幕間7:悲劇のヒロインblue
今はまだ、ぎこちない。
ほんの少し、未来の話。
「……その、お休み」
「うん。お休み、ヒナ姉」
妹と、私の部屋は、扉一枚で繋がっている。
一日を終える挨拶を済ませ、扉を閉めて、電気を消す。目を閉じる。未だ慣れない、毎日の営み。いつか終わる。毎日の営み。
荒れる大海、死にゆく人の悲鳴、声をかき消す雷鳴。
渦潮の中に、私は1人でいた。
脚は黒光りしたヒレになっていて、一瞬で夢だと悟った。試しに軽く動かして、バタ足の要領で蹴ってみると、急流の中も自在に泳げる。なんと都合の良い。
シャンデリアにハイヒールに皿に料理に、藻と砂が絡まった船上の喧騒の跡が流れゆくなか、流れる荷物のただ中に、着飾った梶さんの姿が見えた。夢だと分かっているし、何より今や憎い相手であるけれど、自然と身体が動いていた。梶さんを浜に引き揚げ、人間に見られないよう岩陰に隠れつつ、人魚姫のストーリーを思い出す。
王子様に一目惚れした人魚姫は、彼に見初めてもらうべく、舌と引き換えに魚のヒレを人間の足に変えてもらう。魚のヒレは不気味がられてしまうと思ったのだ。その足で地上に上がった人魚姫は、話せずとも持ち前の育ちの良さと愛嬌とで、王子様と打ち解ける。けれど王子様は人魚姫を子供のように可愛がることはあっても、結婚の契約を結ぶことはなかった。それは、王子様に心残りがあったから。
足音がして覗き見ると、そこには着飾った妹がいて、梶さんを救うべく人を集め出す。梶さんは朦朧としながら、その懸命な救命活動の様子を見つめている。浜に打ち上げられた彼を救った修道女──まあこれが後に会う王女様なんだけど──のことを彼は好いていた。
人魚姫は、私はその子に似ていたので、本物が現れなければ心の穴を埋めるスペアとなれたのだけれど、結局王子様は王女(修道女)と再会し、命を救ってもらった相手だ運命だと舞い上がって、彼女を結婚相手に決めてしまう。もとはと言えば砂浜まで運んだのは、本当に命を救ったのは、人魚姫なのにだ。
(なんて、それ以前の問題だったな)
少しばかりの、楽しい日々を思い返す。梶さんと視線が合うことは、確かにあったけれど。梶さんは、妹を、心を見つめていた。私のことなど、一度だって見てはいなかった。現実を認識した瞬間、黒いヒレが、人間の足へと変わる。荒波を被り、岸から剥がされ、沖へ沖へと流される。
助けてと、叫べなかった。そういや、人魚姫は舌を奪われていた。
罪悪感と恐怖に蝕まれた、私と同じように──
「……はっ」
目覚めたら、宙につられたフットサルボールが目の前にあった。
────
「なーにが人魚姫じゃ美化しおってからに」
恥ずかしいったらありゃしない。頬の熱を冷ますように、大仰に卵を机に当てて割って、牛乳と一緒にボウルにぶち込みかき混ぜる。しゃかしゃかしゃかしゃか、心地よい音で混ざったらいったん置いて、机に上半身を届かせるための踏み台を降り、フライパンを火にかける。戻って台に上り、ボウルにホットケーキミックスを入れ、さらにかき混ぜる。
「……」
混ぜすぎてはいけないから、あまり物思いにふけってはいけないのだけど、それでも考えてしまう。夢の続き、人魚姫の心残りについて。
人魚の寿命は300年。
一見長寿に思えるものの、あの作品の世界において、それは短命であると言えた。人間は魂を持っていて死すれば天国へ行くけれど、死ねば人魚はそれでお終い。人魚が魂を得るには、人間に愛してもらう必要があった。それが王子に愛してもらわんとする、動機の一つでもあった。
「……つまり、人魚姫には心残りがあった。いずれ来る無の世界への不安に苛まれていた。それを解消する手段は、誰かに愛されることしかないと思っていた」
ボウルの中身をダマがちょっと残るくらいにかき混ぜたら、フライパンに落とす。するとクリーム色の生地が広がって、徐々に焼き色がついてゆく。甘い匂いが漂って、私は肩に入れた力を緩める。
