空想と現実

 「ゴードン君から話があるって、なんだろうね」


 陽菜子さんとエコロの和解が済んでから、一週間が経った日のこと。僕とエコロは、2人まとめて体育館裏に呼び出された。昼休みに「話があるから」と声を掛けられ、約束を取り付けた彼は、どこか浮かない顔をしていた。話があるならその場で、とも提案したのだが、人目がある中では話せない、とのことで。足早に向かいながら、警戒してピリピリしている。

 

 梶さんは、今のところなんのアクションも起こしていない。ホッとしつつも、不気味でもある。水野さんの件もあったので、いつの間にかゴードンまでもが手先として取り込まれているのではないかという恐怖がある。梶さんについてはこの後で、水野さんと対応を話し合うことになっているのだが、どうなるやら。


 京子さんがバレー部で練習しているのを横目に歩き、体育館裏に着いた。ゴードンは僕らの姿を認めると「手間かけさせて悪いな」と軽く頭を掻いて、力なく笑う。やっぱり、ちょっと元気が無い。


 「用事ってなあに?」

 無邪気を装って首を傾げるエコロ。ゴードンは、「ソイツには話したんだが」と僕を指さして。

 「マサバに頼まれて、航空写真を撮ろうと思ってな。ドローンの免許を取ったんだ。で、早速飛ばして、撮った写真たちがこちら」

 写真の束を取り出すゴードンに、エコロは口の前で手を合わせる。「え、合格したんだすごーい!」とリアクションする彼女にも無反応。普段であれば、会話を盛り上げるためにわざとらしく調子に乗るくらいのことはしそうなものなのに。

 

 ゴードンは軽く写真を振って、「んでまあ、例によってだいぶプライバシーの権利を侵している節があってな。例えばこれとか」と、一枚選んで、僕らの前に差し出す。2人して覗き込むと、病院のベンチで、泣いているエコロを撫でているところだった。

 

 「「……」」

 

 2人して、黙り込む。真上から撮っているから、表情とかは映っていないけど、これは。

 

 「……捨てとくか?」

 「没収です、ぼっしゅー」

 

 赤面したエコロの懐に写真が仕舞われる。ゴードンは申し訳なさそうに両手を合わせた。

 「近辺うろつかせてたから、他にも撮っちまってるかもしれん。処分してほしい写真があったら、シャーペンかなんかで裏に印付けといてくれ」

 

 そう、写真の束を渡してきたので、ぱらぱらと1枚ずつチェックする。エコロは横からそれを覗き込んでいたけど、飽きたのか、ふらふらとした足取りでゴードンの方へ向かう。


 「ゴードンくんはさ、インチョーの幼馴染って話だったけど。たぶん、あっちでの幼馴染だよね。小学校の時は見なかったし」

 「そうだな」

 「インチョーが心配でついて来たの?」

 いたずらっぽく聞くエコロに、ゴードンは視界の端で穏やかに微笑む。

 「それもあるな。コイツ、あんま他人に助けを求めないから。ハートが強いとかじゃなくて、むしろ逆。嫌われないかっていらん心配ばかりしてさ」

 「悪口やめてくださーい」と口を挟むと、くすくすとエコロの笑い声。

 「……ま、実際のとこ偶然だよ。2年前に両親が離婚してな、父親に着いて行ったらたまたまここだったってだけだ。俺の方が早かったから、着いて来たのはむしろコイツの方と言える」

 「インチョーが寂しかったの?」

 「生まれ故郷だからですー」

 エコロの振りに合わせ、目の下を引っ張りながら舌を出してあっかんべえ。それから、2人でちら、とゴードンの方を見る。はは、と乾いた笑い。僕たちは、顔を見合わせ頷き合った。

 「……その、普段より元気ないねー?」

 「やっぱ気を遣わせてたか」

 エコロの心配に、ぽりぽりと、後頭部を掻いて。

 「マサバが死んだんだ」

 突然の訃報に、沈黙が訪れる。「まあ、そこまで親しいワケでも無かったんだけどさ」と、ため息をついて。

 「折角免許取ったってのに間に合わなかったから、徒労感っつうのかね。喪失感もある。ちょっと虚しくてな。気遣わせて悪い。すぐに戻るよ」


────


 「皆様に集まっていただいたのは他でもなく……これどうしようかなって」

 

 ゴードンに頼まれた写真をより分け、水野さんと約束していたファミレスへ。彼女がテーブルに放り出したのは、梶さんの指紋があぶり出された、いつぞやの電話番号が書かれたナプキンだった。「嘘をつきつつも実は真面目にやっていたのです」と水野さん。透明な袋に入ったそれを眺めて、遠い目をする。


 「ただねえ。これで警察駆けこもうにも、名誉棄損とか業務妨害とかそんなもんよねって。現に陽菜子は生きてるわけで、事実無根の怪文書だ。しょっぴこうにも、心ちゃんが騙されてた件については身内の金のやり取りなわけで、詐欺罪が成立するか怪しいし、有山くんがケーキ屋で受けた攻撃についても、証拠が無いから傷害罪も難しい……あ、でも不法侵入はいけるか。水族館の監視カメラの映像が残ってるはず。キミらと一緒にいた件について聞かれるとややこしいことになるけど──まとめると、罰金かちょっとの間の懲役刑くらいには持ち込めるんじゃないかな。やる?」

 

 ──『アタシは、そうは思わない』

 姉さんの言葉を思い出し、首を横に振る。それでは、何も解決しない。

 梶さんの欲求を満たしてやらないことには、上から抑えつけるばかりでは、彼の執着は終わらないだろう。今もなお、僕らに攻撃を続けている彼の執着は、終わらないだろうから。

 水野さんは、「大人が拗ねた子供みたいになってんのが一番、対処に困るのよねえ」と、同意を示して首を横に振る。それから、僕の隣の席に目を向けて。

 「ね、さっきっから窓の外眺めてる夢生ちゃん?」

 夢生、もとい陽菜子さんは、名前を呼ばれて肩をびっくりさせる。それでも、目線は窓の外に向けたまま。水野さんは彼女の頬に人差し指を刺して、ぐりぐりする。

 「罪状並べたら梶さんよりよっぽど質悪いもんねえ。傷害罪信書開封罪不法侵入罪器物損壊罪。合わせる顔が無いとはこのことだ」


 用があるとのことで、水野さんが帰ったあと。もういいだろうと、真横の陽菜子さんに視線を向ける。未だに窓を見ていた。

 「で、なんでそんなぐでっとしてるんですか」

 「……コノオさんが亡くなったって、さっき言ってたじゃない。あの人に三日前に会ってんの私。喪失感があってさ」

 「会ったってどういうこと。あの時反抗期真っ最中じゃなかったっけ」

 比喩的な言い方のエコロに「反抗期」と反応した僕をさておいて、陽菜子さんはようやくエコロに顔を向けて、親指と小指を立てて、顎に当てる。二進数数字アルファベット暗号で『17』→『Q』……じゃない、固定電話のジェスチャーだ。「有山くんが梶さんに襲われた日だったかな、家に電話がかかってきてさ」

 「心宛てで、あげたピッコロを聴かせてくれって言うから。私のトリックに集中してもらわなきゃって思って、私が引き受けたのよ。老人ホームに行って、じーさんばーさんどもの前で数曲披露してやったわ──どうしたの口押さえて、ショックだった?」

 「ヒナ姉、ピッコロ吹けたんだ」

 「……まーね」


 呑気なもんよねこの子、と僕に同意を求めてくるので、苦笑いで誤魔化していると、ポケットのスマホが鳴った。「いったん出てきます」と2人の了承を得て、外に出る。テレビ電話だ。身の周りにそれしか使えない人がいるせいで慣れた。訝しみつつも、前髪だけ適当に整えて、応答ボタンを押す。画面に現れたのは、白衣を着た50歳ほどの女性。

 『もしもし、井上心さん?』

 これ車椅子のコノオさんを動物園から送り届けたときの前回の電話番号からかけてる奴だ。「違います」と簡潔に否定する。「前に電話した時は携帯貸してまして。友達です。近くにいるので、よろしければ代わりますが」と続けると、頼まれたので、エコロを手振りで呼びつけ、スマホを渡す。エコロが顔を出し、僕はスマホのカメラの外で立っている。スマホから、声だけ聞こえた。

 『コノオさんが亡くなってね、遺品の整理をしたときに、ピッコロの楽譜が出てきたの。良ければピッコロを持ってる貴女にって、コノオさんの息子さんが言うんだけど、どうかしら』

 『この仕事やってるとねえ、最期は家族にも見捨てられてっていうのが多くって。その点、こんな若い子と関わりを持てて、コノオさんは幸せ者よね』

 『毎度律儀に顔が見たいって電話かけてくる孝行息子に連れられて、あの人はもう、息子の顔すら覚えていないのに──そのせいでこっちにもテレビ電話かける癖が付いちゃったのよね。今更だけどご迷惑じゃなかったかしら』


 エコロの答えは、ハイ、ハイ、イイエ。希薄な関わりの人間の死って、取り繕ってもそんなものだ。



 席に戻ってきても、陽菜子さんはぐでっとしたままだった。じいっと、窓の外を見ていた。ここまでくると異常である。僕は、顎に手を当てた。入り口に目をやる。エコロはまだ戻ってきていない。聞くなら今だ。


 「陽菜子さんって、お風呂入る時に眼鏡かけます?」

 「………………これ、私訴えたら勝てない?」


 唐突なセクハラに陽菜子さんは笑いを堪えているのか、くつくつと背中を震わせながら、「そもそもこれ伊達メガネなんだから、風呂で掛けるわけないじゃない」

 「そうなんですか。じゃあ次の質問なんですけど、普段、何時ごろにお風呂に入ってますか」

 「19時ごろ。ホントに訴えるぞー。心ちゃんに言っちゃうぞー」


 十分な受け答えだ。仮説が合っていたようで、ホッとする。


 もともと、疑問に思っていた。夢生の正体が陽菜子さんだと分かった日、梶さんと陽菜子さんの間に、何の協力関係もなかったと分かった。そうなると気にかかるのは、時間指定暗号を仕掛けた方法だ。水野さん、もとい梶さんは、陽菜子さんが日誌を取りに来るタイミングを時間単位で把握し、僕らに予告してみせた。すなわち、陽菜子さんの予定を把握するすべがあったのだ。

 

 ──『ねえ、さっきから窓の外眺めてる夢生ちゃん?』

 ──『電車の時間調べろ調べろって逐一うるさくて』

 

 例えば、あの伊達メガネに盗聴器や隠しカメラが仕込まれているとしたら。夢生としての日記奪取計画が、それで知られていたとしたら。先程から変に視線を逸らしている理由に、説明がつく。


 ──『これから死のうって人が伊達メガネ新しくしませんよ』


 そうなると、眼鏡が新しくなっていた説明もつく。梶さんがもう一回、陽菜子さんに接触しているのだ。眼鏡に仕込まれた電子機器は、入水自殺未遂で壊れてしまったはずだから。彼はまだ、僕たちに害を為すつもりでいる。


 (風呂の時間に、眼鏡を外す。その時間は、梶さんに悟られずに意思疎通が出来る)


 その時間に、電話をかける。するべきは、作戦会議。

 ひとりを助けるのにも、独りじゃどうにもならないって、もう、知っているから。




 時刻は20時きっかり、夏とはいえ、流石に日が沈んで、外はすっかり暗くなる。僕は、夕方に話し合いをしたファミレスに舞い戻って、独りで夕食を食べていた。すると、黒革ブーツで吊り目の、怖い印象の金髪の女性が、何も言わずに僕の対面の席に座る。分かっていても子供時代のトラウマは強く残っているもので、ちょっと頬が引き攣った。底上げブーツで身長を偽装した陽菜子さんだ。


 「さっきぶりですね。決断していただけたようで、嬉しいです」

 「……大胆よね。電話で、『梶さんと戦うか否か選べ』なんて」

 

