい外見の中に魔石を入れて遠隔操作するラジコンもどきがモンスターであり、飲み会における罰ゲームの一種から派生するのがトラップである。なおかつ、処分に困った道具や品物の用途こそが鉱石であり宝箱の収納物である。さらに、新発見とされる道や階層の大半は現場作業員が手を滑らせた結果か、一部のノリと勢いで誕生したものだ。

 蓋を開けてみればなんてことないダンジョンに辿り着き、睡魔とバトンタッチした空腹に耐えながら地下深くに降ると、ただちにランチタイムとなった。

「そうそう、昨日は胃に負担がかかるメニューだったから、今日はハンバーグやベーコンを盛大に挟んだハンバーガーに、山盛りのポテトを添えてって、どうしてこうなる!」

 家に着いたらすぐに作りたてが用意されている状況には感謝すべきだろうが、こうも胃を限界突破させるような構成にされると文句の一つも言いたくなる。

「別に、高校生活初日で気を揉んだかもしれないあんたのためじゃないんだからね!」

「ツインテールも相まって今日もツンデレが絶好調なのは喜ばしいことだが、できれば俺の胃にデレを恵んでもらえないか?」

「なによ、せっかくあんたのためにチーズインハンバーグにしてあげたのに、食べられないって言うつもり!」

「ロティ様、ありがたくいただきます!」

 しれっと俺のためであったことを白状してくれたツンデレっ娘の料理を目の前にして無下にできようか、いや、できるはずがない。

 幸いにも、今ならもう逆流の心配など一切必要がない。ゆえに、味わう準備は既に整っている。

 目玉焼きと共に口に入ることを計算されたベーコンのしょっぱさ加減、巧みな焼き加減によって誕生したハンバーグのふわふわとした食感。そして肉汁と共に口いっぱいに広がる香ばしいチーズの風味。

「今日も最強の一品をありがとよ!」

「おかわりください」

「わ、分かればいいのよ。それと、二人ともコーラ以外でほしい飲み物があったら言いなさいよ。大体はもう冷やしてあるから」

 辞書でホスピタリティと調べたら図示されているだろう振る舞いに感激するほかない。来週からは高校でお昼ご飯を作ってもらいたい。いっそのこと食堂で、いや、流石に彼女にも仕事があるしそれは無理か。それに、たかがお弁当くらい毎日でも作ってあげるわよと昨日言っていた。それはつまり、

「とても幸せそうですね」

「フェルト、俺たちは勝ったのだ。これだけのスキルが詰め込まれるであろうお弁当を、週に五回も獲得できることが確定した。これだけの贅沢を享受し得たものを俺はいまだかつて見たことがないぞ」

「何を騒いでいるかと思えば……」

「ありがとう、俺を高校生活の勝ち組にしてくれて!」

「変なことばっか言わず、よく噛んで食べなさいよね!」

 彼女が投げたジンジャーエールの瓶は、見惚れてしまうほど見事に俺のおでこの真ん中にクリーンヒットした。

 流石ホスピタリティの化身、きちんと冷やされている。

「お邪魔しますぜ」

 おでこの痛みがどこかへ吹き飛んだころ、魔王軍の現役幹部でも不思議はない体格と威圧感、それに加えて角を生やしているグリーン君が入室した。

「ちょっとばかし、時間を貸してもらえませんかね?」

「今いい感じに眠くなってきたんだけど?」

「それ、本気で言ってますかい?」

「どうにか欠伸を嚙み殺しているくらいには本気」

「それじゃあ、出直してきます」

「冗談冗談! すぐに行くからそんなに丸まった背中をしないでおくれ」

 部屋に入ってきたときの迫力はどこへやら。夕方のアニメを見逃した子供のようにシュンとされてしまっては、期待に応える以外の選択肢は俺にはない。

「ちなみに、どれくらい重要な用件だ?」

「例の七名が勢ぞろいしている状況です」

「すぐ行く!」

 食後すぐのダッシュが持つ危険性は重々理解しているが、それでも走らなければいけないときこそが、まさに今なのだ。

 その結果、もう既に鈍い痛みを脇腹に感じることになるとしても悔いはない。

「ごめん、ちょっと無理かも」

「あれだけ格好をつけていたときとのギャップ!」

 何とか目的の部屋に辿り着いたはいいが、その時点で脂汗による滝行修行となってしまった。

 しかし、この展開を見越していたのであろうホスピタリティの化身のケアによって、タイムラプスがごとくみるみるうちに回復していった。

 かつては極めて少数であったダンジョンの地下都市で暮らす住民たちの数が増加していく状況を鑑みて、やがて快適な環境下で共に生きていくための仕組み作りが必要になると考えられた。その結果、食品・衛生・開発・情報・軍事・経済・交通の部門をつかさどる七つの機関が設立された。

 どの部門も例外なく日頃から業務に追われているため、機関のトップ全員が揃うことは極めて珍しい。だが、今この部屋にはそのリーダーが勢ぞろいしている。

「今日はこれから、昨日というか今日というかの宴会の反省会でもするのかな?」

「よし分かった、冗談を言った俺が悪かった。だから、全く眠れずに働いていたとしても、怨念が宿ったような目で見ないでくれ」

「それでは、本日の議題を発表します」

「え~と、何々。特別階層雲の庭園の損壊ね。多大なる信頼とお金の両方と密接に絡んでいるから、完璧な整備が求められるんだけど……え、マジで?」

 合図とともに部屋の前方に現れた文字を繋げて読むと、呪詛よりも数段恐ろしい文章を作り上げることに成功してしまった。

 どうやら俺以外の幹部七名は既に把握していたらしく、僅かに首を縦に振っていた。

「珍しく重苦しい雰囲気が場を支配しているなかで聞くのも野暮だとは思うが、どれくらいの損壊だ? 半日あればグレートアップまで可能なレベル?」

「この会議で指示を仰がないと、まるで出だしをできない状態です」

「あそー。それで、俺の記憶違いじゃなければ、今から約四十八時間後には雲の庭園が完璧な状態になっている必要があると思うんだけど。昨日の大宴会で記憶が混濁しているだけかな?」

「昨日の時点で、日曜に向けた準備は完璧だから大船に乗ったつもりでいろ、という風に先方にはおっしゃっていました。ついでに、一切の死角も見当たらないとも」

 昨日に戻って、ありとあらゆる携帯とスマホをたたき割ってやりたい。それか、音どころか振動すらも封じ込めて、一切の電子機器に指紋さえもつけないようにしたい。

 しかし、どれだけ過去の自分を恨もうと、現実を生きている正体が過去ではなく現在の自分である以上、泣き言を言うだけ言ってふて寝するわけにはいかない。

「とりあえず、転移陣を通って現状の詳細な把握からだな」

「今日の事故によって、転移陣は完全に使用できなくなりました」

「じ、じゃあ箒で飛んでいけば大丈夫だな?」

「我々やダンジョンについて下手に怪しまれないためにも、認識阻害の結界を庭園の辺り一帯に張り巡らす必要があります。ですが、例の宴会で人員不足に陥っているため、未だに半分程度しか結界を展開できていません」

「泣き言だけこの部屋に残してふて寝していい?」

 今日は高校生活の記念すべき一日目。ちょっぴり予想外なことも起きたけど、新たな日常に期待で胸がいっぱいになった。

 俺が思い描いた日記の構成は、そんな風に青い春の到来を予感させるはずなのに、これじゃあ黒い春、ブラックスプリングだよ。フライデーだからといって、ブラックが季節とまで仲良くなっちゃった。

「詳細な調査はまだ行える状況ではありませんが、その場に居合わせたものの証言から被害はある程度まで予測できています。これをご覧ください」

「この図面で赤く塗られているところが、オールオッケーの領域だな?」

「そういった幻想を抱く気持ちも分からなくはないですが、図面の七割を埋める赤いスペースが修復を必要とされている箇所です」

「これじゃあ、雲の庭園というよりむしろ血の庭園じゃの」

 TPOを弁えろと言いたいところだが、ここにいる大半を頷かせたことを鑑みて言及するのはよそう。事実、俺の首も縦に振れていた。

 それよりも、目を覆いたくなるほどの損壊が本当にあったとすると、雲の庭園製作当時の資料やら何やらが必要そうだ。だが、俺の記憶がこれまた確かならば、事態は悪化の一途を辿っているように思えてしまう。

「あのさ、この雲の庭園は数年前に大型プロジェクトを完遂した際の打ち上げのノリに端を発した気がするのは俺だけだよな? もしノリで造ったなら、修復の手がかりは全く……」

 ないことを意味する、そんな言葉を続けることはなかった。否、できなかった。

 お説教されている子供のように僅かに顔を前に向けてみると、出席者は一様に手を挙げていた。

「これだけのイベントをやり切ったのなら、空にだってダンジョンを展開できるなどという自信がいつの間にやら充満していたのじゃ。確か、天空の城だの何だのの資料もかき集めたと思うのう。全て焼き肉の際に油を防ぐための下敷きとなったが」

「あいにく、その場には冷静な判断を下せるテンションの奴がいなかったからね。そうとなればって感じで、全員で飛んで土台から好きなように作り始めたっけ。だいぶ昔に作られた、空中移動用のバギーを博物館から引っ張り出した記憶がある。あの日を境に、本当に飾る以外の使い道がなくなったけど」

 できれば不鮮明な記憶として留めておきたかった。だが、空間魔法を得意とするのを真夜中に無理やり引っ張って庭園の基盤と位置の固定を要求した思い出すらも、申し訳なさと一緒に蘇ってきた。

「最低限の土台ができてからは、納得いくまで各自が勝手気ままに装飾を施していたな。作業しながらでも食べられるものをという要求に応えるべく、シャッターを叩いて食材を買い漁るはめになった」

「そのサンドイッチの具材を巡って、譲れない戦いだとか言っていた奴らが争っていたものだ。結局のところ、一番強いと確定した私がカツサンドを頂いたが」

「カツサンドを巡る仁義なき戦いを記念してカツサンドの像を建てようとしたら、その場にいる全員から大反対されたこと、まだ納得はできていないぞ。サンドイッチのために争っていた奴らでさえ同じように建設ストップを訴えるとは、嘆かわしいことよ」

 確かに自分だけ自由を制限されて落ち込む気持ちも理解はできるが、何せ実力が一級品なだけに、彼女が手掛ければ食品サンプルを軽く凌駕する像ができるだろうさ。だからこそ、庭園とカツサンドという組み合わせを考慮して踏みとどまってほしかったのだ。

「確かにカツサンドは叶いませんでしたが、皆さんの個性を寄せ集めたものが雲の庭園を実現させたことはとても素晴らしいと思います。まあ、サンドイッチ以外にも揚げ物やスナック菓子が持ち込まれて無造作に頂かれたことで、少々清潔感が欠けている経過も見受けられましたけど」

「そういったものも含めて、総額が一体いくらになったのかという計算が未だに行えていません。可能であれば、これからもその計算だけは遠慮したいものです」

「なるほどなるほど。七人の意見を聞いて分かったことは、ばか騒ぎの延長線上で造ったから、雲の庭園製作時の細かいデータは残っていない可能性が極めて高い、ということだな」

「「はあー」」

 合唱コンクールで金賞を獲得できるほどのはもりが、この部屋の重力を一層重くした。窓から見える星空すらも、俺たちの愚かさを強調するように輝いているように見えてしまう。

「率直に言って、非常に気が進まない。だって俺たちのミッションは、自分たちが残した負の遺産と表裏一体のものを、詳細なデータもなしに残り一日で完璧に修復しなければいけないわけだ」

 現状への絶望を語るのは簡単だ。だが、ここで皆を発破をかけることに成功してこそ、現当主の威厳を保てるというもの。

「けれど、やる以外の選択肢はないのが現実。ということで、せいぜい足掻いて最重要ミッションを共に達成しようではないか!」

「おー!」

 せめて気合の入るようにと意図した台詞だったが、少しばかり現実を捉えすぎていたようで、実際にこぶしを突き上げ元気よく返事をしたのは、カツサンドただ一人だった。

 被害予測を参考に緻密な計画を立つと、自然と各々の役割も確定した。七人がそれぞれ得意分野で腕を振るっているなか、俺はというと全力で自転車を漕いでいる。事情を僅かに知っている立場から見れば、結局現実逃避にはしったと思ってしまうだろうが、冷酷な目つきと共に釘を刺されたのでその予想が的中する未来は存在しない。

 話し合いの末、俺にしかできない役割があると判明し、それこそが人目もはばからずに一所懸命に自転車を翼に見立てて駆け抜けることである。

「まったく、主体的にこんな仕事を引き受けるなんて器が大きいのも考え物だな」

 たとえ高校生活の一ページ目を青春の二文字で彩れる奴がいるとしても、初日から気になるあの子と二人乗りなんて展開はフィクションに過ぎないのだ。したがって、俺の言葉を拾ってくれるあの子など存在せず、ただ風と共に流れるのは必然であるため心に僅かであっても傷を負ってはいけない。

「いらっしゃいませー」

「すみません、綿はどこにありますか?」

 ほら、一見したところ孤独であっても、お店に着けば毎回きちんと会話ができるじゃないか。やったね、これで早くも三人目の店員さんとコミュニケーションをとれた。

「綿はこちらの棚ですね。また何かあればお声がけください」

「ありがとうございます」

 雲の庭園の雲は、綿製造マシンという非常に使いどころが限られる、されど一度綿を投入すれば止めるまでひたすら複製を作ってくれる機械があった。これによって綿の大量生産が可能となり、雲の庭園にフル活用されていた。

だが、今回の一件でそれが高確率で破損していることを考慮して綿製造マシンのプロトタイプを引っ張り出したが、プロトタイプには明確な問題点が存在する。それは、オリジナルからの複製は一度きり、かつマシンによる複製からさらなる複製を作ることが不可能である点だ。

それゆえに、様々な店の店員さんと二言三言交わすことだけを楽しみに、俺は自転車の籠いっぱいに真っ白な綿を詰めてオレンジの空の下を走り回っている。

「現時点で綿はどれくらい集まりましたか?」

「開口一番綿について尋ねる綿オタクに朗報、早くも三店舗目までクリア」

「それは朗報ですね。ちなみに、何故一つの店で済まさずに異なる店を訪れているのですか?」

「綿をここからここまで全部、なんて言える度胸を俺は持っていないんだよ。それに、どうせ一つの店の綿を買い占めたところで、必要量を確保できないことは分かっている。それなら、せっかくの機会に店舗ごとの綿のバラエティーも見ておこうと考えたのさ」

「……私たちの代わりに買い集めてくださることには感謝しています。ですが、くれぐれも本来の目的を見失わないように。ではそろそろ切ります。そうそう、くれぐれもレシートを忘れないように」

 後半部分が照れ隠しと無理やりにでも考えれば、自転車を漕ぐ足にも自然と力が入る。

 そもそも、どれくらいの綿が必要なのかという身の毛もよだつ計算は置いといて、張り切って次の店に行ってみようか!

「……か、帰ったど~」

「お疲れ様です。では早速次の仕事を」

「合点承知、ってなるか! 出発したときに見えた青空が、夕焼けを通り越して闇に覆われるまで頑張ってきたからには、いくらかの休憩を求める権利がある」

 その場に座り込んで抗議するも、知らされるのは残酷な事実だけである。

「分かりました。ちなみに、私も含めあの会議から誰一人、泣き言をいう者はいてもまともに休憩時間を確保したものはいませんが、休憩をとるということでよろしいですね?」

「さて、綿をマシンに投入して、次の任務を引き受けようかな」

 出たよ出たよ。たとえ性格が壊滅的でも体力だけは持て余しているから、働きづめでもメンタルを除いて問題が起こらないという、このダンジョンの住民の習性が。これだから、世界を越えても労働に従事できる奴は困る。

 だが、大半が自身への飴と他者への鞭を明確に使い分けるため、このタイミングでティータイムと洒落こめば容赦なくティーカップを割られてしまう。ちなみにソースは俺、もちろん割る側である。

「現状労働力が大きく不足している仕事は二つあります。一つは転移目的や庭園のギミックとしての魔法陣の構築、もう一つは複製された綿を指示通りに敷き詰める作業です」

 転移陣はともかく、ギミックの数は相当なものだった気がする。如何せん、テンションが上がり理性を失った結果、時間差で幾つもの花から虹がかかるギミックをワクワクしながら作った思い出がある。

「では、次のお仕事は綿の敷詰めでよろしいですね?」

「ま、まだ俺は答えちゃいないぞ。反抗期の俺には、苦手とする魔法に関する仕事という選択肢が残っている」

「大事そうに抱きかかえているものは何ですか?」

「……帰ってすぐに、カツサンドから渡されたユニフォーム」

 そして、ボタンで留めるタイプのユニフォームの背中には大きく一文字、綿と書かれている。しかも、息抜きとして色塗りを楽しむための配慮なのか、前面にはまだ色のないエナジードリンクたちが描かれている。

「無邪気な笑顔で渡されたんだ。断れないだろ!」

「あちらへ」

 淡白な四文字とともに指し示された方向で、サンタも仰天するほど綿で袋をパンパンにしてから俺は雲の庭園へと向かった。

「歓迎するぞ、主様! ここが我らの主戦場。今はまだむき出しの土台を、皆の力で綿まみれにしようじゃないか!」

 雲の庭園を再現する。そんなファンシーな響きとは対極的に、視界に入るのは一点だけを見つめて綿を敷き詰める作業員たちだった。

「この作業を経験しておきながら、何故お前だけはそんなに元気なんだよ」

「それは答えるまでもないこと。自分たちの手で何かを作り上げることにこそ、夢と希望それからロマンが詰まっている! したがって、興奮こそすれど今の主様のごとく死んだ魚の目になどなるはずもない」

 能力が高い奴に限って一言じゃ言い尽くせない個性を持っていることを、目の前で身体ときつね色の髪を目いっぱい大きく動かして語るカツサンドを見て実感させられる。

 それでも、彼女は本気なのだ。本気だからこそ、カツサンドの瞳は満月にも負けじと輝いている。

「む? 何を笑っておられる? やはり解せぬか?」

「共感しかできない、そう言ったら嘘にはなる。だが、今みたく悲惨な状況に身を置いても、カツサンドみたいなやつが一人でもいれば多少なりともやる気が出るってものだ」

 目の前には大きな困難が立ちふさがっている。それを打ち破ろうとした者のほとんどが、既にその意志を喪失している。

 しかし、それでもなお希望を胸に突き進むことを決めた奴がいる。ならば、このダンジョンの主である俺がすべきことはただ一つ。

「両手に綿を持つだけ持って、信念を無くした者たちよ! 正確な被害規模は未だ不鮮明な現状において、残り時間は二十四時間とちょっとだ。たとえ泣き言を言おうとも口に綿を突っ込まれるだけ。それならせいぜい、最後の最後まで本気でこのピンチを楽しもうじゃないか!」

 強引にでも絶望に対抗できるだけの希望を植え付ける、これがリーダーとしての務めだろう。

 新たに苦難を共にする存在を知ってか、想像以上の盛り上がりに後押しされて皆が作業を再開する。

「流石であるな、我が主は。どう発破をかけるべきか悩んでいたが、主が全てを吹き飛ばしてくれた」

「単なるお返しだ。カツサンドのおかげで、俺もユニフォームに袖を通す覚悟が決まったからな」

「それでもだ。本当に大したものである」

 呼びかけに対する勇ましい叫び声が庭園を覆った後、茶色の土台は迅速に白へと塗り替わっていった。そして、多くが血眼になって剝き出しになった土台を探し始めたころ、カツサンドの声が庭園中に響き渡った。

「雲の庭園綿部門リーダーの名の下に、地面への綿の敷詰めが完了したことを宣言する!」

 遠くで小躍りしているカツサンドの報告には大いに湧きあがった、というのは彼女の想像に過ぎなかった。

 雲の庭園はその名の通り、あらゆるものが雲をモチーフにしている。当然ながら、そこには花やベンチ、木といった装飾も含まれている。したがって、地面への敷詰め作業完了と全てのタスクを達成という二つの事柄は、決してイコールで結ぶことができない。

 と、するとだ。その事情をよく理解している者たちが挙げるのは間違っても歓喜の声などではない。むしろ、こんな感じだ。

「分かったから、一刻も早く飯をくれ、飯を……」

 現在、腕時計の短針は今日二回目の十一を指そうかというところ。最後に飯を食べたのは十三時前。それから、敷き詰め以外でも本気で自転車を漕いだり、ここに昇るために魔法も使った結果、俺に残ったものは達成感ではなく飢餓だった。

「ふ、こんなエンディングも悪くないか」

「やっとAパートが終わるタイミングでしょうが!」

 丁寧なツッコミが飛んできた方を見やると、バスケットを携えて綿を散らさんばかりの速度で向かってくるホスピタリティの化身がいた。

 大勢の注目を集める中で彼女がバスケットの中身を公開すると、途端に庭園は歓喜に包まれた。

「おいおい、最高かよ。数もさることながら、一度噛めば中身が溢れかねないこのボリュームのサンドイッチをこのタイミングで持ってくるか!」

「たかがサンドイッチで大げさね。これくらい、すぐに次から次へと運ばれてくるわよ」

「我が欲した歓声がようやく聞こえたと思ったら、こういうことか。やはり、サンドイッチには抗えぬ運命……」

 忽然と姿を現したのはカツサンド。その瞬間、可視化できるほどの緊張感がバスケットの周囲を支配した。

俺は知っている。カツサンドは建築と同じくらいカツサンドを愛している。周囲の連中もまた知っている。彼女のある種狂気的ともいえるカツサンドへの愛と、目の前のバスケットに入ったカツサンドの数には限りがあることを。そして、誰もが知っている。カツサンドは至高の一品であることを。

「さあ、早い者勝ちといこうじゃないか」

 二つのカツサンドが相まみえてから数秒、バスケットの辺り一帯は戦場と化した。ある者は隙間を縫ってつかみ取り、ある者は困難であると悟るや否や栄光を手にしたものへと突撃を仕掛けた。

 確かに体力は失われていたはずなのに、今や誰もが生命の輝きをその身をもって表している。

「あえてサンドイッチを差し入れたのは、これが理由か……。単純ではあるが、中々見どころのある方法だな」

「一部が欠けているカツサンドを持って格好つけているけど、他の味も含めてどんどん後続が来るわよ。全く、もう少し落ち着きってものを持ちなさいよ。……まあ、悪い気はしないけどね」

 鈍い音が混じり合ったなかで勝ち取って、クールに振る舞いながらも耳を赤くして立ち去るロティを見ながら食べるカツサンドは、涙腺崩壊を引き起こしかねないほどの幸せを与えてくれた。もう他に何も望むまい。

「カツが美味いのは当然だが、このタマゴのふわふわ加減も最高だな!」

 グッバイ無欲な俺、おかえり正直な俺。口コミに流されて結構じゃないか。

 再び戦地に突撃し幸せの定義を時間をかけて充分に理解した後、何故だか剥き出しになった地面へ再度綿の敷詰めをこなしていると、満面の笑みを浮かべるカツサンドから次の指示が飛んできた。

「諸君らの熱心な協力のおかげで、敷き詰める作業に関してはほとんど決着したも同然である。だがしかし、まだ我らには我らにしかできないことがある。敷き詰めを終えた今、我らは歓迎すべき装飾パートへと移行する!」

 その後、細かな部分への情熱がいかに大切であるかカツサンドを例に出して長々と語られてから、既に設置された骨組みに綿で肉付けをするミッションが共有された。

 サンドイッチのおかげですっかり士気が回復したため、特にストライキの機運も生み出さずに作業は着々と進行した。

 しかし、明らかな睡眠不足という問題と並行して、深刻な問題が生じていることを俺たちは悟り始めた。

「お~い、カツサンド。ちょっと聞きたいことがある」

「何でも聞いてくれ!」

「一時間ほど皆で集中して作業したにも関わらず、常に肉付けのない骨組みが視界に入ってくる。確かに凝った作りにした記憶はあるが、ここまでの数の装飾品が存在していたか?」

 俺だけでなく多くの者がこの果てが見えない作業に対し、精神的な疲労すらも感じ始めていた。そこで、唯一といっても過言ではない例外に該当するカツサンドに率直な疑問をぶつけたところ、彼女は腰に手を当てて言ってのけた。

「もちろんオリジナルを尊重しつつ、明日のイベントに備えて大規模な装飾に変更しているぞ」

「それじゃあ、この数の骨組みは」

「無論、まだまだ拡大させるぞ!」

 善悪の区別が付かない子どもを相手に、その行為がいかに悪辣であるかを納得させることは難しいうえに労力を要する。今までの経験からそのことを弁えているからこそ、俺個人としてカツサンドにどうこう言うつもりはない。

 その代わり、俺は集団に訴えかけるのだ。

「際限なく骨組みばかりを増やし続ける暴君に反逆の意思を持つ者たちよ、今こそ立ち上がる時だ!」

「「うぉーー!」」

 まるで土台すらも穿つような叫び声と共にカツサンドの前で集団が形成されると、まもなく拡大反対の大合唱が始まった。

 最初の内は装飾が持つロマンについて語っていたカツサンドではあったが、やがて肉付けの負担を考慮しないことへの非難と、多くのカツサンドを食い尽くされたことへの憎悪によって構成された集団の圧に気圧され、最終的には装飾作成の一時停止を受け入れた。

 ストライキが成功に終わると、達成感とアドレナリンに満たされた多くの作業員たちによって、肉付けのスピードは格段に加速した

「そして、星が燦然と輝くうちに装飾パートは完結を迎えた、というのは些か出来すぎか」

 確かに作業効率は目を見張るほどに向上した。

 だが、俺たちはすっかり油断していたのだ。食事、敷き詰めや装飾、ストライキはどれも全て、徹夜と表現される状況下で行われた。その結果、綿すら持つことができず膝を折る者が続出した。

そう、彼らは襲われたのだ。狡猾にして残忍なる存在、睡魔に。

 しかし、誰もこの状況を予測できなかったというわけではないらしい。

「なるほど、置き土産はこのためと見て間違いないな」

 全てのサンドイッチが到着した後、二・三時間後に開けるよう指示されていた山積みになった段ボール。頭に立ち込めるモヤを何とか振り払って一番上の段ボールを開封すると、食糧班の先見の明に自然と笑みがこぼれてしまう。

「本当に、このホスピタリティには恐怖すら覚える」

 段ボールの中には、手っ取り早く睡魔を撃退する魔法の飲み物、エナジードリンクが色鮮やかに並んでいた。

 そのうちの一本を取って睡魔を完膚なきまでに打ち負かすと、ただ一人元気に動き回っているカツサンドに声をかける。

「どうしても装飾の規模を拡大したいなら、これを配る手伝いをしてくれ」

「心得た。完璧に成し遂げてみせよう!」

 俺に事情を説明する暇も与えず、段ボールを両手に持ってスーパーボールのごとく庭園中を駆け巡った。

 そんなカツサンドが通った所では、次々と蘇りが果たされて骨組みはすっかり綿に取り込まれていった。ただ、それだけで終わるほど、かすかな回復をしたわけではなかった。

 二の矢、三の矢と放たれるエナジードリンクも相まって、怒涛の勢いで生み出される骨組み。そして、その勢いに負けじと肉付けが行われたことで、装飾の規模は明らかに拡大したものの、空が青色に染まるのを待たずして装飾パートの終了がカツサンドの口から告げられた。

「午前中いっぱいかかる予想があったことを踏まえると、まさに快進撃と形容すべきだな」

「元々みなぎっていたエネルギーがエナジードリンクでさらに増大した結果、一切の悔いを残さず装飾を完成させることができた。尽力してくれた皆と同様に、ここらで我も休憩するとしよう」

 互いに互いの件と健闘を称えあった後、雲の庭園はすっかり静寂に包まれた。だが、その静寂は決して絶望などではなく誇りに満ちていた。

 もし、誰か一人でもエナドリに溺れることなく冷静な思考を保っていれば、これからの展開は大きく異なっていただろう。しかし、何に頼ることもなく生き残れるほど雲の庭園は甘くなかった。それゆえ、誰一人として考えすらしなかった。

 支配を受けていた国にとって、最終的な目標は独立ではない。なぜなら、独立の後には経済的自立という至上命題が存在するからである。

 それは雲の庭園にも同じようなものだ。もちろん、綿の敷き詰めと装飾はどちらも庭園のアイデンティティを確立するうえで欠かせない。だが、その延長線上には庭園再建のために不可避とされる課題が明確に存在している。不運にも、それを想起するのはすっかり日が高く昇ったときだった。


「いい加減、可愛い寝顔は止めなさいよ!」

 喉が本能的にえづいたことで上半身が半ば無意識に起き上がり、涙でぼやけた視界にはキムチのごとく顔を真っ赤にしたホスピタリティの化身が映った。

 どうにか熱くなった喉を冷ましてから辺りを見回すと、俺と同じように涙目で声にならない叫びをあげている連中に気が付いた。覚醒、涙目、喉という三つの要素が揃ったことで、現状に対する仮説が立った。

「もしかして、あれ、使った?」

「もしかしなくても、ここで寝ていたほぼ全員に使ったわよ。言っておくけど、いくつか別の方法も試した結果として、これに辿り着いたんだからね」

 そう言った彼女が俺の眼の前にかざしたのは、お寝坊さんにはこれで一発と書かれたラベルの貼られた、形容しがたい色の液体が入った瓶である。雲の庭園にこだまする断末魔が示すように、たったの数滴でも喉に到達してしまえばジ・エンド。体内に取り入れることを身体が全力で拒否するため、たとえ一週間徹夜した後のノンレム睡眠ですら容易に打ち破ってしまう。

「それの使用が認められたってことは、よほどの緊急事態が生じているのだろう。だが、重要なミッションを気合と根性で完遂した俺たちからすると、ぜひとも距離を取らせていただきたい」

「他の連中もそうだけど、本当に忘れているの? 苦しみながらも覚醒した連中を除いて、周りを見て何か感想は?」

 辺り一帯は極めて見通しが良く、どこもかしこも大地には綿、精巧に作り上げた装飾にも当然ながら綿しか見当たらない。

「俺たちの仕事の全てが詰まっている。ここまで見晴らしが良いと、任務を達成したことへの誇りが湧いてくる」

 頷きながら率直な感想を述べる俺とは対照的に、ロティは深く長い溜息をついた。

「ええ、確かに見晴らしの良さについては完全に同意よ。だけど、地面からこれだけの見晴らしが以前の庭園にあり得た?」

「言われてみればその通りだ。何せ、どこにいようが庭園の中心にそびえる大樹が……たいじゅが視界に入ったからな……」

 カツサンドが、カツサンドに対する過剰な愛の結晶として庭園の真ん中に建てようとしたカツサンドの像。それを説得して代わりに建てられたのが、北極星のように庭園のどこにいても見つけられる綿の大樹。しかし、涙が収まってもなお、俺の視界にはそれが入ってこない。