結局、人魚姫は愛されることができなかった。激痛に耐え生やした足も、対価に支払った舌も、薬で翌朝にまで縮んだ寿命も、捧げたすべてが報われなかった。
そんな中、人魚姫は最後のやり直しの機会を得る。ナイフで王子を刺し殺せば、死を免れ人魚に戻ることができるよう、姉の人魚が魔女に頼んでくれたのだ。髪という、決して安くはない対価を支払って。人魚姫は、少なくとも家族には、愛されていた。
けれど恩知らずの王子を、人魚姫は死を目前にしても手にかけなかった。その善行が評価され、人魚は風の精となった。人魚の寿命と同じ300年間勤めを果たせば、人間の手を借りずとも天国へ行けるという。
私は思う。
物語の人魚姫は、愛されるのではなく愛することで死への恐怖を払い、永遠の安心を得た。あれはそういう、ハッピーエンドの物語ではないかと。
ホットケーキを裏返しながら、悪夢を見ていたことなど忘れ、私は上機嫌に呟いた。
「……古典の人は、ウルトラポジティブ」
──『夢の中に出て来たってことは、ソイツが会いたがってるってことなんだよ』
妹から聞いた、お友達の京子ちゃんが、有山くんに言っていたこと。いやこの場合、現代の人はウルトラポジティブか。当時のアンデルセンはどんなつもりで書いたのだろう。失恋を契機にできた物語であるとは、よく知られた話だけれど。
ふっくら仕上がったホットケーキを皿に乗せ、熱いうちにバターを落とすと、溶けて広がる。同時に、小さな体重を支えた軽い足音が、とんとんとん、と階段を降りる音がする。
私は思う。
己の心残りを払うことのできる、永遠に続く安心と呼べるものがあるのなら、それは、愛されることじゃなくて、愛することで得られるものだ。他人の心は制御できないけれど、自分の命が尽きるまで、ずっと。愛し続けることは、出来るわけなのだから。
──『許されないことだって、分かってるならもういいよ』
目を伏せる。
人生には楽しいことがいっぱいあるはずなのに、怒り続け、怯え続けて時間を無為にしたくはない。当人にそんなつもりは無いのだろうけど、彼女の言葉は、私の現状を示して嘲笑うものだ。
私はもう30だ。人生も折り返し。それが仕事も恋人も子供もいない。何故かと言われればひとえに己の行いのせい。捕まりはせど罪を犯した。そうする心の弱さがあった。惨めだと指摘されれば、きっと頷き、卑屈な笑みを浮かべるだろう。
けれど何故だろう。少なくとも今は、あまり気にしちゃいないのだ。
そういうことがあったから、私の愛は私を癒す。
そういうことがあったから、愛させてくれる人が、大好きなのだ。
人生をどこかでやり直せると言われたら、きっと喜んでやり直すけれど、この思考を、愛を有難がる思考を連れていけないとするなら、悩んだ末にこのまま生きる。
そう、決心を固めたところに、愛する対象が、ルーズなピンクの寝巻きを着たまま降りてきた。パーマのかかった茶髪は寝起きでボサボサで、額とちょっと目にもかかってる。私は、頬を緩めて。
「おはよ。はちみつとメープルシロップとチョコペンあるよ。あと苺ジャムとブルーベリージャムと生クリームとヨーグルトと」
「メープルがいい」
「りょー」
手を洗って戻ってくる彼女を尻目に、出の悪いメープルシロップを逆さにしてかける。
「……にしてもまたずいぶん本借りたね」
「中学生のフリしなくなって暇だから、もうちょい料理に凝ろうかと。勉強してSNSにオリジナルレシピを公開して、いずれ料理本を出すの」
「夢生の時はネットの誰かにボコボコにされるから絶対できないって言ってたのに」
「心境の変化よ」
正直、そこまでの熱意がある訳じゃ無いけど。言うだけでも、ポーズだけでも、人生ちょっとは楽しくなるものだ。
「ところで、もうすぐクリスマスだけれど、インチョーくんとはどうなの」
聞いてみると、ぎくり、と一瞬肩を跳ねさせて。
「どうもこうも、なあんにもないよ。今年はお姉ちゃんと」