 ドリンクバーで注いできたらしいホットコーヒーを見つめて、陽菜子さんはぼやく。

 「まあ、貴方の予想通りよ。入水自殺を試みた次の日に、梶さんが病院の前で待ち伏せしててね。第4の能力のスピーカーを突きつけながら、『カメラ付きの眼鏡が壊れたから替えろ』って。それ以上の機能があるとは言っていなかったけれど、盗聴器やら発信機やら、あるのかもしれないわね」

 「件の眼鏡は?」

 「枕に括りつけてきたわ。カメラだけならギリ寝てるってことで誤魔化せるかなって」

 

 そう言いながら、陽菜子さんは不安そうな表情だ。そうだと思う。映像が微動だにしないだろうから、真面目に監視されていたら絶対にバレる。その時に、彼がどんな行動に出るかは分からない。ただでさえ今も彼の行動原理は謎のままなのだから。

 「……いちおう、ヘイトをこっちに向ける工夫はしてありますけど。万が一もありますから、これから先、エコロから離れないでください。それと、頼んだもの、持ってきてくださいましたか」

 陽菜子さんは頷いて、A4サイズの小箱をバッグから取り出す。その中身は、前に家に訪問した時に見せてもらった、梶正幸宛ての手紙の数々。

 「前に貴女が見せてくださったときに、『梶』ではない、違う苗字に宛てた物があった記憶がありまして……それじゃないです。貴女が作ったもの探してどうするんですか」

 「あの時は咄嗟に嘘ついたけど、これ作ったの私じゃないのよ……これかな」

 『有山拓実』と差出人に書かれた手紙を放り捨て、彼女が取り出したのは、『此尾正幸様』に宛てられた手紙。ビンゴだ。

 「これお?」

 「コノオです」

 目を見開いた陽菜子さんに、僕は人差し指を立てる。

 「コノオさんからの演奏依頼が、固定電話にかかってきたと聞いたとき、違和感を覚えました。コノオさんは、井上家の固定電話番号を知らないはずだからです。コノオさんとエコロは動物園のいざこざでコンタクトを取っていますが、その時は僕のスマホを使いましたから、かけ直すことはできないはずですし、電話帳サービスを使えば調べられないこともないですが、あれには電話番号を調べたい相手の住所が必要ですし」

 そのまま、陽菜子さんの持つ手紙を指さす。

 「梶さんはもともと、コノオさんで、いつからか苗字を変えていました。電話番号を知る梶さんとコノオさんに、血縁関係があると仮定すれば、この疑念は解決します。梶さんが、コノオさんに固定電話の番号を教えたのです」

 「……何のために?」

 「おそらくは、保険です。第4の能力が万が一露見した際に、エコロと会っていた形跡を作り、罪を擦り付けるために」

 

 ピンと来ていない陽菜子さんに、「見覚えないですか」と、ポリ袋をテーブルの上に載せる。卵の殻のように、割れ散らからった球形の金属部品。組み合わされば、球体になる。僕らを苦しめた頭痛のタネが、第4の能力を発動するためのスピーカーが、無残な姿で転がっている。言葉を失った陽菜子さんに、「ゴミ捨て場に捨てられてました」と補足して、陽菜子さんが来る前にドリンクバーで注いだコーヒーにようやく手を付ける。ぬるい。

 

 よほど見られたくなかったのか、これらスピーカーの破片には何重にも色付きのビニールが巻かれて、外からゴミ袋の中身が見えないようになっていた。これを僕が回収できたのは、ゴードンのおかげだ。サンタもびっくりのでっかい袋を抱えて、ゴミ捨て場へ歩く姿が、ドローンの航空写真に映っていた。

 

 不仲真っ最中であるエコロへの防御手段を自ら捨てるなど、ありえない。

 

 「こういう合理的に説明できないことをやらかしている人って、ご存知の通りたいてい勝手に追い詰められてるものです……さて、凶器を証拠が残らないように捨てる理由って、なんだと思いますか」

 

 僕は球体スピーカーの破片に視線をやりながら、ぬるいコーヒーを啜る。苦い。

 

 「僕にはひとつしか思いつかないのです。だから、戦わねばならない」


 球体スピーカーを捨てる梶さんの撮影日は、病院の件から4日後。ちょうど、マサバさんが亡くなった日だった。彼は殺人を犯し、その上で井上家を使って、罪から免れようとしている。

 

 衝突は避けられない。

 かといって、上から武力で抑えつけたところで意味がない。こちらが殺せない以上、逆恨みを受けることは想像に難くないから。殺人を警察に訴えることもできない。彼の取った手段は、エコロの取れる手段で、人間の取れる手段では無いから。

 だから、妥協案だ。どうにか彼の本音を引き出して、欲求不満を解消させてやらなくちゃいけない。これ以上の迷惑をこうむらないように、住み分けをしなくちゃいけない。


 球体スピーカーが入っていたゴミ袋に、先程の推理を記した手紙を入れておいた。きちんと捨てられているか調べるだろうから、そのうち持ち去られていることに気付くだろう。僕が身の周りを嗅ぎまわっていることにも。

 

 口封じでも、何でも来いよ。




 「すみません長いこと泊めてもらって」

 「まあ、ボクの家庭の事情に付き合ってもらってるんだし、これくらいはね」

 

 今日も、井上家にお世話になる。梶さんの第4の能力に対抗できるのがエコロしかいないので、身を守るための処置である。気付けばもう一週間、他人の家のリビングのソファーで寝るのにも慣れてしまった。

 ソファーに座った状態でエコロから毛布を受け取って、畳んで近くに置く。ここに倒れ込めば、頭を打っても大丈夫。相対するエコロの表情は、少し強張っている。

 

 「……さ、これで大丈夫です。倒れてもモーマンタイ、どうぞ!」

 

 そうおどけて構えてると、エコロはなにか、ぱくぱくと口を動かす。動かすだけで、掠れた声が出るだけで、なんにもならない。2分後、エコロはふるふると首を横に振る。ダメか。

 先程、『上から武力で抑えつけたところで』と言った気がするが、実際はそもそもそれが難しかったりする。エコロは他人に第4の能力を撃つことを怖がっているのだ。幼き日に同級生を傷つけ、冤罪ではあったにしろ姉を殺したと散々責められた結果、相手をちょうど無力化する力加減が分からなくなっているのだ。

 

 ──『夢生が、間に、いるから。攻撃は、できない』

 

 だから、夢生の正体が分かったあの日、梶さんの攻撃を相殺するだけで、攻撃することができなかったのだ。とはいえ、話をするにあたって梶さんを無力化する行程は必須と言える。彼と接触するまでの間に、どうにか力加減を習得してほしいと実験台を名乗り出たのだが、失敗が怖くてできないらしい。

 

 「ごめん」と縮こまって言うので、僕はちょっと笑ってしまった。「いや、なんだか分かる気がするなあって」と、机の上にあるピッコロに視線を向けて。合奏もそうで、自分だけ音程が合わなかったり、任されたパートを上手にこなせなかったり。

 「自分のやりたいことが、確かにあるんです。でも、一度失敗してしまうと、次、出来なくなってしまうんですよ。自分なんかいない方がいいんだって、その方が、世界は上手くいくんだって」

 そうやって、二度の失敗で、僕は自分の善意を信じられなくなった。寂しがりな癖に、他人との関わりを避けるようになった。こちらが何もしなくても来てくれる他人に甘えて、既存の関係を守ることに固執した。苦手な人はいつまでも苦手で、孤独な自分はいつまでも孤独で。

 「そうしてどんどん、やりたいことを後回しにすると、いずれ、ひとりになるんですけど……しばらく、自分が独りになっていることに気づけないんです。正しいことをしているんだから、不幸になるわけがないんだって、自分から不幸になっていることに、気づかないまま。そんなのバカらしいって、今では思います」

 

 目の前で怯える彼女は、矛盾を破壊してみせた。彼女を恐れ、孤独も恐れる陽菜子さんの隣に立って、和解を成し遂げた。……まあ、水野さんの功績が大きい気がするけど、エコロが動かなければ、水野さんもきっと動かなかったわけでさ。

 

 「一線さえ超えなけりゃ、人間何やったっていいんですよ、きっと。その一線を見極められるように育って、自由に楽しく生きるのが、大人になるってことなのです。限界のラインが近い人どうしは、きっと友達になれますから──って、水野さんが言ってました」

 

 照れ隠しに頬を掻いて、「ですから今は探る時間です、慎重にやれば大丈夫、さあ」とずいずい迫ると、エコロは、それまでの真剣な表情を崩して、くすりと小さく笑った。

 

 「……言ってないことがある、って言ったの、覚えてる?」

 「はい。病院のベンチですよね。ゴードンに写真撮られてた時の……あ、ごめんなさい思い出したくないやつですねハイ」

 デコピンを食らって、反射的に謝る。エコロは耳を赤くしている。

 

 「……じゃあ、これもラインを見極める訓練ってことで、ボクの秘密を教えてあげる。インチョーが第一号だ、脅すようだけど、キミの反応いかんで、これからの身の振り方を決めようかなと思う。この秘密を、どこまでの人に話すかを」

 

 げえ、とおどけてみせようとして、止めた。彼女の耳はまだ赤いけど、それでも真剣な眼差しをしていたから。せめて、きちんとした顔で聞こうと思った。「動かないでね」と言いながら、小さな手のひらを僕の肩に乗せて、視界の端へ移動する。耳を貸せということらしい。視線で追うと、すでに、耳元に口を近づけていて、小さな声で。


 「ボクには、動物を操る力がある」

 

 知っている。声帯模写や、テレパシーが使えることも。というか今のだって、耳打ちなんてせずにテレパシーを使えばいい。そう言おうとして、けど、言えなかった。続く言葉に、思考を整理するので手いっぱいになったから。


 「キミに、昔、一回使った」

 

 それは何時だ。小学校時代か、それとも、再会して以降か。

 前から不思議には思っていたんだ。今でも不思議ではあるんだ。どうしてあの時の僕は、初めて暗号表を作ったときの僕は、あんなにも善意に満ち溢れていたんだろうって。

 もしかして、その命令は、今も。

 様々な疑問が渦巻いて、でも、声が、出なかった。喉が締まって、掠れて、声にならない。

 エコロは、何も言えない僕を見て、寂しそうに微笑んだ。

 

 

 

 それから1週間が経ったとき、梶さんからSMSで連絡が来た。

 長ったらしく行儀のよい文章──当日は用事があるので遅れる場合はスマホに連絡するね、とか、戦意が削がれる前置きを省略して一行で要約すると、こんな感じ。


 「全てを話す。2人で来い」




────




 「……待たせてしまってすまないね」

 

 声がかかって、一軒家の壁に寄りかかっていた姿勢を正しつつ、スマホから顔を上げる。数分遅れると連絡が入っていたので、軽く首を横に振って返す。190センチの高身長に、全身黒のツナギ。相変わらず人目を引く容姿をしている。でも、どこか痩せこけて、威圧感が減っていた。

 彼は僕を追い越して、先導するように扉を開ける。平屋の大きな家だ。赤いスポーツカーが停まっている車庫はビルトインガレージになっていて、窓を開けると車庫に出れるようになっている。彼に続いて家に上がると、屋内から車の横顔が鑑賞できる。

 「……夏真っ盛りだけあって、エアコンついてても暑いですね。窓開けていいですか」

 ここは一階、いざという時の逃げ道になるだろう。彼が頷くのを確認して、車庫に繋がる窓を開ける。彼に背中を向けるのには、正直なところ恐れがある。警戒に満ちた表情で振り返ると、彼の瞳には呆れが宿っていた。

 「警戒心が強いんだか弱いんだか。そんなに怯えるのなら、どうして一人で来たんだい。心がいないと、私が第4の能力で攻撃した時に抵抗できないだろう」

 「できないでしょう。貴方は力を放棄した。攻撃に使うスピーカーを捨ててしまった。人殺しに使い、その重みに耐えられなくなったから。コノオさんの死は事故じゃない。エコロの第4の力を利用した貴方に殺されたんだ。彼女の力は、自ら他人に手を下せない男の母親殺しに使われた──聴かせたくないから連れてこなかった!」

 威嚇がてら叫んでも、彼は冷静だ。「飲み物でも注いで、探偵様の話を聞くとしよう。粗茶でいいかな」と、同じペットボトルのお茶を2つの紙コップに注いで、見せつけるように飲み干した。毒はない、とでも言いたいらしい。

 

 「……まずは、貴方についての話をしましょう」

 

 「貴方は良き教育者で研究者でした。エコロの能力を研究し、当人よりも理解して再現できました。貴方の薫陶を受けた彼女は、耳が聞こえないにもかかわらず喋ることができるまで至りました。初め僕は、それを才能だと思いました。才あるひとは他人の心を読むことができ、自然と子育てが上手になるのだと……そんなことはありませんでした。人は、自分に分かることしか分からない」


 ポケットに入れたボイスレコーダーのスイッチを入れると、手元から叫び声が鳴り響く。『梶正幸は人殺し』──けれど、目の前で汚名を着せられている彼は、ちっとも反応しない。涼しい顔で首を傾げている。僕はレコーダーを彼の顔の前まで掲げ、分かるようにスイッチを切った。


 「常人であれば焦って止めようとする音声です。でも貴方には聞こえていない。正確には『理解できていない』」


 人は、自分に分かることしか分からない。


 「貴方はAPD──聴覚情報処理障害です」


 聴覚情報処理障害──聴覚には異常がみられないものの、脳の機能障害で言葉の聞き取りに問題が生じる症状のことだ。一般的な難聴との違いは、音声を言葉に変換できないだけで、音自体は聞こえる点。


 「疑念を抱いたきっかけは、コノオさんの息子さん──というか貴方が、『コノオさんの顔を見たい』とテレビ電話をかけている、という話を聞いたことです。エコロと症状が似ていることから、似た症状を疑うに至りました。そこから夢生にかかった電話の録音を聞かせてもらったところ、内容は返答を許さない、一方的な命令でした。彼女は単に威圧的な態度だと思っていたようですが、論より証拠、実際は聞こえていなかったのです」

 

 ボイスレコーダーを振り、唇をそうと分かるように大げさに動かして。

 

 「貴方は読唇術でコミュニケーションを取っています。エコロへの教育は、己の体験を糧にして出来たものです。ここまではよろしいですか」

 「……続けてくれ」

 「では、次はコノオさんとの関係です。僕は貴方のことをコノオさんの息子さんだと思っています。先程も申し上げた通り、コノオさんの息子さんは顔がみたいだなんだと言って、必ずテレビ電話を要求してくるそうです。読唇術に頼らないと喋れない貴方は、そうせざるを得ない──それから、もうひとつ根拠を挙げるとするなら固定電話です。先日コノオさんから井上家の固定電話にかかってきましたが、エコロがコノオさんにかけた時は僕のスマホからでした。折り返し電話ではありません。コノオさんの身元引受人は、エコロの連絡先を知っています。貴方しか、ありえません」

 梶さんの表情は崩れない。けれど、「最後にこちら」と、陽菜子さんと一緒に検分した手紙を取り出すと、彼はここに来て初めて顔をしかめる。宛名には、『此尾正幸様』とある。

 「貴方の本当の苗字はコノオです。親戚からの手紙が混ざっていました。以上から、此尾朋美──コノオさんの息子さんは、『マサちゃん』は、貴方だと考えています」

 

 梶さんは、顔を顰めながらも、なにも答えない。僕は、人差し指を立てた。

 

 「話を最初に戻しましょう。僕は、息子である貴方を、コノオさん殺害の容疑者だとしています。その理由は、貴方が一度未遂をやらかしているからです。僕は動物園でのゾウの脱走を、マサバさんを殺そうとして引き起こされた事件だと思っています」

 人差し指を立てたまま、

 「ひとつ、エコロの話では、コノオさんは垂直に餌箱に入っていました。車椅子の老婆が1人で出来ることではありません。他人の関与が窺えます」

 中指を追加して、

 「ふたつ、ゾウ舎の担当の方は、てんかんの持病を疑われ退職したそうです。ですが報道によれば、急に気絶したのは後にも先にもあのときだけだそうです」

 薬指も足してやる。

 「みっつ、監督者を失ったゾウは、何かに導かれるようにまっすぐに、園の出口へと向かい、パニックを引き起こしました」

 これらのことから、と前を向いて。

 「貴方はコノオさんを餌箱に入れ道中に置いたあと、第4の力で飼育員を気絶させ、そのまま園外へ移動、そのまま動物を操る力でゾウを呼び寄せました。ゾウでマサバさんを轢こうとしたのです。直接手を下すのを疎ましく思い、車に轢かれる事故を待つかのように、殺害を試みたのです」

 

 梶さんの表情は、再び平坦に戻った。「言ってて恥ずかしくならないかい」と、お茶を飲んで、ため息をつく。

 「では聞くけれど、どうやって誰にも見つからずに餌箱にマサバを入れたと言うんだい。入園時に箱を持ってちゃまず怪しまれる。かといって園内で人目のあるうちにやったと?」

 「後者です。一箇所に周囲の視線を集めれば可能です。あのとき蜜蜂の大群がいましたね。彼らも音声コミュニケーションの使い手、動物を操る力で操作可能です」

 「……何でもありだね。ならそこは置いておいて、もうひとつ、園外から私がゾウを音声コミュニケーションで操ったというのなら、エコロが気づかないワケがないとは思わないかい。彼女が一言でも、そういった音が聞こえると言っていたかな。私にできるなら、彼女にもできる。彼女の仕業だとは考えなかったのかい?」

 試すような瞳に、小さく首を横に振る。

 「彼女には僕らに聞こえない音が聞こえているようですけれど、それは耳で聴こえる音に、空中や水中を伝う音に限った話だと思われます」

 普通の人間とどこか違っていても、すべてが違うわけじゃない。0か100かじゃないんだ。境界線を、辛抱強く、見極めないといけない。

 「ゾウの低周波コミュニケーションは地中を伝い行われます。彼らは足の裏に振動信号を増幅する機構を持っていて、そのおかげで数十キロ離れた先の仲間の信号を聴くことができるのです──彼女の能力は謎に満ちていますが、第4の能力の威力制御然り、なんでもかんでも意のままというワケありません。これまで見てきた感じ、足は普通の人間のそれです。貴方の犯行に気づかなくとも、おかしくはありません」

 「……結局、今回のコノオさんの死亡が私によるものだという証拠はないだろう?」

 「その通りです。今回は貴方のお誘いで、全てを話すとのことでしたから、陽菜子さんや夢生の話と共に自白して下さることを期待しております。今回のことは何かと理解不能で、動機などお話しいただければと思います」

 

 そう、結局、推測でしかない。

 これは、落としどころを見つける話し合いなのだ。


 「……最後に、自分なりに動機の推察をしたので、聞いてください」

 

 再び指を人差し指に戻し、梶さんの顔を見る。彼の顔は平坦に戻っていて、完全に僕への興味を失っていた。これでは自白なんぞしないだろう。僕は、全身に力を入れる。水野さんと陽菜子さんのやり取りで学んだ。腹を割って話し合うためには、相手を同じ土俵に引きずり出さなくてはいけない。

 

 それがたとえ、相手にとっての地雷でも。

 

「思うに、貴方はコノオさんに、実の母親に虐待を受けていたのではないでしょうか」 


 彼の顔は、変わらない。けど、指先が、ぴくりと動いた。


 「此尾さん──今は梶さんとのことで、苗字を変更してらっしゃいますけれど、これはそう簡単に出来るものでもありません。特別な事情があると家庭裁判所で認められないといけないのです。その点、虐待を受けた精神的苦痛というのはもっともらしい理由です……そう考えると、梶って苗字は当てつけでしょうか。コノオって、『木尾』とも書きますもんね?」


 わざとらしく語尾の音程を上げ、「少し貴方のことが理解できたような気がします」と続ける。


 「あの日夢生に、陽菜子さんに言っていたことも」

 ──『一度罪を犯した者は、慎ましく生きなければならない』

 「貴方の掲げる大義、子供への愛情も」

 ──『子供は、守り育てられるべき』


 「なるほど少しは理解できるようになります。そんな経験があれば、そりゃ陽菜子さんのことは許せなかろうと思います。問題は、彼女の虐待が貴方の誘導したものでありそうなことですが……そろそろ、そちらの話をお聞きしても?」 


 締めくくり、余裕を示すように、注がれたお茶を恐る恐る半分飲む。緊張で味がしない。

 梶さんは、お茶を飲んだ僕の口元を、穴が開くほど見つめている。ひとことも、喋ろうとはしない。




────



 ──『マサちゃん、マサちゃん、可愛いねえ』


 生まれついて、ではなかった。言葉はきちんと聞こえていたはずだった。

 母の声を聞きたいと思っていたから、聞こえていた。

 母の声を聞きたくないと思ったら、聞こえない。


 『仕事もしないで遊び歩いて、学費はどうするの、生活費は』

 『親になったら傷心を慰めることも許されねえのかよ。俺はガキのATMじゃねえ』


 布団に入ると、いつも声が聞こえる。聞きたくもない声が聞こえる。

 父は何をやらかしたのかいつの間にか無職になっていて、そのことを専業主婦の母に隠して昼間から遊び惚けていた。母と父では力が違う。身体的にも、経済的にも。母は耐えかね離婚した。

 永遠に続く誓いを立ててキャリアを閉ざし人生を預けた代償は大きく、常に家計は火の車。母は、強くあらねばならなかった。強くなければ生きていけなかった。


 母にとっての強さのモデルは、父だった。


 『食わせてやってんのは私なんだよ。文句言うなら食うな』


 お腹が空いたと口走ったが最後、夕飯を目の前で捨てられた。これは文句にあたるのか。むしろ期待を示す言葉ではないのか。正常な応答を得られなかったことで、私の言語野は間違った記憶を重ねてゆく。


 『あーあ、勿体ない』


 捨てたのはお前だろ、と思った。言えなかった。ただ謝った。そうすることしかできなかった。父と母との関係が、母と私との関係だった。脳が崩れてゆく。他の人とは、違った形に育ってゆく。強さによって歪んでゆく。


 不機嫌な母に、どう答えれば正解だったのか、私に何をしてほしかったのか。

 母の気持ちが分からなかった。分からなかったから、口を閉ざした。


 『居候の身でお帰りも言えねえのかお前は。叩かれないと喋れないのかお前は。耳が聞こえないわけでもないのに』

 『────だから、──、────』


 迷った末の行動で責められるより、一方的に嬲られる方が気持ちが楽だった。

 そう思ったからか、願いに応えるように、私の耳は言葉に対する感度のみを失った。

 母の言葉をこれ以上聞かなくてよくなった。痛みは倍増したけど、それでも良いと思えた。


 『────聞こえ──────』

 『内密に────、相談──────』


 学校で、深刻な顔をした大人たちに連れられて病院へ行った。

 そのままいつもと違う帰り道を行き、着いたのは一度しか行ったことの無い祖父の家。


 彼は、かがんで私と目線を合わせて、ゆっくりと口を動かして。


 『耳が遠いんだったか。お揃いだなあ』



 私は、祖父の家で育った。祖父は母と違ってきちんと食べさせてくれたし、理不尽な暴力を振るうこともなかった。午前中は散歩して、午後は縁側でピッコロを吹く。時間のゆとりが母との違いで、暴力の有無もそれゆえなのだろうと幼心に思った。


 祖父は、一つだけ、いつも言っていることがあった。


 『自分に誇れる生き方をしな。死ぬときには誰だって死にたくないと藻掻くものだけれど、こういう平時に、死を想った時に、その瞬間になっても後悔しないだろうとふんぞり返れるように生きな』


 『じいちゃんは?』


 『お前を引き取った。それが誇りだよ』


 祖父のことは好きだった。けれど、言っていることは隠居したが故の歯の浮くような理想論だとも思った。

 母も父も、初めは愛し合っていた。愛の結晶として私が生まれた。

 けれど最後は憎み合い、私は彼らの人生の邪魔になった。家族全員が不幸になった。


 誇りなんて、犬に食わせておけばいい。

 金さえあれば、時間ができる。時間のゆとりがあれば、人は幸せだ。


────


 ──『正幸か、大きくなったな』


 『三週間前くらいに会ったろ。もう大人だ、大きくなったとしたら横にだよ』


 ──『仕事の付き合いで飲み会とか、あるもんなあ。羨ましいぜ。病院食は味が薄くてな』


 『お医者さんに酒止められてるの、忘れてないよね』


 ──『……覚えてるか、昔言ったこと』


 『自分に誇れる生き方をしろ、ってやつ?』


 ──『ああ言ったのは、オマエが不幸な顔して生きねえか心配だったからだ』


 『……』


 ──『人生に2度目は無い。死んだらそこで終わりだ。配られた手札がどんだけしょっぱいもんだろうと、それで生きるしかねえんだ。配り直せって騒いでる間も、時間は過ぎていく』


 ──『不幸の原因を恨んでもいい。恵まれたヤツを妬んでもいい。でも、それを生きがいにしないでほしい。配られた手札を使って、自分なりに、一度きりの人生を楽しんでほしい。だから、そう言った』


 『……どうしたんだよじいちゃん。となりの婆さんにまた宗教勧誘されたの?』


 ──『正幸』


 ──『オマエは、自分を誇って生きろよ』


────


 祖父が死んだと聞いた時、一抹の寂しさと、ほんの少しの安堵があった。

 安堵したのは、嘘を貫き通すことができたから。


 私は働いていなかった。

 冗談半分で始めた情報商材の販売が軌道に乗って、慎ましい生活であれば働かなくても生きてゆけるほどの定期収入があったからだ。

 『簡単に儲かる』『誰でもできる』『今から始めよう』『今のままでは勿体ない』

 人生に心残りがある人はたくさんいて、その心残りを取り払えるかのような文言で誘惑すればいい。あるいは、心残りを増やしてやればいい。


 『同僚に差をつける稼ぎ方』『人前で上がらない自信のつけ方』『やってはいけないファッション』『食べてはいけない添加物』


 パワーストーンもおんなじで、私が心残りを取り払う先人であるかのように振る舞えば、彼らは喜んで私を崇めてくれる。顔の見えない人生の先駆者を有難がって、高い金を支払ってくれる。私のことを、強いと思うからこそ。


 その強さは偽物で、そこに誇りは無い。だから、祖父には言わなかった。

 

 咎めるように、電話が鳴った。


 『弁護士事務所のサトウです。お爺様のこと、お悔やみ申し上げます。相続についてお話ししたいことがあるのですが、テレビ電話でないといけないとのことで、お時間のご都合いかがでしょうか──』


 難聴の秘密を知られていることに、どきりとした。

 祖母はとうの昔に死んでいたため、祖父の妹が、遺品整理を買って出たのだという。


 『本来お孫さんは法定相続人ではないのですけれど、遺書がございまして。孫に遺産を全額相続すると書かれております。総額およそ八千万ほど、貴方の大叔母様も異存ないようで』


 ──『オマエは、自分を誇って生きろよ』


 深い皺の刻まれた、苦しそうな表情を思い出す。

 後ろ暗い金を稼いで生きていたことがバレていたのかもしれないと、呼吸が浅くなった。


 『つきましては──』

 「待ってください」


 自分の声は、たどたどしく、情けないもの。それでも、弁護士は言葉を止める。


 「確か、法定相続人が最低限受け取れる額があったはずですよね。その話し合いを怠って、のちのち裁判になるとも聞きます。大叔母が良くとも、母はなんと言っていますか」

 『──お爺様から、お聞きになっていないのですね』


 含みを持たせた、言い方で。


 『貴方のお母様は、認知症を患っていて、法的な判断が出来ない状況です。相続の面倒を避けるために、貴方がお母様の面倒を見ることを前提に、お爺様は遺書を書いておられたのです』




 頭が、パンクしそうだった。


 『どちら様かしら』

 『しっかりしてよ朋美ちゃん。自分の息子でしょうが』

 『……ああ、そうだった、そうだった』


 明らかに嘘をついている顔で、自分の母が己の顔を覗き込んでいた。敵か味方か推し量るような、不愉快な表情で見つめていた。


 『ごめんなさい。子供のころに何があったかは知ってる。こんなこと、貴方に頼むべきじゃないと思う。でももう、頼る人がいないのよ。再婚した旦那さんはもうぽっくり逝っちゃってて』

 「……明海さんが謝ることじゃないでしょう。むしろ益もないのに率先して介入してくださって、こちらが申し訳なくなるくらいです」


 祖父の遺書を読んだ。

 娘から守り育てるつもりで引き取ったのに、騙すような形になって申し訳ない、と、小さく弱弱しい文字で書かれていた。

 娘が認知症になってからというもの、自分が介護施設の代金を出し、時折様子を見に行っていたこと。その役割を、自分の死後私にやってほしい、という頼み。死を前にして、同じ道を行く娘への同情を捨てきれなくなったと、独りで逝かせるのを不憫に思った、と書かれていた。


 祖父には恩がある。頼みがあるなら、なるべく叶えてやりたい。でも、これは、これだけは。虐げていた子供のことなど忘れ、新しい男を作り遊び、そいつが死んだから助けてくれと宣うのか。奥歯が軋んで、不快な音が鳴る。

 母は、私の顔をもう一度覗き込んで、入れ歯の臭いが分かるほどの距離で、唾を飛ばして。


 『やっぱりこの子、マサちゃんじゃないわよ。マサちゃんはね、こんな本を書いているの。頭の良い子なの。貴方には出来ないでしょう』

 『朋美ちゃん』


 薄っぺらい自己啓発本を抱えて胸を張る母親を見つめ、形容しがたいどす黒い感情が、胸の奥に小さく開いた穴から、ぽつぽつ漏れてゆく。祖父の家で暮らしているさなか、母と再会したときに交わす言葉を考えていた。母がひとこと謝ってくれたなら、過去を水に流して和解しようと思っていたのに、もはやそれも叶わない。


 それでも私は、笑顔を作った。


 『大丈夫。これでも稼いでるんだ。施設のお金くらい払うし、休日は様子を見に行くよ』


 それでも、生きていた。胸に開いた穴を塞ぐこともなく。

 金も時間もあったから、過去の景色がよく見えた。母の顔を見るたび、胃にきりきりと痛みが走る。苛立ちが収まらない。本当は顔を合わせたくもない。


 灰色の日々を過ごす。新しいことを楽しめない。後ろ向きに、鬱屈とした時間を、やり過ごしていた。

 そんな中で、連絡があった。




 小さな居酒屋で、肘の当たる距離。店内に広がる、焼き鳥とおでんの匂い。皺の増えた父は、何故だかスーツなんぞ着て、昔のことなど忘れたかのような、屈託のない笑みを浮かべている。


 「聞いたらびっくりオメエは難聴、アイツはこの年でボケたときた、苦難の連続だなあハハ」

 「誰のせいだと思ってんだよ。てか何しに来たんだ」

 「昔のガキの顔が見たいってんじゃダメかよお」


 もう酔っぱらっていて、真っ赤な顔を近づけてくる。酒臭い。鬱陶しい。

 本当なら、怒鳴りつけるべきだったのだと思う。どのツラ下げてって喚ければ、どれだけすっきりしただろうと思う。けれど、怒りを保持する余力が私には無かった。なあなあにして受け入れてしまうことに、母のせいで慣れてしまった。


 「今はもう真面目に働いてんだぜ。新しい家族も作った。オメーもはよ作れ。孫の顔を見せろ」

 「再婚したならなおさら会いに来ちゃダメだろ昔のガキなんて」


 そう言うと、彼は我に返ったように静かになって、自分の席の半月ほどの大きさの大根を丸呑みした。


 「そう思うならなんで今日、会ってくれたんだ。無視したって良かったはずだろう」


 私は、視線の合わない父の横顔を見つめた。恐ろしい母よりも強かったはずの父の背は丸まっていて、小さく、惨めなものに思えた。


 「……気になったからさ。どんな顔して会いにくるのか。何を私に望むのか。少なくとも記憶の中の貴方は、『昔のガキの顔が見たい』なんて理由で電話をかける人じゃなかったから」

 彼は、焼酎のグラスを持ち上げ、そこに映った自分の顔を見つめる。

 「わかんねえもんだ。ちゃらんぽらんな自覚があった1回目、こうしてオメエは酒が飲めるまでデカくなり、真面目にやった2回目は──」

 「家出?」

 「首吊りだよ」


 一瞬、店内がしんとした。

 父は小声で「やべっ」と呟き、「……ドラマで見てな、演技が真に迫ってて怖かったわあ」と繕う。誤魔化せてないと思うけど。半目になって父を見つめる。父は苦笑して、それからは囁き声で。


 「俺はそのとき仕事で家に居なかったんだが、嫁は直接死体を見ちまって。それが本当にショックだったんだろう。病んじまってなあ──今じゃ、どっかから拾ってきた中坊を代わりみてえに可愛がってる」


 彼の横顔は、我が子の死を悼み、伴侶の精神を憂う、真っ当な父のもの。

 「それが本当に中坊なら放っておいたんだがな。ありゃダメだ。互いに腐るだけだ」


 最初からそうであってくれれば、とは、無いものねだりか。

 「オメーは口が上手いだろ。どうにか追い払っちゃくれねえか」


 「勝手なことを」と思った。言った。でも、断れない自分がいた。




 その母親は、傍目には病んでいる見た目をしていなかった。さっぱりとしたボブカットを揺らして、件の中学生に手を振り見送るところだった。中学生の方は、身長130センチほどで、肩ほどまで伸びた黒のセミロングヘア。中学生の方は、と述べたが、父の見立てでは18歳らしい。それが紺のブレザー制服を着て、スキップでも踏みそうな無邪気さで往来を闊歩している。すれ違う人々の誰も、違和感を抱いていない。


 (……あれで18。背が低いのは百歩譲っても、肌とかどうなってんだよ)


 父曰く、振る舞いが若々しさに欠けるそうだが、私には分からない話だった。むしろ皺ひとつないその肌から、苦労せず甘やかされ生きてきた彼女の人生を想像して、腹が立ちすらした──八つ当たりだな、これは。


 人がいなくなるタイミングを見て、咳払いして、彼女の肩を叩く。

 彼女は振り返って、見上げて、ぎょっとした。そういえば、自分の身長は彼女の1.5倍ほどだ。失念していた。膝を折り曲げ、目線を合わせる。それで、少しほっとしたような表情になった。


 「あんたが今しがた出て来た佐野さんち。あそこに佐野元気って父親がいるだろ。その人はバツイチでな、元の子が私だ。単刀直入に言うとだ、元父親に頼まれたんだ。自称中学生を追い出してくれって」


 口が上手いからと頼まれたわりに、何の工夫も捻りもない説得。それが効いたのか、彼女はバツが悪そうに目を逸らす。


 「……分かる人には分かるんですね」


 潔い。であれば、次は動機をあぶりだす。何のメリットがあって、中学生のふりをするのか。欲望を満たしてやれば円満解決だ。そう思って、「なぜこんなことを?」と口にする。彼女は、佐野家の窓を見る。ボブカットの母親は、何をするでもなく、天井を眺めている。


 「……あの家で自殺があったのは、ご存知ですよね。あの日から、お母さんがずっとずっと、ぼうっと天井を眺めているんです。自分を責めて、それで一日を過ごしていて──見ていられなかったんです。私では、子供の代わりにはなれませんけど、少しでも、安らかに、自分を許せる時間が増えればって」


 小さな彼女がたどたどしく話す姿に、衝撃を受けた。嘘をついている様子は見られない。金目当てだと思っていた。年齢を見分けられなかったのは当然かもしれない。精神まで中学生だ。近眼で、先のことを考えられない人だ。


 私は、動揺を努めて隠しつつ、無表情気味に言葉を紡ぐ。

 「……今は良くとも将来どうする。嘘をついて、いつか大人であったと告白したとき、その責は貴女に降りかかる。年寄りは、助けてもらったことなんてすぐに忘れるんだ。余計な世話は焼かない方がいい」


 彼女は、素直に頷いた。




 「礼だ」

 

 渡されたのは、水族館のペアチケット。『ドルフィン・オーシャン』と書かれているのを見て、悪戯が成功したかのように笑う父を睨みつける。

 「これあの人の勤務先だよね。なに、2人まとめて養子にしようって計画で奥さんには話してあるとか?」

 「お前は中学生って顔じゃねえだろ。冗談キツイぜ。俺のお節介だよ。好きだろああいう子」


 彼は背を向け、歩き出す。私は、立ち止まって父の背を見送る。初めから父がこうでいてくれたら、こんな、腹の内を見せ合ったくだらない話も、机に座ってゆっくりと、顔を見合わせてできたのかもしれない。

 でも、父は弱かった。母を害さなければ、生きて行けなかった。

 結果、立ち話が精々だ。


 「もうこんなのといてもつまんないだろうって、離婚しようってさ。俺は新しい恋を探すよ。ま、一緒に頑張ろうぜ」


 でも、父は引きずらない。そして不義理に見えても、私のことをよく理解していた。

 なぜそうであるかは知らずとも、そうであることを知っていた。私は、父に言われて初めて、自分のことを理解した。


 現実が嫌いだった。周囲の強さに目が眩むから。

 空想が嫌いだった。自分の弱さがよく見えるから。

 現実にいながら空想を体現するような、強さと弱さを備えた人が好きだった。




 チケットは結局渡せずに、客として水族館に足を踏み入れた。すると驚いたことに、受付の彼女は背が高くなって、なんなら金髪になっていた。一度顔を見ていなかったら、その正体には気付けなかったと思う。

 私と目が合うと、露骨に目をまんまるにして、人差し指を唇に当てる。近づいて一人用のチケットを渡すと、半券を切りながら、顔を近づけて。


 「お久しぶりです、そしていきなりですけどこのことは内緒にしてください……!」

 「どちらさまですか。生憎、初対面の方と内緒にするようなことに覚えが無いのですけれど」

 「私ですよ佐野さん、佐野さんの家に入り浸ってた自称中学生の」

 「……なんで自分から言うんだい」

 「あっ」


 内緒にしろと言うから、せっかく知らないふりをしたのに。

 なんだかおかしくて、どちらからか始めたか、お互い笑い合う。他のスタッフから睨まれているのに気づいて笑いを抑えようとしている様がまたおかしくて、愛おしくて。




 「苗字、佐野さんじゃなくて梶さんだったんですね。私ったらたびたびとんだ失礼を」

 「お察しの通り、両親が離婚してね。父が佐野、母が……梶。母の姓を選んだんだ」


 勤務を終えた彼女と、2人で歩く。

 こんな屈辱的な嘘も苦にならないほどに、束の間、母のことを忘れられた。現実を、未来だけを、追っていた。


 「私は、その、両親が海外におりまして。妹を代わりに世話している状況です」

 「立派じゃないか」

 「いえ全然、世話とは言ってもお金は両親が仕送りしてくれますし、本当ただ送り迎えと食事と排泄と睡眠の世話……いやごめんなさい結構多いです大変」

 「そうだと思うよ。他人の世話は大変だ」

 「……その」

 「なんだい?」

 「梶さんって、お母様のこと──」


 彼女は、私の表情を見て、言葉を呑み込む。


 「なんでもないです。それより、妹と会ってみませんか。ちょっと成長が遅いですけれど、可愛い子で。ご都合が合わなければ土日の託児室に来てくだされば、いつでも会えますよ!」

 「キミは仕事中だろ。世話をさせようとは、抜け目ない人だ」

 「いえそんなつもりじゃ……そういうことになりますね。ごめんなさい今のは無しに」

 「ごめん、悪い癖だ。モチベーションはあるよ。けど、託児室に部外者が入るのってどうなんだい?」

 「社員の関係者として名簿に個人情報を控えさせていただければ、自販機の業者さんくらいの扱いになると思います。託児室までは入れますよ。立ち入り禁止の部屋──水槽管理室とか、屋外プール──は、社員しか持っていないIDカードで施錠されているので、そのあたりは入れませんけど」

 「そんなとこ、頼まれても行かないよ?」


 信用されているのか、いないのか。ふわふわとした不思議な気分で、託児室に足を運んだ。スタッフオンリーの扉を開けて廊下を進んでも、誰にも何も言われない。首から下げた許可証の影響だ。

 堂々と行こう。託児室は、水槽管理室と同じ2階だ。

 そう、階段を昇ろうとして、異変に気付く。


 (……廊下の突き当りに、子供がいる)


 本当の姿の陽菜子より、さらに小さなシルエットだった。長い髪で、女の子だということだけが分かった。託児室から抜け出してしまったのだろうか。連れ戻そうか。でも私は威圧感ある見た目だ、騒がれまいか不安なところがある。そう逡巡しているうちに、彼女は、突き当りにある自動ドアから、外へと出て行ってしまった。


 慌てて走って追いかける。きゅ、きゅ、と湿った床を踏む音が聞こえる。

 いつの間にか床はつるつるの青一色から、滑り止めの紋様が刻まれた薄紫のタイルに変わっていた。


 思い返す。これは、破滅への足音。

 ここで着いて行かなければ、幸福など求めなければ。矛盾するようだけれど、私はそれなりに、幸福でいられたのだと思う。 


 無我夢中で、開いたままの自動ドアを走り抜ける。視界の端に、IDカードを読み込む機械を認め、一瞬思考が止まる。さっきまで、自動ドアは閉まっていた。女の子は、どうやってこの扉を開けたのだろう。


 その答えは、扉を開けた先、屋外プールにあった。

 3匹のイルカが、タイミングを合わせて同時に飛んでいた。


 「……は?」


 見回せど、飼育員はいない。

 その場にいたのは、言葉を話せない、耳も聞こえない、小さな女の子。

 そんな子の指示に従って、イルカはアーチを描いていた。幼稚園児の号令に合わせて踊っていた。


 日常を吹き飛ばす、異能の力。

 現実に、空想が混ざっていた。境界が、分からなくなった。



 それで、有り体に言ってしまえば、気が触れた。




 ──『あんたなんか、マサちゃんじゃない』

 ただただ、羨ましかった。他と違う才能があることが羨ましかった。こんな力を持っていたら、母は私を見限らなかったろう。


 ──『自分を誇って生きろよ』

 いやしかし、彼女は私と同じタイプの難聴だ。私なら上手く導ける。過去のしがらみなんぞ放っておいて、彼女のことを救わなくては。


 ──『どうしよう、正幸さん』

 姉の陽菜子は頼りない。母もきっとこうだった。親になる覚悟が足りなかった。大人になった今、水に流すべきなのだ。


 ──『その、ヒナ姉が、ボクのこと』

 ああ。

 でも、許しがたい。

 育てると誓いを立てた妹の心に、こんな苦しそうな顔をさせている、母に似た境遇の陽菜子のことを許しがたい。

 私を苦しめた、私に似た心を苦しめる陽菜子を絶望させたい。


 父から渡された、佐野杏の遺品に触れる。

 カメラが仕込まれた伊達メガネに、ネックレス。どれも執着に満ちている。

 誰かと繋がりたくて、正攻法で向かえない己への呪いに満ちたまま、彼女は死んだ。

 

 死んだ彼女に、肯定されているような気がした。

 脳が歪んでいく。好奇心は正義感に。正義感は憐憫に。憐憫は義憤に。強くなるはずだったひとを、弱くなるように、弱者の気持ちが分かるまで、真綿で首を絞めるように追い詰めて。


 ──『助けて。妹に、殺される』


 義憤は、達成感に。




────


 「……凄いな、キミは」

 渡されたお茶の入った紙コップを空にするほど時間が経って、彼はようやく口を開いた。どこか達観した、穏やかな表情だった。

 「その通り。私は心の能力を使って、実の母親を殺した。動機も、キミが言っていた通りだ。耄碌したババアに虐げられていたのが、急に許せなくなってね」

 彼は後頭部を掻くと、「そういや、エコロに言葉を教えたことを褒めてくれたね」と続ける。

 「あの子に言葉を教えたとき、さしもの私も同情の気持ちがあったよ。同じ症状を持つものとして、助けなければならないと思った。けれどそんな気持ちは、彼女の能力を目の当たりにして、すぐに吹き飛んだ」

 髪の毛一本を指で摘まんで、息を吹いて飛ばす。

 「彼女の難聴は良い難聴だ。メリットと引き換えの産物だ。それに比べて私は、ただのデメリット、庇われる弱者。おまけに彼女は、家族に愛されているときた。私は、家を出なければ生きていけなかったのに。同じ目に合わせてやりたくなった。自分と同じレベルまで堕ちて欲しかった」

 「けれど同じ目に合わせたら合わせたで、今度は陽菜子のことが許せなくなった。薪をくべるように、母への怒りも再燃した。キミが言うように、虐待が起こるよう仕込んだのは私なのにね──母に殺意を抱いていても、自分で手を下すことは出来なかったから、ゾウに力を借りた。でも、キミたちに邪魔をされて彼女は生き延びた。その時点で諦めたんだ。2度と分かりあうことはないだろうけど、怒りを忘れて生きようって」

 

 長台詞を終え、「でも、ダメだな」と笑顔を見せる。背中に怖気が走る。

 「忘れることなんてできやしない。一度同じレベルまで堕ちたはずの心は、陽菜子のことを許してしまえた。分かりあって、前を向いてしまった。私の母はもはや話が出来る状態ではなく、どうあっても関係の修復は不可能だ。私だけが再び取り残された。もはや、孤独を解す同志はいない」

 

 心臓が早鐘を打つ。エアコンの音がうるさい。全身が熱い。空気が乾いて、喉が締め付けられている気がする。背中の怖気は、身体の悲鳴は、虫の知らせなんかじゃない。頭に血が上って、揺れる。口を押さえて、蹲る。

 下を向くと、紙コップの底に、溶けきらない粉の欠片が見えた。


 悠々と彼は台所へ向かい、銀に光る包丁を持って戻ってくる。緊張で頭が回らない。逃げねばと脳が悲鳴を上げる。それでも、耐えねばならない。

 《窓の外、車庫に潜むエコロに、第4の能力を撃つタイミングを合図するまで》は。


 「キミは1人で来るべきじゃなかった。窓を開けることで逃走経路を確保して安心して、子供騙しの策に引っかかる。ペットボトルが同じなのはいいけど、紙コップの中身は確認したかい」

 彼は自分の分の紙コップの底を見せ、粉が無いことを確認させてから放り捨てる。

 「私は悪くない。キミが知ってしまったのがいけない。後はキミを餌に心を消せば、犯行を知る者は誰もいなくなる」

 

 包丁を持ったまま、一歩一歩近づいてくる。倒れ伏したまま、指に力が入って。

 あと一歩のところで、梶さんは、足を止めた。

 

────

 

 「……なんてね。キミは一人で来ていない。そこに心がいるんだろ」

 足を止め、車庫の窓に視線をやってそう呟くと、拓実の肩がびくりと跳ねる。

 「キミは陽菜子に尾行させて、私が薬を入手したことを知っていた。その上で、毒を飲み干し、術中に嵌った芝居をした。実際は薬を飲まないような工夫をしているはずだ。何故そんなことをするかって、油断した私に一撃食らわせるためだ。浅知恵を上回って屈服させてやれば、反省するだろうって思っているから。私の中の悪魔を、追い出そうと言うんだろう」

 口の周りに、包丁と共に持ってきた布を巻く。気休めだ。だが、十分に機能する。

 「こうすれば、第4の能力は弱化する──無論、弱めるだけだ。心が本気で能力を使ったら、なすすべもなく倒れるだろうな。ただ、キリ良く殺さず無力化する自信はあるかい。私が昔してやったような、十分な検証は終えたかな」

 自分の声が、早口になっているのに気づく。

 陽菜子の尾行に気付いたうえで、放置しておいた理由は、格好悪い話、ただただ上から目線がムカつくから。

 「あんま大人を嘗めるなよ。私はキミみたいな子供が一番嫌いだ。人生には、キミの知らないような苦難が山ほどある。ただ知らないだけの、経験していないだけの、無知なだけのガキが、人格で上回ってるみたいなツラしやがって」

 

 拓実は、顔だけでこっちを見る。哀れんだ目をしていた。

 何かしてやってるってその目だ。

 私の考えを変えるのに、なんのコストもかからないって顔をしてる。正しいほうに合わせろってその顔が、気に食わない。


 「心!!」

 姿の見えない彼女を呼ぶと、拓実が小さく指を動かして、それが合図だったのか、心が予想通り車の裏から走ってくる。その顔には、拓実と違って余裕が無い。私が包丁を振りかざして、無防備な彼の背中に振りかざしたから。彼の腕は自らの身体の下敷きになっていて、とっさの防御はできないだろう。


 「他人の考えを変えたいのならば、代償を支払え」

 王子のことを振り向かせようと、声を失った人魚姫のように。


 「私を止めたければ、躊躇うな。殺してでも止めてみせろ!!」




 ──『人は、誇りが無ければ生きてゆけない』


 拓実に私が語った言葉。祖父が、私に贈った言葉。

 それでも、私は生きていた。面倒を見てくれた祖父に背いて、人を騙して、屍のような毎日を送っていた。ずっと憤りがあった。こうも不満足な毎日であるのは、母のせいであると思っていた。かれど、母はもはや意思疎通がかなわない。母は、今の私に影響を及ぼしようがない。もはや私は、母より強いはずなのだ。


 心のどこかで、私を責める声がする。

 昔受けた理不尽は、確かに理不尽であったけれど、いまの自分の意気地のなさとは関係がない。母のせいだと言いながら、その実私が怠惰なだけだと。清々しい日常を送るために身を切るような思いをするのが面倒で、母にすべての責任を押し付けているだけだろう、お前は。


 身体だけ大きくなった。自らの意志の矮小さに、失望した。惨めな自分を、これ以上見たくはなかった。己を見つめず済むように、不可思議の塊の研究に没頭した。


 ──『人間を操る力はあるのか』


 終ぞ、姉の虐待を受けようと、そうした力は発現しなかった。姉の末路を楽しむ方へ舵を切り、頬を張り、別れを告げて、踵を返した、その時に。


 『行かないで!!』


 ワイヤレスイヤホンから、金切り声が聞こえて、私の足は止まった。後ろ髪を引かれて、とかそういう比喩ではなく、物理的に。足を進めようにも、足の筋肉が痙攣していうことを聞かない。顔だけで振り返って心を見ると、途端に蛇に睨まれた蛙のように委縮して、それで足が自由になる。


 足を進める。一歩一歩、彼女に聞こえるように、革靴の音を鳴らす。期待していた第二声は、聞こえない。


 ああ、人を操る力はあったのだ。

 私は、それに値しないのだ。


 あそこまで世話をしても、かけがえのない存在になっても、彼女は、その能力ゆえに疎まれることを恐れて能力を使わない。私の自由意志を奪うほどに、欲しいものを一直線に求めることができないのだ。


 (……この子はこの先、苦労するだろうな)


 他人事のように、内心でため息。

 人生の才能は、躊躇の無さだと教えたはずだ。声の大きさこそ強さであるのだ。

 

 他者に遠慮して、欲しいものを諦めているうちは、幸福になんてなれないよ。


────


 感傷に浸れていたのは、そこまでだった。

 エコロが何か、叫び声を上げると、漫然と突き付けていた包丁が、身体を一瞬で起き上がらせた拓実に峰を叩かれて、勢いそのまま私へ向かう。このまま自分に刺さったらあまりに間抜けだ。そう思って腕に力を入れて、刃の動きを止める。


 峰を叩かれ、自分に向いた刃を相手へ向けようと、一回転、包丁を回すと、刃が自分に向いた。


 (えっ──)


 思考に一瞬の空白が生じて、その瞬間、拳が顎に飛んでくる。


 「が」


 自分の歯と歯が衝突する音がして、頭が揺れる。

 どういうことだ。これでは拓実が、包丁の刃を一切の躊躇なく叩いたことになる。

 

 間髪入れずに鼻に2発目が飛んできて、左腕でガードしようとしたら、股間に蹴りが伸びているのが見えて、慌てて股を閉じてガードする。

 距離を取って正面を向く。敵意に満ちた瞳でこちらを睨む拓実の陰に、エコロはいる。誘導の賜物だ。窓を背にするように座らせたおかげで、私たちは直線の位置関係となった。エコロが第4の能力を使おうとすれば、拓実を巻き込むことになる。拓実単体であれば、楽に殺せると睨んでいたのだが──

 思考が周回遅れだ。考えているうちにも、拓実は飛び掛かって攻撃を仕掛けてくる。灰色に染まった拳が、構えた包丁へ伸びてくる。掠れば出血多量で死に至る刃に向けて、一切の躊躇なく飛び込んでくる。その左手は、灰色の手袋で覆われている。

 

 (耐切創手袋。感触的に、中に鉄板も仕込んでる。初撃で刃に触れて、手が切れなかった原因は、ようやく分かった。けれど)


 けれど。

 防護服を着ていても、スズメバチの巣の解体が躊躇われるように。

 あそこまで躊躇いなく包丁の刃に手を叩きつけることが、私に出来るだろうか?


(……考えるな)


 体重もリーチもこちらが上だ。私が一度でも攻撃を躱し手首を切りつければ、それで死ぬのに、果敢に包丁を奪い取ろうとしてくる。私も、彼のように集中して迎撃すべきだと、理性が声をあげるけど、雑念が、頭の中でこだまする。エコロの前で、教師のように振る舞っていたときの記憶。


 ──『躊躇の無さこそが才能であると思うんだ』


 拓実の目に、私は映っていない。同情と嫌悪が同居した、見下した瞳だった。

 奥歯に、力が入る。


 (そこまで夢中になれるものがある人間に、私の苦しみが理解できるものか。お前はただ知らないだけなのに、何もかも理解できたような顔をするな)


 怒りはある。

 身体がついていかない。

 また刃を突きつけられて、腕が硬直する。


 私は、自分を傷つけることに躊躇がある。彼にはない。人生における才能の違いを、突きつけられているようで。悪夢を振り払うように包丁を突き出すも、手袋をつけた掌でいなされ、躱されて、そのまま手首を極められる。


 (痛い、痛い、痛い……!)


 包丁を握ったままでは、骨が折れる。拓実は躊躇わずに折るだろう。そう思った瞬間、刃を手放していた。カラ、と床に落ちて、小さく音を立てる。意地であるとか、プライドだとか、そんなものは私の中には無いようだった。雑念が、頭の中でこだまする。陽菜子を絶望させるために、放った言葉。


 ──『恥知らずだ。意志も誇りも感じられない』

 (ああ、ほんとうに、無様だ)


 痛みの中で考える。本来ならば、薬の存在が露見した時点で、密やかな殺人が出来なかった時点で、大人しく逃げるべきだった。それでも私が突き動かされるのはきっと、己を肯定したいから。


 (……やる気が出るのはいつも、手遅れになるほど、追い詰められてから)


 1人も2人も変わらない。今更何を躊躇するのだ。

 床に落ちた包丁を奪いにかかった拓実の側頭部にハイキックを食らわせる。素人の付け焼刃で、卒倒させるには至らなかったが、体制を崩すには十分だ。解放された右手の手首を返して袖口を掴み、大外刈りで床に倒す。そんな状況でも、そんな状況だからこそなのか、彼の視線は未だ包丁に向いている。全体重をかけてマウントを取り、後ろ手でこれ見よがしに包丁を拾ってみせる。彼の視線が、面白いくらいに揺れ動く。


 「……さっきまでの威勢はどうしたよ、なあ」


 エコロの叫び声が止んで、途端に彼は震え出した。額には汗が滲み、首から上を必死に守ろうと手袋のついた方の手を突き出している。強烈な愉悦が背中を駆け上がり。


 そして、それ以上の悪寒が身を走る。窓から入った光に照らされた、周囲に舞った埃が、ぶるぶると揺れ出したから。


 (忘れていた)


 私が、最初に警戒していたこと──第4の能力──が──痛い痛いいたいいたい──!!


 頭に走る痛みを振り払おうと、幼児のように、闇雲に腕を振り回す。涙を溜めた目で前を向いた。ぐらぐら揺れながらも妙に冷静な脳味噌が、2人の顔を捉えていた。


 (ふたりとも、酷い顔だ)


 エコロの声は震えていた。力加減を間違えやしないかと、怯えを多分に孕んだ声だった。

 それ以上にひどいのが拓実だ。彼には先程のまでの冷酷なまでの身体運びは欠片も感じられず、私が振り回す腕を掴む力が、彼自分の皮膚を裂いてしまいそうなほど過剰だった。その表情は、打って変わって躊躇いと恐怖に満ちている。違いは、どこから来るものだ?


 (……エコロの、命令の力)


 私の足を止め、強制的に立ち止まらせた力。

 その力が、意思に反した身体の動きを可能にするなら、人が変わったような躊躇のない攻撃の連続にも、理解が及ぶ。


 (……でも、そんなことを、する理由はない。出来るんなら、最初からエコロの第4の力を主軸に据える方が確実だ。現に、私は死んでない。気絶すらしていない)


 そうしなかった理由は、きっと、彼らに躊躇があったから。第4の能力を使うこと自体を躊躇っていた。殺すリスクを抑えるための、さっきまでの攻防だった。失敗した今、ここからは──いや、これまでも、ここからも、彼らにとっては賭けなのだ。

 雑念が、頭の中で、こだまする。将来やりたいことを問うたときの、エコロの答え。


 ──『……不老不死の薬を作るの。梶さんと一緒にいられるように』


 子供が精一杯に導き出した答えは、いまの弱さを保持するためのもの。でも、今は。


 (……殺してしまうかもしれないって、散々植え付けられた恐怖を、躊躇を。乗り越えてでもキミは、強くなりたいのか)


 生きるだけなら、弱いままでいた方が得だ。互助と競争が両立した人間社会では、絶対にそうだ。母はそうして、何の努力も気遣いもせずに、私の助けを得ていた訳なのだから。

 そんなだから、強くなる意義を感じなかった。

 躊躇を乗り越え得るものに、大した価値を感じられなかった。


 (ほんとうに、そうか?)


 予見させられる。長期的に躊躇を乗り越え続けることで得られるもの、大いなる価値。


 (あの時の私の周囲に、そんなものは無かったけど。いつか出会うそれを期待して、待つことは出来たんじゃないか。探しに行くことは、出来たんじゃないか)

 

 もう、今は、叶わない。本当に誰にも話せない過去が出来てしまった今は、それも叶わない。

 一度きり、短絡的にタブーを乗り越えてしまった今、思う。


 (せめて、せめて、彼らに、同じ道を歩ませたいけれど)


 分かっている。彼らは絶対に、一線を越えない。殺人を選ばない。

 彼が両手に持っているものは、ワイヤレスイヤホン。私は、第4の能力の影響で抵抗できない。分かっていてももう防げない。拓実の手で、両耳に嵌められる。彼の口が動いて、心の声が聞こえる。




 『動くな!!』




────


 エコロの命令の力で、梶さんの動きは止まった。念のため持ってきた縄で手足を縛る。

 動きを封じられた彼は、なぜだか晴れやかで、けれど不服そうな顔をしている。

 「……四肢が動かなかったよ。口はこの通りぺらぺら動くのに。ずいぶんと都合がいい力みたいだね」

 「僕たちの願いが分かっているからそうなったんですよ。協力して下さると、嬉しい限りなんですが」

 

 ──『キミに、昔、一度使った』

 

 エコロの能力は、命令を聞かせる力。人間も対象内であって、僕は『動かないでね』という命令によって、口を動かすこともできなくなった。でも、彼はこの通り、ペラペラと喋っている。その違いは、主観的な命令の解釈によるもの。


 エコロの告白を受けて、僕たちはまず命令の能力の規則を探った。その結果、エコロの人間への命令は、「主観的な命令の解釈」によって、効き方が違うことが分かった。


 たとえばゴキブリを近づけて「触れ」と命令すれば、ゴードンは抵抗なく触る。困惑していて、二度目に同じ命令をすると首を傾げるだけ。能力は効いていない。一方、京子さんには効いた。めちゃくちゃ嫌そうな顔で最後まで抗いながらちょんと触れて、ダッシュで手洗いに走っていた。

 この2人の違いは、抵抗の有無。ゴードンは触れることに抵抗が無いので、「どこに」とか「なぜ」とか、様々な雑念が生まれる。すると効きが悪い。対して京子さんは抵抗が大ありで、そうなると視野が狭まる。「触る」か「触らない」かの2択が脳内に生まれて、そうなるともう命令に抗えない。


 例えば僕が前に出て「殴れ」と命令すれば、姉さんは「どこを」と極めて冷静に答える。顎に目が行っていた気がする。怖い。でも、能力は効いていない。一方、石山君には効いた。めちゃくちゃ嫌そうな顔で、昔蹴られかけた腹に拳を入れてきた。謝っておいた。

 この2人の違いも、抵抗の有無。姉さんは暴力を武術と具体的に捉えて、どこを殴るか何故殴るかと思考を挟む。だから効きが悪い。一方の石山くんは、あの日以降すべての暴力をタブーと捉えている。そうなると視野が狭まる。「殴る」か「殴らない」かの2択が脳内に生まれて、場所も過去の記憶から勝手に定まる。そうなると、もう命令に抗えない。

 

 まとめると、

 エコロの命令能力は催眠に近く、その効き方は主観に大きく左右される。命令に対する雑念が多いほど効きづらく、命令に抵抗があるほど効きやすい。

 能力の性質上、そもそも命令が理解できないと効かない。だから梶さんに命令するには、APDの人にも聞こえるように、イヤホンをつける、口の動きを見せるなどの工夫が要る。

 そして、命令の細かな内容は、かけられた人の解釈で変化する。


 彼は、僕たちに反発している。今すぐにでも僕たちの命を奪いたいと思っていて、だから命令が効いている。その一方で、僕たちが話し合いを望んでいることを理解している。だから『動くな』の命令下でも、口を動かすことができる。


 そう、荒い呼吸を整えながら説明する。

 緊張した身体はなかなか元に戻らない。どうにもなかなか整わなくて、水が欲しくてたまらない。誤って飲んでしまわないように、お茶を飲んだふりして染み込ませた綿を口から吐き出すと、梶さんの視線が転がったそれに追従する。


 「……私が薬を入手したことは、陽菜子の尾行で知っていたんだろうけどさ。どうして、そんな備えをしようと思ったんだい。向精神薬なら、私自身に使うかもしれないだろう」

 

 背後のエコロに視線を向ける。梶さんに向けて構えて、彼女は頷く。それで、きつく締めていたネジが緩んで、僕は仰向けに倒れ込んだ。

 

 「陽菜子さんの尾行によれば、貴方は最強の武器となるスピーカーを作り直すこともなく、精神病院に向かいました。今回盛った向精神薬を調達するためです。改名の際に診断書を貰って裁判を優位に進めたのでしょうから、薬を貰うのもスムーズだったでしょう。この用途はおっしゃる通り、分からないまま。コノオさんを殺したショックに耐えるために自分で服用するって線も、ないわけじゃありませんでした」


 「ただ、このあとの呼び出しで、僕は貴方の殺意を確信しました」

 

 顔を横に向ける。縛られたままで、梶さんは頷き、続きを促す。

 

 「それは、連絡を受け取ったのが僕である点です。コノオさんが井上家の電話番号を知っていてはいけなかったように、貴方も、本来であれば僕の電話番号を知らないはずです。陽菜子さんにも教えていないし、エコロが家から掛けてきたこともない。にもかかわらず僕の番号を知っているというのは、この携帯電話の番号を知っているコノオさんとの繋がりを明言する行為で、あの時点でやってはいけないことでした。それでも僕に連絡し、『当日遅れるかもしれない』とまで言って、スマホを確実に持ってくるよう仕向けました。それは、僕の死後に使うためです」

 

 一線を越えれば、もはや人としては生きられない。それでも、彼の脳は、抜け道を探し続けた。罪悪感は、目を曇らせる。その先に道が無いことにも、気づけない。

 

 「僕はまだ子供で、親の庇護下にあります。貴方に殺され行方が知れなくなったら、僕の両親は必ず行方を追いかけます。袋小路に追い詰められた貴方の思考は、一筋の光を見つけました。僕のスマホの暗証番号を、貴方は知っています」

 

 ──『暗証番号、5140です』

 

 「……貴方の狙いは、僕に成り代わり生きること」



 突拍子もない仮説に苦笑を浮かべたエコロの反応は、間違っていない。

 僕でも、他人事ならきっと笑い飛ばす。

 映画の見過ぎ、小説の読みすぎ、フィクションと現実の区別が出来ていない、妄想ばかりで生きづらそうだと。

 けれど彼は、笑わなかった。


 「どう考えても、貴方はスピーカーを壊すべきではありませんでした。そこに殺傷能力があると僕らが証明することはできないのだし、罪の露見を気にしているのならなおさら、追及に対抗できる武力にもなる……でも、捨ててしまいました。貴方は人を殺した罪悪感で、精神が壊れてしまった。正常な価値判断が出来なくなってしまったんだ」


────


 過去はみな異なるもので。なんだかんだで、自分が1番苦しいものだと思っている。

 凄惨さを比べたところで、得られるものは同情だけ。

 周りに強いた同情で生きるのが楽になったところで、そこから先へは進めない。

 私には、積み上げた誇りなんてものがないから、進めなくなった。

 牢獄にいるような気分で、進歩のない毎日を送っていた。


 ……それは、心も拓実も同じはずだった。

 そこから抜け出せるか否かは個人の強さにかかっていて、私は弱くそのままだった。


 2人の視線が、縛られたまま突き刺さって。どちらにも、目を合わせられなかった。

 (そうは言ってもやっぱり、キミたちが羨ましいよ)


 若さがある。時間がある。私が怒りに囚われていた時間を、キミたちは有効活用できる。

 

 「……罪悪感があったなら、『もう1人殺そう』とはならないよ。どうにもならない現実逃避だ」

 自分の声に驚いた。でも、一度出したら、もう止まらない。小さく開いた穴から、声が漏れる。


 「自分を辞めたかった。他人になりたかった。何をやっても、自分を惨めに思う気持ちから抜け出せなかった。自分を軽んじる相手に奉仕し続けることが嫌だった。他を圧倒するような特別な長所が欲しかった。些細な悪感情を無視できるような狂気に身を浸したかった。毎朝感じる敗北感を、消したかった。消せば、普通に生きられると思った」

 

 「だから殺した」と、縛られたままで、拓実と同じように床に倒れ込む。彼ら2人の視線が動くのが、視界の端に見える。情けない駄々を、彼らは一応聞いてくれていた。それでもう、満足だった。

 

 「祖父の宝物を行きずりの他人に譲渡して寂しさを紛らわすような人間を殺したって、何とも思えないだろうと思っていたよ。でもまあ、あんなでも母だった。大叔母も死んで、私しか身寄りのいない人だった。いざとなれば心に罪を擦り付けるつもりで、殺害決行の直前に心と会わせる保険まで掛けた。実際来たのは陽菜子だったけど、それでも十分だったはずなのに。凶器を持っていることが、人を殺した証拠が残っていることが、どうにも恐ろしくなってしまった」

 

 寝返りを打つ。彼らの視線が追従する。それが、凄く心地よい。


 「最初はね、陽菜子を殺すつもりでいたんだ。そのための4年間だった──キミたちに彼女の正体を明かせば、惨めな自分に耐えられなくなって、自死を選ぶと思っていた。少なくとも、私ならそうするような状況に追い込んだ自負があった。でも、彼女は許してしまえた。惨めな自分を、乗り越えてしまった」

 

 フローリングに、自分の顔が映る。自分に酔ってる顔が見える。

 

 「どんなことをしても、ふと我に返るんだ。何をやっているんだろうって、惨めな自分に気付くんだ」

 「もう、何も考えたくないよ」




 「……どんなことをしても?」

 梶さんがようやく吐いた弱音に、エコロが初めて、真っ当に口を開いた。

 複雑な表情だった。怒っているのか、呆れているのか、

 平坦な眉に、意識して作った無表情で、彼女は倒れ伏した梶さんの前でしゃがんで、目線を合わせる。

 「言葉を尽くしても伝わらないことはあるよ。どこかの誰かみたいに元から騙す気でいて、相手に聞く気が無い時とかね」

 棘が混ざった、イヤミな言い方。


 「でもさ、一度でもいいから、ホントの気持ちを伝えた。『謝れ』って、一言でも言ったのかな?」


 ──『一応アンタらからひとこと、《謝れ》でも何でもいいから、声かけてやって』


 (……そんなこともあったな)


 学校は、あと少しで夏休み。件の京子さんの騒動があったのは、4か月前だ。なかなかどうして、考え方は変わるものだと思う。エコロはポケットから小さく折り畳んだ紙を取り出すと、梶さんの目の前の床に置く。

 

 「これは、返すよ。コノオさんの遺品の楽譜の中に入ってたけど、ボクが持ってても仕方ない」

 

 それから、僕の方を向いて。

 「インチョー、あっち向いて、耳塞いでてもらえる」


────


 「……人を操る力はあるのかって、気になっていたよね」

 拓実を追いやって、心は私と向かい合う。私の怒りに怯える彼女は、もう、どこにもいない。

 「ボク自身、当時から気になってたんだ。動物を操る力があるなら、あると考えるのが自然だし、それがあれば姉さんの暴力も抑えられると思ったから。けど、率先して探そうとは思わなかった。それがあると分かったら、交わす言葉に価値はなくなるから──自由意志を奪い、あらゆる我儘を通せるのだとしたら、誰も関わりたくはないでしょう。隠し通すか、我を通すか。二つに一つだと思ってた」

 

 心は振り返って、頼み通りに拓実が後ろを向いていることを確認する。彼は緊張が解けて安堵しているみたいで、こっちに一切の注意を向けず、耳を塞いでぐてっとしている。


 「……だから、びっくりしたんだ。インチョーが、解除方法を探そうって言ってくれたとき。命令された側に解除する術があれば、言葉に価値は戻るでしょうって」

 

 そう、彼女は私の前で、人差し指を立てる。

 

 「命令されたこと以外のことを考えて。今日食べるご飯でも、明日楽しみにしていることでも、いつか成し遂げたい目標でも、なんでもいいからさ。そんな風に雑念を増やせば、いつの間にか命令は解けてるよ」

 「……安心しなよ。この屈辱は一生忘れられない。そればかりを考えて、雑念は増えやしない。つまり、一生動けなくてこのまま餓死だ。覚えてなよ。化けて出てやるからな」

 

 不貞腐れた、子供みたいな返しに、心は少し、困ったように微笑んで。

 

 「辛いなって思う時は、自分の世界を広げる時。ほんの少しでいいから、昨日より手を伸ばそうとすれば、楽しくなる」

 歯の浮くような、祖父のような、理想論。ケチをつけてやろうとして。


 「それを初めて教えてくれたのは、貴方だった」


 ──『私が、言葉を教えよう』


 「ありがとう。またいつか、今度は。戦わないで、ゆっくり話したいな」

 そう、彼女は背を向けて、もういいよ、と拓実の肩を叩く。何やら話し合ったあと、不用心にも私を縛った縄をほどいて、彼らは家を後にした。身体はすっかり動くようになっていた。でも、追いかけられなかった。背中から刺したら、今度こそ本当に終わりだと思ったから。

 

 去り際に渡された紙切れを、母の置き土産を、力なく握りしめる。

 私は、何故母を許せなかったのだろうか。


 ──『一度罪を犯した者は、慎ましく生きなければならない。被害者が許した部分のみをありがたく頂戴し、それ以上は欲しがらず無欲に生きなければならない』


 怒りに満ちた、母の顔が脳裏に浮かぶ。

 あの日から、牢獄にいた。訳は分からずとも、悪いことをしたのだろうと思っていた。そう、自分で考えることを諦めたから、『もういいよ』って、『私が悪かった』って、言われるまで何もできなくなった。母を許せなかったんじゃない。許されたかっただけだった。母の承認を得ていない自分は、誰の承認も得られないと思っていたから。


 身体が覚えていた。母の承認を得るためには、弱さをアピールするしかなかった。弱い母より、さらに弱く。強さの基準は、祖父に倣った。身体に導かれるまま、誇りの無い人生をなぞっていった。


 ──『ありがとう』


 でも、思い出した。

 私は一応、心を先天性の牢獄から解放したことになっている。その鍵を、彼女を脱獄させる鍵を、初めから持っていたわけではなかった。己自身の症状で、気づきやすい下地があったとはいえ、考えて、試して、よりよい教え方を目指した。邪な考えのもとであったとはいえ、強くなろうとしたのだ。


 誰かを道連れにするのではなく。自分のために、自分を強くして人生を動かす力が。

 正しさを信じる、孤独と向き合う強さが、私にも残っていたのだ。


 寝っ転がって、窓に近づき、天井ではなく、駐車場の向こうの空を見た。

 雲一つない、快晴だった。


────


 事情聴取を終えて、帰路につく。梶さんが自首をするというので、付き合ったのだ。

 対切創手袋然り、刃物騒ぎの事件にしては被害者側の用意が良すぎる点について、根掘り葉掘り聞かれると思っていたけれど、予想に反して大したことは聞かれなかった。梶さんが全面的に非を認め、前々から僕らとトラブルがあったことをつらつらと述べてくれたので、こちらに矛先が向かずに済んだ。


 「……意外だったのは、梶さんがふっつーにコノオさん殺害の容疑者になってたことですね」

 病院外で亡くなった人間には検視が行われる。コノオさんの死体の検視の結果、抵抗痕から他殺の線が濃厚とされていたらしい。この通り、証拠が残る。改めて、死人は強い。エコロも頷く。彼女の能力も、別に無敵じゃない。普通に生きようとする彼女にとっては、善い知らせなのではないかと思う。


 「ところで、最後に渡してた紙って何だったんですか?」

 「写経。渡したのは大量にあったうちの一枚だよ」

 

 写経とは、般若心経を書き写す行いのことだ。仏教の教えを書き写し広めるその行為自体に功徳を積む効果がある、とされている。現代では精神集中の手段としても使われている。陽菜子さんの墓(嘘)があった寺院にもチラシがあった。

 

 「年を取ると、死後のことが気になるんでしょうかね」

 「ボクも最初はそう思ってた。でも、違った。日付を見ると、これが書かれたのは15年前のこと。ここから5年間、毎日書いてた」

 「今際の際だからじゃないってことですか。となると、なんで365×5……ざっくり二千枚もお経なんて書いていたんでしょう」

 疑問を口にすると、エコロはげんなりした表情になる。

 「写経って、一番最後のところに願い事を書くみたいなんだ。子孫?栄とか、学業成就とか……で、コノオさんの書いていた願い事は、『脳病平癒』。意味は、『首から上の病気が治りますように』。たぶん、梶さんに向けて」


 ──『貴方はAPD、聴覚情報処理障害だ』


 「……ああ。それは、どうにも」

 「毎日毎日書き綴らないと、罪悪感に耐えられなかったんだ。申し訳ないって思う気持ちはあったんだ。話し合っていれば、別の未来があったんじゃないかと思うと、やりきれないよ」

 陽菜子さんのことを思い出したのか、遠くを眺めて。

 「もちろん、悪いことをした方から謝るのが筋ってやつなんだと思う。けど、別に悪くない方が謝罪を促すのも損じゃないと思うんだ……だって時間がもったいないもの。考えるだけタダって言うけど、怒ってる間も時間を使ってるわけで、その間に美味しいクレープでも食べてた方が、よっぽど幸せじゃない?」

 「……食べたいんですね」

 「うん。行こ」


 軽く言うけど、そう考えるのは難しいことだと思う。悪いことをした奴には天罰が下るべきだと思ってしまう節があるから。怒りも恐怖も、自らを守るためのもの。タダで他人に利用されないための身体の防衛本能を、乗り越えるのは容易じゃない。


 (でも、制御できた方が楽しいだろうことは間違いない。時間は有限だから)

 

 手の甲を、じっと見つめる。傷は、少しずつ塞がってきている。

 

 クレープを受け取って、先に受け取って待っていたエコロの元へ小走り。「そういえばさ」と切り出した彼女は、歩きながらチョコのかかったバナナに豪快にかぶりついて、「ボクの命令の能力について、どう思う?」

 「最高ですよね。頭の回ってない朝に『起きろ』って言えば無敵の目覚ましです」

 「真面目にお願い」

 「危険だって話でしょうか?」

 声のトーンを真面目にすると、彼女は控えめに頷いて。

 「実際、想像していたより出力は低いけど、それでも危険な力だよ。解除方法を知ったとはいえ、教えなくっちゃ意味無いし。列車のホームに畏れを抱く人に飛び降りろって言ったら。刃物を渡されておっかなびっくり受け取る人に首を切れって言ったら。それを伝えるのに、テレパシーを使ったら」

 極めて物騒な例えだが、そうなれば、自殺になる。教唆の証拠は残らない。僕は、クリームのついた苺をクレープから口で拾い上げて咀嚼する。

 「貴女なら好奇心の殺人はしないでしょう。それともまだ、憎い人がいますか?」

 「ボクはそこまで良い子じゃないよ。今だから言うけど、梶さんを本気で殺そうとしたことがあるんだ」

 ぎょっとして、ぎょっとしたポーズをとって真横を見る。彼女はおかしそうに笑った。

 「第4の能力で先手を取ればいい。家の前で張って、無防備なところを攻撃すればそれでおしまい。もう余計なこと考えずに済む。そう思って、彼の家の前で待ち伏せしていたときに──」


 ──『陽菜子ちゃんの妹さんよね?』


 「って。覚えてる? 公園に行く道で、キミが、貞子からボクを助けてくれたこと。その貞子のお母さんが、止めてくれたんだ」

 「……えーっと、一人娘を亡くした家のお母さんが貞子になったって話じゃなかったでしたっけ。おばあちゃんだったりします?」

 

 エコロは、首を横に振る。

 

 「貞子は実際は子供の方で、ボクたちの前に姿を現した数ヶ月後に自殺した。時間軸がごっちゃになって、貞子が子供に声をかける理由が、自殺した娘のためだって尾鰭がついた噂になったんだ」


 となると、僕を追って家まで来て、姉さんが迷惑したという貞子は、自殺した娘の方だ。

 思索を表情に出さないようにしつつ、僕は頷く。


 「ヒナ姉にはお世話になった、って言われた。貞子のお母さんを慮って、本来の姿で通っていたんだって。その人が、インチョーからの手紙を渡してきた」

 「……僕からの」

 「最初に家に遊びに来た時、ドッペルゲンガーの演出だって勘違いしたやつだよ。あの時は誤魔化したけど、あれは正真正銘、インチョー自身が書いた手紙だ──宛先は、ボクじゃなくて貞子。住所は書かれていないから、直接手渡したもの。貞子のお母さんは中身を見ていなかった。受け取る娘はもう死んだから、返してやってくれって言われた。ボクは、好奇心で中身を見た」

 エコロは、哀れむように目を伏せる。


 「子供の字で、考えられる限りの丁寧さで、『ごめんなさい』とだけ書かれてた」


 思い返す。

 他人の命を奪ってしまったと思っていたこと。

 パニックになって貝竜湖を離れた直後、何もしないことが、恐ろしくなってしまったこと。自分の身が惜しくて、でも誰にも言えなくて、潰されそうな罪悪感と恐怖で、許されたくて、ローファーの上に供えるように手紙を置いて、今度こそ逃げたこと。

 

 それが、ここで見つかったということは。貞子はお姉さんで、手紙を持ち帰っていて。

 あの時、湖に飛び込んだと見せかけて、まだ生きていた。

 そのうえで、僕の手紙を持ち帰って、改めて自殺した。

 

 エコロじゃないけど、何がしたかったんだろうと思う。

 答えを知る人は、もうこの世にいない。

 

 クレープを食べきったみたいで、紙ナプキンで口を拭いて。

 「そんなわけで、ボクはインチョーの秘密を、漠然ながら知っていた。再会した時も、恩があるってことを抜きにしても、他人である気がしなかった」

 「『インチョーは、他人じゃ』──あっごめんなさい真面目な話ですね痛い痛い」

 バシバシ背中を叩いたあとで、ひとつ咳払い。

 真面目な顔で、僕を見る。

 「手紙が生きる糧になってた。罪悪感にいつも蝕まれていて、苦痛からほんの少し浮き上がる瞬間が、失うもののない小さな救いが、幸せで。そんな生き方をしている人が、他にもいるんだって……でも、もうやめ」

 

 過去を思い出すように、人差し指を立て、くるりと円を描いて一周させる。

 夏の夕日に照らされて、横顔が眩しい。

 

 「インチョーは、自傷行為がバカらしいって言ってたね。それでもやってしまうのは、償う相手が、もう亡くなってしまっているから。清算できないまま、誰にも言えなくて引き摺って、孤独になって、そうせざるを得なくなった──でもボクは、悪い子だから、キミの秘密を覗き見て、もう知ってる。知ってるし、キミが自分を傷つける所を、これ以上見たくないとも思ってる」

 

 その指の動きを追いながら思う。こういうところが、好きなのだ。

 正直なところ、自分が悪いわけではない、と思っている節がある。そう思うことが悪いのだ、と思っている節もある。身体が思考を誘導して、ぐるぐる無意味に回り続ける。そういう時、他人の言葉は光明だ。そのことを、知っている人だ。

 

 「あんまり酷いようなら、また命令しちゃうからね。『もう手の甲、?いちゃだめだよ』って」

 「そりゃ嫌ですね。情けないったらありゃしない」

 

 言葉を尽くしても、意味が無いことはあるんだろう。

 別のことに心が囚われていたり、端からこちらを人として見ていなかったり。

 世の中にはたくさんの人がいて、中にはそういう人もいる。そういう人に憤っているうちにも、人生の時計の針は進んでゆく。


 丹精込めて紡いだ言葉を聞いてくれる人に、あと何人出会えるだろう。真剣に言葉を伝えてくれる人に、あと何人出会えるだろう。


 「自分を傷つける事無く、自分の足で歩きます。胸を張って、貴方の友達でいられるように」

 時には、恥ずかしさに負けないように。なんて、そんな長く保つわけではないのだけれど。今度は僕が咳払いをする番だった。

 

 「……何の話から始まったんでしたっけ」

 「ボクの能力についてどう思うって話」

 「そうでしたそうでした。慰めモードに入ってたのに、いつの間にかこっちが慰められててビックリです。あ、包み紙捨てますよ」

 「ありがと。そういや、今週末誕生日パーティーやるんだけど来れる?」

 「しょうがないですねー。ばっちり盛り上げてやりましょう」

 「当日はゴードン君がドローンで写真撮影してくれるらしいから、あまり恥ずかしいことはしない方が良いよ」

 「……規模で勝てない」

 「んっふふ」

 「にひひ」


 彼女は、僕にはない経験をして、これまでを生きてきた。

 そして僕もきっと、エコロがしたことのない経験をして、生きてきた。


 他人のそれを知ることが、きっと。命令に負けないための雑念を、選択肢を増やすのだ。

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