「あれ、ちょっと寒くない? いくら俺が寒さに強いといっても、冷房を導入されたら困っちゃうなー」

「並の冷房で寒気を感じるほど、寒さに弱くはないでしょ。ところで、もうすぐ少し遅めのお昼の時間だけど、格式高いフルコースとお手軽おむすび、どっちにする?」

「片手で食べられるおむすびをお願いします」

 一度地下に戻る彼女にお寝坊さんにはこれで一発、通称おねこれ使用の感謝を伝えると、既に大勢が集う庭園の中心へと全速力で駆けだした。

「えー、雲の庭園一帯への認識を阻害する結界が構築されたことは確認済みだ。てことで、とにかくでかい木を再現する!」

 若干目を赤くしつつ簡単な報告をするや否や、カツサンドは図面も書かずに骨組みの設置を開始し、その他の面々は綿を持つと必死の形相で喰いついた。

 宴会翌日のエナジードリンク大量摂取により、消化器に異常をきたす者の数が徐々に増加する様は視界に入る。されど、誰も気に掛ける余裕など持つはずもなく、ひたすらに高さを増していく骨組みにのみ拘泥した。その様子を見た装飾への魔法ギミック担当曰く、かつて体験した魔王城における激戦が可愛く思えた、らしい。

 毎分毎秒のように脱落者は生まれたが、ある種の狂気に支えられて大樹の幹を終えると、すぐさま枝作りへと移行した。

枝作りの工程でもなお、枯葉のように続々と綿の大地へと落ちていき、空が深い闇に覆われたころには作業可能な人員は両手で充分に数えられる規模となっていた。

 さらに、イベントに備えた大樹のグレードアップまで完了し、朝焼けの下で庭園全体の綿の最終チェックをする頃には、身体を動かしているのは俺とカツサンドだけであった。空腹や身体の節々の痛みは、一定の基準を超えてからまるで気にならなくなった。

「北・東エリアはチェック完了。じんじんと痛む目を除いて草花や池なども問題なし」

「南・西エリアもチェック完了だ。偏ったエネルギー摂取以外に丹精込めた橋やベンチも異常はなかったぞ」

「お二人とも、お疲れさまでした。既に他部門からは作業完了の報告が届いているので、これにて修復作業は完了です」

 通話で報告を終えると、俺とカツサンドはへなへなと大樹の幹を背に座り込んだ。

 ただ軽くグータッチだけすると、特に言葉を交わすこともなく寝息のほかには何も音を立てることはしなかった。


「おい、おい! さっさと起きんか、このねぼすけが!」

 何やら危険な香りを感じ取って、どうにか重たい瞼を押し上げようとしていると、音量調整を誤った怒声が耳から流れ込んできた。

「もう、起きてる。ちょっと、タンマ」

「二時間前から連絡しても、一切電話に出なかった貴様にタンマを求める権利があると思うな!」

「ん? 元気いっぱいだと思ったら、社長か? どったの、こんな朝早くに?」

 どうにか目を開けると、目の前にはモデルのようにスーツを着こなしたよく見知った顔があった。さらに観察を続けていると、顔に当たりかねない距離までスマホを突き出してきた。

「イベント当日、日曜日、午前十時から、最終打ち合わせ……」

 目に飛び込んできた文章を読み、それから頭をフル回転させて意味の理解に努めること数秒、ようやく何が起きているかを把握することに成功した。

「もしかして」

「もしかしなくても、今日はイベント当日の日曜日午前十時十分だ! 貴様が地下にいないというから案内をしてもらえば、気持ちよさげに眠りやがって!」

 爆発寸前のビジネスパートナ―を落ち着かせるべく幾重にも謝罪を重ねた後、ひとまず洗顔だけは済ましてから、素早く庭園の案内をすることに決めた。

「早速、北から順番に案内しよう」

「服装といい寝ぐせといい、貴様への文句は尽きそうにないが、ひとまずは案内を受けよう。万が一にも手抜きなどしてみろ。地獄の住民ですら震えあがる目に遭わしてやる」

 たった数分で剥き出しの敵意が姿を消すことはなかったが、流石プロとでも言うべきか。たとえ青筋を浮かべていても、言葉通り庭園の解説には耳を傾けて演出やトラブルの可能性については具体的な説明も求めてくる。

 出だしこそ大荒れではあったが、案内を終えたときにはある程度は元の良好な関係に近づくことができた、はずだ。きっとそうに違いない。

「今のところ特に問題はないだろう。だが、想定外のことは常に起こりうる。その時には、完璧なカバーを頼むぞ」

「もちろん。そっちのエースを輝かせるため、精一杯裏方に徹する」

「小一時間前の記憶を無くせば、随分と心強いな。無論、私もフォローには回ろう。必ずや我々のエース、天野遥のライブイベントを成功させようじゃないか」

 デビューして僅かに一年と少しでありながら、極めて高い人気を誇るダンジョン配信者である天野遥。そんな彼女が所属する大手配信者事務所の社長こそが、ビジネスパートナ兼すぐ隣で不敵な笑みを浮かべている冴島風音である。


 ダンジョン内の生活に限ってしまえば、決して金銭が必要ではなくむしろ魔力がより重要である。だが、全員が全員ダンジョン内で生活を完結させるわけではないため、地上との繋がりや金銭獲得の手段は不可欠である。そこで数年前に注目したコンテンツこそが、ダンジョン配信である。

 ダンジョンの住民というわけではないが、同じように配信に注目していた社長とはその際に知り合った。

「入場開始が十三時だからあと約二時間か。聞くところによると、チケットは即完売だったらしいな」

「当然の結果だ。何せダンジョンでライブをするなど、ほとんど前例のないことだ。限られたキャパ故に現地料金の設定は高いが、それをネックと感じさせる要素は企画にも遥にも存在しない」

「相変わらず大した自信の持ち主だ。まだ動画配信者が限られた存在だったときですら、やがてダンジョンがビッグコンテンツになると確信していただけはある」

「それを言うなら、肩書も実績も何も持たずに単身手ぶらで事務所に乗り込んできた馬鹿は自信家を飛び越えて夢想家と形容するのが相応しい」

 何とも懐かしい思い出話をしてくれる。常識人から見れば、確かにあの頃の俺たちは笑い話のネタほどの存在だったのだろう。しかし、そんな馬鹿二人は、今や世界の注目を集めるイベントを企画するまでになった。これだから、社会通念は壊し甲斐があるってものだ。

「ところで、肝心のエースはいつ頃来る予定だ?」

「月に一度出現する雲の庭園への転移陣は正午に現れる、という設定がある以上、恐らく一時間後になるだろう。心配せずとも、移動中の車内で準備は万全にしてくる。私としては、遥が来るまでに今回の技術スタッフと最後の打ち合わせをしておきたい」

「了解。正午前から庭園にいれば疑念を持たれることだし、ひとまず地下に移動しよう」

 久しぶりに地下へ戻ると、やはりイベントに向けて盛り上がりを見せていた。その中でも、ぐっすり眠ってすっかり体力を回復したカツサンドは一際興奮しているように見える。

「屋台の設営は順調か?」

「安心してくれ、皆張り切って作業を進めている。それにしても、屋台設営、やはり良い響きだ。これまでのイベントもグッズ販売はあった一方で、今回はダンジョンの前に地上の有志を装って屋台で品物を販売するシステムの新鮮さ、そして設営に腕を振るえるとくれば喜びもひとしおだ!」

「おう、楽しめよ」

 流れるようなネタバレと、留まることを知らない脱線に付き合えるほどの時間はないため足早で技術スタッフの元へと向かう。時々、屋台で売り出す品物をぜひ見てくれと勧誘にあったため、目的地に着くころには本気で祭りをエンジョイした格好となってしまった。

「流石に人気だな。出店する全ての屋台の関係者に声を掛けられたんじゃないか?」

「笑いながら高そうなカメラに収めるな。俺のことはいいから、ここに集まっている今日の技術スタッフたちと打ち合わせをしてこい」

「お前は別の仕事か?」

「ああ、大事な大事なゲン担ぎという大役を果たしてくる」

 開場三十分前に合流する約束をすると、足早に一軒の食堂へと向かう。彼女のことだ、恐らく連絡せずともタイミングは合わせてくれるだろう。

「邪魔するよ」

「うな重特上お待ち!」

 予想通りでも感動せざるを得ないのが、ロティの繰り出すホスピタリティのクオリティである。

手渡された屋台の食べ物の数々は全て移動の最中に食べたが、うなぎは別腹だ。肉厚でふっくらとしたうなぎ、それに艶を加えるタレ、それらの風味を最大限高める白米。食べずとも伝わってくる、眼前に鎮座する料理の旨味。作りたてであることに感謝をしつつ一口食べてしまえば、目から涙がこぼれたことは言うまでもないだろう。

「ゲン担ぎ一つで大げさね。まあ、そこまで喜んでくれるなら、いつでもどこでも作ってあげるけど……って、聞けー!」

 おいおい、最高かよ。視覚・味覚・嗅覚でうな重を、聴覚でツンデレを堪能できるとか、今回のイベントが大成功する展開しか予想できない。今日の俺はどの占いでも一位に輝いているに違いない。

 最後の一粒まで大事に味わい尽くし、ストレスが嫉妬するほどの幸せな時間を過ごし終えた。

「そういえば、私は屋台とライブ後の準備もあるけど、あんたはライブ中どうするの?」

「それはこいつに聞いてくれ」

「ペンライト、ってことは予想通り参戦するのね」

「常に楽しもうとする果てのない欲望を持ってこそ、祭りは全力で楽しむことができる。故に俺は!」

「そのユニフォームから今回のライブシャツに着替えて叫んでくるのね」

 その通り。トレンドを把握するべく、俺も日頃から様々なダンジョン配信を視聴している。ただし、俺は純粋にファンとしても動画を視聴している。したがって、注目している配信者のイベントには常に参戦し全力で応援することは、もはや生活の一部といっても過言ではない。

「あれだけ過酷な仕事をやり遂げたばかりなのに、どこからそんな活力が湧いてくるのよ? ほんと、ライブにばかり熱心なんだから」

「そう嫉妬しないでくれ。心配せずとも、休憩時間には屋台特製のお弁当を買いに行くから、困ったことがあれば何でも言ってくれ」

「適当なこと口走るんじゃないわよ! 別にこれっぽっちも嫉妬はしてないし、トラブルの一つや二つあんたの手を借りずとも解決するっての! だから、頑張った自分へのご褒美として、せいぜい楽しんできなさいよね」

 最後の最後まで提供された最上のおもてなしを味わってから、問題なく打ち合わせを終えたであろう社長との合流場所に向かう。いよいよ開場が目前に迫っているためか、皆が各々の持ち場についたことで道中は何ら勧誘を受けることもなかった。

「エース様はご到着したか?」

「もう既に雲の庭園でリハーサルを開始している。先ほど顔を出してきたが、庭園を再現したヴァーチャルで練習を積ませたおかげで、万事順調そうな出来だ」

それはファンとしてもうれしい報告だ。現地組もちらほらと来ているし、本番までのカウントダウンは着実に進んでいる。この高揚感があるからこそ、祭りやイベントの企画は止められない。

「ところで、バタバタする前に確認するがライブ後の打ち上げには参加するんだよな?」

「お前な、明日からも職務に励まねばならない私を相手に、そういう誘いをするんじゃない」

「そんなこと言ったら、俺だって明日は学校だし、他の連中にだって当然仕事が待ち受けている。だからこそ、より大勢で打ち上げしてより大勢が明日の心配をしない方が幸せだろ?」

 同じように楽しんで同じようにお気楽になる。これこそ、打ち上げが可能とする芸当だ。

 確かに、軽蔑の意を込めた目で俺を見る社長の態度は、俺たちにはなく常識人にはあるものかもしれない。しかし、俺がこと打ち上げにうるさいことを身をもって理解している以上、社長の最終的な結論を正確に予測することは極めて容易である。

「分かった分かった、顔を出すだけ出してやる。それでいいな?」

「一名様追加! 一通り撤収が完了した段階で連絡入れるから、そのタイミングでいつもの広場に向かってくれ」

 これまでの経験から、宣言通りに顔を出すだけ出して即帰宅という展開が起こり得ないのは明らかだが、今はその決意を尊重して黙っておこう。

「さて、俺もそろそろ準備を整えて外の待機列に並ぶとするかな」

「万が一の際には遠慮なく呼び出すから、常に連絡を取れるようにはしておけよ」

「もちろんよ、たとえ如何なるトラブルが起ころうと、ライブに集中するために速攻で滅ぼしてくれる。それじゃ、お互いに楽しんでいこうぜ」

 配信の様子を確認すべくスタッフルームに戻る社長と別れると、ライブ参戦に必要と思われる道具で装備を固める。

「貴重品からペンライトの予備用電池まで全てよし! 早くもトレンド入りしているし、今回もよろしく頼むぜエース様」

 完全装備の状態で祭壇に手を合わせた後、裏口から地上まで上って屋台が立ち並ぶエリアまで足取り軽く向かう。カラフルな屋台たちが見えてきたころには開場時刻まで三十分を切っていたため、どこか落ち着きを欠いたファンでごった返していた。

「すいませーん、ライブ限定のシャツとタオルを一枚ずつください」

「はいよ! お兄ちゃんには不要だろうけど、一応包装のビニールは付けとくぜ」

 お代無料とシールが貼られたビニールをしまって瞬時に衣装を身に纏ったことで、俺の衣装は完全装備デラックスへと進化した。

 後であの店主には、メニューから一押しの組み合わせまで網羅した屋台飯リストを渡しておこう。

 その後も、リストと引き換えに缶バッジやアクリルスタンド、ポスターの獲得に励んでいると、入場開始のアナウンスが耳に入った。座席は全席指定のため、のんびりと列の最後尾に並び、それから誰も背後に立たせることなく二十分ほどでダンジョンに入場した。

 すっかり修復された転移陣を通って庭園に到着すると、まだ当人は登場していないにもかかわらず会場は熱気に包まれている。

そして、午後一時五十分。突如として流れ始めた音楽と共に、人気・実力ともに折り紙付きの配信者、天野遥がステージ上に登場した。思い思いに気持ちを叫ぶ俺たちに挨拶と感謝を告げると、早速一曲目が始まった。どこまでも全力で挑んでいる彼女のステージには、現地組だけでなく恐らく配信組も感情のジェットコースターに晒されるだけの力があった。最初の曲では普段のダンジョン配信者ではなくアイドルとしての顔を覗かせた頃の初々しさが、二・三曲目では急速にレベルアップしていくクオリティに驚いたことを想起させる。一方で、四から六曲目はダンジョン探索中のトラブルやそれに伴う休養期間前後の曲であり、とても儚く幻想的に気分になった。しかし、その後のトークタイムであの経験があったからこそ、今こうして自分も周りのみんなも輝けているという気持ちを笑顔で伝えられたからには、もう涙腺崩壊を防ぐ術など存在するはずもなかった。その後、先月リリースされたばかりの新曲に関するお話と初の生披露に対して全力で声出ししてから、三十分の休憩がアナウンスによって伝えられた。

「ちょっと、目が真っ赤じゃない!」

「大丈夫、これは当然のことだ。それより、三食弁当一つ」

 小声で心配する彼女から可愛らしい木の器に入ったお弁当を購入すると、その他の屋台飯と共にお腹を満たす。

「やばい、最高すぎる……」

 食事を終えて自分の周囲の環境を構成する全てのものに感謝をして呆けていると、あっという間に第二部の開演が迫っていることを知らせるアナウンスが響いた。

 第一部同様、第二部もトークとパフォーマンスで幕を開けたが、特に場を盛り上げたものこそ抽選会であった。過去の限定グッズ等が中心となって熱狂を生み出す中、大トリに登場したのは色紙。しかし、それはただの色紙ではなかった。抽選で該当した座席番号に座っている人の名前をその場で書いてもらえるという、誰もが喉から手が出るほどの欲望に駆られる代物である。

 名前入り、この重大な事実が発表されて、飛行機にも負けず劣らずの音量を伴う歓声がライブ会場を支配した。されど、そんな興奮の表れはどこへやら。いざ抽選となると、苦しくなるほどの沈黙が会場を支配した。

「まずは列番号の発表から! 抽選の結果チョイスされた番号は、十六番です!」

異様な状況下で行われた列番号の抽選は、歓声と悲鳴の両方を一瞬にして生み出してみせた。いや、もっと具体的に説明しよう。十六番二十四という俺が座る列は大いに沸き、俺が座らない、十六番以外の列からは痛切な叫びが聞こえた。

「それでは、十六番の列に座るどなたに私はサイン色紙を送ることができるのか、この抽選で決めちゃいます!」

 十六列に座るファン以外の希望は途絶えたはずだが、改めて会場を支配したのは張り詰めた静寂であり、そこに絶望が持ち込まれることはなかった。

「出ました! 公正なる抽選の結果、色紙を獲得する権利を手に入れた方の座席は、十六列の……」

 彼女はためをつくり、一度座席全体を見渡す。

「二十……」

 俺が拳を握った間に、周りからは小さい悲鳴が漏れた。

「二十三番です!」

 抽選会における唯一無二の勝者がついに決定したことで、静寂とざわめきの勢力図は大きく塗り替わった。

 左からは照れ笑いが、右からは健闘を称えあう拍手が聞こえる。視界には何も入らなかった。それでも、今年度の幕開けに相応しい苛烈な争いの決着を告げる音だけは、確かに聞こえたのだ。

「当選した方は、退場の際に座席番号が記載されたチケットを持って受付に向かってくださいね!」

 未だ周囲の興奮は冷めやらぬなか、お知らせとして今後の配信予定やイベント情報、グッズ情報などが告げられた。そして、このライブの実現に協力してくれた全ての人への感謝と、これからも輝きを届けるという目標、さらには今年の冬に控える事務所の五周年イベントへの意気込みを彼女は明るく朗らかに語り、今日一番の歓声と拍手に会場全体が包まれて天野遥のライブは幕を閉じた。


「我が主よ。主は精一杯できる限りのことを行ったと思うぞ。だから、そう下ばかり向かず、胸を張って前を向こうじゃないか」

「……カツサンド、お前ってやつは。心に沁みる言葉を投げかけてくれるじゃねーか!」

 既に俺以外の参加者が退場を終えた会場で、俺は仲間の暖かさを改めて感じた。

「さあ、前を向いて立ち上がり、会場を片付ける役割を果たし切ろう」

「いやだーー!」

 黙ってただ傍にいてくれる仲間に思いを馳せながら、半ば命令される形で特設会場の撤収に駆け回った。バイバイ数秒間の感動、ただいま数時間の労働。

「こいつがラストの紙吹雪!」

 有り余ったエネルギーを原動力に動き回った結果、予定よりも早く会場エリアの片づけを達成した。体を動かしたことでさっぱりしたし、それに何よりこの後は

「どうやら他部門もほとんどの作業は終えたらしいぞ」

「よっしゃ、俺は社長に連絡しておく。カツサンドは先行して、広場の準備の手伝いをしてくれ」

「任された! 皆が集まるころには、いつでも乾杯できる支度を整えておこう」

 家に帰るまでが遠足であるのと同様に、打ち上げで大いに盛り上がるまでが祭りってものだ。さあさあ、第三部の開演まで間もなくだ。

「……お前から連絡があった時点で察していたが、すっかり切り替えたようだな」

「もちろん割り切れたわけじゃないが、楽しいに対して負の感情を掛け合わせるのは不毛だろ? だからこそ、テーブルに並ぶ数々の料理に目を奪われている俺は、自分が置かれた状況に完璧に順応しているといえる」

 和洋中揃い踏みというのは、見ているだけ幸せになれる最強の布陣かもしれない。だが、目の前に広がる光景に興奮するがあまり、理性を失ってしまうようではいけない。常に料理と他者への配慮を心がけたうえで、臨機応変に的確な組み合わせを作り上げることに注力すべきである。

「すぐにでも料理に向かおうと足が落ち着きを失っていることには触れないでおくが、お前はこの場にいて大丈夫なのか? ほとんどが飲み物を手にしている今、いつお得意の乾杯の音頭を取ることになっても不思議はない」

「それなら安心してくれ。この打ち上げで音頭を取るのは、俺じゃなくて社長だから」

「は?」

「確かに皆の前に立って話すのは好きだけど、三日前にも音頭を取った俺が再び登場なんて展開はセンスに欠ける。であるならば、他に適切な人材をピックアップする必要が生じる。分かるだろ?」

「報告が突然すぎるだろ! 昼に絶好の機会があったというのに、それをこの場で言うのか!」

 ちょっとしたサプライズに対して大きく動揺しているようなので、左腕を前方に出して視野を広めてあげよう。

「でも、もう皆が挨拶を待っているぞ。せっかくだし、この機会に伝統の歓迎も受けとくべきだ」

 伝統の、そう口にした刹那、社長は荒々しくワイングラスをテーブルに置いた。

「貴様、最初から私に話すつもりなどなかったな」

「そんな意地悪するわけないだろ。俺はただ、社長にもここの伝統を一度でいいから体験してほしかった、それだけなんだ」

「そういうことなら、一足先に私の伝統を貴様にも紹介しよう」

 そう言うや否や般若のような形相になると、一切の慈悲を失ったチョップが俺の頭へと降り注いだ。

「……ごめんなさい」

「うむ、素直でよろしい」

 満足げにほほ笑むと、一度深呼吸をしてから社長は広場の中央に設置された台へ向かった。さてさて、聴衆らしく入れ物の準備をせねば。

「ダンジョンに住む者たちにして、私たちのイベントに今日だけでなくこれまでも大きな貢献をしてくれた者たちよ。諸君らのおかげでライブは無事に成功し、既に高い評価を得ている。これからも、最高のイベントを私たちの手で作り上げていこうじゃないか。だが、ひとまずは今日の成功に酔いしれよう」

ファミレスでドリンクバーを栄養源に話し合いをしていた数年前と比べると、社長は随分と変わったものだ。お偉いさんを見かけたら常に飛びかかる気配を見せていたというのに、今や堂々と指揮を執る社長だというのだから。

「皆の者、杯を掲げろ! 乾杯!」

「「かんぱーい!」」

 綺麗に声が揃い、これにて乾杯の音頭は完了。そんな常識はここでは通用しない。台を取り囲む各々がどこからともなく瓶やらバケツやらを取り出すと、息を合わせて音頭を取った本人にアルコールを浴びせるのだ。

「これだから、ここでの音頭取りは避けていたんだ!」

 いいもん見れた。三日前に思い付いたことが、こんなにも早く実現するとは思わなかったが、チョップという代償を払っただけのことはある。

「バケツ片手に充足感あふれる顔つきをしやがって、貴様だけは許さんぞ!」

「デスクワークで鈍った体の社長が、健康優良児の俺に追いつけるかな!」

 制御を失った機関車に追われながらでも、誰かと話したり食事をすることは心地よい。そんな当たり前の時間を大切にしたいと、打ち上げを通して改めて認識させられる。

「なあ社長、やっぱり祭りってのはいいものだな。自分にとって不可欠なものが何であるか、企画から打ち上げまでを通して教えてくれる」

「それなら、その減らず口にバケツを突っ込んで、無償で手に入る幸せなどないことを徹底的に教え込んでやる!」

 社長の威勢の良さには恐れ入ったが、たとえ怒髪衝天の有様であろうと次々に料理と飲み物を勧める住民たちを突破することはできず、しばらくして社長はすっかり大酒飲みコンテストに興じていた。

 ちなみに、社長はそのコンテストで見事に連覇を成し遂げた。

「何度でも断言できる。祭りは良いものだ」

 夕方から始まった打ち上げは簡単に日付をまたぎ、地面を布団代わりにする者たちは皆一様に幸せに満たされた顔をしていた。そんなよく見慣れた光景と共に、祭りは本当の意味で終わりを迎えたのであった。


 ばか騒ぎをしすぎた。

 記念すべき高校生活の二ページ目の冒頭にはまたも、頭痛だの眼が痛いだのと書きつらなければならない。だが、今日の俺と三日前の俺が同じだと思ってもらっちゃ困る。前回の悲劇を克明に記憶していたからこそ、家を出る直前には特製の吐き気止めドリンクを飲んできたのだ。あまりに強烈な味に手こずり危うく遅刻しかけたが、ショートカットを活用したため滑り込みセーフ。

「またもys顔色は悪いですが、今日は朝から楽しそうですね」

「フェルト、もしやお前は今週の予定表を見ていないな? ほらほら、月曜日の欄には何が書かれている?」

 クリアファイルから一枚の紙を取り出してフェルトに見せると、首をかしげながら読み上げた。

「新入生歓迎会、ですね。字面から内容は予想できますが、それほど楽しいものなのですか?」

「確かに中身は学校によってまちまちだろうし、結局ほとんどの時間がお堅いお話に費やされる場合もあるだろう。しかし、旭第一高校は一味も二味も違う。ここはダンジョンについてはもちろん、三年間を通して生徒に様々な体験をする機会を提供することにも力を入れている。つまり、授業だけでなく部活や委員会、行事にも本気を要求する学校なのだ! ちなみに、俺は文化祭で燃え尽きる自信がある。この学校のパンフレットを見たとき、俺は全身が痺れるほどの衝撃を受けたね。文化祭では、これでもかと意匠を凝らした数多ある部活動が一堂に会する、筆舌には尽くしがたい最高の機会が提供されるのだ! すこし脱線してしまったが、ともかく歓迎会という新入生が一堂に会する状況では、特に部活と委員会が勧誘のために全力でアピールをする。そこには、学校生活を共に本気で過ごしてみようという、ロウリュにだって負けない熱い気持ちが詰まっているのだ! これをどうしてスルーできようか!」

 思わず立ち上がっていた俺に拍手をくれるフェルトだったが、やがて視線が俺の後ろへと向けられた。

「あのー、そろそろ朝のホームルームを始めたいんだけど、もう大丈夫そうかな?」

「……はい、よろしくお願いします」

 俺にとっては初対面となる担任はいかにも新人の先生という感じだが、その初々しさがかえって応援したくなる。少し邪魔をしてしまったが、なるべく迷惑をかけずに成長を見守っていきたい。

「今日は四限授業ですが、三時間目までは新入生歓迎会となっています。そして、四時間目には早速ですが委員会を決めるので、歓迎会ではきちんと説明を聞いてくださいね」

 それから、明日から授業が六時間になるという連絡や配布物に時間は割かれ、廊下に並ぶ時間となった。

「何だか、もう一度入学式に出るような感覚です」

「並び順といい時間といい、ほとんど同じだからな。まあ、今日も床下に落とされたら、それはそれで面白いけど」

 もちろん、そんな予想が的中することはなく、それどころか、体育館に着いた際には本当に入学式の会場と同じであるかと疑うほどの変わりように驚かされた。

 一糸乱れずハーモニーを生み出す吹奏楽、魚やら星やら次々に移り変わる地面に映し出された映像、美しく飾り立てられ清らかな香りを運ぶ花々など、テーマパークに迷い込んだかと思わされるほどに体育館は見事な変貌を遂げていた。

「どうだ、俺があれほど熱弁を振るった理由の一端が見えたんじゃないか?」

「チャイムにすら気付かず雄弁に語っていたのも納得です。楽しげな予感が肌で感じ取れます」

 多くの新入生が思い思いの感想をつぶやきながら整列する。相変わらず椅子はないが、それに不満そうな顔をする生徒も、また落とされることを危惧するような顔つきの生徒もいなかった。

 全員が入場し終えると司会進行を務める生徒が登場し、最初は生徒会の発表であることが明らかになる。

 真面目そうではあるがどこか柔和な雰囲気も備えた生徒会長が登壇すると、スライドショーと共に生徒会の主だった仕事、求める人物像についてスピーチが行われた。これだけを切り抜けば、堅物である生徒会がその評価に相応しい発表をして新入生は足首を回して過ごす羽目になった、と結論付けられるだろう。

だが、厳しい受験戦争を乗り越えたスペックを持ち、かつ校風をその身をもって理解している会長のスピーチが単調であるはずもなかった。

次の生徒会長は誰だ、この最初の一言で新入生の注目を瞬時に集めると、如何に生徒会と学校生活が密接に関わっているか、自身を会長の座から退ける人材に求められるポテンシャル等を力強く、かつ流暢に語られた。

「あの会長さん、すごい方ですね」

 会長の演説が終わると直接選挙の真っ最中かのように場は大いに盛り上がるなか、フェルトが素直な感想を口にした。

「より良い高校生活を実現することに新入生全体を巻き込み、それ以降の話への集中力を大いに高めさせる。そこに洗練されたデザインのスライドが加われば、無関心を装う方が難しいだろうな」

 どの業界に進出しようと成功を収める、それだけの能力を持っていることがたったの十分程度で伝わってきた。乾杯の音頭に困ったときには、それとなく相談したいものだ。

 流石にハイスペック兼経験豊富な先輩たちのステージなだけあって、生徒会に続く各種委員会の発表も見事なものだった。どの委員会も序盤で新入生の注意を惹き付けると、各々が持つ唯一無二の強みを分かりやすくアピールすることで、最後は必ず拍手の嵐に包まれてステージを降りることとなった。そして、あっという間に最後の委員会を迎えた。

「来るぞ来るぞ、一体どんなパフォーマンスを見せてくれるんだ」

「随分と興奮していますが最後は……そういうことですか」

 フェルトはしおりに目を通すと、納得したというように頷いた。そう、委員会部門で最後に控えているのは

「文化祭実行委員会です!」

 さあ、どんな生徒がリーダーを務めているんだ。そんな俺の期待は、誰も登壇せずに動画のみが流れる異例の展開により裏切られた。その直後、俺は文化祭実行委員会に対する自身の見通しの甘さを悟った。

 企画や配置場所を熱意たっぷりに話し合うクラスや部活、最高のクオリティのため様々な場所に視察へと向かう生徒たち、学校全体を非日常の空間へと作り変える装飾のタイムラプス、そして祭りというにふさわしい盛り上がりを見せる文化祭当日の学校とその舞台裏。これら全てが約十分の動画に詰まっていた。動画が終わり周囲の空気が変わったことを実感していると、会長と思しき生徒が現れ、たった一言だけを口にした。

「熱意ある者は誰であろうと歓迎しよう」

 その言葉だけで、体育館は生徒会に負けず劣らずの盛り上がりをみせた。

「なあ、フェルト。どうやら俺は慢心していたらしい。きっと、心のどこかで高校生の行事と侮り、それゆえに文化祭実行委員会の実力を見誤っていた」

「それにしては随分と嬉しそうですね」

「俺は決めたよ。是が非でもここに入る。フェルトの方はどうだ?」

「奇遇ですね。私も全く同じことをお伝えしようと思っていました」

「そうこなくちゃ。せっかくの高校生活、とことん本気で未知の世界を楽しんでいこうじゃないか」

 欠伸をする暇すら与えずに委員会の発表が終わると、十分間の休憩と称して新入生は教室に戻された。きっかり十分後、体育館に戻ると教室に帰された理由が明らかとなった。

「何だこれ。今から企業説明会でも始まるのか?」

 たった十分しか離れていないというのに、数多のブースが立ち並んだことで体育館はまたしても変貌を遂げていた。

「これから、新入生の皆さんには部活動のブースを自由に見回る時間が設けられます。外から覗くもよし、ブース内で説明を聞くもよし。明日から一週間にわたる仮入部期間に備えてぜひ満喫してください。なお、各部活動のブース配置は、今お配りしている冊子に挟まれている案内図を参考にしてください」

 驚くべきことに、手元に回ってきた案内図を見るとブースは体育館以外にも数多く存在しているらしい。

 周りの生徒たちもそれに気づいたらしく、とりあえず歩き出す生徒と、案内図とにらめっこする生徒の二通りに大別された。

「私たちはどのように回りましょうか?」

「案内図を見る限り、二人で行動して興味のあるブースでその都度立ち止まることを繰り返すと、ほとんどの部活を見ることができずに終わる。だから、お互いに好き勝手歩き回って、しばらくしてから情報共有するのが効率的な方法だろう」

 フェルトが俺の提案をすんなりと受け入れたため、一時間後に体育館前で集合することにして互いにリサーチを始めた。

俺はまず校庭へと繰り出すことに決めた。今の俺にピッタリのブースを発見したからだ。「この音、そして香り、どうやら読みが的中したな」

体育館ほどではないが、それでも多くの部活動が立ち並ぶ環境下において、聴覚と嗅覚のレーダーを駆使してお目当てのブースを発見すると早歩きでそこに向かった。

「いい顔つきの新入生がまた一人来たな! ここには、焼きそば、唐揚げ、りんご飴、さらにはパンケーキに綿あめ、ラムネまでなんでもござれだ。今なら特別に全品無料、さあどれにする?」

「ずばり、お兄さんのお勧めは?」

「難しいことを聞くね。全てお勧めではあるが、捻りだすならケバブもしくはクレープだな。今日の仕入れは特に肉とバナナが大当たりだったんだよ!」

「そういうことなら、ケバブとチョコバナナクレープ両方ください!」

「あいよ!」

確かに制服を着て高校にいるはずなのに、このブースでは途端に桜を見物する祭りに参加しているような気分になる。鉢巻を巻いて威勢よく手を動かす先輩たちのブースには、黒字で大きく屋台部と書かれている。

「まずはケバブお待ち!」

 案内に従って、ブース内に設置されたテーブル周辺で肉肉しいケバブを頬張っていると、数分後にアイスがトッピングされたクレープが渡された。

「どうだい、うちの屋台飯は期待に応えられたかい?」

「どっちも最高ですよ。ぺろりと食べちゃいました」

「そいつは良かった。部活について、俺たちは特に細かい説明はしないし勧誘活動もそこまでだ。その代わり、魂込めて作る飯に満足してくれたら、入部についてちょっとは考えてもらえたらなってくらいだ」

 純粋に自分たちの屋台飯を食べてもらいたい、その思いがはっきりと伝わってくる気持ちのいい先輩だ。料理の腕だけでなく人柄も良いからこそ、俺以外にも多くの生徒が集まっているのだろう。

「おっと、盛況のおかげで俺もまだまだ仕事がありそうだ。じゃ、他のブースでも楽しめよ!」

 最後の最後まで格好のいい先輩が率いる屋台部は極めて魅力的だが、恐るべきことに、冊子にはまだまだ心惹かれる部活があることが判明している。

 ゆっくりと首を左右に振りながら続いて訪れたのは、生徒たちでお米や野菜を育てているという農業部。一年間のスケジュールや手塩にかけて育てた食材が見せる輝きが熱く語られた後、ふっくら炊き立てのおむすびが配られた。シンプルに塩だけという味付けだからこそ、お米の持つポテンシャルの高さがよく分かる。さらに、旬である玉ねぎの味噌汁が加わることで、俺の心には青空の下で限りなく広がる田畑が浮かんだ。

 すっかり新たな故郷を発見した気になって農業部を後にすると、聞き覚えのある声に呼び止められた。

「やっぱり山田君だ」

「天野さんも校庭のブースを?」

 辺りは喧騒に包まれているが、その中でも透き通った声で一際注目を集めている生徒こそ、クラスメイトの天野遥だった。多くの生徒が振り向いたため、ここら一帯が山田ゾーンで、俺は勘違いして返事をしたのではという疑念も抱いた。だが、彼女から俺に質問が飛んできている以上、山田君違いをした可能性は低そうだ。

「天野さんも、幾つかブースは回ったの?」

「うん、特に運動部を中心にって感じ。山田君はよく運動するタイプ?」

 言えない。大抵のスポーツはダンジョンでやった経験があるが、その大半は次第にルールが置物と化し最終的には勝敗よりも潰すか潰されるかが重視されたなんてエピソードトーク、俺にはできない。

「あー、運動ね。見るのは好きなんだけど、自分で身体を動かすのはちょっと……」

「駄目だよー、運動する時間を取らないと不健康になっちゃうよ。まあ、かくいう私も家ではゴロゴロ過ごしてばかりだけどね」

 けどダンジョン探索で充分すぎるくらい動いているじゃん、そんな俺の切り替えしは全く異なる言葉へと転換した。

「「なにあれ格好いい!」」

 そして、なんたる偶然か。俺が思わず発した言葉は、彼女が発した言葉と完全に一致した。

「セグウェイ、セグウェイ部はいかがかねー? 魔石を組み込む実験も行うセグウェイ部はいかがかねー?」

 おっとりとした口調をした三つ編みの生徒が乗るセグウェイは、オリジナルであろう装飾によってサイバーという表現がよく似合う見た目をしていた。

 周囲では忙しなく生徒たちが動き回る一方で、俺たちは颯爽と走り去っていくセグウェイ先輩を幻覚でも見たかのように眺めていた。

「俺は次の行き先が決まったけど、天野さんはどうする?」

「そう、だね。せっかくだし、私も行ってみようかな」

 そわそわしている割には歯切れのいい返答ではなかったが、かくして俺たちは二人そろってセグウェイ部のブースに向かうこととなった。


 魔石はダンジョンから採掘され、その使用には魔力が必要である。ダンジョンが発見されたばかりの頃は魔力を持つ存在は稀有であったが、次第に先天的・後天的問わずに魔力を有する人々は増加した。その結果、採掘技術の向上も相まって、交通手段を始め様々な分野で魔石が活用されている。。

 セグウェイというのは、魔石が含まれない乗り物という点で時代遅れともいえる。しかし、あの生徒はそれに魔石を組み込むと言っていた。眺めていて気付いたが、あのセグウェイの目を見張る加速や方向転換は魔石の影響だろう。

 そんな自由自在に操られているセグウェイを必死に追いかけて、結局はブースまでのジョギングという形になった。

「おや? セグウェイ部にご用かな?」

 水を一杯もらって呼吸を整える時間を確保してから、セグウェイで疾走する様子を見かけて追いかけたことを説明する。

「ただ覗くだけでなく、ブース内にまで入ってくれるとは喜ばしいことだ。そんな見どころある新入生には、ぜひとも現物を見てもらおう」

 俺たちを椅子に案内してから手を叩くと、見知ったセグウェイが先輩の隣で止まった。

「これが、先ほど私と共に林立するブースの間を駆け抜けたサイバー君だ。たとえ舗装されていない道だとしても、御覧のように自由自在に動き回ってくれる万能型だよ。地面のコンディションに依存しない性能に加え、注目してほしいのはこのルックス。カードゲームの広告で見たサイバーの響きが気に入ったため、試しに採用してみたら大成功を収めた。さて、中身と外見の両方を大まかに説明したけれど、何か質問はあるかい?」

 質問というより、むしろツッコミどころに溢れている! 

 隣に座って同じく困惑している天野さんと視線が交錯すると、ありがたいことに言葉を選びながら先陣を切ってくれた。

「あの、そのサイバー君? 急に走ってきたのはどういう原理なのでしょうか?」

「サイバー君には私の手を叩く音を登録し、その音を探知すると自動で接近するようプログラムしたんだ。ちなみに、登録した音とそっくりに手を叩く必要があるため、さっきのデモンストレーションは珍しく成功したといえる」

「それでは、先輩の隣で自動的に停止したのも、プログラム通りということですか?」

「その通り。手を叩く音に反応して動く場合、あらかじめ読み込ませた私の身体情報と合致する人物の隣で止まってくれる。この機能については、心拍数や骨格なども判断材料とするから、今まで横を通過されたことも別の人と誤認されたこともない」

 確かに質問に対しては充分な回答をしてくれている。しかし、先輩が口を開くたびに、どうにもツッコミを入れたくてたまらなくなる。セグウェイの呼び出し方もそうだが、身体情報を読み込ませるって何だ。最新の腕時計ではなく、セグウェイを活用して健康状態の測定まで可能ってことでは? 移動手段という主目的を置き去りにしすぎじゃない? 最近の子供向けマンガ雑誌を凌駕するほどに、付録がバリエーション豊かだ。

「山田君、大丈夫? 急に激しめの貧乏ゆすりが始まったけど?」

「いや! まだまだ余裕だから心配しないで」

 彼女はよく戦い抜いてくれた。ならば、次は俺がクールに質問するだけのこと。深呼吸をしてしまえば、数カ月ぶりの貧乏ゆすりもほら落ち着いた。

「舗装に関係なく走れるというのは、一体どの程度までの地面であれば可能なんですか?」

「校庭や砂利道、砂浜は言うまでもなく、山道や獣道、それから何といっても水上だな。セグウェイと共に水上を駆け回るのは、非常に爽快感があるからおすすめだ」

「……そすか。ところで、カードゲームは先輩の趣味だったり?」

「あいにくと、そっちの方面に関する知識は浅い。私はセグウェイ一本だよ。にしても、セグウェイ部のブースでセグウェイを前にしてカードゲームについて尋ねるとは、中々面白いセンスをしている」

「あはは、お褒めにあずかり光栄です」

 よく分かった。この場では、あまり頭を働かせない方が良い。明らかに常識を卓越している発想と、それを実現してしまう技術力を擁する以上、まともに組み合ってもツッコミを連発して喉を枯らすのが関の山だ。

「そうだ。二人とも、この機会にセグウェイを体験してみないか? サイバー君は些かハードルが高いが、別の機種なら容易に乗りこなせるだろう」

「お願いします!」

「山田君、即答!」

「こういう時は、難しく考えすぎずに流れに乗ってみようと思ってね」

「そう、だよね。こういう時にチャレンジしてこそだもんね」

 逡巡する素振りは見せていたが、決意を固めたらしい。そんな俺たちの様子を見ていた先輩は満足そうにうなずくと、リモコンを操作して二台のセグウェイを呼び寄せた。

「サイバー君と比べるとデザインはシンプルだが、機能性は抜群だから全幅の信頼を寄せてくれて構わない」

 乗り方や前進、ブレーキ、降り方など基礎的な部分についてサイバー君を使って説明してもらったところで、いよいよ俺たちの番となった。

 持ち手を掴んで足を乗せ、真っすぐ背筋を伸ばして停止状態を保つ。体重の掛け方次第で速度や方向は調整できる。聞いているぶんには簡単そうだが、セグウェイそのものに不慣れなため、妙に力が入ってコントロールに苦戦する。そんな俺とは対照的に、日頃からお散歩にでも活用しているのではと思わせるくらいに、天野さんは早くもセグウェイを乗りこなしていた。

「初心者でもそう苦戦しないのがシマウマ号だが、それにしても素晴らしいライドだ。彼女に負けず劣らず、君も良い乗りっぷりだよ」

「いい感じに力が抜けたので」

 なるほど、セグウェイというのは一度コツを掴んでしまえば、随分と楽しい乗り物だ。 特に、地上を走りながら体重移動だけで自在に方向転換できるという感覚は、これまでになく気持ちがいい。

「どれ、三人で校庭のブースを一周しようじゃないか」

 好奇の視線を集めつつも三人で目に付いた部活について話ながら、終始暖かい風に吹かれてシマウマ号試乗タイムを堪能した。

「さてと、歓迎会というのは長いようで、あっという間に過ぎ去ってしまう。私は充分部の説明をできたから、君たちは他を訪れるといい」

「屋台部も農業部もそうでしたけど、皆さん随分と気持ちよく送り出してくれますよね。そういう取り決めでもあるんですか?」

「取り決めなどないよ。ただ、私たちが一年生の頃、歓迎会では先輩たちが新入生ファーストで動いていた。それを継承しようと振る舞っているだけだ」

 一度言葉を区切ってから、再び口を開く。

「私の癖も影響してか、セグウェイ部にはあまり人が寄り付かないからね。新鮮な体験と反応をくれた生徒には、私しても充実した時間を送ってもらいたいのさ」

 俺たちも改めてお礼を伝えると、微笑む先輩に見送られてセグウェイ部のブースを後にした。

 特に言葉を交わすこともなく二人で歩いていると、やがて同じく新入生であろう女子生徒たちが天野さんに話しかけたため、自然とそこから離れて再び単独行動となった。

「応援部、ウォーキング部、それからエキゾチックドリンク部などなど、寄り道も含めて校庭での収穫は文句なしだろう。さて、体育館に戻りますかね」

 サブリミナルイエロードリンクなるものを片手に向かうと、既にビラを抱えたフェルトが集合場所にいた。

「悪い、待たせたな」

「いえ、私も到着したばかりです。それでは、情報交換としますか?」

「その前に、持つという表現が似つかわしくないほどのビラの対処だ。活発なビラ配りを想定して、バッグを持ってきて正解だったよ」

 軽く目を通しつつどうにか全てのビラを入れると、ようやく本題である情報の共有に取り掛かった。流石によく嗜好を理解しているだけあって、フェルトお勧めの部活動はサブカル関連やマニアックなものが大半を占めていた。

「こうもピンポイントで好みを突いてくるとはあっぱれだ。だが、俺もフェルトが興味を持つこと間違いなしの部活を見つけてきた。その名も、ジオラマ部だ」

「ジオラマ部、ですか?」

「名前の通り、ここはジオラマやミニチュアの作成をしている。しかし、一番の注目ポイントは、ずばり巨大化だ!」

「巨大化……それはもしかして」

「やはり目の色が変わったな。恐らくフェルトが予想している通り、ジオラマ部は原寸大よりもさらに大きなサイズのジオラマを作ることを売りにしている」

 何を隠そう、フェルトはカツサンド率いる建築部門のエースである。宴会と並んでものづくりに情熱を注ぐ彼女に、ジオラマ部を勧めない理由を見つける方が難しい。

 現にフェルトにビラを見せると、目を大きく見開いてそわそわとし出した。それはさながら餌を待ち遠しくする子犬のようで、すぐにでも欲求を満たしてあげたい。

「それじゃあ、歓迎会終了まで各々で満喫しようじゃないか」

 フェルトが些か早歩きで校庭に向かう後ろ姿を見て癒されてから、俺も体育館内へと入場する。

 校庭でも実感したことだが、この学校の部活は全体的に質が高い。食品サンプル部はうっかり食べかねない出来の作品を展示し、パソコン部は観葉植物や水槽と一体化しているようなパソコンを披露していた。加えて、ブースそのものの装飾や生徒たちの服装も、各部活の世界観を忠実に表現している。

 終了五分前のアナウンスが響いてもなお体育館内の人口密度に変わりはなく、やがて退場となったときにはどの生徒も充実した面持ちをしていた。かくいう俺も、鏡で自分の顔を確かめたならば、卒業式を終えたかのような晴れ晴れとした顔になっていただろう。

 興奮と共に教室へと戻り、同じく幸せホルモンが出ているような気がするフェルトと話していると、四時間目の開始を告げるチャイムが鳴った

「はーい。朝に連絡した通り、今から各種委員会を決めていきます」

 まず立候補を求められたのは学級委員。仕事が多いことは明白であり、高校生活二日目の生徒たちに即決できるだけの材料はない。したがって、ひとまず保留として別の委員会決め、もしくは推薦で生徒を募るのどちらかである。というのは、あくまで一般的な話に過ぎない。

 先の歓迎会において、生徒会長は学級委員会とは生徒会直属の組織であり、生徒会の仕事を担当することもしばしばあると述べた。さらに、生徒会がいかに魅力ある組織であるかは、歓迎会に出席した誰もが知るところ。この二つの条件が揃っていれば、先生から学級委員という言葉が放たれた次の展開は、誰の目にも明らかというものだ。

「えーと、学級委員の枠が二名であるのに対して、手を挙げてくれた方は十五名なので、どうしましょうか……」

 ここで考えられる選択肢は二つ。一つは立候補者各々が短いスピーチをして、最も多くの票を集めた二名を採用する。確かにこれが基本である。しかし、手を挙げた者たちは皆、またその光景を見た者たちもまた、誰一人として生半可な気持ちでは立候補していないことを肌で感じ取っている。誰もが学級委員にかける情熱を理解しているからこそ、選ばれるのは自然と二つ目の選択肢となる。

「「最初はグー、じゃんけん……」」

 暗黙の了解で二つ目の方法がチョイスされてから一分、このクラスに二人の学級委員が誕生した。

「真剣勝負というのは残酷なものである。どれだけそこに魂を込めようと、常に勝者であり続けることは不可能だ。それでも、最後には健闘を称えあうほどの達成感と充実感に満たされるからこそ、また新たな真剣勝負が生まれるのだろう。勝敗に関係なく、全ての立候補者が握手を交わす光景には、勝負ごとの全てが詰まっているのかもしれない」

「味のある実況をありがとうございます。ところで、翔太さ、君はどの委員会に目星を付けているのですか?」

「そんなの、答えるまでもないことだ。無論、二枠をかけて激しい争いが待ち受けていることは、未だに歓迎会の熱を引きずる俺にも容易に想像できる。しかし、たとえ困難が襲い掛かることを理解していても、やすやすと引き下がれるほど俺の思いは軽くない」

 小声で決意表明をしている間にも、様々な委員会の枠を巡って熱い真剣勝負が行われ、ついに残された委員会は一つだけとなった。

「それでは、文化祭実行委員に立候補する人?」

「はい!」

 いいさ、最後まで恨みっこなしの勝負を繰り広げようじゃないか。そう思い威勢よく立ち上がったが、周囲を見わたせば俺以外に手を挙げたのはフェルトを除けばただの一人もいなかった。むしろ、周りからは微笑ばかりが送られた。

「他に立候補者はいないみたいなので、文化祭実行委員はこの二人で決定とします」

「……本当にいいのか? 文化祭実行委員に手を挙げるからには、終わりの見えない戦いに身を投じることも覚悟の上なんだけど」

 これは後になって知ることだが、他に対抗馬が現れなかったことには理由があった。曰く、朝のホームルームを始めようとする先生に気付かないほどに、文化祭に対する愛を語った生徒と競えるほど、実行委員への覚悟を持っていると確信できた生徒はいなかった、とのこと。

 そんなことは知る由もなく辺りをきょろきょろと見回しながら座ったが、確かに俺は希望通りにこのクラスの文化祭実行委員になったのだ。


「明日からは学校でもこのご飯を食べられるとは、恵まれすぎて怖くなってくる」

 見事に掴み取った栄光もおかずにして帰宅後のランチを堪能すると、全ての片づけを完了させるべく雲の庭園へと向かった。

 見た目はすっかりライブ前と変わらないが、一つだけ誰も歓迎しなかった結果として俺に押し付けられたミッションがある。いくら雲の庭園が特別な階層だとしても、コスパの観点から装飾は装飾であり続けてきた。だが、昨日のライブのためにギミック班が尽力してくれたおかげで、効率全無視ではあるが虹だけでなく氷の結晶すら出す花が実現してしまった。その数……四桁はいかないのは確かだ。

「これだけ腰が痛むとは、ガーデニングの楽しみを理解するにはまだまだ時間がかかりそうだ」

 花に込められた魔力を回収しては、地図に描かれた花のマークに一つずつチェックを付ける作業は拷問と表現しても誇張にはならないだろう。

一見するとありがたいことに、しばしば昼休みが終わるまでの腹ごなしとか何とか言って手伝いに来た連中がいた。だが、いざ本業に戻るときには嬉しそうに立ち去るものだから、余計なストレスを抱えることにもなった。それでも、本当に僅かにではあるが微々たる助力もあって、しばらく夕焼けを見て一日を振り返ってから帰還するくらいの余裕を持つことはできた。

 チェックで埋め尽くされた地図を片手に、胸を張って今夜のご飯を思案していると、ポケットにしまっていたスマホが振動を始めた。

「社長が平日のこんな時間に連絡なんて、明日はひまわりでも咲き誇るんじゃないか?」

「ちょっと面貸せ。場所は任せる」

 達成感に伴う喜びが運んできた陽気さもどこへやら。たった数秒の通話によって、途端に背筋が凍ってしまった。だが、この局面で誘いを断る選択肢ははなから存在していないため、社長のおぞましい声を飲みすぎと睡眠不足のせいにしておいて、早々にメッセージを送り目的地へと向かう。

 しばらく自転車を漕いで待ち合わせ場所へと向かうと、一際目つきの悪いキャリアウーマンが視界に入った。間違いなく社長である。

「平日夕方の外の空気を吸うなんて新鮮じゃないか? ご感想は?」

「どっかの高校生に起因する頭痛によく効くな。ぜひとも、この感覚を今すぐに味あわせてやりたいところだ」

「まあまあ、俺が仕組まずとも近い将来同じ目に遭っていたはずだから、そう敵意をむき出しにしないで。それに、今日は俺が社長に付き合うぜ。ドリンクバーで」

「まさかファミレスを指定するとはな。数年前まではよく通っていたが、社長になってからは足を運ぶ暇もなくなったものだ」

 俺と社長が出会ったばかりの頃の打ち合わせでは、毎回のようにどこかのファミレスに長居していたものだ。今更だが、俺と社長という組み合わせは、周囲からはどのように見えるのだろうか。カップルは論外として、兄弟とかに見えるのか? 

「案外、壺の販売にも見えるだろうか?」

「は? 壺が欲しいなら近くの骨董屋にでも行ってこい。そうじゃないなら、とっと注文を決めろ」

 急いで注文を確定してから、思考の旅に出ていたことを説明するも、知りようもない周囲の考えなど興味もないから私に水でも取ってこい、と一蹴されてしまった。確かに、社長とは数年の付き合いにはなるが、常に自分の主張を頑なに押し通すタイプである。そんな社長が周りを気に留めることはないし、ドリンクバーで水を注がない選択肢も俺にはないのだ。

「どうやら、タイミングは丁度よかったみたいだな」

 社長に倣ってドアを見やると、仕事を終えたであろう人々が溜まっているのが目に入った。

「俺も頑張ってきた甲斐があったものだ。ところで、昨日の評判はどんな感じだ?」

「上々だ。ステージだけでなく、物販もかなりの高評価を獲得している」

「そうと分かれば、俺からも昨日のライブについて熱い気持ちを語らせてもらうかな」

「お前だけが得する感想会を開くために仕事を切り上げるほど、うちの事務所は暇を持て余しちゃいない。この時間は、今後の予定について話し合うために使わせてもらう」

 本題が想定と合致したことが判明した段階で、折よく注文した料理が運ばれてきた。

 ファミレスといえばドリンクバーとハンバーグ、この組み合わせは譲れそうにない。

「ひとまず、現時点で進行している二つの企画は計画通りだ。直近はゴールデンウイ―クの方だが、お知らせがメインであるため、内容も含めて一週間足らずで充分なクオリティに仕上がるだろう」

「もう一個の夏休み前の方も予定通りだ。特にそっちからリクエストがあったものは、丹精に作られている」

 言葉を選びながらではあるものの、既に何度か話し合っている事柄であるため、ミックスドリンク片手でもまるで理解に問題はない。

 魔力摘みと自転車でかなりの空腹度合いであったため、追加で注文をして食べ進めていると、ついに今日一番の議題へと移行した。

「さて、今年の冬について話すとしよう」

「前に話した段階で、企画のテーマやら大まかな内容はある程度確定したよな?」

「その通り。したがって、今日はその中身を詰めていくと同時に実現の方法も考えていく」

 今年の十二月、社長の事務所は五周年を迎える。これまでも毎年アニバーサリーイベントを開催してきたが、今年はキリのいい五年目であるため最大規模の企画が求められる。

「まず初めにメンツについてだが、当然ながらフル起用かつカウントダウンも行う。ただ、カウントダウンはともかく、当日の魅せ方についてはこっちも検討を重ねている最中だ。ついで場所だが、まだ難しいだろうな」

「こっちも早めに取り掛かりたいが、具体的なアイディアが出るまではメイン以外に手を付けづらいのが本音だ」

 さっきとは打って変わって、ウーロン茶を飲むくらいしかできない真面目な空気に覆われた。それほど五周年イベントは期待されていて、その期待に応えるべく練りに練った企画を実現しなければいけないのだ。

「ともかく、細かい内容の確定が急務であることが明白である以上、こっちも優先して取り掛かることは約束する。ただし、その過程でお前を含めそっちに意見を求める可能性も充分にある。ミーティング等、素早く対応できるだけのシステムは作っておいてくれ」

「はいよ。ベースはいつも通りだから、その点は心配無用としてもらって構わない」

 その後も細かな部分の調整だけを行ってからいくつかスイーツを味わうと、明日のことも踏まえてほどなく退店となった。

「そういえば、一つだけ男子高校生であるお前に依頼したいことがある」

「まさか、新たなスターとなりうる卵を探し出せと?」

「スカウト業務に駆り出すつもりなど、今のところこれっぽっちもないから安心しろ」 

 よほど噛まない限り、言い間違えようのない本音が顔を覗かせた。もしかして、将来的に高校生とダンジョンの主とスカウトの三足のわらじを履かせようとしているのか。それは随分と魅力的じゃないか。

「依頼というのは、同じクラスになった天野を見てやってほしい。彼女は、私たちが想定するよりタフではあるが、まだ高校生になったばかりであることに違いはない。元気いっぱいに振る舞う一方で、実際には年相応に繊細な側面も持ち合わせている。学校外の生活も忙しくなれば、どのような形で問題が発生しても不思議はないからこそ、たまにでいいから気にかけてくれ」

「依頼に関しては了解だ。ただ、一つだけ言わせてもらおう。彼女だけでなく、俺も高校生になったばかりの不安定な子供だ。だから、くれぐれも次呼び出すときには、財布を車内に忘れてきたことを理由に支払いさせるなよ。てか、スマホ決済を採用してやれ」

「私は現金を信用している。だからスマホでは支払わない。実にシンプルで研ぎ澄まされた考えだろう? それに、私はお前を高校生とは思っていないから、まるで今回の支払いに問題はない」

 仮にも配信事務所の社長が紙にこだわりハイテクな支払い方法を拒むとは、本当に肩書とはあてにならない。

「シンプルなだけのデジタル嫌悪主義は分かったから、次回は絶対におごれよ。もしまた忘れてきても、お花摘みの流れで自分の支払いだけ済ませて帰るからな」

「はいはい。次は良さげな場所で接待させてもらうよ」

 終始俺を振り回したことに満足したのか、社長が駐車場に向かう足取りは軽いようだった。俺を呼び出したときには、悪い魔女に呪われたような声をしていたというのに、あいつは魔女すら冷や汗をかくほどに捻じ曲がった性格だ。

「補導される前に俺も帰ろ」

 我が家に帰りお風呂に浸かったことで就寝への勝利の方程式は完成したため、明日から始まる六時間授業に胸を弾ませている間に夢の世界へと誘われていた。


「おはよーさん」

 ノンレム睡眠でたっぷり栄養を養った翌朝、いつものように適当なお店に足を運び朝食の時間を迎える。既に見知った顔がちらほらといたので相席すると、突如として健康相談を持ち掛けられた。

「最近、うちの嫁さんから糖分を控えるよう言われているんですが、一体どうすりゃいいですかね?」

「とりあえず、その粉砂糖と蜂蜜たっぷりのパンケーキを引っ込めてもらったらどうだ?」

「そんな薄情なことを言わないでくださいよ。たとえこれが原因だとしても、好きなものと別れることなんてできません。この気持ち、翔太さんもよく分かるはずです」

「その気持ちには共感するが、食生活の改善が求められているなら仕方ないことと割り切るしかないだろう。その点俺は、常に栄養バランスにこだわって……こだわってだな」

「目が泳いでいますよ」

昨日は夕食でファミレスのテーブルを肉とスイーツで埋め、一昨日は打ち上げで片っ端から口に放り込み、三日前はカツサンドやらおむすびやら。一昨日には野菜を見た記憶もあるが、それを肉で包んだ記憶もある。あれがまた美味しいんだ。

「別に何を心配するわけでもないが、朝のジョギングを日課に取り入れようかな」

「それ、他の連中も誘って付き合いますよ」

わざわざ聞かずとも乗っかってくれるとは、なんて頼もしい奴なんだ。

「お待たせしました。糖質なんて気にするなパンケーキです。砂糖と蜂蜜を追加したい場合はお申し付けください」

静かに決意を燃やす俺たちの前に、二つのそっくりなパンケーキが鎮座している。どちらも出来立てで、嗅覚を刺激することに長けている。

「「すいません、砂糖と蜂蜜の追加をお願いします」」

それ以降、俺たちは特に言葉を交わすこともせず、沈黙のうちに明日から頑張ることを互いに誓い合い、ひたすら朝食を満喫した。


「体育の時間だー!」

 朝のホームルームが終わって体操着で校庭に出ると、罪悪感を吹き飛ばすかのように青空に叫んだ。

「無人の校庭で大声を出したくなるほど、体育とは心が躍る科目なのですか?」

「気持ち云々よりもタイミングの問題だ。特に、今の俺にランニングを組み合わせるとは、体育の教師はかなりの手練れとみた」

 ダンジョンに限らず要求される体力を作るべく三十分間ひたすらランニングとは、初回から何とも粋な計らいである。残りは自由時間だというし、その時間もとにかく走ろう。一枚追加したパンケーキの分、しっかりエネルギー消費に努めなければならない。

 次回以降はスポーツテストという連絡を受けてから準備運動を済ませると、待ちに待ったランニングの時間となった。

「こんなところに売店が!」

 ただ校庭を周回するのではなく、広大な面積を誇る学校の敷地内全体にコースが設定されているため、見知らぬ景観と初めましての連続である。ゆえに、思いがけないタイミングでオアシスを発見することもあるが、鋼の意思で走ることだけに注力する。無の境地に至るまでがむしゃらに走り続けたおかげで、授業時間は残り五分となっていた。

「そろそろ校庭に集合のようです」

「呼びに来てくれてサンキュー。俺一人だったら確実にランニングに精を出していたところだ」

 小走りで校庭に戻るとなぜか先生と数秒視線が交錯したが、特に注意も何も受けずに解散となった。

恐らく、俺はこの時点でとある組織に目を付けられていたのだろう。だが、カロリー消費と売店発見に満足していた俺は、昼休みになってようやくそれに気付くことができる。

 ランチまで残すところ授業は三つ。そのいずれも座学であり内容は熟知していたため、五周年イベントに考えを巡らすだけですんなりとランチタイムを迎えた。

「山田翔太はどこにいる!」

 まさに弁当箱の蓋を取ろうかとすると、教室のドアを外さんばかりの勢いで開けた生徒にフルネームで呼ばれた。状況が飲み込めない俺とは対照的に、クラスメイトの一人が瞬時に案内役をかってでた。

「おお、君が例の山田君か! 体育での見事な走りは聞いているぞ」

「あれま、上履きの色から察するに見知らぬ先輩。数多く存在する山田の前に例のと付けられると悪い気はしませんが、一体どんなご用ですか?」

「またまた狙っていないとは言わせないぞ。体育の時間、誰よりも長くそして速く走り続けるなど、我ら陸上部へのアピール以外ありえないだろう!」

 あの先生が妙に俺を見ていたのもこういうわけか。

先輩や先生と交流する場を持てるのは嬉しいが、こういう形式は対象外もいいところだ。

 豪胆に笑う先輩に作り笑いで応えつつ対処法を考えていると、背後からフェルトに囁かれた。

「まだまだ来るみたいですよ」

 先輩の身体越しにどうにか廊下を見ると、地ならしのごとき足音を立てて様々な道具を持った生徒たちが押し寄せている。おびただしい数の視線に加えて、俺の名前を呼ぶ声が聞こえてくる。どうやら俺が自意識過剰の勘違い野郎である線は消えたので、残された選択肢は自然と一つだけになった。

「俺のクラスメイトにはスパイしかいねーのかよ!」

 僅かな隙間と大人数による混乱を精一杯利用して、俺はランチバッグとともに駆け出した。

 質の悪いことに追っ手の大半が運動部員であるため、しばしば距離を詰められて制服を掴まれそうにもなった。さらに、相手はより優れた校内マップを頭に描けるため、挟み撃ちにされたことも一度や二度では済まなかった。それでも、負けじと脚と頭をフル回転したことで、後ろから聞こえる足音は徐々に小さくなっていき、やがてかえって警戒してしまう静寂が訪れた。

「な、なんとか逃げ切ったぞ」

 戦いを避け逃げに徹する日頃の姿勢の賜物か、何度か窓から飛びだそうと本気で考えたときもあったが、ついぞ誰にも捕まることなく屋上まで逃げおおせた。過度な勧誘は控えるようにという注意も時折耳にしたから、昼休みいっぱいここにいれば熱も冷めているだろう。

「澄み渡る青空を間近に昼食、高校での最初のお昼にしては中々に洒落ているじゃないか」

 作ってから時間が経っているはずなのに、米もおかずも文句なしのクオリティである。こうも絶品ばかりを味わっていると、俺も料理に挑戦してみたくなる。これは兼部も考慮に入れないとだな。

 時間をかけて舌を楽しませ終えてから屋上を歩き回ることに時間を費やしていると、俺のではない足音が聞こえてきた。

「独り言を口にするときは、周りをよく確かめてからにすべきね」

「忠告感謝する。だが、どうか安心してほしい。俺の独り言は、周囲の環境に関わらず前線に出たがるたちなんだ」

「……変なの」

 ジュースのパックを手にした水色サイドテールの謎の同級生と屋上で会話を交わすとは、追っ手を振り切ったご褒美なのだろうか。彼女はすぐに立ち去ってしまったが、極めて充実した時間を過ごしてしまった。日常の中で時たま非日常に出くわすところに、高校生活の魅力が詰まっているのだろう。

「流石は高校。とんだアクシデントの後にこの演出は憎いね」

 かすかに聞こえる予鈴は、まるで高校生活が本当の意味で始まったことを告げているようだった。

「……どのビラも綺麗に装飾されているあたり、本当に憎らしいことをしてくれる」

 教室に戻ると、机の上にはいくつものビラが積まれていた。それも、五十音順に重ねられていることに加え、カラーぺンやマスキングテープで一枚一枚の見栄えが非常によろしい。どの部活にも広報担当がいることは確実だな。

 教室を見回せば、部活動名を示すものを掲げている生徒が一定数見つかる。昨日の歓迎会で何があったのか、いっそ心配になるほどの熱の入れようだ。

「ひょっとして、俺の持ち物が盗られたりしなかったか? これを返してほしくば、てきな」

「特にありませんでしたよ。むしろ、どこにビラを置くのが邪魔にならないか熱心に話し合うほど、気を配った行動が見受けられました」

 そこまで疑っていたわけじゃないが、やっぱり良い人たちなんだよな。勧誘の際に若干歯止めが利かないだけで、基本的には相手を思いやれる性格をしているからこそ、強く非難することもできない。素晴らしい人材育成をしているよ、この学校は。

 五・六時間目はともにダンジョンに関する授業のため、モヤモヤを晴らす目的も兼ねて真面目に受けた。改めて話を聞いてみると、今後のギミック作成等にも繋がる点が多かったので、初回にしてこの二つの授業はお気に入り科目となった。

 非常に有意義な二時間を過ごしてから、割り振り通りに教室の掃除を済ませると、帰りのホームルームとなる。

「朝も伝えたように、今日から一週間は仮入部期間となります。そして、来週の金曜日が先ほど配布した入部届の提出締め切りです。兼部も可能ですが、学業などに支障をきたすことのないように選択してくださいね」

 仮入部期間初日のため生徒たちがそわそわしているのを理解しているのか、今日のホームルームは早めに切り上げられた。

「どうやら何ら障害なく移動できそうですね」

「昼休みの再来も覚悟したが、今日のところは積極的な行動は控えてくれるみたいで良かった。早速、周りの生徒たちに倣って俺も向かうとするかな」

「それでは私も共に」

「ちょっと待った」

 フェルトのような仲間が近くにいてくれるメリットは大きいうえに、多少は学校でもダンジョンのノリを共有できる大事な存在だ。しかし、高校生活を送る機会を獲得したからには、俺だけでなくフェルトにも目一杯見聞を広めてほしい。だからこそ、自分の拳を握りしめてでも、面と向かって伝えるべきことがある。

「仮入部期間の一週間、放課後は別行動を取ることにしよう。確かに一緒にいるだけで楽しいが、それだけで満足してほしくない。でも、どうしても心配なことがあれば」

「かしこまりました。下校の際には正門集合でよろしいでしょうか?」

「あ、はい」

 その即断即決ぶりに驚きと僅かな悲しみを覚えた俺とは反対に、フェルトは颯爽と教室を後にした。

とっくに自立していたフェルトに対抗して、俺も勇ましく職員室に向かって用事を済ませた後、昨日の小冊子を参考に部室棟一階の端まで歩き教室のドアをノックした。

「どうぞー」

 周囲に生徒がいれば不審がられる程度までノックを継続した段階で返事をした部屋の主は、俺の顔を見ると静かに工具を置いて作業を中断した。

「教室を間違えてはいないか? 君は昨日もブースに来たはずだろう」

「仮入部期間にその言葉を耳にするとは思いませんでしたよ。間違いでも何でもなく、俺はセグウェイ部を目的にここまで来たんですよ」

「君のような変わり者は滅多にいないから、つい勘繰ってしまった。それで、今日は何か聞きたいことでも思い出したのかい?」

「新入生が重要な目的を引っ提げてセグウェイ部を訪問はしない、というスタンスは保ってきますか。でも、その姿勢を保持されると、新入部員である俺の本気度合いを示す方法に困りますね」

「……え?」

 数秒かけて言葉の意味を理解はしてくれたのだろう。納得するには到底辿り着いていない様子でもあるが。

「とりあえず、新入部員らしくはつらつと掃除をしましょうか。見たところ、ほこりが偉そうに居座っているようですね」

「ブレザーを脱いで腕まくりまでしなくていい。ひとまず座って説明しなさい」

「当然、ほこりの件ではないですよね」

 座るように促されるも、それを断って本題に入る。

「新入部員俺、というのは文字通りの意味です。そこに深い意味も浅はかな思いつきも込めていません。昨日の歓迎会で決意が固まったので、今日それを実行に移しただけのお話です」

 俺としては本当のことを話したので今すぐにでも歓迎してもらいのだが、先輩は相変わらず首を傾げたままでいる。

「言葉の意味は分かるが腑に落ちない。何故ここを選ぶ? 他にも魅力的な部活はあるだろうに」

 志望動機ときたか。予想はしていたが、この部活は本当に少数精鋭のようだ。

 されど、高校生活で数えきれないほどの体験をするためにも、エピソードトークだろうと何だろうと話そうじゃないか。

「半分は、大事なことを思い出せたからです。正直に言うと先輩に初めて会ったとき、先輩は常人にはない発想力を持っていることに気付いて、やがて自分とのギャップのあまり受け流すことだけを考えていました。実際のところ、受け流してしまえば必要以上に脳を回転させることもありませんでした」

 相手とのギャップが大きかろうと、ある程度妥協してしまえばやり過ごすことは可能である。だが、それじゃあつまらないと、どんな面倒な展開も受け入れるつもりでどっしり構える重要性はよく理解している。。

「理解できないことに真正面からぶつかって、仮にはじき返されようとも何度だって挑戦する。昨日の俺は、そんな極めて非効率的でありながら他者との違いを理解する過程で生まれる楽しみを、すっかり忘れてしまっていました。けど、かつては衝突の連続だった連中と、今では一緒にパーティーに参加していることに気が付いたとき、俺は理解不能っていうステータスを解除しようと努める重要性を思い出しました」

 誰かと関わることを楽しいと思えるなら、たとえ接点を持つうえで障害が待ち受けていようと、行動を起こした方が結果的に楽しめるに決まっている。

 一度は下を向いた先輩が再び顔を上げた今こそ宣言すべきだろう。

「今の俺には先輩を理解できませんし、今後もそれが可能になるかどうかは分かりません。それでも、俺は先輩と正面衝突することに決めました。あいにくと俺も相当な変わり者なので、プライドに支えられたこの決意を撤回することはありませんよ」

 家に帰ってから格好つけすぎたと反省するビジョンまでが浮かんできたところで、先輩はようやく口を開いた。

「もう半分、理由があるのだろう?」

「純粋にセグウェイに惹かれたからです。一部の見る目のない連中が貼った時代遅れというレッテルを剝がすどころか、八つ裂きにしてしまうほどの衝撃がセグウェイから伝わってきました。しかも、さらなる進化の可能性を秘めていると感じ取ったならば、飛びつかない選択肢など存在しませんよ」

 またも沈黙が続いたが、重苦しいものではなくむしろ居心地の良さすら感じた。

 そして、どうやらその感覚は間違っていなかったようで、手を僅かに震わせながらも、先輩は真っすぐな瞳で俺を見た。

「本当に、君ってやつは変わり者だね」

「先輩にそう言ってもらえるとは身に余る光栄です」

 精一杯格好つけた甲斐あって、高校生活部活動編のエピローグはこれ以上ないくらいのハッピーエンドを迎えた。

 きっと先輩にも何らかの話しづらい過去があるのだろうが、そこを聞かずとも良い話に持っていける自分の才能が恐ろしい。なんていう風に浮かれたことが原因なのだろう。このエピローグ読破の直後、俺はサイバー君を上回りかねない衝撃を受けることとなる。

「さてと、入部を希望する新入生が現れた以上、本腰入れて勧誘に乗り出さなければな」

「ついに先輩がやる気に!」

「もちろんだとも。何せ、今のままではセグウェイ部は廃止になってしまう」

「……え」

 目の前に鏡があれば、恐らく俺は自分の顔を見て吹き出していただろう。それくらいマヌケな顔をしていた自信がある。だが、一人にらめっこをして当然のお知らせが耳に飛び込んできたのだ。

 セグウェイ部、なくなるってよ。

「先輩、俺、すごい格好つけたんだよ。どうしてもセグウェイ部に入部したくてさ」

「その甲斐あってとても勇ましかったぞ。今度はこのセグウェイで校内を周って、全力で格好つけてきたまえ」

「格好つけた後は、空気を和らげるために子供っぽいことを堂々と口にしました」

「実に単純な理由だったが、それゆえに君の気持ちはストレートに伝わってきた。加えて、和ませるためという見込みもバッチリだった。だから、このセグウェイで校内の空気も穏やかにしてみたまえ」

「そんな風にテンションに落差を付けたから、俺、ちょっと疲れちゃった」

 二人では持て余す部室の隅っこで体育座りをしていると、先輩は俺の肩を優しく叩いてから声をかける。

「君の気持ちはよく分かる。でも、ここでもうひと踏ん張りすることで、本当の意味で報われることができる。だから、ビラを持ってユニコーン君に乗るんだ」

「最後だよ! ひと踏ん張りするには、目の前に置かれたユニコーン君があまりに高すぎる障壁になっている!」

「確かにシマウマ号と比べたら、多少は癖があるかもしれない。だけど、ユニコーン君の瞳を見てくれ。あれほど輝いているじゃないか」

 片手でハンドルの中央部と一体化している顔を指し示し、もう片方の手で俺をどうにか起立させようとする。しかし、たとえ寝落ちに気付いてしまった際の衝撃でさえも、今の俺のお尻を床から離すことはできまい。ユニコーン君が登場して以来、俺と床の間にはボンドよりも強力な結びつき、いや絆とすら呼べるものが生まれている。

「ほら、角だって数秒ごとに色を変えて君を歓迎している。もう一度、かっこいいところを見せてくれないか?」

「セグウェイウィズユニコーンアンドデパートにある子供の遊び場で流れていそうな音楽がなければ、俺は何度だって格好つけてみせますよ! セグウェイに乗ってビラを配りに行くときに、これに乗って生徒と関われる自信が微塵も湧きません! シマウマ号でいいじゃないですか!」

「シマウマ号ならお休み中さ」

 シマウマ号だけでなく、いくつかのセグウェイは皆ケーブルを介してコンセントに繋がれていた。間隔を開けて日陰に並べられているため、どうにも昨日とは打って変わって頼りなく見える。

「充電完了まで、どれくらいかかりますか?」

「先ほどプラグの挿し忘れに気付いたばかりだから、今から約三時間後、最終下校時刻になれば準備万端となっているだろう」

 いやー、頼りない先輩だ。

 ちなみにサイバー君について尋ねたところ、機嫌が悪くブレーキをかけると加速するから私しか安全を確保できない、とセグウェイの話か疑ってしまう答えが返ってきた。

「いっそのこと、先輩がサイバー君に乗って、俺は校内を走ってビラを配るのはどうですか?」

「セグウェイ部と称して自らの脚で駆けまわる部員を見たときに、果たして食いつく生徒がいるだろか?」

「それは……実に的を射ていると思います」

「様々な場所に穴を開けたり騒音を出したりしているから、悠長に構えている暇もないことだし、一週間という締め切りに間に合わせるべく共に頑張ろうじゃないか」

「流れるようなカミングアウトにおみそれします」

 俺はセグウェイ部と書いた入部届を出したが、どうやらあと三人の新入部員を集める必要がある。そのために、セグウェイに乗ってビラを配るべきだが、残されたセグウェイはサイバー君とユニコーン君の二つ。サイバー君に乗れば最終的な行先は保健室となるため、ユニコーン君しか選択肢として残っていない。しかし、無料ですら欲しくないほどユニコーン君には乗りたくない。されど、宣伝を怠れるほど良い評判も誘因力も持ち合わせてはいない。だから、部員募集に精を出さなければいけない……

「目を薄めた状態で見てみればユニコーンの顔が、特に金属光沢を示す瞳とライトをつけた角が良いアクセントになっているかもしれないですね」

「流れている音楽もまた、どことなく春の到来を予感させるだろう?」

「いやー、先輩には申し訳ないですが、僭越ながら新入部員であるこの私がユニコーン君に乗らせていただきます」

 重力に屈しそうになったものの、どうにか重い腰を上げるとビラを持ってユニコーン君に乗った。悔しいことに、片手をビラで塞がれていても一切の問題なく操作できるほどバランスを取ってくれる。

 どうやってか暴れ馬を乗りこなしている先輩と共に部室を出てからは、家に帰って夕飯にありつくまでの間、ほとんど記憶が残されなかった。

 一人テーマパーク、実際にユニコーン君に乗ったのはたった一日、しかも僅か数時間ではあったが、そんなあだ名が付くには充分すぎる時間であったことが一週間を通してよく分かった。しかし、極めて勉強になる一週間を通して、唯一にしてこの上ない収穫もあった。「山田君、君が所属するセグウェイ部にぜひ推薦したい生徒がいるんだけど、少し話せるかな?」

「委員長、それは本気だな? もし冗談で話しかけているなら、俺は学級委員解任選挙を要求するぞ」

「あの日の死闘に誓って本気だよ。だから、申し訳ないけど四時間目が終わったタイミングで、僕についてきてほしい」

 最初の一言だけで信頼への根拠は事足りたため大人しく昼休みに行動を共にすると、一度は訪れた場所への再訪となることが明らかとなった。

「ここから先は、山田君一人にお願いしたい。昨日足を踏み入れたときには、会話すらままならなかったからね」

「俺は今からどんなエキサイティングな体験をするんだ? 大丈夫? 五・六時間目を保健室で過ごすことにならない?」

「そういう危険は多分ないから大丈夫だよ。それに、僕から話しかけるのは駄目でも、他の人ならきっと別の反応を返してくれるはず」

 何一つ断言されたことはなかったが部活を継続できるか否かが問われている以上、覚悟を決めるしかないだろう。それに、恐らく余程のへまをしない限り無事に切り抜けられるはずだ。

「月曜日以来の屋上だが、相変わらず気持ちのいい場所だ。風が心地いいし、余計なことを忘れられる。相変わらず一人テーマパークの二つ名は鮮明に記憶されているが、それもほんの僅かにしか気にならない。まだ桜を鑑賞できるうちに、お花見としゃれこむのも風流かもな」

「いくら一人テーマパークさんでも、下を向き続けるお花見は難しいんじゃない?」

 確証はなかったが、昼休みと屋上という組み合わせから連想した生徒に間違いはなかったようだ。会話した経験がある相手だと幸運に思うか、まだ知らない凶暴な一面が潜んでいることに恐れを抱くべきか悩ましい。

「一度は話したことがある間柄だ。率直に言おう」

「お断り」

「セグウェイ部に入部してくれ」

「お断り」

 フライングに対抗して仕切りなおしてみたものの、変化したのはスタートのタイミングだけでありゴールはまるで同じだった。

 ははーん。爽やか学級委員の魂胆は分かったぞ。変わった生徒に変わった生徒をぶつけることで、特別な化学変化を起こそうという狙いだ。普段であれば、相手の意見を尊重して引き下がるが、状況が状況だけにとぼとぼと立ち去るわけにはいかない。何としても彼女をセグウェイ部に引き入れ、かつ学級委員も巻き込んでみせる。

「ひとまず、セグウェイ部の試作機の紹介から始めよう」

「奮闘しているところ悪いけど、私はセグウェイに関係なくどの部活にも入らない。タイミングからしてあの馬鹿が一枚かんでいるようだし、なおさら誘いには乗れない」

 あの馬鹿について深掘りしたいとも思うが、それよりもはるかに重要な発言があった。

「部活に入らない、だと。一体どうして! 部活動はこの学校の目玉の一つであり、興味本位で入ろうと後悔することなしの部活ばかりだ。さらに、兼部が許可されているから、より多くの部活でより多くの生徒と繋がることができ、月から金まで毎日退屈する暇もなく過ぎていくこと間違いなし。それにもかかわらず、入部しないという選択肢を選ぶのか?」

「あんただけじゃなく、他の大多数の生徒にとっては確かに居心地が良いのかもしれない。けど、それは私には当てはまらない。誰かと関わることは、私にとって面倒ごとにしかならない。そんな私をよく理解している私が、この場でセグウェイ部に入部するなんて言うはずもないこと、あんたは分かってくれるかしら?」

 これは困った。今の彼女の発言とかつての行動が矛盾していることを指摘するのは簡単だが、ここで口にしても感情的にさせてしまうだけだ。

 俺の指摘が一番の効果を発揮する時期がもう少し先であることを鑑みると、時間的猶予はさほどないが、ここでどっしりと腰を据えるのが妥当な選択肢だろう。

「よし分かった。人間関係を面倒ごとと見なしているなら、いきなり大勢との接点を持たせることはしない。その代わり、まずは俺でお試し体験をしてもらおう」

「どうしてそうなるのよ」

「これは勝手な推測だが、恐らく君は人間関係について何か苦い経験がある。さもなければ、部活だけでなく人間関係そのものに言及することはないはずだ。だが、今や我々は高校生。過去の清算をするのに充分な年齢かもしれない。ゆえに、呪縛から解放される可能性に賭けて俺と接点を持ってもらう」

 きっと、俺の読みは当たっているのだろう。だから彼女は俺の言葉に顔をこわばらせた。

「確かにあんたの言う通り、私には苦い思い出があるのかもしれない。けど、私が私でいる以上、その過去を塗り替えることはできない」

 俺ではなくどこか遠くを見たまま俺の提案を切り捨てると、足早に校舎内へと戻ってしまった。

 まったく、高校生は本当に敏感なお年頃である。過去を頭の片隅に入れつつも、現在から過去に干渉することなんてできないから切り替えて今を楽しもうぜ、というアドバイスは悪い刺激にしかならないか。

「高校生ってむずかしー!」

 やはりモヤモヤしたときは素直に吐き出すのがベストだ。口から炎を出しかねない勢いで叫ぶのは、今みたく下に教師がいる状況とは異なれば定期的に行いたくなる癖がある。

 さて、顔バレを避けるべく急いで教室に戻り、まだまだ説明不足なはずのお馬鹿さんに思い出話でもしてもらおう。

「放課後すぐの時間、この体育館裏には誰も寄り付かねえんだ。いくら大声出したって、それを耳にするのはせいぜいがカラスさ。だから、昼休みに要求した通り、委員長の知っていることを洗いざらい話してもらおうじゃないか」

「えっと、そのサングラスは?」

「グラス部から借りたのさ。それより早く話しておくれ。あと十分もしたら気合も根性もある運動部の部員が来ちゃうから」

 ハードボイルドをストップし素に戻ったが、彼女の過去を口にする決心は付いていないようだ。それでも、委員長なりに決意を固めたのだろう。真剣なまなざしで俺に尋ねた。

「山田君は、何があろうと彼女と向き合ってくれるかい? 僕の話を聞いてからもなお、彼女に立ち向かう熱意を持ち続けるかい?」

「こっちも高校生活が懸かっているんだ。そう簡単に折れることができるほど、ゆとりある環境に身を置いているわけじゃない」

「そうだったね。僕と同様に君にも必ず成し遂げたいことがある。では、僕が知る限りのことを話すとしよう」

 数秒かかってその返事に辿り着いた。しかし、ついに自身への最後の一押しに成功した委員長は、淀みなく流れるように彼の幼馴染の話をしてくれた。

「……なるほど、そういうことか。話してくれてサンキュ」

 委員長の話を十分足らず聞いて、二つのポイントで合点がいった。というより、二つの仮説がどちらも的を射ていたことが確認できた。

「実際に行動を起こすのは明日になるが、俺に任せてくれるってことでいいんだよな」

「もちろん。ところで、山田君は彼女の、瑞希の過去についてある程度予想が立っていたのかな?」

「どのあたりで、そんなに俺が察しのいいタイプに見えちゃった? 隠しきれないオーラとか?」

「僕の話を聞きながら山田君は一切表情を変えることがなかった、ところかな」

「流石、委員長になるだけの器だね。よく見ているし察しもいい。実のところ、高校に入るまでに色んな性格やポリシーの持ち主を見てきたから、その経験がヒントを与えてくれたんだ」

 すぐ近くに今の彼女と似た雰囲気を持つのがいる、というもう一つの理由は不要だろう。ここでの目的は、明日は俺の裁量に任せるという信頼を勝ち取ることであり、仲間の過去をべらべらと喋るのは野暮ってものだ。それに、あのお話は高校生には刺激的だろうから、どっちみち話題に出すことは難しいだろう。

「じゃ、俺は明日に向けた準備をしてくる」

「改めて、面倒を押し付けてしまって申し訳ない。けど、僕はどうしても過去を振り切ってほしいんだ」

「いいってことよ。困ったときはお互い様、俺の好きな言葉だから覚えておいてくれ」

 委員長と別れて部室に向かうと、サイバー君が水上を走れるという機能について先輩と熱く語り合った。そして、気付けば最終下校時刻を知らせるチャイムが鳴ろうとしていた。

「少し大変かもしれませんが、明日はよろしくお願いします」

「目の前にある好機と比べれば何ともないさ。昼休みを楽しみに待っておくとするよ」

 既に図面やら道具やらを取り出している部長は、見ていてこの上なく頼もしい。きっと、最終下校時刻を無視して教師に注意されるだろうことが予想できるので、敬礼をしてから部室を後にした。

 小走りで正門に向かうと、今日もまた多くのビラやお菓子を持ったフェルトを見つけた。

 主体的に仮入部期間を楽しめているようで何よりだ。加えて幾つもの部活を周り、なおかつその特徴的な見た目ゆえ、先輩から声をかけられている姿が早くも日常になってきている。それだけ交流する機会を獲得しているのは、本音を言うととても羨ましい。フェルトのようになるためにも、迅速に一人テーマパークという二つ名を消去せねばなるまい。

「何か喜ばしいことがあったのですか?」

「見習いたいと思うほど立派に成長してくれたことで、明日への期待が隠し切れなくなったのさ」

 歩きながらも真剣に考えこむフェルトには灯台下暗しという言葉を教えたい。だが、それを教えたところで完全に理解することはないだろうから、家に着くまで時折ヒントを求めてくる姿を見守ることとしよう。


「今日も屋上で会えるなんて奇遇だな」

 部活存続を大きく左右する金曜日、笑顔で挨拶をする俺に対して彼女は見るからに怒っていた。

「眉間にしわなんか寄せずに、一週間で三回目かつ二日連続という奇縁に運命を感じようぜ」

「四時間目が終わった途端に教室に来て、屋上まで誘導するように追いかけてきたやつが運命を口にするな!」

「それについては謝るよ。だけど、俺はどうしても関わりを持つことの素晴らしさを知ってほしい。お前が無理に切り捨てようとしていることくらい、自分は欺けても俺にはお見通しだぜ」

「私にとって、誰かとの関わり合いは不幸を招くことでしかない。知り合って一週間も経たないあんたが、私を理解した気になってんじゃないわよ!」

 落ち着こうとするも抑制を許さないほどには、俺は彼女の感情を揺さぶることに成功しているようだ。ならば、俺がすべきことは彼女の感情を後押しするだけだ。

「氷魔法、制御できなかったらしいな」

 その言葉を口にした瞬間、彼女の全身が明らかにこわばった。当時の様子がフラッシュバックしているのか、彼女の口は動くも何の言葉も紡ぎ出されはしない。

 無遠慮に過去に踏み込むことは俺の好むところではないが、今回ばかりは一切の配慮を置き去りにさせてもらおう。

「中学生のとき、君のクラスメイトの数人は魔法を使うことができた。同じく魔法を使えることですっかり意気投合し、やがて他の生徒にお願いされるままに一緒になって魔法を披露した」

 パフォーマンスの手段として、確かに魔法は最適な選択肢なのかもしれない。ダンジョンの住民たちも、しばしば魔法を活用した芸を披露するくらいだ。しかし、魔法が常に従順とは限らない。

「一躍クラスの人気者となったある日、いつものようにみんなで魔法を披露しているときに事件は起きた。一人が魔法の制御を失い、そして一人の生徒が怪我を負った。その際に魔法を使っていたのは」

「違う!」

 しわなどお構いなしに自身の制服を強く握ると、彼女は首を強く横に振った。

「皆がそう言った。私一人が制御を失って怪我をさせたって。でも、私は守ろうとしただけだった。私の隣で魔法を披露していた子は、その日体調が悪そうだったから、万が一に備えて気にかけていた。そしたら、段々顔色が悪くなって、火の魔法が暴発しそうになった。それに気づいたのは私だけだったから、ほとんど制御を失いかけていたあの子の魔法、それを氷で押さえ込んだ。ぎりぎりだったけど、火の魔法が暴発しても誰も怪我せずに済んだ。けど、押さえ込むのに必死で放った私の魔法は、暴発させた子の顔に傷を負わせてしまった。その後、あの子は倒れた。皆が私を恐れた。魔法をコントロールできなくなって、それで生徒の意識を奪ったって思われた。何度も否定した。でも、あっという間にうわさは広がって、結局次の日から停学になった」

 冤罪を語った彼女は、まるで罪を犯したかの如く苦しそうにしていた。

「確かに話は分かった。だが、それだけが理由で関わり合いを拒み続けたのか?」

 俺の顔など一切見ずに、ただ虚ろな目をして言葉を続けた。

「あの事件から、私は本当に魔法を制御できなくなった。ちょっとした魔法なら使える。だけど、感情が揺れ動いたとき、私の意志に関わらず魔法が発動する。はっきりした理由は分からないけど、不安定な時期にはあることらしい」

 改めて、自身の過去を言葉にして振り返ったからだろうか。今の彼女は、行き場のないエネルギーを抱えているように見える。

「そんな、いつ誰に危害を加えるかも分からない私が、誰かと関わりあうなんてできるわけないでしょ! もう二度と、私はあんな思いをしたくないの!」

 たとえ暴発であろうと、魔法が発動する際には空気中の魔力が取り込まれる。現に、少し前から魔力は彼女の元を漂っている。しかし、未だ魔法が現れる気配はない。

となれば、もう一押しすべきだろう。

「どうにも納得できない。もちろん、魔法の暴発がどれほど危険かは理解している。けれど、今のお前はダンジョン探索者の育成に特化した、旭第一高校のれっきとした一生徒だ。つまり、魔法の実技試験を突破している。今のお前は暴発を盾にして、過去から逃げているようにしか見えない。いつまで過去ばかり意識しているつもりだ」

「実際に見たことがないからそんなことを言えるのよ! 私だって、早くあんな過去から離れたいわよ! けど、私の魔法はそんなことを許してくれない! それに、あの過去を消し去ることだってできない! だから」

 俺を睨みつけて感情をぶつけていたが、明らかな異変に気付いて彼女は真上に視線を移す。

「うそ……」

 不安と苦しみと混乱が彼女の瞳を埋め尽くすが、上方にて構築された直径五メートルほどの氷の塊は生成と共に増大し、そして俺に向かって移動を開始した。

「だめ……わたしはまた……はやくにげて!」

 氷魔法は基礎魔法の一つに過ぎない。だが、五メートルともなると、生み出すことが難しければ対処することも高校一年生には困難を極める。

 ひざを折り絶望に満たされながらも声を絞り出す彼女に向けて、されど俺は笑って言った。

「ようやく本音を言ったな! そうだよ、過去に別れを告げたいんだ。新たなスタートを切りたいんだ」

 俺の言葉にも、前傾姿勢を取ったことに困惑しているが、お構いなく続けさせてもらおう。

「自分の理想が分かっているなら、過去だの魔法だのを見つめているんじゃなくて、どうしても君と仲良くなりたいって本気で思っている俺を見るんだ!」

「な、なにばかな!」

「とげとげしい氷の塊が迫っても明るい馬鹿と、散々自分を煽ってきた野郎を心配しちゃう馬鹿二人、いかにも仲良くなれそうだろ! それに、たとえどれだけ物分かりが悪かろうと、目の前にいる友達候補をがんじがらめに縛った過去と魔法を放置するほど堕ちちゃいない!」

 ようやく目を合わせることに成功した直後、俺は氷に向かって一直線に走り飛び上がった。

「散々足かせの役割を果たしてきた聞かん坊の魔法も、トラウマを植え付けた過去も、俺がまとめて断ち切ってやるよ!」

 彼女は何を思っているのだろうか。再びの暴発と他者を傷つけることへの恐怖だろうか。それとも、目の前の馬鹿野郎の行動に驚くあまり呆然としているのだろうか。いずれにせよ、もしバッドエンドを思い浮かべるなら、嬉々としてその台本をシュレッダーにかけさせてもらおう。

 眼前に迫った氷塊に対して、大きく口を開き歯を立てる。噛むことができた部分は、本当に僅かでしかない。それでも、そこを起点として瞬時に氷に亀裂が入る。そして、俺の着地を待たずして、不幸を運んでいた塊は粉々に砕けた。

「かき氷にはまだ早かった、なんて感想は後でゆっくり話せばいいか」

 ポケットに入れた石を片手に持ちつつ、目を見開き口をパクパクとさせる彼女に手を差し出す。

「どうだ? 中々に見どころのある馬鹿だろ」

「えっと……あ、あんたは……」

「やべっ! 予想よりも持続時間が短いらしい。お疲れのところ悪いが走るぞ!」

 困惑を隠しきれない彼女の震える手をとり、急いで階段を駆け下りると靴に履き替えもせず校舎から出た。

「ようやく来たな。こっちの既に準備は万端だ」

 彼女に目的地を尋ねる暇さえ与えなかったため、現地に到着してようやく場所については把握できたことだろう。

「プール……?」

「一切の説明を省かれて動揺しているのは百も承知だが、まずはそこで見ていてほしい」

 プールの授業はまだだというのに水が張られたプールを見つつ、待機していた部長にさっき取り出した石を渡す。満足そうにうなずくと、すぐさま石はプールサイドが似合わないサイバー君に取り付けられた。

「さて、このサイバー君は地形に依存しない走行が可能であり、御覧のように水上においても、波さえ上手くいなせれば問題なく操作できる」

 話には聞いていた。だが実際に見ると、こともなげに説明と操作を同時に行う先輩のトーンがまるで似つかないことがよく分かる。なおかつ、現在に至るまで話にすら聞いていないのだから、彼女が言葉を失うのも当然の反応といえる。しかし、やはりと言うべきか、先輩の技術力は常に更新された驚きを提供する。

「ここで、水面の走行が可能であるサイバー君に仕込んだ氷の魔石を発動してみよう。すると、進行方向の水面を事前に氷結させることができるようになる。それゆえ、こんな風に波の影響を受けずに安定した走行が実現される。私は君に感謝しなければいけない。君のような氷魔法の使い手がいなければ、この発想にすら辿り着けなかったかもしれない」

「いったい何をしているのよ……」

「完全に同意だ。つい昨日話したばかりのアイディアが、もうこれだけのクオリティに仕上がっているとは。流石にセグウェイ部唯一のエースだ」

「そうじゃなくて!」

「まだまだ実地試験を継続したいところだが、残念ながらどうやら先延ばしになりそうだ」

 無法者という烙印を押されないために断っておくが、昨日の放課後にプールの使用許可を求めようとはした。しかし、セグウェイと氷に関する可能性の話が弾みに弾んだ結果、一目散に向かってくる先生を見た今になってすっかり許可について忘却していたことを思い出した。

 こんな時こそ頼りになるのが、校庭に穴を開けるなどトラブルを起こす経験に富んだ我らが部長様である。素早くサイバー君でフェンスの前に陣取ると、俺たちにも乗るよう促す。

「ほんとに、何がどうなってるのよ……。あんたたちも、一体何のつもりよ。氷とセグウェイなんてふざけたことして!」

「そうなんだよ! 俺たちはふざけながら、スリルに満ちた今という瞬間を過ごしている。そして、その瞬間を作り出した一人は、紛れもなく君なんだよ」

「なにそれ、私のせいってこと?」

「むしろその逆だ。これまでとかく忌み嫌ってきたかもしれないが、君の氷魔法のおかげで少なくとも俺と先輩の二人は最高の気分を味わえている。俺は君の中学時代の同級生をこれっぽっちも知らないが、一つだけ確信を持って言える。最低でもここにいる二人は、魔法の暴発に興奮して震えることはあっても、恐怖してビクビクするほど繊細かつ単純じゃないぞ」

 これで伝えるべきことは全て伝えた。真に心の安寧を取り戻させるには、相手が危惧する事態など起こり得ないと証明しなければならない。その証明における一番シンプルな工程は、あえて恐れていた状況を作り出したうえで徹底的にそれを潰す。

 荒療治であることは認めよう。だが、傷を治すうえで最初に求められるのはその傷を見ること。どんな傷か分からなければ、その傷以上の被害を生みかねないからである。

 それに、何の危険にも晒されず安寧を得ようというのは、それこそ恐るべき傲慢以外の何物でもない。

「物語に大きな変化が生じそうな場面で悪いが、説教に震えたくなければ早く私の隣に立った方が良い。私としては、未来ある君たち二人を置いていくのは心苦しい」

「だとよ。それで、どうする?」

「さっきから意味わかんない。魔法が粉々になったと思ったら、次はセグウェイに利用されて、最後には教師から追われる立場になるとか、理解できないことばっかり!」

 下を向いてばかりだったが、やがて彼女は背筋を伸ばして前を向いて言った。

「けど、勝手なことばっか口にする奴らに囲まれていた時より、今の方がずっと楽なのは認める!」

 腹から声を出して過去を遥か彼方に吹き飛ばした彼女は、目に涙を浮かべながらも晴れやかな笑顔でサイバー君に乗った。

「しっかり私に掴まっていろ。この機能を使うのは二か月ぶりだから、何が起こるかは正直分からない」

 いよいよ先生が入ってこようかというタイミングで、いまだ目の前にはフェンスがあった。しかし、数秒後にそれは俺たちの下方に位置し、衝撃が収まったときには背後に位置した。

「事前のメンテナンスなしでは、流石に煙くらいは出てしまうか」

「そんなことより校舎に戻らないとでしょ!」

「サイバー君は俺が持つので部長も走ってください!」

 セグウェイ部だというのにセグウェイを持って走るとは何とも滑稽である。滑稽さに加えて廃部のリスクも負っているが、隣を走る表情豊かな彼女を見ると、少なくとも後者には希望を持つことができる。

「ちょ、ちょっと交代」

「あれだけ格好つけたのに疲れるのが早すぎる!」

「サイバー君は見た目がスリムな割に中身はどっしりしているから、走りながら持つには不向きなんだ」

 後方からは解説が聞こえてくるものの、次第に足音が聞こえなくなっていった。

「せん、ぱい?」

「ヘルプミー」

 振り返ると、制服を掴まれてプラプラと足を空に泳がせている先輩がいた。

「今すぐ職員室に向かうか放課後に職員室に向かう、お前たちはどちらを選ぶ?」

 もはや、あらかじめ目的地が設定されている状況に不満は漏らすまい。

「「今すぐ行きます」」

 もしかすると、さっき見えた希望の光はもう既に風前の灯火かもしれない。しかし、それを免罪符にすることなど到底かなわず、俺たちは一切の反論を許さない正論の猛追に震えることとなった。ちなみに、前科がある先輩は追加でお説教プラス放課後の掃除を命じられていた。

 サムズアップして俺たちを見送る部長のメンタルは見習いたいものだ。


「まさか君たちと一緒に校庭を走る姿を見られるとは、僕のお願いを見事に叶えてくれて感謝しかないよ」

「俺としても、廃部からは遠ざかれたから感謝している。けど、忘れちゃいないだろうな?」

「特段記憶力に自信があるわけじゃないけど、流石にあの言葉は覚えているよ。困ったときはお互い様、だね」

「その通りだ。確かに新入部員候補の紹介はされたが、実際に行動を起こして問題を解決したのは俺と先輩だ。お礼を言われると行動した甲斐があったとは思うが、それで十二分に満足できるほど俺は大人じゃない」

「僕がすべきことはよく理解しているよ。他の部活も見学してからにはなるけど、約束はきちんと守る」

 こうもさっぱりした態度を保たれたうえ、ついぞ一人テーマパークの二つ名を口にされないと、俺が欲深に見えてしょうがない。いや、俺は約束を蔑ろにできない正確なだけなのだ。

「……売店の新商品が出たら、半分あげるか」

 最初から最後まで爽やかだった委員長を見送ってから、俺はほんの数時間前に訪れた場所に再び向かった。

 制服の袖をまくってプールサイドに立ち入ると、そこには二人の先客がいた。

「放課後にここで会えるってことは、入部届を提出してくれたって解釈をしていいのか?」

「まあね。新しくスタートを切るには、これぐらい変わった環境に身を置くのも悪くないと思ったのよ」

「着々と部員が増えて何より。さて、新体制となって本来の活動を始めるためにも、素早くプール掃除を終えてしまおう」

「触れなさいよ!」

 ブラシを持ってまさに空のプールに入ろうとしたところ、制服を掴まれて制止させられた。

「何で部長の格好をスルーして掃除しようとしてるのよ! ちゃんと見えているわよね! あの部長、水着なのよ、スクール水着! どうして一切反応しないのよ?」

「確かにこれが部長との初対面だったら、お前みたく男子高校生らしい反応になるかもしれない。だが、今の俺には部長が水着を着ていようと驚けない。どうせ、気分か制服を濡らしたくないかの二択だと、部長を見ると直感が間髪入れずに囁くんだ」

 滔々と説明する俺と理解に苦しむ彼女をまるで意に介さず、部長は一足早くホースを持って掃除に取り掛かっていた。

 きっと、彼女もすぐに慣れるだろう。俺たちの部長は平然とした顔で常に想像の斜め上をゆく人物だということに。

 プール掃除だからといって、水で制服が透けることも、滑って転んでスカートが、なんてことは起こり得なかった。教師の監視がフィクションあるあるを一刀両断する証だろう。

「自分たちの手でピカピカになったという事実を目の当たりにすると、すぐにでも泳ぎたくなりますね」

「確かに泳ぐのも悪くないだろうが、やはり私はセグウェイにジェット機能を搭載して水中を走りたいものだ」

「水上で好き勝手して注意されたのに、水中だったら問題なしとみなされるはずがないでしょ」

 魔法による時短を禁じられていたため、プール掃除が完了したときには本来であれば三時間はある活動時間は一時間半にまで減少していた。それに加えて、昼休みが大忙しだったこともあり、月曜日から勧誘を再開することを確認して解散となった。

「土日が一瞬で終わってしまった」

 食事と運動、それからサブカルチャーを嗜んで過ごしていたら、あっという間に廃部までのカウントダウンが四十八時間を切ってしまった。だが、頭を悩ませているときこそ、爽やか学級委員長は清々しい笑顔と共に登場する。

「約束の件、きちんと果たしてきたよ」

「証明するための写真までご丁寧に撮ってくれたのか」

 被写体となった一枚の紙の上部には入部届と書かれ、そこから視線を下にずらすと整った字でセグウェイ部と書かれていた。

「約束が守られたことはよく分かった。歓迎しよう、我らがセグウェイ部に。ところで、何故制服にそれだけのしわが付いている? よほど強度の高いトレーニングでもしない限り、表情との乖離がおびただしい制服の有様にはならないだろう」

「僕も瑞希と同じ部活に所属するからには、きちんと話す必要があると思ったんだけどね。最初は明確な拒絶反応を示されたけど、最終的には勝手にすればというところで妥協してもらったよ」

 そんな朝を過ごしてなお爽快な笑みを浮かべるとは、絶対に埋めることができない差があるように思える。俺だったら売店のスイーツ片手に愚痴をこぼしている自信がある。

「前から気になっていたが、委員長と相対したときだけ猛獣に変身していないか? 食べ物の恨みでも買ったのか?」

「それはないと信じたいね。他に思い当たる節だと、よく余計なお世話とか言われるからそれかな」

 委員長は知り合ったばかりだが、何となく想像はつく。実際のところ、委員長が教室内外問わずに人助けをする姿はしばしば見かける。きっと、過去の彼女にも同じように、もしくは今以上にお節介を焼いたのだろう。それがいつしか、彼女にとっては行き過ぎた干渉に感じたのかもしれない。

「でも、君に任せて本当に良かったよ。今日ほど感情や本音をひけらかして攻撃されたことはなかった。内面を隠さずに済むようになったのは山田君のおかげだよ」

「委員長には言っていなかったが、月曜日の時点で既に俺は彼女と屋上で一度会っていたんだ。そこで俺は独り言を口にしていただけだが、彼女が話しかけてきたことで俺たちの初めての会話が始まった。これは推測に過ぎないが、恐らく俺の働きかけなどなくとも、既に変わる決意をしていた彼女はいつしかそれを成し遂げていたはずだ」

 本当に関わり合いを拒むのであれば、自分から他者に話しかけるなどまずありえない。しかし、彼女は初対面である俺に話しかけた。だからこそ、良好な関係の構築に至るまで数カ月を要したすぐ後ろの生徒とは異なり、本格的な干渉を始めた翌日には解決できたのだ。

「僕からすれば、決意を叶える手助けをしただけでも誇るべきことだと思うけれど、今回の件は山田君の言う通りに受け取っておこうかな」

「ぜひとも謙虚であるという印象を抱いておいてくれ。それよりも、せっかくクラスも部活も同じだというのに、山田君なんて呼び方は堅苦しいから止めてくれ」

「じゃあ翔太、でいいかな? これからもよろしく」

「こちらこそよろしく、委員長」

「それは変えないんだね……」

 それぞれの部員との関係は極めて良好ゆえ、今から部活の時間が待ちきれない。そんな純粋な思いは部室にて見事に打ち砕かれた。

「二人とも? どうして俺を緩衝地帯みたくして挟み込んでいるの? しかも開始数分で緩衝の役割を果たせなくなりそうなんだけど……」

 あっという間に放課後となり、部室で椅子に座って部長と話しているまでは良かった。少し遅れて彼女が入ってきたときにも、何ら問題は生じていなかった。だが、委員長が入室した途端に事態は一変した。

「あんた、兼部しているなら他に行ってきなさいよ」

「今朝伝えたことを覚えているとは驚いたな。多少は記憶力も成長しているみたいだね」

 内面を包み隠すことを止めた白崎瑞希と、彼女の前では意外なほどに性格が悪くなる委員長、そんな二人の間に座る俺とジェット機能を説明しようとうずうずしている部長。どうやらここに救いはないようだ。

「まあまあ、同じセグウェイ部に所属する生徒同士、ましてや同じく新入生なんだから仲良くしようぜ」

「残念だけど相性ってものがあるの。私としても仲良くできるに越したことはないけれど、そこで本音をかくすのは本末転倒でしょ」

「僕は翔太の意見に完全に同意だよ。もう高校生なんだから、建前だけでも本音だけもいけないというのは理解できるはずなのにね」

「ちょっと、何でこっち見て言うのよ!」

 六時間授業を受けたとは思えない活力あふれる二人の言い争いを三十分ほどかけて治めると、ようやく本題へと移る準備が整った。

「さて、ジェットの説明にたっぷり時間を割くためにも、まずは新入部員の勧誘について話し合おうじゃないか。周囲にセグウェイ部を布教できそうな生徒はいないか?」

「翔太と僕は何人かのクラスメイトに声を掛けましたが、そのほとんどが既に入部届を提出していました」

「私もクラス内の様子は気にしていたけど、この部活が話題になることはなかったわね」

 一見すると、二人とも簡潔に報告を済ませただけのようだ。だが、俺は見逃さなかった。委員長がクラスメイトという言葉を強調したことと、報告を終えると挑戦的な眼で彼女を見たことを。さらには、その際に彼女が拳を作っていたことも視界に入っていた。喧嘩するほど仲が良い、と思っておこう。

「そういえば、山田君と一緒にブースの見学に訪れた子がいたはずだ。あの子はどんな感じだい?」

「天野さんですね。周囲とはよく運動部の話をしていますが入部届は出していないようなので、明日の朝にでも一応聞いてみます」

 俺の報告にうなずくと、ついで部長は今日の宣伝方法を告げた。それはあまりに合理的で、あまりにも残酷なものであった。

「新しく入ってくれた二人にはシマウマ号に乗ってセグウェイに慣れてもらう。一通りレクチャーが終われば、二人はそのままシマウマ号で、私はサイバー君に乗ってビラを配るとしよう。そうなると、一足先に山田君にはビラを配ってもらいたいのだが……」

 部長と同じように顔をセグウェイに向けると、サイバー君に加えてシマウマ号が二台、そしてもう一つのセグウェイは俺が一度だけ乗ったことがあるものだった。

「部長、他のセグウェイはどこに?」

「今使えるのはあそこの四台だけだ。さあ、今日もよろしく頼むぞ」

「いやだーー!」

 たとえ窓を開けて叫ぼうとも、唯一の先輩であるがゆえに部長となった彼女の決定はついぞ覆らなかった。

 プール無断使用の一件により皆から忘れられかけていた二つ名は、いとも容易く再び蘇ることとなった。しかし、どうせ一度に広範囲にわたって広がった名前なのだ。思いの丈を羞恥心と共に吐き出してしまえば、出発までにそう時間はかからなかった。

「どうせ俺は一人テーマパークですよー」

「山田君?」

 虚ろな気持ちで生徒がほとんど見当たらない一年生のフロアを周っていると、ついさっき話題に出た生徒に声をかけられた。

「天野さん? この時間になっても教室にいるなんて忘れもの?」

「そうじゃないんだけど、ちょっと考えごとをね」

「そういうことなら邪魔しちゃったな」

「ううん。全然気にしなくていいよ。それより一つだけ聞いてももいいかな?」

 流石に二つ名や昨日の一件を聞くような性格ではないはずだ。だとすると、一体何を聞こうというのか? クラスメイトとの距離がある分、相手が何を話題にするのかまるで予想が付かない。

 今更ながらユニコーン君を断固として拒否する選択肢を模索していると、ペンを片手に持ったまま息を吸ってようやく口を開いた。

「セグウェイ部、楽しい?」

「え?」

 初めて聞くトーンだったうえに内容も相まって、思わず数秒フリーズしてしまった。

 聞き間違いというのはよくある話だが、あれだけ短い質問でそれを疑うのも無理があるだろう。狙いは一切見えてこないが、ひとまず今日これまでの感想を素直に述べておくべきか。

「正直、新しく二人が入ったことで一層混乱を極めているのは事実だ。話し合いですら油断ならないのに、いざセグウェイに乗るとなると粘着質に富んだ二つ名が付き纏ってくる。けど、このユニコーンはともかく、部内の混沌とした雰囲気が解放感に由来していると考えれば、少なくとも俺は恵まれた環境だと思う。ありのままを表現できることほどストレスフリーな環境はないからな」

「……そっか。話を聞かせてくれてありがとう! 私は職員室に行かなきゃだからまた明日ね!」

 ボールペンを素早く走らせ別れを告げるや否や、彼女は駆け出していった。最後まで質問の意図は分かりかねたが、晴れ晴れとした笑顔で去っていったので良しとしよう。

「お前も常に笑顔なんだけどな……」

 白い歯をのぞかせて笑うユニコーンを見ると、自然にため息が出てしまいそうになる。だが、ここで立ち止まっていられる時間も評判もないため、ファンシーな音楽を流しながら止むなく勧誘活動を再開した。

「……その飲み物はどうしたのよ?」

「認めたくはないが多分ユニコーン君のおかげだ」

 一時間ほどかけてビラを配るなり張るなりしたことで空になったバッグには、お茶やジュースなどペットボトル飲料が代わりに入っていた。

「そういえば、僕らが勧誘で敷地内を走っているときにも噂になっていたよ。ユニコーン君がまた出たって」

「それは心霊現象として扱われているだろ。多分、俺は奇抜な乗り物がトレードマークの実害を加えてこない新入生として周知されている。そのおかげか、しばしば応援と共に渡される飲み物を片っ端から受け取ったら、自販機一台の品ぞろえと肩を並べるくらいにはバリエーション豊かな飲み物を収集していたってわけだ」

 二人からは実害についての質問が飛んできたが、それについてはサイダーと共に流し込んだ。知って得することがまるでない事柄だからな。これが、ちょっとだけ早く入部した俺の優しさである。

 頂き物に感謝しつつ休憩を挟んでからビラ配りを再開したものの、特に朗報が飛び込むこともなくデッドライン前日の部活は解散となった。

 存続か廃部かを大きく左右する仮入部最後の日、朝のホームルームが始まる前に部長の呼びかけにより緊急会議が開かれた。

「いよいよマズイわね。兼部が許される環境でここまで苦戦するとは」

「ほとんどの生徒が昨日までに入部届を提出していることも厳しいな。未だに提出していない優柔不断な性格を持ち、なおかつセグウェイ部が候補に入っている生徒を見つける必要がある」

「知名度はあるけれど、そこから入部に発展させるビラ以外の案もあまり浮かばないね」

「やはり、ただ水上を凍らせるだけでなくプラスアルファのインパクトが欲しいところ。いっそかき氷機の機能を持たせるべきか」

 新入部員三名が危機感を持って話し合う中でも、部長は相変わらずセグウェイに熱を上げていた。

「このままだとセグウェイと戯れる環境そのものがなくなりますよ。部長も何かアイディアはありませんか?」

「あえてそれを言うとは、かき氷機ではインパクトに欠けるという評価を下したな」

「セグウェイ方面じゃなくて生徒方面に目を向けてくださいよ。部活の存続にはあと一人必要なんですから」

「え?」

「え?」

 以前より部長の言葉を理解できないことは多々あったが、今回に関しては前提として大きなずれがあるように感じる。むしろ、そうでなくては困る。部長は新入部員が集まらないことから現実逃避して、セグウェイしか見えなくなってしまった、というのは些か気味が悪い。

「今更ですが、この緊急会議が招集された目的は?」

「当然、各々が考える個性豊かなセグウェイについて語らうためだ」

「セグウェイどうこうじゃなくて、私たちには新入部員が必要でしょ! もし今日までに入部する生徒がいなきゃ、この部活は廃部になっちゃうのよ!」

「おや? 話の流れから察するに、会議とだけ送って部員が総勢五名になったことは連絡していなかったかな。部活存続が決まりセグウェイのことばかり考えていたため、うっかり報告を忘れていたようだ」

 うっかりでは済まされない失念を含んだ報告を聞いたとたん、椅子から滑り落ちようかというほど俺たちは脱力してしまった。驚いて声を上げるでもなく脱力するあたり、俺だけでなく二人も部長に耐性が付き始めたようだ。恐らく、昨日のレクチャーで何かがあったのだろう。

「そういえば名前も言い忘れていたな。このセグウェイ部に新しく入部する生徒はたしか、天野遥という名前だった」

 ようやく脱力状態を脱し、教室に戻ろうとドアに手をかけたタイミングで本日二度目の衝撃発言が飛び出した。

「……よし、ホームルームが始まる前に教室に戻ろうぜ、委員長」

「かなり間を置いてからの誘いかけだけど、本当にさっきの報告を受け止め切れてる?」

「うすうす察してはいたけれど、たとえ部長と同じようにプールで好き放題していたあんたでも、そう簡単に対応できる相手じゃないのね。にしても、天野遥って。突然の有名人に心臓がバクバクしてるわよ」

 非常に濃密な仮入部期間も今日で最終日だが、結局のところ部長が全てを上回るサプライズを提供したことで、明日以降も油断ならない日々が続くことを確信した。

 無事にセグウェイ部が存続することが判明してから大型連休が到来するまで、学校生活の時間はあっという間に流れていった。

 フェルトは入部届を火曜日になって提出してジオラマ部に所属することとなったが、正式に入部してたったの二日で、校内新聞にジオラマ部エースとして取り上げられた。

 一方、セグウェイ部では五人体制となった初日から、それぞれが思い描く理想のセグウェイについての会議が開催され、一学期に製作する一台を決めるためのコンペまで開かれた。言わずもがな、圧倒的な発想力を有する部長がその熱意と革新さで全てをかっさらった。

 さらに忘れてはいけないのが委員会である。記念すべき初回では、大型連休後最初の委員会で今年の文化祭のテーマを決定すべく、あらかじめクラス内でテーマを一つ決定せよ

というお触れが出た。ちなみに去年のテーマにはカフェが採用され、渋みからファンシーまで種類豊富なコンセプトの装飾で教室内だけでなく、敷地内すらもいっぱいになった写真の数々が紹介された。

 早速翌日から意見を募集したものの、一人一人が持つ熱量が極めて高いため迅速な決定は不可能であった。ゆえに、大型連休が明けた最初の登校日に仁義なきコンペを開催することに決まった。委員会の先輩に聞いたところ、この流れは伝統といっていいほどにどのクラスも直面するらしい。

 授業や休み時間、加えて部活や委員会で忙しいながらも高校生活を満喫していると、いつの間にか明日から始まる大型連休が話題の中心にいた。

「楽しい時間ほど過ぎるのが早いというけれど、この一か月間は本当にその通りだったな。今日も最終下校時刻まで部活に励んでいたあたり、フェルトも高校生活の面白さを発見できたんじゃないか?」

「そうですね。初めての体験が多々ありましたが、かえって新鮮でどれも印象に残っています」

「満足してくれて何よりだ。まだ見ぬ世界を探求するためという設立目的に沿ってくれているのだから、ダンジョン自体も大喜びだろう」

 わけあってフェルトの顔をチラチラと見ているが、いよいよ不審がられているためここらで切り込んでしまおう。

「そんなダンジョンすらも喜ばせてしまうフェルトにお願いがありまして」

「連休中のダンジョンの管理ですね。以前より相談されていたことなので、問題なく代役を遂行できます」

 学校では学年問わずよく話しかけられ、校内新聞にも載ったことでさらに知名度が上がった。なおかつダンジョンでは連休にもかかわらず仕事を引き受けるとは、入学前の俺の理想像といっても過言ではない。

「フェルトさんには、本当に頭が上がりません」

「さん付けも敬語もやめてください。やけに距離感が空いた気がして嫌です」

「何か欲しいものはないか?」

 学校もダンジョンも充実しているうえに可愛い一面もあるとか、非の打ちどころがなさ過ぎて困る。きっと納税先がフェルトであれば、誰一人として文句を言わず喜んで貢ぐだろう。

「欲しいものですか? では、連休中の旅行で訪れた場所の工芸品をお土産にしていただけると幸いです」

「買い尽くしてくるから任せろ」

 文明レベルなど気にしないから、とにかく旅行先では何らかの文化が栄えていることを祈るばかりだ。露天商でもいようものなら大人買いを見せつけてくれる。

 頭の中が旅行への持ち物ややりたいことリスト一杯に埋め尽くされたころ、にやついた表情を隠せないまま家へたどり着いた。

「野郎ども、くじ引きの時間だ!」

 庭園のトラブル以来、俺の前には初めて幹部七人が勢ぞろいしている。携帯しているエナジードリンクが普段より多いことから、旅行までに仕事を片付ける気概が見える。

「ルールは今までと同じだ。同じ色の紙を引いた同士でペアを組み、連休でダンジョンへの探索者が極端に減少することを利用して、とことんリフレッシュすべく明日から旅行に出発する。さて、誰から引く?」

 いつも通りの説明と質問をすると、必ず誰かしらが俺に同じ質問をする。そして、今回はカツサンドがいち早く口を開いた。

「主はいつ引く?」

「出たよ出たよ。別に俺の順番が何番だろうと俺とペアになる確率は同様に確かだから、そこを気にしてもしょうがないだろう」

 傍から見れば、周りの七人が俺とペアになることを望んでいると思うかもしれない。もしその推測が正しければ、俺は今ごろタワーマンションにだって負けないくらい鼻が高いだろう。

 しかし、真実とは残酷なものである。たとえ俺の順番を聞こうがくじの結果に影響は与えないのは明らかであるのに、それでも全員が熱心に耳を傾ける。その理由は極めてシンプルである。

「主とのペアを避けるためなら、無意味と知れたことでも何でもするさ」

「あまりにストレートすぎて、かえっていじめとも何とも思えない説明を毎度のごとくどうもありがとう」

 俺はよく分かっている。俺とペアになった相手は旅行から帰ってくると、必ずといっていいほどリフレッシュするはずだったのに、と忌憚なき意見を口にするのだ。その原因については、少なからず俺が関与していることも認めよう。ただし、俺だって望んでトラブルを起こすわけでも、巻き込まれているわけでもないのだ。

「結局のところ、何をしようがこの環境では運以外が結果を左右することはないんだ。なら、俺が最初に引くから、それからじゃんけんでも話し合いでもして順番を決めればいいだろ」

 素早く円陣が組まれ七人は話し合いの時間を設けたが、やがて俺の提案に同意するという結論に至った。

「ただ八枚の紙から一枚を引くだけだから、穴が開くほど凝視されても困るし運命の天秤が誰に傾くこともないぞ」

 獲物を狩る際のプレッシャーを背中に受けつつ一枚だけ紙を引いて掲げると、恐らく七人の間には緑が危険という認識が共有されただろう。

 各々が緑色への呪詛を吐きながら、次第にじゃんけんをするために円形になるよう立って構えた。敵討ちさながらの雰囲気を纏って始まった戦いは、あっという間に最初の決着が着いた。

「今日のラッキーカラーが、この偉大なる我の髪色と同じ黒。さらに、片目へのカラーコンタクトにより瞳にすら幸運が宿っている。そんな私が一人勝ちをするのは当然といえる」

 番号を告げることもなく七枚の紙が入った箱に手を入れると、髪をなびかせて颯爽と引いてみせた。

 しかし、彼女の時はほどなくして停止したと思われる。

「……あれ?」

 俺はこの時ほど誰かの表情が一変する様を見たことがなかった。きっと、この先でも滅多に見ることは叶わないと思うほど、勇まし気な表情が一瞬にして呆然とした顔つきへと移り変わった。

「元々箱の中には八枚の紙が入っていた。同じ色の紙は全て二枚ずつ入っていて、俺が緑色を引いた時点で七枚のうち一枚は緑の紙が残っていた。だから、お前が天高く掲げたその紙が緑色だとしても、何ら驚くべきことはないぞ」

「こんなのってないじゃん!」

 普段の泰然たる態度はどこへやら、百人が百人取り乱していると答える有様でやり直しを求めるも、残った六枚の紙は即座に引かれてしまった。

「ノーツ、お主の運気を上げる行いは見事であった。しかし、恐らく怖気づいてであろうな。片方の目にしかカラコンを入れなかったところに、お主の詰めの甘さが出たのだろう。そうした中途半端な努力は、他の誰でもなく自身を傷つけるのがオチだ」

「か、カツサンドを買ってやるから紙を変えてくれ!」

「私は穏やかな旅行の最中に新たなカツサンドを楽しむため、今はカツサンド禁止期間の真っ最中なのだ。もし食べたくばお土産を買ってやるから、無事に帰還することだけを考えておけ」

「その言い方、あたかも俺と旅行すると戦闘に巻き込まれるみたいだけど、俺だって平穏な旅行を求めているからな。戦場カメラマンを志してはいないよ。あれはもうこりごりだから」

 いたって正論を主張したはずなのに、立ち上がることのできない吸血鬼を除く六人から白い目で見られる。この扱いに比較すれば、一人テーマパークという二つ名が出回り指をさされる方がよっぽどマシだ。

「心に傷を負った者同士、他の六人が羨ましがる土産話をするためにも今から盛り上がって準備しようぜ」

「傷が深くて一人じゃ準備できない」

「じゃあ一緒に準備するか、な? 目一杯満喫できるように、二人でチェックしあって荷造りしよう」

「……うん」

 ペアが決まれば、その二人でドキドキワクワクを味わいながら旅行の話や準備をするのが通例だ。だが、俺と遠い目をしているノーツというペアに関しては、周りの同情を誘うほどに重たい雰囲気を醸し出していた。

 ところが、荷造りのためノーツの部屋に集まると、ほどなく騒音へのクレームが飛んでくるほどに空気が一変する。

「ティーセット一式は、吸血鬼の持ち物として必要不可欠であろう! 一体どんな理由で置いていくことができる!」

「ティーカップは認めるがアフタヌーンティーに必要な道具まで持っていくことないだろ! 第一、ティータイム関連ばかりで、他の荷物がスーツケースに入らない」

「お主のバッグに入れればいいだけのことであろう。吸血鬼たるもの、その品格を損なわなために、いつでもティータイムへと移行できるだけの準備が求められる。お主のような無粋な種族には分かるまい」

「どの口が吸血鬼の品格を語る! 最近のところ毎晩のように中華料理屋で出くわすばかりか、メインは変われど必ず餃子を頼む姿を見て流石の俺も引いたぞ!」

「タレや中の具材を変えて、様々な顔を見せる餃子を品よく堪能しているではないか!」

「そういう問題じゃねーよ!」

 確かにくじ引き後は二人してしばらく落ち込んでいた。だが、準備の過程で次第に旅行への高揚感を取り戻し、くじ引きから二十分後には明日の服装について互いにファッションショーを開催していた。

「おいおい、赤いサングラスとか浮かれてるなー!」

「目的地に関係なくアロハシャツを着るチョイスには負けるさ!」

 という風に盛り上がるまでは、スタートダッシュには失敗したものの文句なしの立て直しに成功していた。

 しかし、ファッションショ―の休憩がてら荷造りの時間となると、状況は大きく異なるものとなった。それが、今まさに繰り広げられているお茶会論争である。

 ノーツが無類のお茶好きだというのなら、俺だって少しは配慮をするだろう。だが、こいつのお茶へのこだわりは元の世界からでも何でもない。ただ、この世界では吸血鬼に下される良くも悪くも品が高いという評価に沿うべく、味の違いもさして分からないというのに格好つけてお茶好きアピールをしているに過ぎない。

「例えばの話だ。旅行先でカフェと二郎系ラーメンが隣り合っているのを発見したとする。お前はどっちを選ぶ?」

「二郎系ラーメンだな」

「即答は勘弁してやれよ! もう少し過去の自分をフォローするくらいの努力はしてやれよ」

「しょうがないだろ! ここでは二郎系を食べる機会が限られているうえ、店によって個性が出ると分かっていてカフェを選ぶことなどできまい」

 中心にいる俺ですら虚しさを覚える争いを避けてか、騒音を注意しに来たのであろう連中は揃って踵を返した。だが、誰もがこじれて長引くと考えたこの争いは、旅行先で良さげなティーカップやパックがあれば買ってやるという提案によりあっさりと終わりを告げた。お前にプライドはないのか、品格高い吸血鬼さんよ。

「さてと、必要になりそうなものは一通り詰め込んだし、残すは最適な服装を揃えるだけか」

「まったく、周囲の評価ほど煩わしいものはそうそう見つからないな。私たちからすれば、目的地が暑かろうが寒かろうが服装選びに影響は与えぬというのに」

 俺まで鈍感扱いするところには異議を申し立てたいが、確かにノーツは吸血鬼であるもののスパルタ特訓によって日光を克服している。それゆえ、吸血鬼が太陽照り付ける真夏の砂浜でビーチバレーをエンジョイする姿は、もはや毎年恒例の風物詩となっている。

「お前はいいかもしれないが、俺はアロハシャツで氷河を訪れている姿を見られたくないの。準備不足のために一度だけそれをやったが、周りから三度見される経験はあの一度だけで充分だ」

「確かに、日が昇らぬ地域でサングラスをかけても、写真映えはせぬからな。もちろん環境とのギャップがあろうと我は最高の被写体ではあるが、今回は一定のバリエーションを用意するか」

 億劫そうにしているが、カラーコーディネートを楽しんでいるようなので良しとしておこう。

 周囲から常識外れの観光客と思われないためには、環境に即した服装選びが欠かせない。

特に、俺たちのような観光客はそのために服装に幅を持たせる必要がある。何せ、移動手段の特異性ゆえに、たとえ出発日前日であろうと誰一人目的地を知らないのだから。

「流石は我、完璧な準備をしてしまった」

「俺も用意は済んだから、今日のところは解散して早めに寝るとするか」

 お茶会に関するトラブルを除けば、小競り合いが二度ほど起きただけで問題は生じなかった。

 明日の十時に集合することを確認してから、俺はノーツと別れて早々に寝床に入った。


「時間まで三十分もあるのに随分と早いな」

 出発当日、快眠と朝食で完璧な状態に整った体で心軽やかに集合場所に向かうと、既にスーツケースを携えて爪を眺めているノーツがいた。

「今日に備えて早寝早起きした私を侮るでない。それに見よ、この赤く輝くネイルを!」

 ハットとサングラスの気合の入りようは明白だったが、そこにネイルまで加わるか。

 というか、早寝早起きとはこれまた随分と吸血鬼らしからぬ発言だ。だが、浮かれる気持ちには大いに同意する。俺の身体を纏うオレンジのアロハシャツがその証拠だ。

「気合十分の俺たちに対して他の奴らは遅すぎないか? 旅をなめているのか?」

「その通りだ。我々がこれほど準備万端だというのに、時間も守れない奴らが無事に旅をできるか心配になる」

「お前たち、二人そろって嫌なテンションの上がり方をしておるな。そもそも、一番危機感を抱くべきペアは鮮明であろうに」

「旅行初日は常にカツサンドTシャツとは、もう少し我らを見習ってはどうだ?」

「はいはい、バカンスさんは今日もオシャレオシャレ」

 ノーツを歯牙にもかけないカツサンドを皮切りに、約束の十五分前には全員が姿を見せた。

「忘れものもないようだし、早速五日間の旅行に出発するか」

 いくらダンジョン都市が発展していても、未だに飛行場を実装するには至っていない。そこで、俺たちは俺たちにしかできない手段で長距離移動を実現する。

「くじの順番的に俺たちが最初でいいな。一足先に、リフレッシュに出発だ!」

 軽く手を振ると、俺とノーツはゲートに入る。このゲートこそが、俺たちをランダムな場所へと転移させる、旅行の上で不可欠な移動手段である。確かにランダムであるがゆえに突然危険地帯に放り込まれることもあるが、これを使うのはタフな連中ばかりなので何とかなる、はずだ。

「さてさて、今回は一体どこへ繋がるやら。まあ、どこであろうが我は問題ないがの」

「危機を招きかねないお手本のような台詞をありがとよ」

 ゲートに入って数秒経つと、目の前にはすっかり別の光景が広がっている。そして、今回の俺たちの旅先は

「これはこれは、一面砂しかないな」

「どんな場所に連れていかれると思ったら」

「「随分と恵まれている」」

 周囲には生命体も建築物も見当たらないが、それはそれで都合がいいのだ。経験上、ゲートをくぐった先に誰かがいるとロクなことが起こらない。

「少し前の旅では、勇者と魔王が一騎打ちする場面に折り悪く出くわしてしまったからのう。あれは中々気まずい思いをした」

「あと、ランダムだからこそ、俺たちの意志に関わらずゴシップに巻き込まれるパターンもあるな。王妃が使用人と不倫している状況に遭遇したときは、即座にその国から脱出することに決めた」

 俺たちに限らず、あのゲートを使用する者であれば何かしら苦い経験はしている。それらを考慮すると、砂と空のほかには何も視界に入らない場所は理想的ともいえる。

 とはいえ、砂漠に立ち尽くしてもこの世界の情報は手に入らないため、適当な方向に歩いてみる。数分歩くと、やがて背後から人の気配が迫ってきた。

「おい! そこの」

「びっくりした!」

 白いローブを被った男が怒気をはらんだ声で呼びかけた、ところまでは只事ではないが別に構わない。問題は、ネイルに見とれていたため、背後から聞こえた大声に過剰なまでに驚いたノーツがスーツケースを放り投げた結果、後ろに見える白いローブが赤く染まってしまったことだ。

 ゆっくりと冷や汗をかくお隣さんへ向き直ると、ノーツは目を泳がせながらも弁明をする。

「だ、誰かに話しかけるときには和やかな態度を向けるべきなのさ。それを守れなかった点で、こやつにも非はあると思わぬか?」

「経緯はどうあれ、既に背を向けて逃げる気満々の奴が減刑を求めるのは駄目だろ」

「そもそも、こいつは一人で砂漠にいるわけだし遭難者であろう。ならば、綺麗に現場を整えてしてまえば問題ないだろう」

「お前も気づいているだろうが、すぐ近くの地下には何らかの気配がする。さらに、すっかり変色した白いローブを見るに、遭難していたとはとても思えない仕上がりだ」

 呼吸どころか光合成する存在すら見当たらない土地、その地下に複数の気配が集っている。これが健全な集会である方が驚きだろう。その構成員の一人を集会所のすぐそばに放置する選択肢はもっと驚きだ。

「とりあえず、洗濯に失敗したローブは真っ白に戻してくれ。俺はそれを着て集まりに参加、ノーツは迷える子羊を導いてくれ」

「私の負担が重いな。仕事の比率の変更を求める」

「余計な仕事を生み出したのはどこの誰だっけなー」

「こちら、一滴残さず抽出し終えた純白のローブになります。これより、迷える子羊を自然に還します」

「うむ、ご苦労」

 子羊の案内を始めたノーツを横目にローブを被って気配を感じる辺りまで歩を進めると、物理的にも魔法的にも迷彩を施された地下への扉を発見した。

 どうか砂漠化を考える会みたく、極めて健全でなおかつ柔和な空気が充満していることを祈るばかりだ。

「ゼロゼロ七番遅刻だ。三日後には魔王様を復活させる儀式が控えているというのに、貴様には危機感がないのか?」

「もちろん分かっているとも。当日は任せてくれ」

 こんにちは、健全と柔和のどちらの意味合いにも一切引っかからない会合さん。おかげで、この世界の言語体系を習得済みであるという発見を喜んでいる暇もない。

 飛び跳ねることが許されない状況下で新発見が増えるなか、会合はよく分からない赤い石を掲げてよく分からない文言を口にして終わりを告げた。

「随分と年老いたようだ。それで、集会に参加して分かったことは?」

 最後に秘密基地を出ると、気配を消していたノーツが地上へ降りて尋ねてきた。

「知りたくもなかったことばかりだ。全部で七人の組織員から構成された白ローブの集団は、この世界で五十年前に滅びた魔王を復活させたいらしい。なおかつ、各々が一つずつ持っているこの赤い石は、復活のために不可欠なもののようだ」

「ふむ。要するに、かなりマズイことに関わっているんじゃないの!」

 極めて面倒くさい出来事に巻き込まれた事実は覆しようもない。しかし、そこから脱するシンプルな手段を俺は既に熟知している。

「どうせこの石は露店かどこかで手に入れたものに違いない。さあ、演技の割には本格的だった集まりなど忘れて、早く観光に繰り出そうぜ」

「……町のある方向であれば把握している。小腹を満たすためにカフェを訪れてから、名所の数々を堪能しようじゃないか」

 これは現実逃避ではない。どんな困難に直面しようとまだ見ぬ世界を楽しもうという、際限なく広がる知的好奇心の表れである。

だが、もしかしたら現実が知的好奇心を凌駕する場合に備えて、念のためローブと石は持っておこう。

「先ほどまで目にしていた砂漠を鑑みると、ここはまさにオアシスだな」

「植物、噴水、水路とは随分と散歩しがいのある、観光に最適な街を引き当てたな。加えて目の前にはテラス席を備えたカフェまであるとか、運命としか形容できない縁を感じる」

しばらく歩くと視界に入った幾つかの門には証明書を確認する警備兵が見えたので、素知らぬ顔で結界の一部を破って街にお邪魔する。すると、目の前にはこれまでの過程を吹き飛ばすような、周囲の地形を忘れてしまうほど発展した涼やかな町並みが広がっていた。

 リフレッシュという目的に従事すべく、あちこち見回しながら一軒のカフェに入店する。

「一悶着あったが、やっと一息付けるな」

「このカフェも中々見どころがある。新聞が常備されているカフェとは、私の品性がますます磨かれてしまう」

四コマ漫画を探すノーツを尻目に適当な雑誌に目を通すと、この町の観光スポットとして人と魔族の友好の証が数多く取り上げられていた。なおかつ、三日後に迫った建国祭に向けて様々な催し物があるという情報も掴めた。

ノーツが真剣な面持ちで新聞を読む間、注文した飲み物を運んできた店長としばし話し込んでからコーヒーらしきものを口にする。どこか見覚えのある人と飲み物、世界をまたいでも新しいことばかりでないのも悪くはない。

「熱心に読んでいるが、新聞から何か得るものはあったか?」

「私たちが滞在する間は毎日晴れるらしい。すなわち、観光をするのに適した天候が待ち構えているということだな」

 ノーツの注目を引けたのは天気予報だけらしい。子供に新聞を読む習慣を付けたいのであれば、ノーツをサンプルにして聞き取り調査を行うべきだろう。どこで躓くかよく分かる。

 店内を流れる穏やかな曲で思う存分リラックスできたので、いよいよお勉強もかねて街を練り歩く時間が来た。

「やっぱり街中に水路があるっていいよな。移動手段がゴンドラな点も魅力的だし、何より見ているだけで涼やかな気分になれる」

「それに何より、ゴンドラに乗って移動する我は絵になる。というわけで早く乗りに行くぞ」

 気持ちのいいくらい自分本位なノーツに引っ張られて乗り場に向かうと、気前のよさそうな船頭が俺たちに手を振っていた。

「お若いカップルさん、どこへ向かいますか?」

「カップルとは随分とユニークな発想をする船頭だな。この男とカップルになりたいと思うほど我は物好きではない」

「完璧に同意だ。彼女とそんな関係になるとか、悪夢以外の何物でもないですから」

「おい、我が言うならまだしも、お前が偉そうなことを言える立場にあると思うか?」

「さっきのカフェでは、忙しそうにする店員さんを見て声をかけるのをあれほどためらっていたくせに、あの遠慮はカフェに忘れてきちまったのか?」

「まあまあ、今のところはお友達としておきますよ。それで、どちらへ向かいます?」

 平和主義を象徴するような俺だが、ノーツに喧嘩を売られたときは別だ。たとえスルーしようとも、吸血鬼の品格など捨て去って執拗に煽ってくるのがノーツの十八番である。

 しかし、ノーツと同列に見られる危険性を考慮すれば自然と熱も引いてくる。

「今日この街に着いたばかりなので、どこかお勧めのスポットに案内してくれませんか?」

「はいよ。大船に乗ったつもりでいてください」

 ノーツとは互いにけん制をしあいながら船に乗り込み、ついに初めてのゴンドラ体験が始まった。

「見ろよ、こんな近くに住宅がそびえ立っているぞ! ちらほら橋が架けられているのもいい味出してるぜ」

「この住宅街とオレンジの橋を背景に写真を撮ってくれ!」

「俺のカメラテクに任せな。ここで撮ったら、次のクリーム色の橋で写真を頼む」

「我ほどのレベルになれば、モデルとしての腕はもちろん、撮る側になろうと最高のパフォーマンスを見せることなど容易だ」

 すっごい楽しい。陸や空から見る景色とはまるで違う。住宅の間を縫って移動する景色も、開けた通りで食べ物を売る船が当たり前にいる景色も、現地の生活を感じ取れて最高だ。

「お二人さん、あの橋と写真を撮った二人は結ばれるという噂がですね」

「どの家も窓辺に植物を置いているな。その心がけ、ぜひとも採用したい」

「なら、花の博覧会に行ってみないか。天気予報のすぐ下の広告で取り上げられていた」

 何故だか笑っていた船頭に博覧会について尋ねると、十分程度で行けるらしく喜んで案内を引き受けてくれた。

「こちらがご要望の展覧会会場になります。お代は結構ですから楽しんできてください」

「そうは言われても俺たちの我がままにも付き合ってもらった以上、料金はきちんと払いますよ」

「いえいえ。こちらこそ良い体験になったので本当に結構です」

 やだこの船頭さん、格好いい! 正直、今の所持金は白いローブからたまたま落ちてきたコインで全てのため、その申し出は非常に助かる。

 せめてもの感謝のしるしとして、日本で培った真心をこめたお辞儀を披露して船頭さんとは別れた。

「これはこれは、いくらフィルムがあっても足りなそうなほど壮大であるの」

 ノーツがそう漏らすのも無理はない。展覧会では、広大な面積を誇る庭園には種類豊富な植物の数々が見事に植えられている。食事処まであると知ってしまえば、丸一日ここに費やすことも苦にならないだろう。

 入場してから約三時間、俺たちはひたすら植物を見て匂いをかぎ写真を撮るという一連の動作を繰り返した。どの植物にも愛着を持ってしまったが、特に目を引いたのがこの国の国花だった。

「緑は平和を象徴する色であり、幾重にも重なる花びらは安寧が長きにわたって保たれることへの祈念を示している、ね」

「水をやらねば緑も花びらも失われてしまうからこそ、小さな努力の積み重ねが求められると伝えているわけか。裏を返せば、何をせずとも享受するものは平和などではないということじゃの」

「間違ってはいないけど、後半は心に秘めておいてもいいんじゃないか。珍しくどや顔をすることもなく、良いことを口にしたと思ったのに」

「我が何かを言えば、その全ては名言であり格言となるのだ」

 胡散臭さを前面に押し出すノーツをは国花目当ての群衆の中心に置いて、庭園を一望できると噂のレストランに向かうとしよう。

 エレベーターに乗って庭園の中央におびえるタワーの最上階に昇ると、色とりどりの草花が飾られていた。どうやら、徹底的に植物を身近に感じさせようというこだわりがあるようだ。

「勝手に一人で行くな! 本当にびっくりしたぞ。気が付けば、周囲には鬼気迫った顔でカメラを構えた者どもしかいなかった。思わず安寧を祈る気持ちはどこへ行ったとツッコミたくなったぞ」

「よく我慢したもんだ。もし口にしていれば、花なんてお構いなしの騒動が起きても不思議じゃなかった。お前の行動が国花を守ったんだ。よくやったぞ」

「私の心配をしろ!」

 平和を象徴する国花を見ても、ノーツの心に安寧は訪れなかったようだ。その代わり、自然の恵みを生かしたという料理を並べたメニューが、怒れるノーツをすっかり鎮静化させた。

「決めたぞ、私は食用の花を添えたカレーにするぞ」

「本当にいいのか、オムライスという選択肢もあるぞ」

「お前から取るから構わん。そして、当然ながらお前に私のカレーはやらん」

 今のは、見た感じ大人しくなった相手を迂闊に煽った俺のミスだな。このミスを取り戻すべく、意地でもオムライスを死守させてもらおう。

 互いに植物よりも料理を持ったウェイターの動きを注視すること数分、普通のカレーやオムライスではまず見ることのないピンクや紫がお皿の上に同居している。

「早く写真を撮ってくれ。せっかくだし、料理単体と俺とのツーショットの二枚分を頼む!」

「任された! 二枚撮ったら私と交代な」

出来たてを味わうべく速やかに撮影を終えると、ついに未知数の期待を抱かせる料理と相対する。

それにしても、隣の芝生は青く見えるならぬ、向かいのカレーは青く見える。というより、本当に青いのだけれど。

「取り皿を頼んでシェアしないか?」

「臨機応変に対応出来ない者は淘汰されていく。それを熟知している私だからこそ、いつでもシェアする用意はできている」

簡単に手のひら返しをしてしまうことを反省せねばと考えるときもある。だが、手のひら返しをするには、一度は固そうに見える意志を持たねばならない。俺は、その意志を持っただけで大したものであると思う。それが覆ってしまったならば、目の前でノーツによって手際良く取り分けられている料理を潔く讃えようじゃないか。

「旅先における最初のお昼を植物に囲まれながら食べるなんで、俺たちは相当なセンスの持ち主だな」

「しかもカフェに寄り、更には国花を含めた植物の数を鑑賞した後のお昼だ。他の連中を寄せ付けない、圧倒的なスケジュールの実行に成功している」

ある程度お金を費やすことは求められるが、そのおかげで素晴らしい経験をできている。一時はどうなることかと思ったが、あの白いローブの彼には感謝してもしきれない。

しかし、そんな彼も観光用にお金を消費するとは予期していなかったのだろう。

「ちなみに、この後はカフェでバイトがあるから食べ過ぎるなよ」

「随分と面白い冗談だ。オムライスにカレーをかける至極の組み合わせを知って、少しばかり浮かれているのか?」

「その組み合わせを実現するための費用を差し引くと、何度財布を振っても全く音がしなくなるんだ」

「え、マジで?」

 言葉だけでなく実演してみせたことで、心の余裕を素直に表現していたノーツの表情はとたんに崩れた。

 ノーツには隠していたが、カフェでメニューを見た時点で一文無しへのカウントダウンが迫っていることは察していた。だからこそ、ノーツが新聞と格闘している間に雑誌でその日払いの求人を探し、結果として俺たちが訪れたカフェの店長と交渉しバイト先が決まった。

「バイト、この私が、バイト……」

 明らかに動揺しているが、スプーンを持つ手はなおも動き続いているためホールでもキッチンでも心配ないだろう。

 結局、ほぼ同じタイミングで食べ終えたため、ノーツが従来の落ち着きを取り戻すまでの間、店内に飾られた草花を愛でることにした。

「さて、お腹も満たされてすっかり冷静になったようだし、より多くの収入を目指して急いでカフェに戻るとしよう」

「こうなった以上、完璧に働く様を見せつけて半日だけで旅行費用を全て稼いでやる」

「そうこなくっちゃ。制服やら何やらは向こうで貸し出しがあるから、すぐに仕事に取り掛かって洗練された動きを見せつけてやろう」

「それにしても、よくもあの短時間で働き口とその環境まで知る機会まで持てたものだ。今更だが、私たちにはこの世界で身分を証明できるものも、入国するための手形も持っていないというのに」

「ちょっとばかし工夫を凝らせばどうとでもなる。その工夫の一環として、俺たちは兄弟になっているから口裏合わせは頼むぜ、お姉さま」

「気持ちわる! まさかお前にお姉さまなどと呼ばれるとは、身分を装ったことを思わずスルーしてしまうわ」

 失礼この上ないノーツへの文句への抵抗を我慢して、俺が店長に聞かせたお涙頂戴なストーリーを話したことで、カフェに戻ったころには見事な芝居を打てるようになっていた。

「店長、お待たせしました。ただ石を積んだだけのお墓ではありましたが、かつては栄華を誇ったご先祖への挨拶は果たせました」

「先ほどは弟が無理を言ったようですが、きちんと叱っておきましたのでどうかお許しを」

「いえいえ、お二人の力になれればこちらとしても幸いです。では、早速制服に着替えてもらいましょうかね」

 案内に従って素早く白いシャツと深緑のズボンに加えてエプロンを纏うと、それぞれ皿洗いとホールを担当することに決まった。

「せいぜい皿を割らぬように気を付けることだな、弟よ」

「お姉さまこそ、料理をひっくり返さぬようお気をつけて」

 バイトの経験など一切ないが、皿洗いは本当に皿洗いだった。特に魔法や食洗器を使うわけでもなく、水と洗剤を駆使して運ばれたお皿に輝きを取り戻させる繰り返しである。

 極めて単純な作業ではあるが、周囲の調理している様子を見ることができるので退屈にはならない。

あとでノーツには、お望みのフランベはたとえキッチンに配属されても必要とされなかったと告げておこう。ノーツはフランベが好きなんだ。

単純な作業でも、そこに面白さを発見してしまえば時間はあっという間に過ぎ、気付けば太陽はすっかり姿を隠し始めていた。

「ホールの仕事は順調か?」

「誰に聞いておる。我の流麗な動きには、客が素直に賞賛を口にするほどじゃ」

 夜のピークを前に休憩を与えられたためノーツと話していると、やけに肌がつやつやしている理由が分かった。

「やはりこの店は申し分ない。何より、ここに通う客には見る目がある」

「満足してくれたなら良かった。その勢いのまま、ピーク帯も見事に乗り切るとするか」

 ノーツが駄々をこねた場合の対処法も考えてはいたが、それが無駄になるに越したことはない。店内に戻った瞬間にホールスマイルを装着できるレベルに到達したのだから、流石に褒めて伸びるノーツなだけはある。

「何じゃ、その口の利き方は。捻りつぶされたいのか?」

 何事も慣れてきたと思ったときにトラブルが生じる、というのはよくある話だ。まさか、ホールに戻って最初に応対した相手ともめ事を起こすとは想定しなかったけれど。

「被害者に向かって、どういう口の利き方だ! こちとら、お前が運んできた料理を食べたら髪の毛が出てきたんだぞ! どう責任取るつもりだ!」

「お前が仕込んだ髪の毛なんぞどうでもいい。それより、この我に向かって怒鳴り散らすとは良い度胸をしている。ご注文は八つ裂きか?」

 同じスマイルなのにその背後には他がかすむほど並々ならぬ敵意が良く見える。いや、たった数時間とはいえスマイルを保てているだけでも、ここで働いた成果が出ていると考えるべきか。

 バイトを通してお姉さまが学びを得たというのなら、弟も負けるわけにはいくまい。

皿洗いを中断して、クレーマーとノーツの間に割って入る。

「私の姉が大変迷惑をかけて申し訳ありません。ですが、ここは他のお客様もいらっしゃるので、これ以上はご遠慮ください」

「被害に遭った俺に引き下がれって言うのか? そいつはあんまりに馬鹿らしくて付き合ってられねーな」

 たったの数秒言葉を交わしただけでも、何を言っても状況は改善しないことが明らかになった。

 だが、俺くらい数多くの経験を積んでいると、今すべきことは容易に浮かんでくる。ずばり、何を言っても無駄なら言い方を変えてみよう作戦である。

「少しお耳を拝借しますね」

 抵抗する暇も与えずに耳元に口を近づけて囁くと、クレーマーの顔色は唐突に青白くなり、次いで一つの荷物すら持たずに謝罪を口にして走り去っていった。

「お騒がせしました。当店の料理に髪の毛が混入することはありませんので、安心してお食事を続けてください」

 とんだ客もいたものだが、意外にも聞き分けがよくて助かった。おかげで、すぐに皿洗いに復帰できることに加え、店長からのボーナスも期待できるかもしれない。

 そして、その目論見は見事に的中した。

「君には本当に助けられたよ。午前中に応募したいと言われたときには驚いたけれど、君たちを信じたことは正解だったようだ。せっかくだし、今夜は泊っていくといい。もちろん夕飯も出すよ」

「ありがとうございます。お言葉に甘えさせていただきます」

 己の幸運ぶりには畏怖の念すら覚える。旅先で早々に変な集団の一員となったことと、俺もノーツも換金に使える持ち物をすっかりダンジョンに置いてきたことを除けば、この世界で一番幸運を呼び込んでいる自信がある。

「よいか、一度しか言わぬからよく聞いておけよ」

「急にどうした? この辺りには詳しくないから、お花摘みの場所なら締め作業をしている店長に聞いてこい」

「お花摘みと違うわ! あの迷惑でしかない客のことじゃ。頼むから、私の近くで殺気を出さないでくれ! 追い出すためということは分かるが、次からは私が距離を取ったことを確認してからの行動を求める」

 珍しく感謝でもされるかと思いきや、まさか涙目で真っ当な注意を受けることになるとは。あの騒動の直後、どうもスマイルがぎこちないと思ったが俺のせいだったのか。

「そんなに怖がるものでもないだろ。第一、殺気の扱いであれば俺よりむしろお前たちの領分だろ」

「扱いという点ではそうかもしれないけど、お前からは常に実行の意志が見え隠れするから怖いんだ! あの場にいた他の奴をもっと見習え。忘れたとは言わせないぞ。去年のちょうど今頃、私とカツサンドがふざけあった結果として寿司を乗せたお盆がひっくり返ったとき、お前は殺気を出すや否や」

「あー、あの時のガリがまた食べたいな」

「分かりやすく誤魔化すな!」

 確かにあのパーティーを通してダンジョンの地図を修正する必要が生じたが、それは食べ物を粗末に扱った当然の帰結としておこう。

 去年のことを思い出して感情的になったのか、次から次へとノーツからは不平不満が漏らされる。本来であれば、どれもお前に責任の一端があると反論するところだが、今日だけは大人しく受け止めよう。

 あのクレーマーを追い出して洗い場に戻る際、本当に小さな声ではあったが、あのノーツがありがとうと口にしたのだ。バイトを介して成長したのであれば、俺としても今日くらい大人の対応を取ってやろうじゃない。

「一切お前から反論がないと逆に恐ろしくなってくる。よもや寝こみでも襲うつもりか?」

「誰が襲うかよ。そもそも、明日は朝から新聞と牛乳の配達があるから、夜中に体力を使うなんて阿保らしい」

「それ、初耳なんだけど」

「キッチンの人たちと仲良くなって事情を軽く話したら、その仕事とこのカフェで掛け持ちしている人が紹介してくれたんだ。設定は今日のままだが、職場の人と接し続ける仕事でもないから安心してくれ」

 カフェが休みであることや午前中で終わることを告げても、ノーツは動揺するばかりで俺の肩を揺さぶってくる。しかし、締め作業を終えた店長が戻って来るや否や、己のプライドのためか声は上ずっていたが落ち着きを取り戻した。

「待たせてすまなかったね。既に君たちのご飯も用意しているらしいから、早く家に向かうとしよう」

 店長についてカフェから十五分ほど狭い路地を歩くと、暖かな灯りのともる一軒家に到着した。

「決して広くはないがくつろいでくれ」

「随分とオシャレな家ですね。ガーデニングといい壁の色といい、店長のこだわりですか?」

「いやいや、僕はそっち方面のことはからっきしでね。僕の妻が考え抜いた賜物だよ」

 ああいう仕事ゆえか指輪はしていない店長と話していると、新たに一人会話に参入する。

「あら、お二人が夫の話していたカフェのエースさんたち? さあ、遠慮せずに上がって」

 店長が開けようとしたドアを先んじて開いたのは、全てを包み込むような母性がにじみ出ている店長の奥さんだった。

「突然の訪問、申し訳ありません」

「気にしないで。むしろ、私たちの方こそ助けてもらってありがとう」

 まだ玄関にも関わらず既にリラックスしてしまっている。労働の後には癒しを得る機会を持つことがこの上なく重要だと、改めて認識させてくれる。

 奥さん先導で手を洗い、椅子まで引いてもらって食卓に着くとまもなく夕食の時間となった。

「お口に合うかしら?」

「僕の好みを熟知しているとしか思えない味付けです。スプーンを持つ手が止まりませんよ」

「張り切って作って良かったわ。お代わりもあるからたくさん食べてね」

「ならば、早速サラダとスープのお代わりを頂きたい」

「ええ、もちろん!」

 辺りをキョロキョロと見回していたノーツがようやくお客という立場を想起したかと思いきや、単に食事に熱中していただけか。お皿の上が再び一杯になるのを、スプーンもフォークも握りしめて待ち構えている。

「お姉さま、食事を楽しむのは構いませんが節度は保ってくださいね」

「分かっているさ、弟よ。修練を積んだ我に礼儀作法で右に出る者は滅多にいない」

「そういうことは、スープで付けたひげを拭いてから言ってください」

「ふふふ。二人は本当に仲が良いのね。会ってから少ししか経っていないのに、二人の結びつきの強さがよく分かるわ」

「それを言えば、お二人の方が相当に仲睦まじいと思いますよ。お互いを信頼しあっていることが伝わってきます」

 奥さんは嬉しそうに微笑むが、やがて頬を少し膨らましていった。

「家では指輪をしてくれるんだけど、お仕事のときにはちょくちょく忘れちゃうのが最近の夫への不満でねー。すっかりキッチンからホール担当になったんだから、忘れないでほしいものだわ」

「ついつい昔の癖でね。次からは気を付けるさ」

「今まで何度、その言葉に騙されたことか」

 こうも二人だけの空間を演出されてしまうと、客としては食事に集中するほかない。二人が醸す雰囲気などお構いなしに食事に夢中なノーツが羨ましい。

 しかし、流石のノーツも食事が終わってしまえば二人を見るしかない。そして、目を背けたくなるほど眩しい二人のやり取りは食後も続いた。

「君は張り切って料理をしてくれたんだ。疲れもあるだろうし、皿洗いは僕に任せなさい」

「いつまでも病人のように扱われても困るわ。けど、私への思いやりに免じて、今日のところは引き下がります」

 愛とは偉大である。何人も干渉できない幸せを生み出してしまうのだから。

「詩人のような顔をする暇があるなら我に付き合え」

 温もりの欠片すらないノーツに突如として引っ張られるかたちで、夜風に当たるという建前のもと家の外に出た。

「あの二人のこと、お主はどう思った」

「仲睦まじい夫婦、という称号を与えるだけでは満足してくれないよな」

「当然じゃ。特に店長に関してはの。無礼な客が店に来たとき、どこぞの加減知らずに見習ってほしい殺気の出し方をした奴がおったことは覚えておるな」

「分かっているさ。お前が言わんとしている正体も、やけに厳重なセキュリティも、それから見慣れた魔力反応のことも」

「ならば、何故わざわざゲストとしての招きを受け入れた。情報を集めるためであれば、他にも方法はあるというのに」

 間違いなく、ノーツは俺が気付いたこと全てに同じように気づき疑念を抱いている。だからこそ、この質問は俺が予期したとおりであり、俺の答えもまたノーツが想定したものとなるのだ。

「そんなの決まっているだろ。反旗を翻さんとする連中について深く知りたい、ただそれだけのことだ」

 決まり切った返答に呆れたように笑みをこぼすと、ノーツは颯爽とデザートを求めて食卓に戻った。どうか店長には、三日後も同じように団らんの中心にいてほしいものだ。

 提供された料理を余すことなく平らげてからシャワーを頂くと、明日に備えて早々と就寝することにした。

「まさか、この我が屋根裏で一夜を明かすことになるとは。予定では、使い道が分からないほどある枕に困惑するはずだったというのに。明日こそは、睡眠にうるさい我を納得させる三ツ星ホテルに泊まってくれる」

「無茶を言うな。新聞と牛乳を配達するついでに世界でも救うほか、一つでも星が付いたホテルに泊まる術はない。加えて、残念ながらこの国は平和と共存の道を歩んでいるから、救える余裕がまるでない。要するに、星に手は届かない」

 意外にも返事がないため隣を見てみると、既に心地よさげに熟睡しているではないか。

「お前、星の必要ないだろ……」

 見知らぬ土地で労働した結果として快眠に成功したおかげで、翌日は朝日が昇っておらずとも爽やかに目覚めることができた。

 叩き起こしたノーツから罵声を浴びながら速やかに身支度を整えると、平穏な朝に相応しく静かに店長の家を出た。

「にしても、俺とお前で支度にかける時間が一緒でいいのかよ。もうちょっとこう、あるんじゃないか」

「お主が我と乙女の事情の両方に疎いことはよく分かったわ。確かにただの乙女であれば、身支度の際に気を遣う箇所も多かろう。だが、我ほどにもなると、素材への干渉は僅かばかりで充分なのじゃ。酢にコショウという餃子への最適解に対し、他の調味料を付け加えぬというもの。つまり、酢コショウが最強というわけじゃ」

「洋風の料理ばかり食べた影響で、お前の食欲が中華に染め上げられていることは分かった。ちなみに、醬油にラー油のようなアクセントを加えるのが最適解だ」

 対立する二つの意見が衝突したときに平和が保たれるはずもなく、配達員用の集合場所に着くまでタレ争いは続いた。だが、決着をつけるにはあまりに短い移動時間であった。

 ゆえに、俺たちの間に講和条約もへったくれも生まれはしなかった。

「指定された住所に配達を行うだけではつまらぬ。せっかくの機会だ。我とお主でより多くの配達を成し遂げた方を、真のタレリストとしようじゃないか」

「上等だ。当然、この戦いの敗者には自身のタレの流儀を捻じ曲げてもらう」

 ノーツとの間で火花を散らすなか、説明を終えたはずの主任に声をかけられた。

「じゃあ、君たちはそれぞれこの紙に書かれた所を周ってくれるかな。新聞と牛乳は必要分だけ積んでおいたから、すぐに出発できるよ」

「あ、はーい」

「……任された」

 俺たちに渡された紙を見比べると、どちらも中身は異なれど同数の住所が記載されていた。そして、既にその数だけ荷物が積まれている。

 冷静に考えれば、住所のリストが配られるのは当然の流れだ。しかし、きっと俺たちはタレの熱に犯されていた。

「じゃあ、安全運転で頑張るとするか」

「急いで牛乳瓶を割ってしまったら、目も当てられないからな」

 万が一にも勝負に負けて醤油とラー油を失わずに済んだと考えよう。

 互いに相手の唱えるタレへのこだわりに若干のフォローを入れて以降、静寂に包まれる中で配達を開始した。

 周囲の建物に目を配りつつ配達を進めると、心地よい風に後押しされたおかげで太陽が完全に昇りきるまでには終えることができた。

「少し前から朝の運動を始めたおかげで、かなりの健康体になれたんじゃないか。よく頑張っているぞ、俺」

「健康のためにわざわざ運動とは、随分と不便な身体をしておるな。我ほどになると、何ら努力をせずとも完璧なプロポーションを保てるというもの」

「夜に食べるラーメンは内臓脂肪の増加を助けてくれるらしい。最後に体重計に乗ったのはいつだ?」

 手を顎に当てて過去を振り返ること数秒、ノーツは最適解を導き出したようだ。

「朝食までは時間があることだし、暇つぶしがてらこの辺りを散歩しないか?」

 歩くという文字が似つかない速度で約三十分周遊をしてから、朝食に胸を弾ませて店長の家へと戻った。

「あらあら、朝から運動なんて健康的ね。あなたも最近は夜遅くまで起きがちだし、生活習慣の見直しの参考にしてみたら」

「心配しなくても、もう少し経てば元の生活習慣に戻るから大丈夫だよ」

 一家団欒に紛れ込んで食べる朝ご飯の美味いこと。朝食後にはお別れを告げると思うと、より一層温かいご飯が印象に残る。

 何とも名残惜しいことに、魅力的なご飯と雰囲気のせいか団欒の時間はあっという間に過ぎ去ってしまい、いよいよ最後の挨拶となってしまった。

「本当に出発してしまうのかい? せめて、お祭りの日くらいまでは泊ってもいいんだよ」

「そうよ。私たちに気を遣う必要なんてないのよ」

「その申し出はありがたいですが、これ以上お世話になってしまえば堕落してしまいますよ。今出発することこそ、俺たちにとってのケジメなんです」

「どうにも一箇所に留まるのは我らの柄ではない。綿毛のように漂うくらいが丁度いい」

 なおも二人は引き留めようとするが、近いうちにまた顔を見せる、手作りのお弁当を受けとる、という二つの条件を受け入れたことで、俺たちは店長一家と別れを告げた。

「店長まで食い下がるとは意外だったな。奴としては、我らのような者を近くには置きたくないはずだろうに」

「店長にも店長なりの事情があるんだよ。そんなことより、腹ごなしに自転車に乗らないか?」

「腹ごなしは構わぬが、自転車を獲得するための支出がもったいなかろう」

 態度とは裏腹に、案外現実的な指摘をするものだ。流石に、自ら働くことでその対価を獲得しただけはある。

「懐事情を慮る態度は賞賛ものだ。だが、その点を気にすることはない。少額で参加できる自転車巡りのツアーに申し込んできた」

「またいつの間に手配してきた?」

「あの主任に観光スポットを聞いたら、主任を介してツアーのチケットを購入することに成功した」

 無論、主任にお金を騙し取られることもなく、ビラに記載された場所に向かうとガイドらしき人物が立っていた。話は既に聞いているらしく、荷物を預けたら早速出発する運びになった。

「二日後には祭りが迫っているからか、街全体が活気づいておるな」

「やっぱり祭りは良いよな。装飾を施された街並みだけじゃなく、住民の表情も明るくしてくれる」

「二人とも建国記念祭に興味津々だね。もう既に祭り仕様になっているエリアもあるが、当日は目のやり場に困るほどの賑わいになるからぜひ参加してくれよな」

「そのお祭りは毎年そんな大規模に催されるんですか?」

「もちろん! 何しろ、散々争いあってきた人と魔族が手を取り合って、砂以外何もない不毛の地に国を作った日なんだ。特に今年は五十年という節目の年でもあるが、そうでなくとも毎年のようにとんでもない情熱が注がれている」

 このツアーに限らず昨日の観光でもそうだったが、兎にも角にもこの国は平和や共存を押し出している。

早くも空や路地、市場にばかり注意を向けているノーツのように、それに飽き飽きしたわけではない。だが、場所を問わずにアピールされると、かえって平和の背景を探りたくなってしまう。

「僕たちはこの国にまるで詳しくないのですが、建国前の人と魔族は具体的にどのような関係だったのですか?」

「今じゃ考えられないくらい対立していたらしい。勇者と魔王の激突を始め、誰もかれもが相手を憎み行動を起こしていた。けど、争いが生んだ両陣営の犠牲者は果てしない数だとされている。だからこそ、お互いに歩み寄った結果としてこの国が作り上げられたのさ」

「その中心は勇者と魔王なのですか?」

「その通り。勇者様と魔王様がそれぞれの代表として、講和条約を結び建国を推し進めた。魔王様がこの土地を作業可能な状態まで改良して提供し、勇者様が発展の基盤となるシステムを作り上げたんだ。魔王様が魔族の所有していた土地を与えたというのに勇者様は何もしなかった、なんていう不届きものもいますがね。いちいち相手にしていられませんよ」

 勇者と魔王の銅像に近づいたため、話は自然とそちらに流れた。

 建国への経緯を聞いたことで浮かんだ仮説と疑問とともに、ツアーでは幾つもの平和の証を訪れた。お昼時が迫ったころ、ついに最後のスポットの案内も終わり長らく乗った自転車ともお別れとなった。

「さほど興味は生まれなかったが、この国を知る良い機会ではあったな。一歩門の外に出れば砂しか見当たらぬというのに、市場には瑞々しい果物が並んでいた。その努力は評価してしかるべきものだ」

 リンゴといって差し支えないだろう果物を食べながらの発言であるため、さながら市場の広告塔のように見える。間違っても、周囲で交渉する客も引くほどに値下げを求めた姿は映せないが。

「市場への評価が高い点は俺も同じだ。それで、両手でも数えきれないほど巡った平和を象徴するスポットの方はどうだ?」

「三つ目あたりから大して変わらぬように見えた故、さして印象に残った場所などありはせぬ」

「平和学習の最中に欠伸をする奴の台詞だな」

「誤解を避けるため言うておくが、我とて争いより遥かに平和を好む。争いであることを理由に、何をしても構わぬという錯覚に陥った連中を見るのは耐えられぬからな。されど、何か証を立てることで平和を確認しようとする態度もまた、我が好むところではない。確認せねば平和といえぬのなら、それは平和という言葉にすがっているに過ぎぬからな」

 片手に食べ終えた果物の芯を持て余しながら考えを述べたノーツは、空よりも遠いどこかを見る目をしていた。かつて戦場となった世界か、それとも戦争の火種に誰もが目を背けていた世界を想起したのかは知りようもない。ただ一つ言えるのは、俺もノーツもそんなシリアスな空気に飽き飽きしているし、一切似合わないということだ。

「せっかくこの辺り一帯で一番の市場を知れたんだ。お弁当のお供を見つけに行こうぜ」

「そうくることは予想済みだ。既にめぼしい店をリストアップしている我に敵うと思うなよ」

 数分前とは全くの別人のようなノーツに先導されて、市場における僅かに一品だけのお供探しが始まった。だが、自分を買えとアピールする食材に目を奪われていたのも束の間、俺の眼は制服へと釘付けとなった。

「この店はだな、何といっても揚げ物が……どうかしたか?」

「制服に制帽、さらには周囲を注意深く見回る様子からして、あれは警官かそれに類する立場だよな」

「周りの連中が道を譲っている以上その線が濃厚だが、別に気にする必要もなかろう。我らはここで地域の日常に身を置くただの観光客じゃ。それより見よ、この眩しいほどの衣を」

「俺たちが入国した方法って覚えているか?」

「それはもちろん……理解した。自然に遠ざかろう」

 この国と砂漠との間には高い石壁があり、そのうち数か所には出入国用の門が存在する。入国の方法はいたってシンプルであり、門番にどこかで貰える証明書を見せればいい。

 しかし、そんな単純な方法を採用する機会に恵まれなかったため、監視と結界を潜り抜けて俺たちは入国を果たした。

 要するに、捕縛される理由しかないのだ。

「私たち、バレていないよね? 追いかけられていないよね? もしもの時は、変身でも何でもしてよ?」

「こんなところで変身しようものなら、あらゆる食材が宙に舞うぞ。まずは落ち着いて、もうすぐお昼だから家でお料理しないと、という態度を演じろ」

「自炊している割にはこの格好は不自然でしょ!」

「サングラスやハットにスーツケースがあっても、自炊している気持ちさえ持てば周りからもそう見えるもんだ」

「そもそも自炊した経験がないんだけど! いつも飲食店とそこで働く皆様にお世話になりっぱなしだし!」

 アドリブに弱いノーツの十八番で注目を浴びることを恐れはしたものの、市場から若干の早歩きで十分程度の公園に着くまでに呼び止められることはなかった。

「誰よりも抜きんでた存在であるからこそ、周囲に溶けこむことも我にとっては容易である」

 サンドイッチを持つ手が些か震えているのは指摘しないでおこう。

ヒールで早歩きになりつつも、派手にこけることもなければリストアップした店の案内も忘れはしなかった。動揺していたにもかかわらず上出来じゃないか。

「もう無くなってしまいおった。味はケチの付けようもなかったが、どうにも箱のサイズが我とは適合しなかったようだな」

「それなら、丁度いいものが来たようだぞ」

「あれはパンの移動販売か? どれ、味のほどを我が直々に評価してやろうではないか」

 肝の冷える思いをした分、確かに未だ空腹感が残っているためノーツについて向かうと、そこには見慣れないパンらしきものと冴えない顔をした店主がいた。

「何とも面妖な外見をしたパンばかりだが、お主のお勧めはどれじゃ?」

「あ、お客様ですね! お勧めは空より真っ青パンです」

「もしかして、パンと書かれたのぼりは別のお店のかな? すみません、間違えたようです」

「うちがパン屋です! お気持ちは分かります。よりにもよって食べ物に青色を採用するなんて、とはお思いでしょうが、どうか怖気づくことなく召し上がってください」

 色だけでなく、クリームらしきものが目と口を形作っているようで気味が悪い。ノーツなどお勧めを聞いたとたんに市場に向かおうとしたが、怖気づくという言葉に反応して即座に購入した。

「我は慈愛に満ちている故、先にお主に食べる機会を恵んでやろう」

「慈愛に満ちているなら上からの物言いを避ける努力はしろよ。あと、端っこだけ持って渡そうとするな。余計にそういうものに見えるだろ」

 たいていの場合、試しに一口というのは歓迎してしかるべきものである。だが、目の前のパンからは明らかに敵意を感じる。口に入れた瞬間、拒絶反応が起きても何ら不思議はない。

 されど、店主が真剣に見守っているなか、危険物認定をして処分してしまうのも忍びない。

「一口は食べてやる。けど、買うことに決めたのはお前なんだから、責任もって食材に感謝をしながら食べるんだぞ」

「何に感謝すべきかまるで分からぬ見た目じゃが、その条件を受け入れようじゃないか。ほれ、食べてみよ」

 恐る恐るパンを受け取り匂いも確かめるも、特に強烈なにおいに襲われることはない。まさか、これほど脈拍を上昇させるパンと巡り合うことになるとは。

「えーい、来るならどんと来い!」

 目を強くつぶって一口食べると、無意識のうちに言葉が漏れ出た。

「美味い、これ美味いぞ!」

 ノーツの顔には信じられないと書かれているが、真っ青パンは本当においしいのだ。

「騙されたと思って食べてみろって。多分、このパンの正体にすぐに辿り着く」

「パンを食べたことで、お主が世迷言を口にしているわけじゃない可能性に賭けるとしよう」

 オブラートを破った発言をもらしたノーツの口にパンが入った刹那、瞳が宝石のように輝いた。

「メロンパンだ! しかも、ほどよい甘さのクリームを採用したいいメロンパンだ!」

 街中であることを忘れた声量で感想を述べると、ノーツの口は真っ青パンを瞬く間に吸い込んでしまった。さながら、魔法を疑うレベルの速度であった。

「店主、他にお勧めはないか?」

「でしたらファッション霞むピンクパンがお勧めです」

 その答えを聞くや否や、俺は即座にお金を払うと同時にピンク色の物体を指さした。

「お主、もしや一縷の望みに掛けるというのか? 外見とネーミングが奇天烈な一方で、どれも味は洗練されているという僅かな希望に?」

「ノーツ、これは誰かが試さなきゃいけないことなんだ。報われる報われないの次元じゃないんだ。やるかやらないか、俺たちが焦点を当てるべきはそこだ」

 固唾をのんで見守るノーツを視界に入れながら、ピンクパンを口に入れるとまたもや自然と言葉が出てきた。

「今度はクロワッサンだ! サクサクとした心地よい食感に加えて、口いっぱいに広がるバターの風味。まごうことなき実にハイレベルなクロワッサンだ!」

「馬鹿な、目がチカチカするほどのピンク色をしたパンだぞ。長持ちさせるためにきわどい材料を採用したようなこのパンが美味しいだと?」

 配慮する余裕すら失うほど、真っ青パンよりも強い警戒心を抱いたからだろう。ノーツを襲った反動も相当のものだった。

「何故本当にクロワッサンなのだ! こんな見た目をしておきながら、素朴でありつつも味わい深い風味を醸し出すとは、お前は何者じゃ!」

「わ、私はただのしがないパン屋ですよ」

 突如指名されたことでしどろもどろになり、オレンジがかった髪を揺らしながら、どうにか声を絞り出せている。

 しかし、店主のそんな動揺など気にも留めず、ノーツはさらに追撃する。

「大したことないパン屋だというならその証拠を見せてみよ」

 何とも返事に窮する質問をするとは思ったが、存外すぐに朗らかな表情と共に答えが返ってきた。

「お二人が来るまでお客さんがいなかったので、今も少し声が裏返っているんですよね……」

「しがないどころか、もしやお前はだいぶ苦しんでいるのか?」

「実を言いますと、パンの見た目が影響して、注目は浴びても中々手に取ってくれる人に恵まれないんです。それでも、私はこの見た目を変えるつもりはありません。私にとっては、これこそが一切の妥協を挟まずに積み上げてきた至極の見た目なのです。だから、売れ残ったパンを家で食べる毎日でも、全然悲しくなんかありません」

 声量が小さくなるばかりか目を腕でこする様を見せられては、流石のノーツも罰が悪そうな眼をしている。踏み込みすぎた反省からか、小声で俺に意見を求めてくる。

「何か悲しみを取り除く方法はないか? これらのパンの美味さを私ももっと広めたいんだ」

「しっかり反省できているようだし、俺としてもお前と同意見だ。ゆえに、一肌脱ぐことにしよう」

 少しは冷静さを取り戻し、黄色い瞳を僅かに覗かせる店主に向かって、俺は胸に手を当てて一つの提案をする。

「俺たちに移動販売を手伝わせてくれないか? 店主のパンへの情熱を知って、俺たちは行動を起こしたくて仕方がなくなった。もちろん、断ってくれても構わない。だが、俺たちのパンへの感動はちょっとやそっとじゃ薄らぐことはないぜ」

 あらかじめ簡単には引き下がらない意思を示すことで、決して気が強そうではない店主の選択を誘導する。半ば強引ではあったが、何らかの形でお礼を提供するという店主の約束付きで、俺たちの提案は受け入れられた。

「協力していただけるのはありがたいですが、具体的にはどのような取り組みをするのですか?」

「このお店のパンの強みは言うまでもなく見た目が持つインパクトにある。さっき店主が口にしたように、近くを通った相手の視線を射止めるほどには外見が強い。では、一体どうすれば注目を購入という行動に移行させることができるか」

 間を空けて店主の期待を存分に高めてから、再び説明を続ける。

「一番シンプルな手段は、ずばり他者の購買活動だ。すぐ近くで品物を買い求める客が視界に入るだけで、その商品への期待値は急激に高まる。さらに効果的に働くのが、商品を通して満足している姿を見せつけることだ。商品を買っても失敗しないことが明らかになれば、周囲の購買意欲は一層高まる」

「なるほど、つまりお二人は」

「パンを食べた姿を見せつけて、ありのままの感想を声高に述べるって寸法だ」

 一見すると高貴な女性が幸福を湛えた表情で食べるパンは、確実に周囲の注目を惹きつけるどころか財布のひもを緩ませる。

 善は急げ。方策の共有が済んだため、場所を移して即座に作戦を実行に移した。

 すると、ノーツに細かな指導を加えるまでもなく、見た目の破壊力と買って正解というリアクションが途切れることのない列を形成した。

「まさか、これほど多くの方が私のパンを買い求めてくれるなんて!」

「小躍りする余裕があるなら、引き続き俺が接客を担当するから追加でパンを焼きまくれ!」

「は、はい!」

 俺たち三人が各々の任務に追われていると、やがてパンへのニーズは間食目的から明日の朝食目的へと変化した。

 本当に今日を迎えるまでは、オーダーが流れ込んでくるほどの盛況を体験したことがないのだろう。パンを焼くことが日課であるはずなのに、店主は慌ただしく作業をし時々は細かなミスもした。しかし、やがてはペースも安定し、お客に笑いかけるくらいの余裕は持てたようだ。

 ふと街中を見て、主役の座を太陽から引き継いだ街灯が輝いていることに気付いてから小一時間後、空になった箱や袋が店じまいを告げた。

「全部売ってしまうなんて……。こんなに車を軽くして帰れるなんて、昨日までの私なら絶対に想像もできませんよ」

「俺たちとしても、感動を禁じ得ないクオリティを内包するパンの魅力を、少しでも広範囲に知らしめることができて嬉しい限りだ」

「我の尽力に対する感謝を忘れるな、と言いたいところだが今回ばかりは役得に免じて飲み込んでやろう」

「いえ、お二人には感謝してもしきれません。パンを作るのはいつだって楽しいですが、パンを売るのを心から楽しいと思えたのは、間違いなくお二人のご協力のおかげです!」

「アピールの代わりに食べ盛りのノーツにただでパンを与えるリスクを背負ったのも、忖度とは対極に位置するノーツに感動を与えたのも、他の誰でもない店主の力によるものだ。俺たちが手を貸さずとも、そう遠くないうちに成功を収めていたに違いない」

 結局のところ、この店主の腕前がなければこの作戦がうまく働くどころか、俺が提案することすらなかっただろう。それだけ店主の実力があるということだが、未だに不安は残っているらしい。

「今日はお二人のおかげで完売まで辿り着きましたが、次から私一人の力で同じような結果を残せるでしょうか? ノーツさんのような集客方法は私には不向きのように思えて……」

「お主の言う通り、確かにあの手段は唯一にして絶対なる存在である我にのみ許されたものである。しかし、その点を心配する必要はない。こやつの接客を見ていたが、今後のことまで見通した工夫を凝らしていたはずじゃ」

「自身への過大評価さえ除けばノーツの発言は百点満点だ。注文を聞いてから支払いを受け取り商品を手渡すまでの一分足らずの間に、どのお客とも世間話を繰り広げておいた。確実な保証こそできないが、高確率で今日のお客がリピーターとして今後も訪れるはずだ」

「私が接客を担当しても大丈夫でしょうか?」

「重要なことは、話術よりもむしろ相手が気持ちよく話せるよう聞く態度を取ることだ。細かな違いに気付けるほどになれば怖いものなしだが、まずは質問することに注力すれば充分なはずだ」

 今日は実践していないものの、さほど苦労せずとも行動に移すことはできるだろう。よほど秘密主義の疑り深いお客でも来ない限り、一分足らずの短い時間など簡単な質問でも相手が埋めてくれる。

「分かりました。材料の確保もあるので次は明後日になるでしょうが、早速その時に実行してみます! 今後のことまで考えてくださっていたなんて、一体どのようにお礼をすればいいのか……」

 その言葉を待っていた!

 店主のパンを広めたいという思いは本物だが、俺たちにも直面している課題がある。

「そういうことなら、良心価格でなおかつ衛生面での心配がいらない宿を紹介してもらえると助かる」

 自身がすべきお返しの正体が分かると、店主は胸に手を当てて言ってのける。

「それでしたらお任せください! 日頃から様々な街でパンを売ってきた甲斐あって、宿事情には詳しい自信があります」

 ウキウキな店主に案内されて到着した宿は街の外れに位置する分、清潔に保たれ朝食と夕食が提供されるにも関わらず、朝の配達バイトからだけでも支払えるお値打ち価格であった。

「今日は本当にお世話になりました。明後日のお祭りには、私も販売車と共に参加するつもりなのでぜひお越しください! もちろん、サービスさせていただきます!」

「分かっておるではないか。今日の午後だけで大半のパンを食うてしもうたから、二日後には斬新なパンを用意することを忘れるなよ」

「実を言うと、アイディアを生み出すことには自信があるんです! 期待してお祭りの日をお待ちください」

 パンのこととなると俄然楽しそうに話す店主と別れて夕飯を食べると、二度目の配達バイトに備えて早々に就寝する運びとなった。

「明日はお主より素早く配達を終わらせてくれる。今朝、先に配達を終えたお主に見られているのが、どうにも我の精神を刺激したからな」

「自分がされて苛立ったことを自ら進んで行おうとするなよ……」

 相変わらずのノーツはさておき、明後日の祭りで芸術的な腕前を持つ店主のパンを再び食べるために、自転車漕ぎに努めるとしよう。

 あっという間にバイトの目標となったパンは、されど再び食べる機会に恵まれることははなかった。


「そういえば、目的は分からずとも捜索を行う警備員たちを見かけていたなー。昨日はパン屋の手伝いが大半を占めていたから、すっかりセキュリティのことなど忘れていた」

「本来であれば、我をここに放り込んだ連中を迅速に処分してしまうが、それは我の身が潔白であることを証明してからでもよかろう」

「不運なことに、不法入国という一点において俺たちは真っ黒以外にあり得ない。この黒いシミを隠すのは相当に無理があるぞ」

「じゃあどうすればいいのよ! 次に太陽の元へ出れるのは裁きのときってこと? 一日の始まりには太陽の光を浴びないと、深い眠りを取れないじゃない!」

 一度は冷静になったかと思いきや、再び十八番芸を炸裂させるノーツの見通しはあながち間違ってはいないだろう。

 恐らく俺たちの弁護を買って出るほど暇な弁護士は存在しないだろうが、念のために状況説明の準備だけはしておこう。

 朝のバイト仲間と親しくなって居酒屋で話し込んで数時間、一日の内で太陽が最も高い位置に昇るころに、突如として店内の雰囲気が一変した。見覚えのある制服を着た連中が俺とノーツを包囲すると、罪状を読み上げて俺たちを速やかに連行した。そして、太陽が沈んだかすら判断が付かない現在に至る、といったところだな。

「目をつぶって何度も頷いているけれど、現状から脱する手段でも思い付いたの?」

「架空の弁護士がいつ来てもいいように、円滑な説明のための台本を組み上げたところだ」

「……私がしっかりしないと」

「こら、俺に憐れみの視線を向けるんじゃない。大方の荷物が没収されて暇を持て余しているのだから、頭の体操をしたっていいじゃないか」

 視界に入るのは鉄格子と壁と地面だけであり、遊び道具を持つこともなければ、作り出すことすらままならない。ノーツと手遊びというアイディアも浮かびはしたが、俺たちの声が空っぽの空間に反響する虚しさを予期したため、その発想が俺の口から出ることはなかった。

「使い道のないことを考えるのであれば、もっと現状に考えを巡らす方が幾ばくかの利点はあるだろう。といっても、大まかな筋書きは頭を使う必要すらないがの」

「そうそう。何なら、昨日の時点で店長が絡んでいることは察していた。その正誤を確かめる時間もなかったが、不法入国と通報の二つが告げられれば関与を疑わない方が難しい」

 だが、特に店長を責めるつもりはない。働く機会に加えて食事と寝床も提供してもらった以上、お礼を告げることはあれど非難することはできない。

「俺たちが考えるべきは、店長の秘密とそれにまつわる動機なんだろうが如何せん情報が少なすぎる。やけに家や奥さんへのセキュリティを高く設定し、客に対して明確な殺気を飛ばし、かつ即座に通報すべき俺たちを一晩は優遇した」

「複数の人格を持ち合わせているという陳腐な予想しか立てられぬな。詳細を知るのはいつになるやら」

「それは気長に待つとしよう。俺たちに探偵の真似事は似合わない。スマートに解く手段など持ち合わせてはいないから、ここぞというときに不格好で脳筋上等な単純な方法を用いればいいんだ」

「お主の言う通り、それこそが我らに相応しい行動である。無論、どんな手段を行使しようと我は気品高くあり続けるがな」

「気品高く見られたいなら、看守の目を欺いて持ち込むものはお菓子以外にしておけよ」

 すっかり回復したノーツと共に気長に待つ覚悟は決めたものの、数時間後になってそれは不要となった。

「こんな固い布団で熟睡を続けるでない!」

「威勢の良いアラームをありがとよ。鶏と目覚まし勝負でもしてきたらどうだ?」

「これだけ揺れが伝わっているというのに、よくもまあ呑気で馬鹿なことを言うことができる。看守が大慌てで外に出たきり戻ってこぬことからも、何らかの異常が発生しておるとみて間違いない」

 目覚めた直後から注目すべき情報がてんこ盛りだが、最初に起こすべきアクションは明らかである。

「お世話になりました。あの冷めた食事を再び体験したくはないので、これにてお暇させていただきます」

「一度材料と調理器具一式を持ってくるとよい。料理のイロハを叩きこんでくれる」

 三泊目の宿に別れを告げて外に出てみると、太陽と騒乱が同時にお出迎えをしてくれた。

「もしかして、今日の祭りでは設営した屋台を壊すことが楽しみ方の基本なのか?」

「ふざけたことを抜かす暇があるならば、我ら目がけて接近してくる奴に備えよ」

「備えたいのは山々だけど、かなりのスピードで向かってきていないか? 今や目を細めなくても見える距離まで来ているぞ?」

「そうと分かれば行動は一つに決まっておろう。我は左に逃げる!」

 気持ちが良いほどのチキンである。戦闘力が高いのは否定しようのない事実であるが、相手の実力が分からないうちは必ずといっていいほど逃げに徹するのがノーツという高貴な吸血鬼なのだ。

 しかし、今回に関しては急速接近してくる謎の正体の眼が怖い。こちらの魂を刈り取る意欲に満ちた、敵意に染まった瞳が高速で迫ってくる。流石にホラー嫌いに耐えろというのは酷というものだ。

「おかしい! 心の中でノーツをフォローして徳を積んでいるはずなのに、一向に俺から注意がそれる気配がしない!」

 飛んで追いかけることのデメリットを理解して建物が密集する街中に逃げ込むも、建物が崩壊する音を背景にひたすら追いかけてくる。

 理由については心当たりしかない。何せ、ちらりと胸元を見やると六個の見慣れた赤い石の欠片が目に入るのだ。

「石で気分が落ち着くなら、ぜひとも俺も同じのをプレゼントしたいなー! 贈り物をしたいのは本当なんだけど、諸事情により飲み込んでいるから少し時間をもらいたいなー!」

 恥を忍んで事実を告げるも、俺に放出する時間を与えてくれるはずもなく、恐らく切り刻んででも手に入れるという意図を持ってなおも追いかけてくる。

 日課にジョギングを取り入れたおかげで何とか接触は避けているが、流石にこのまま走って逃げ続けるのは現実的ではない。何より、胃袋がエネルギー不足を表明している。

 いっそリスクを承知で向かい合ってみるか、という考えが頭をよぎった直後、目の前にゲートらしきものが開かれた。旅行の際に使用するゲートとよく似て、行先がまるで分からないばかりか怨霊が宿っているかの如き見た目をしている。ただ全力で逃げているが故、ゲートを避けるための方向転換という選択肢は既に消去されている。

「頼むぜゲート! 鬼と相対しておけば良かったなんて後悔をさせてくれるなよ!」

 目をつぶって飛び込むと、即座に建物の崩壊音は鳴りやんだ。

 迷う時間すら持ち合わせなかったことが功を奏したのか、直感を信じたことで見事に鬼から逃げ切ることに成功したようだ。

 鬼ごっこで鬼と相対することなど無謀というほかない。振り返ってみれば当然のことではあるが、究極の二択によくぞ正解したものである。

「一人で拍手しているけれど、何か良いことがあったのかな?」

「この会話が始まるまではその通りなんだが、早くも拍手を止めたくなってきた」

 あの鬼は案外ルールにうるさいのかもしれない。ゲートという違反行為をしたからだろうか。ようやくお別れをできたと思った鬼が、再び目の前に現れた。

「やあ、初めまして。僕は魔王だ」

「初めまして、山田翔太です」

 あまりに唐突で、かつ極めて端的な自己紹介に呆気を取られて、素直に自己紹介で返してしまった。名前と顔を知った相手を、とことん追いかけるタイプではないことを祈るばかりだ。

「心配しなくても大丈夫だよ。外の僕に追いかけられた君には信じられないかもしれないけど、今の僕は君をどうこうするつもりはない」

「僕っ娘である点や、肌を覆うのがブロンドの髪の毛と白い布切れだけである点には追求しないでおこう。心を読まれたことすら今は置いておこう。まず聞きたいのは、この真っ白い空間の正体についてだ」

「様々な質問を置き去りにしてまで、その質問をしてくれるとはありがたい。簡潔に言ってしまえば、ここは僕の精神世界に当てはまる。戦争が終わってしばらく、いよいよ僕の命が潰えるその間際に念のためにと作っておいたのさ」

「念のためにで作れるものなのか?」

「案外苦労はしなかったよ。それっぽく祈ってみたら成功したんだ」

 まるで精神世界を作る際には参考にならないプロセスではあるが、外部からの干渉が何一つとしてないため、ここが極めて特殊な空間であることは真実であるようだ。ならば、外側の自分を律することはできないのか、という新たな疑問が生じる。

「僕にそこまでの力はないんだ。見込みのある相手をここに呼び寄せてお願いする、それが僕にできる精一杯。だから、お願いについて理解してもらうためにも、少しの間だけ僕の話に耳を傾けてもらえるかな?」

「できれば重苦しい話は最低限に留めてほしいんだけど、話の内容的には可能か?」

「大丈夫、この話はハッピーエンドを迎える予定だから」

 口を開けば疑問が湧き出るものの、ひとまず話を聞く姿勢を取る。

「僕が生まれたころ、この世界には憎しみが溢れていた。人と魔族が互いの安寧を保つため、資源を巡る果てのない争いを繰り広げていた。僕が成長するにつれて争いは沈静化する、なんてことはなく、むしろ互いに引き返せない立ち位置にまで追い込まれていた。そんな、危険と隣り合わせであることが日常化していたある日、僕の生まれ故郷が戦場となった。あれから村の誰かと再会することはないけれど、幸いにも僕は当時の魔王軍に拾われたことで一命をとりとめたんだ」

 そこまで話して一度区切ると、重苦しい話はここまでだと軽く手を合わせてから再開する。

「実を言うと、村が戦場になるまでは人を忌み嫌っていた。僕たち魔族の土地を踏み荒らし命を奪うなんて言語道断ってね。でも、争いを目の当たりにして、決して魔族が人より優れているとは思わなくなった。そして、それは当時の魔王様が考えていたことと同じだった。極めて多くの犠牲者を生んでもなお争うことに、いつからか人も魔族も辟易し疑念を抱いていた。やがて停戦や休戦を求める機運が双方で高まり、反対する勢力も一定数存在してはいたけれど、戦争の規模は急速に縮小しついには共存のための条約が結ばれた。もちろん条約以外でも様々な手段を用いて共存を促した結果として、人と魔族が仲良く暮らせる世界が誕生したんだ。めでたしめでたし」

「簡潔かつハッピーエンドを設定してくれた点は評価できるが、その他の点では到底満点を与えることはできないな。何よりもまず、いつお前は魔王となった?」

「条約が結ばれた直後だね。様々な手段の一環として、先代の魔王様が勇者様と共に命を懸けて共存に向けた基礎作りを果たしたのち、魔王様の右腕にまで頑張って上り詰めていた僕が新たな魔王に指名された」

 基礎作りとやらも尋ねたいところではあるが、その詳細を今ここで聞くほどの猶予が残されているかも分からない。むしろ、次に聞くべきは今に直結することだ。

「さっき、お前は念のために精神世界を作ったと俺に告げた。一体どんな未来を危惧したんだ?」

「人との共存を望まぬ勢力が昔から存在したことは話した通りだ。共存への道を歩み出した直後、彼らの妨害工作は気に留める必要もない些細なものだった。だが、ある時不穏な噂を耳にしたんだ。彼らが先代の魔王様を復活させて人への復讐を企てているってね。そして、彼らは本気で実行しようとした。無理に魔王様を目覚めさせた結果としての暴走を利用しようという魂胆だった。ここまで話せば僕のお願いまで察しが付くかな」

 同じような連中が現れた場合に備えて、ストッパーの役割を果たす存在を見つけてスカウトすべく作り出したというわけか。

「僕としては、ここなら誰にも発見できないだろうってところに埋葬してもらったんだけどね。この国が元は魔族の領地であったことに拘る連中の執念を甘く見ていたよ。現代に通ずるインフラ基盤の成立には人の尽力が欠かせなかったというのに……僕ではそれを伝えきれなかったみたいだ」

 彼女の話からは省かれていたが、魔王になる以前も以後も弛まぬ努力を続け、それに伴い責任感も強く感じていたのだろう。ゆえに、多大な貢献をし終えたはずの今もまだ未練を感じている。

「話は聞いたしお願いとやらも把握した。それで、お前自身はどうなりたい? この世界の平和だの何だのとは関係なく、お前はどんな道を歩みたい?」

「そうだね……ひとまずは色々なものを見てみたいな。外の僕が壊している街並みは、僕が生きていたころと大きく異なるからね。それに、旅に出るのもいい。特に魔王となってからは、あまり出歩くこともなければ話し相手も少数に留めたことの反動かな」

しばし考えてから答えを導き出した彼女の瞳は、どこかに焦点を当てているようには見えない。

「おいおい、自分の欲望を口にするときには、それが叶う未来を想像して晴れやかな顔をするまでがセットだぞ。儚げな表情をするんじゃない。見慣れない環境で新たな一歩を生み出したとき、お前は何を思う?」

 目をつぶることで妄想の世界に飛び込めたのだろうか。次に目を開けたとき、彼女は実に楽しげな笑みを浮かべていった。

「戸惑いながらも見知らぬ土地で交流と発見を繰り返す。それは、実に面白そうだ」

「よくできました。見事に期待に満ちた表情となったため、ご褒美として面倒ごとはこっちで引き受けよう」

「本当にいいのかい? どんな過去があろうと、無関係な君を巻き込むことは僕には正当化できない。それでも君は、厄介極まりない現状を解決するために動いてくれるのか?」

「どうせ心を読めるから分かっているだろ? 俺は、最後まで頑張ったやつが新たな世界に踏み出せない今に対して、少しばかり物申したい気分なんだ。中途半端に不満を漏らしても何も起きやしない。だが、お願いという大義名分があれば中途半端な手段を用いる必要すらなくなる。俺はわがままだから、気に食わないことには全力で歯向かいたい」

「確かに君は随分とわがままだね。でも、今は君のその性格に頼らせてもらうよ」

 多少の抵抗は残っているのか時間はかかったが、ついぞ見知ったゲートが再び構築された。それでもなお、不安は簡単には取り除けないようで背中越しに声が聞こえてくる。

「ここから出た瞬間、僕の核の最後の一ピースである赤い石を持つ君の存在を察知して、外の僕は全てを差し置いて君を捕えようとするだろう。僕が言うのもなんだけど、理性を失っているとはいえ相当に強くて凶暴だ。それでも行くのかい?」

「おいおい、俺の実力を見込んでお願いまでしてくれたんだろ? なら、俺に任せればいいだけだ。ヒーローという表現は似つかわしくないだろうが、迫力だけは自信がある。それに、今は街中で叫んでいるかもしれないが、いざという時には頼りになる仲間もいる。だから、どうってことはない」

「そこまで言われると、僕の配慮は余計なお世話にしかならないね」

 格好つけただけあって、ある程度の信頼は勝ちとれたようだ。

「それじゃあ、外の僕をよろしく頼むよ。どうか、理性を失い暴走するばかりの僕を葬ってね」

「お茶でもすすって見ていてくれ。必ずお前に新たな一歩を踏み出させてやる」

 目を細めて笑いながら手を振る魔王に見送られて、俺は再び混乱を極めた街中に戻った。その瞬間、膨大な魔力の塊が接近してくることを感じる。

鬼ごっこ第二ラウンド開始もいいが、まずは一箇所に留まっている吸血鬼をゲームへ勧誘することからだ。

「こんなところで砂遊びか?」

「砂遊びなわけあるか!」

 木の枝で地面に何かを書いていることから推測したが、その目論見は外れてしまったらしい。よく見ると、確かに砂遊びにしては本格的な地図の上に赤い点が動いている。

「これは特に大きな魔力反応の位置を可視化した地図じゃ。しかもリアルタイムで更新されるため、動き回らずとも現在の状況を完璧なまでに把握できる」

「本当に自動で更新され続けているな。お前が目をそらしている間にも、群を抜いて大きい点が猛スピードで動いている」

「そういえば、そんな奴もおったな。しばらくの間遠ざかっていたから、すっかり関心も失せていたわ。って、急速接近してるんだけど!」

「ある程度距離は取ったつもりだが、やっぱり嗅ぎつけてくるか。この地図を通して干渉はできないのか?」

「これで干渉できるなら、とっくに危険な存在は取り除いているわ! 地図にそこまでの権能を求めるな!」

「そういうことなら仕方がない。話したいことがあるから並走してもらうぞ」

 俺と正反対の方向に逃げる意図を顔に出すノーツの腕をつかみ、わめき声を無視して走り出す。数分かけて抵抗が無駄骨であることを理解すると、ようやく自らの足で走り始めた。

「時間がないから簡潔に言うとだな、追いかけてくる魔王の精神体と話してこの世界から解放することに決めた、以上」

「以上という言葉をそう軽々しく口にするな! あれが魔王だというのは、やけに街中の銅像で見た記憶があるから納得できる。けど、だからどうしろっていうのよ!」

「魔王の相手は俺が担うから気にするな。ノーツに担当してほしい役目はだな」

 自らの役割を知り心底嫌そうな顔をするノーツではあったが、拘置所から回収した白いローブを押し付け、かつ魔王についてもう少し詳しく説明したことで、どうにか折れてくれた。

「今回に限っては、役割を全うしてもなお一つの世界に縛られている不便な魔王のため、お前の依頼を引き受けてやろう。じゃが、我は無償で動いてやるほど安くはないぞ」

「帰ったら中華の食べ放題をおごってやる!」

「理解しておるのなら構わぬ。さて、任務を遂行すべく我は早々にこのレースから離脱するとしよう。さして心配はしておらぬが、お主もやり過ぎることなきよう気を付けよ」

 何とも頼りになる横顔を見せてノーツが飛び立ったことで、いよいよ俺と魔王の鬼ごっこ一騎打ちの幕が開けた。

 という風に格好つけてはみたものの、一対一の構図になろうと俺が即座にアクションを起こすことはない。ノーツ大先生の準備が整うまでの間、タイミングよく開けた場所に向かえるよう地形を把握するのが精々だ。


「奴を呪縛から解放することだけ考えればよいものを、未練を根こそぎ断ち切ろうとは手間のかかることをよく思い付く」

 見る見るうちに魔王との距離が遠ざかることを確認しながら、ノーツはシミ一つないローブに着替えていた。

 さほど時間をかけずに衣装を変えると、旅行初日に念のためにとマーキングしておいた計六つの魔力反応を素早く探知する。

「支度が整ったにも関わらず、これほどまでに活力が湧かぬとは。しかし、我の偉大さを改めて認識させるため、カロリー消費もかねてそろそろ動くとするかの」

 行動を開始して数秒後、最寄りの白ローブを発見するや否や魔力を吸い取ると同時に声音を変えて声音に叫ぶ。

「眠りを妨げてしまい申し訳ありませんでした! どうかご慈悲を!」

 静寂に戻って程なく、突如として浮かび上がった身体は静かに地面に降ろされた。

「これを繰り返さねばならぬとは、やはり安易に引き受け過ぎたかもしれぬな」

 移動しながら愚痴をこぼすものの、結局は五回にわたって同様の立ち回りをみせて残るターゲットは早くも最後の一人となった。

「このような物騒なところで一体何をしておるのじゃ?」

「……行方が分からなくなっていたと思っていたが、君たちと接触していたんだね。君たちの安全を確保しようという配慮は、まるで不要だったようだ」

「察しが良いと我の手間が省けて助かるな、店長よ」

 周囲では数々の平和の証が破壊されているなか、店長と日雇いバイトという関係であった両者が再会を果たす。

「弟君はどうしているのかな? 気配は感じないけれど、僕を彼らと同様の目に遭わせようと潜んでいるのかい?」

「そんな面倒なことはする必要性がない。我だけで事足りる」

「そうだろうね。君ほどの魔力の持ち主であれば、僕が気付く間もなく対処できてしまうだろう。だからこそ、何故あえて姿を見せたのか聞いてもいいかな?」

 明らかに敵同士という認識をしているにもかかわらず、店長の声はいたって穏やかである。

「僅かな時間とはいえ、店長の世話になったことには違いない。ゆえに、我が選択する機会を与えてやろう。今すぐその不似合いなローブを脱いで逃げ惑う市民に紛れる意思を持つならば、寛大なる我は見逃してやろう。じゃが、もしその選択をしないのであれば、苦しみに満ちた目に遭うじゃろう」

「君は本当に優しいね。もしかしたら、本当に逃がしてくれるのかい?」

 その言葉とは裏腹に、店長がその場から動く気配は全くない。

「だけど、彼女の苦しみを取り除く代わりにこのローブに初めて袖を通したときから、この身がどのような終わりを迎えようと受け入れると、そう覚悟しているんだ。今日だって、僕は数多くの犠牲者を生み出すことに加担し、この国の、いや世界の平和すら脅かした。許されない振る舞いばかりをした僕の行き着く先に、甘い選択肢が存在しているなど考えたこともない。だから、僕は君の提示した案を受け入れないよ」

 あまりに自然で柔らかな笑みが彼の決意を示していた。

 そして、その笑みを目の当たりにしたノーツは、少しも表情を変えることなく別れの言葉を言い放った。

「眠れ」

 何を語ることもない店長に弁当箱を添えて一軒の家の前に置くと、ノーツは誰に気付かれることもなく飛び去った。


「あれで五つ目か。なら、そろそろ俺たちも参戦しないとな」

 アドリブにはめっぽう弱いノーツだが、ある程度情報を把握していれば成果を上げるのは流石の一言だ。そんなノーツの頑張りに報いるためにも、おもしろおかしい劇を開催するとしよう。

「つかぬことを聞くが、三半規管が弱かったりするか? もしそうなら遠慮なく言ってくれ」

 相変わらず返事はなし、と。ならば、しばし俺の土俵に立ってもらおう。

「お客様、くれぐれも振り落とされることのなきようお気を付けください!」

 全身に流れる魔力の総量を格段に増加させて体外にまで漏れ出ること約三十秒、魔王の目の前には人ならざる者が顕現した。

 淡い青紫色をした迫力と気品を備えた巨体に、そこから生える水かきのついた翼、誰しもが威圧されるような金色の鋭い目。その世界において遥か昔に絶滅したはずの存在であるドラゴンが、そこにはいた。

「ドラゴン号、出発します!」

 こちらに迫ってくる勢いを利用して無理矢理背中に魔王を乗せると、朗らかな思念をぶつけて勢いよく曇天に向かって飛び立つ。背中に攻撃を受けないように、また避難していた群衆の目にも止まるよう、飛行速度や高度、身体の傾きにも差をつけて曲芸のごとく飛び回る。

 やがて、魔王が手荒な手段に打って出ようかというタイミングで、再び思念をぶつける。

「名残惜しくはありますが、そろそろドラゴン号へのライド体験も終わりが近づいてきました。最後は、結界の外に広がる無人の砂漠へ急降下と参りましょう!」

 厚い雲すら突破して少しの間青空を眺めてから、唐突に地面へと接近する。

 ほんの一瞬、地面に背を向けて魔王を些か強引に振り落とすと、程なくして着地したドラゴンは再び人の形へと姿を変えた。

「鬼のような形相は相変わらずだが、すぐには仕掛けてこないところを見ると関係改善の一歩を踏み出したと見ていいのか? いくら砂埃で視界が不明瞭だったとはいえ、着地したときの俺はかなり咳き込んでいたぞ? ひょっとして、喉のイガイガでも心配してくれたのか?」

 どうやら、今の魔王はジョークやトラッシュトークの類を好まないらしい。周囲の砂が振動を始めたことに気付いた直後、およそ砂とは思えない幾本もの鋭利物が俺を襲った。

「マジですか……」

 見事なまでにステージ選びで失敗した。

 どうにも魔王様は砂遊びが得意らしい。

観察に基づく予測と直感の両者を組み合わせることで最小限の傷で凌げているが、如何せん四方八方からの砂への回避に専念するばかりで攻撃などもってのほか。せめて近距離にいればいいものを、確実に間合いからは距離を置いて安全を確保するとは。

「さっき会ったときに助言を求めるべきだった!」

 ただでさえ動きを制限される砂漠という地形に加えて、その砂を変形させるものだから地面のコンディションは絶望的である。守りに徹するだけでは、スタミナ切れによる回避行動の限界は間違いない。

 ならば、攻撃に転ずるほかないだろう。

「いい機会だから教えてやろう。隙を作るまいと様々な方向から攻撃する選択は基本的に正解だ。しかし、リスクを無視して一箇所を目がけた強行突破を試みる採点者だった場合、あいにくと正解にはなり得ない。こんな風にな」

自信家を気取っている余裕はないため必死で包囲網を潜り抜けた後のアドバイスとなったが、再度砂で猛追をする気配は感じられない。

 焦燥に駆られたまま降参してくれれば幸いだが、どうやらカロリー消費の時間はまだ続くらしい。

「はいはい、今度は砂の剣ときたか。出来ることなら手持ち無沙汰な俺にもプレゼントしてほしいが、そんな意図があるはずもないよな!」

 遠距離攻撃を中心とする相手は近接戦闘を嫌う傾向は、攻略可能という慈悲を持つフィクションの世界特有のもののようだ。

 それにしても、魔王の剣の扱いが上手いのなんの。決して相手が素手であることに拘泥せず、大振りをすることもなく洗練された攻撃を見せる。理性を失っているとは到底思えない腕前だ。久々の変身も相まってスタミナ切れが急速に迫っているため、段々と服もヴィンテージものの如くダメージを負っている。

だが、強い癖がない剣筋は幸運ともいえる。

 左上から振り下ろされる剣をかわすと同時、あえて後ろに体重を残す。位置関係としてはノーツの間合いに俺がいるかは微妙なところ。その状況下で好機を逃したくない気持ちと忠実な剣筋の両者を採用すれば、魔王が選ぶのは突き一択。

「剣筋と地下の秘密基地という両者のテンプレに感謝だな」

 予想通りがら空きになった魔王の身体の右側に自身の身体をねじ込むと、両腕で挟んで抱え上げた後、片方の手を核の部分に置く。そして、目一杯の力で地面にたたきつける。

 周囲の砂が舞い、視界は不明瞭である。

 しかし作戦は見事に成功したようで、基地への入り口を破壊するほどの威力で叩きつけた魔王は横たわり、六個の赤い石の欠片も粉々に砕けていた。

 しばらくの間、魔王は沈黙していた。だが、やがて開かれた眼は幸福そうに見えた。

「やれやれ、明らかな隙だからこそ、警戒すべきだったよ……」

「ようやく元の自分を取り戻したか。いや、実際は戦闘の最中にはもう?」

「君と戦った外側の僕をコントールすることはできなかった。けど、不思議と高揚感だけは僕も彼女も共有していた気がする」

 長い眠りから目覚めた彼女が真に欲していたのは、案外胸躍るような戦いだったのかもしれないな。だからこそ、戦闘が勃発することが明白だったにもかかわらず、俺への助言をすることはなかった。

「駄目だ。良い感じに美化しようと挑戦したものの、はた迷惑な話にしか持ち込めない。考えれば考えるほど、戦闘狂の手の平で踊らされていたように思えてくる」

「それでも最後に立っているのは君なのだから、本当に大したものだよ。ドラゴンには驚かされたけど、戦いの最中に今はなき扉まで誘導されていたとはね。おかげで、僕もそろそろ光で包まれるみたいだ」

 ようやく魔王としての責務を終えるためか、実に清々しい笑みを浮かべている。目覚めは最悪だったに違いないが、満たされたのであれば戦いを繰り広げた甲斐もあったというものだ。

 だが、彼女にはまだ伝えるべきことが残っている。

「ついに呪縛から解放されるお前にお知らせしておこう。俺はこことは異なる世界の住民であり、明日には帰る予定だ。そんな異世界からの来訪者である俺は、ぜひともお前をスカウトしたくなった。もし新たな世界を知りたい、見てみたいと思うのであれば、俺が本拠地とする世界に来てほしい。大っぴらに戦うことは難しいが、決して退屈するような環境でもないはずだ」

「ドラゴンに変身した時点でその線も考えはしたけれど、改めて口にされると呆然としてしまうね。異世界か。君が楽しそうに語るのだから、僕もこの目で見てみたくなってきた。けど、果たして君の世界に都合よく転生できるのかい?」

「論理的な証拠はないが、この流れに持ち込めば高確率で成功するという体験談ならある」

「そんな経験があるなら大丈夫だね」

 徐々にゆっくりとかつ小さな呼吸となるなか、薄く開かれた彼女の瞳は輝きを帯びている。

「転生であれば、たぶん、赤ちゃんのすがたに戻るし、記憶がのこるかもわからないね。それでも、ぼくを見つけたら気にかけてくれるとうれしいかな。そうそう、もし名前をつけるなら、コリンにしてほしい。おきにいりなんだ」

「何せ、長きにわたって自身の務めを果たすことに尽力した魔王様だ。丁重に扱わせていただくよ」

「それはとても、たのしそうだ……」

 最後にそう口にすると、慈愛に満ちた顔をしてコリンの姿は消えた。彼女とは話したいことがまだまだあるが、それらは次の機会にとっておけばいいか。きっと、そう遠くない未来に会えるはずだ。


 連休明けにむけて活力を養うという目標からは大いに逸れてしまった。しかし、純粋な笑顔を見せられれば、これまでの疲れなどあっさりと吹き飛ぶというものだ。

「新たな仲間の誕生を全力で祝うべく、まずは旅行を最後まで満喫するとしよう!」

「片腕を上げて意気込むのは構わぬが、きちんと砂は落とせよ」

「確かに基地の扉を壊したことで、砂が俺の元へと押し寄せてきたよ。けど、開口一番お母さんみたいな指摘をしなくても……」

「お主の迫力溢れる母君の域に到達することは不可能だが、今の我は高貴なる姉君だからな。そのことを弁えよ」

 設定をフル活用するノーツに従うのは癪だが、服の中に砂が入り込むほど歓迎できない感触もそうそうない。そのため、風・水・火の魔法によって速やかに快適性を取り戻した。

「さて、すっかり灰色の雲も撤退したことだし、張り切ってボランティア活動に勤しむとするか」

「本気か? 我は無償で労働力を提供することを好まぬが、それ以上に平和と乖離した状況に追い込まれた住民が意気込むかの?」

「行けば分かるさ。それに、ボランティアとして参加すれば、今夜の寝床について心配する必要もなくなるはずだ」

 眉を顰めるノーツと共に街に戻ると、ノーツにとっては予想を裏切られる光景が広がっていた。

「よもや、本当に復興に向けて動き出しているとは。てっきり、平和という状態に執着する連中であるがために、パニックに襲われていると思ったがのう」

「確かに、平和を確認するためでもある祭りで、混乱をもたらす存在を認識すれば大きな動揺を招いただろう。だが、どこからか銅像すら作られている魔王様が現れて、騒動を起こした連中がそれに謝罪をして沈静化されたとなれば、勝手に物語が紡がれる」

「不安を取り除くと同時に、平和を維持する態度が必要不可欠であることを自然に理解させたわけか。お主から計画を聞いたときには半信半疑であったが、見事に成功したのじゃな」

「元より、この世界の住民は共存を許容する器を持っていたからな。少しの教訓を与えるだけで充分だったんだよ」

 復興の手伝いのさながら、ドラゴンに乗って姿を消した魔王様という構図も聞こえてくる。少し経ってから筋肉痛で苦しむリスクを背負うだけはあったらしい。

 ちなみに肝心の寝床だが、以下のような振る舞いで見事に無償で手に入れた。

「実は、宿泊していた宿がこの騒動で壊されたので、寝床も荷物もない状態です」

「それでも、我ら兄弟はこの街が好きだからこそ、復興のお手伝いに馳せ参じました。身体を動かしていれば、夜中の冷えを逃れることができるからもしれませんからね」

 タダで泊っていいという申し出には驚いたが、対価として労働力を提供したようなものなのでノープロブレムである。想定を数段階上回るグレードのホテルには吃驚したが、太陽が姿を隠してもなお労働に勤しんだのでノープロブレムである、はずだ。

 柔らかなベッドに癒された翌日、ビュッフェ形式の朝食の腹ごなしを兼ねて街を散策した後、年季の入った喫茶店へ入った。

「新聞にも大きく載っているな。祭りの妨害を企てた五名が拘束される、か。随分と心優しい立ち回りをしたんだな?」

「何を言っておる。奴が自身の命を以って楽な道へと進もうとしたゆえ、我は罪悪感を背負う道を歩ませただけじゃ。残酷と表現することはあっても、優しいなどとは的外れもいいところじゃな」

「へいへい」

 コーヒーに近しい飲み物で温もりを得てから、ホテルで仕入れた情報である物産展で当然のごとく食べ歩きとお土産に時間を費やし、ついに帰還の時刻となった。

「消費期限今日までのものを買いすぎだろ」

「どうせ、他にも同じような奴はおる。それゆえに、帰還日の夕食は皆で集まって食べているのではないか?」

「報連相という従来の目的を置き去りにするなよ」

「間違いなく、我らの話を聞けば一層次の旅で避けられるが、それでも報連相に時間を割くか?」

「新しい皿も買ったことだし、早くテーブルに並べて食事にしようぜ!」

 真の平和への道を歩み出した世界から、懐かしの我らが世界へと冷や汗をかきながらも帰還を果たした。

 そして、半ば強引にディナータイムに持ち込んだころ、新たな生命がこの世界に舞い降りた。言うまでもなく、その子の名前はコリンとなった。


 連休最後の二日は怒涛の勢いで過ぎ去っていった。

 久々に会うセグウェイ部員たちとゲーセンやらデパートやらで過ごし、ファミレスで新入生歓迎会兼廃部回避祝いをして、最終日前日は大いに盛り上がった。

 せっかくの機会に、天野さんが入部した理由を尋ねてみたものの、目を逸らされるばかりで何らヒントも得られなかったことが心残りである。皆が皆あんたみたく我が道を行ける図太い性格じゃないの、と言われて白崎にチョップされたのも心残りである。

 そして、いよいよ明日から学校という連休最終日には、ダンジョン内が旅行前日のごとく朝からバタバタとしていた。残念ながら、生後間もなく砂の剣を振り回す赤子の世話に追われたため、のほほんと見守ることは叶わなかった。

 恐らくほとんどの面々が飲まず食わずで作業をして、従来であれば午後のおやつタイムとなったころ、俺はどこか落ち着きのない連中に囲まれた台の上に立っていた。

「のんびりと過ごせた連休も今日で終わり、明日からは再び探索者たちが押し寄せることはまず間違いない。そんな明日以降への英気を養うべく、かつ新たな仲間の誕生を祝って今日は大いに楽しめ! 乾杯!」

「「スカウトしたならすぐに報告しろー!」」

 既に出来上がっている数名の幹部を口火に、ボトルとバケツに並々と入った飲料を浴びせられて音頭は無事に完了した。

 誰かと食べる飯は食材のポテンシャルを引き上げるためか、ついつい毎度加減をせずに食べてしまう。きっと、このパターンで常に同じ後悔をしてしまうのだ。しかも、今回に至っては遅れて到着した筋肉への痛みのおまけつきである。

 ゆえに、この言葉との縁が切れないのだろう。

「ばか騒ぎをしすぎた」

 連休明け初日、窓際の席で頭痛や筋肉痛と静かな戦いを繰り広げながら、俺はそう呟くのであった。

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