「何でもいいけど、私は予定があるから。家に籠っててもなんにもないわよ」
突き放して、洗濯に掃除、他の家事をする。
貴女が、有山くんに誘われたことは知っている。私を憐んで、誘いを受けるか悩んでいることも。
同情はごめんだ。
────
「さっむぅ」
白い息が、暗闇に溶けてゆく。今日のバイトはスーパーのレジ打ちだ。身長が足りないと面接で話したら、親切にも踏み台を用意してもらえることになったので、ブーツは履かずにそのまま家を出る。
夕方に出てゆく子供の見た目に、奇異の視線が突き刺さる。店に行ってもそんな感じだ。高いところの品出しが出来ない私に、迷惑被ってますって表情を隠さない同僚。今日もその顔を拝み倒して金を稼ぐと思うと、少し憂鬱だ。たぶん、あっちも似たようなことを考えている。
(……申し訳ないけど、私はそういうもんだから。他のとこ、貴方より頑張るから、許してほしいな)
憂鬱な予想が頭に浮かんでも、私の足は止まらない。それは、ある種の決意によるもの。
いつか妹はいなくなる。
両親の仕送りに、いつまでも甘えているわけにもいかない。
どちらにせよ、己1人で生きて行けるようにしなくてはならない。
精神的にも、金銭的にも、身を立てなくちゃいけない。
……これが、本当に妹がいなくなったとき、同じように前に進めるだろうか。
(有山くんかな。それとも、別の人かな。分かんないけど、貴女はたぶん、大人になっても誰かと一緒に居られるわよね)
私は、自分で縁をすべて捨ててしまった。あの子には、まだ友達がいる。私にはもう、あの子しかいない。でも、あの子と離れる時、離れた後も、精一杯笑顔でいたいと思う。自分で蒔いた種なのだから、自分でどうにかしないとね。
(……まぶしい)
上を向くと、月灯りが目に沁みて、今朝夢で渦の中から見た光景が重なる。
人魚姫になって、海に沈んで。
愛する対象がいなくなり、本当に独りになる光景。それでも、不思議と怖くはなかった。
妹の笑顔を、愛し愛された記憶を焚火にして、暖をとれる気がした。
秋と冬の境の寒空、急に体が熱くなって、走り出す。
母さんのことを、思い出したから。
『ごめんね、ごめんね、大きく産んでやれなくて、ごめんね──』
(……違うんだよ、違ったんだよ)
あのとき私は、母さんに笑ってほしかった。どうしようもないことに泣くより、笑ってほしかったんだ。
(どうして、忘れていたんだろう)
それは、私が、心にしてやるべきだったことだ。
間違った親でごめんなさい、じゃなくて、謝らない代わりに当たり散らすことでもなくて。精一杯、自分の信じたやり方で育てて守って、笑いかけてやるべきだったんだ。
「……今日は、クラムチャウダーかな」
雪が降ってきて、私はコートのフードを被る。ペースは落とさず、あっという間にスーパーへ。ちょうど台車で段ボールを片付けていた嫌味な同僚が、走る私にぎょっとする。
「お疲れ様です!」
「……お疲れ様です」
ハイになった私には、奇異なものを見る目すらどこかくすぐったくて、ヤケクソ気味に笑って私は言った。
「走りたい気分だったんです。なんとなく」
「……そうですか」
彼は、奇異なものを見る目をしていた。決して、憎しみに駆られた目をしていなかった。私は、いつもそう。最悪を想定してる。けど、彼は、頬を掻いて。
「踏み台なりなんなり、何か困ったことがあったら、言ってくださいね。1人でうんうんどうしようか悩まれると、待った方が良いのかなって、こっちも声をかけづらいので」
杞憂が、私を追い詰める。いつも、誰かに怯えている。
実際、敵意なんて、そうそう向けられるものではないのに。
見たままの景色を見られるようになりたいものだと、いつも、いつも思っている。
「……はい。ありがとうございます!」
いつか、いつか見られるさ。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます