第20話

 大雨の中、京香は瑠璃の案内に従い、自動車を運転した。

 やがて、駅を出て十五分――一駅分と少々の距離を移動し、住宅地の中にある小さなアパートに到着した。

 二階建て六部屋のそれは、新しくもないが、古くもない。最寄り駅まで、徒歩十五分ぐらいだろうか。不便であることから、家賃は相応だと京香は思った。

 ハザードランプを点け、アパートの前に停車させる。


「ありがとうございました。めっちゃ助かりました」


 助手席の瑠璃から、珍しく頭を下げられる。

 感謝の意を伝えられたことが、京香にとっては付け入る隙だった。


「ねぇ。部屋に上がってもいい?」


 だから、その提案を持ちかけた。

 一線を引いていたが、こうして自宅の所在地を知ってしまったこと。そして、案内した瑠璃が、特に抵抗も見せなかったこと。

 京香はその二点から、瑠璃がどのような部屋に住んでいるのか、俄然興味が湧いた。

 もっとも――断られたとしても『脅迫』の手段で強引に上がるつもりだが。


「え……。ママの部屋と違って狭いですし、何も面白いもの無いですよ?」


 瑠璃は断りはしないものの、戸惑う様子で否定へと促した。


「別に、期待はしてないわよ。ずーっと運転してたから、ちょっと休みたいだけ」


 京香は本心を隠し、適当に理由を作る。疲れているのは事実だ。

 瑠璃から半眼を向けられる。天気悪いんですから、早く帰ったらどうですか――そのように訴えかけられているように感じた。

 だが、瑠璃は降参したように溜め息をついた。


「わかりました。お茶ぐらいなら、出します」

「よろしい。ありがとうね」


 京香は微笑み、自動車を近くのコインパーキングへと置く。傘をさし、大雨の中ふたりでアパートへと歩いた。

 アパートにはエントランスという概念が無く、誰でも敷地内に入ることが可能だった。京香はセキュリティ面で心配だが、瑠璃はそれを承知でこの物件を選択したのだと思った。

 時間帯か、それとも天気のせいなのか、わからない。建物から生活音は聞こえず、静かだった。大きな雨音だけが響いている。

 瑠璃は、二階最奥の扉を、一般的な錠前タイプの鍵で開けた。むわっと、部屋に籠もった蒸し暑い空気が溢れ出す。


「お邪魔します」


 客が滅多に来ないのだろう。狭い玄関には、スリッパがひとつしかなかった。京香は、黒いウサギを模したそれを瑠璃から渡された。

 瑠璃は濡れた靴下を脱ぎ、つま先立ちで玄関近くの扉――浴室と思われる部屋に駆け込んだ。


「私、スリッパ大丈夫よ」

「なんか、すいません」


 勝手に押しかけられ、部屋主が謝罪するのはどうかと京香は思った。再び姿を見せた瑠璃が、裸足でスリッパを履いた。

 京香はパンプスを脱ぎ、部屋へと上がった。薄暗いためよく見えないが、ストッキング越しに伝わるフローリングの床は、特に汚くもなかった。

 玄関から続く狭いキッチンを抜けた先で、瑠璃が灯りをつける。

 六畳から七畳ほどのリビングだろう。主にベッド、テーブル、ゲーム機の繋がった小さなテレビ、そして姿見鏡が置かれていた。

 初めて訪れたはずだが、京香はなんだか既視感を覚えた。いや、それよりも――


「本当に何も無いわね」

「片付いてると言ってください」


 突然の訪問でよく言われる『散らかってますよ』が無かったことに、京香は気づいた。

 狭い割に広く感じるほど――散らかりようが無いほどの物寂しさは、自分の部屋と似ていると感じた。

 憂う一方で、姿見鏡から事情を察した。


「なるほど。『撮影』のために片付いてるのね」


 京香は、道理で既視感があるはずだと思った。『ぁぉU』の投稿で散々見た部屋だったのだ。どの写真も背景はぼかされていたが、今目に映る光景は加工を取り払った『答え合わせ』のようだった。

 いくら加工するとはいえ、写真にオブジェクトが入り込むと邪魔になる。それに、正体を特定されるリスクにもなり得る。京香は、そのふたつで勝手に納得した。


「間違ってはないですけど……結果的に、です。因果を逆さにしないでください」


 瑠璃はキャップとマスクを外すと、リモコンでエアコンを作動させた。


「適当に座ってください。お茶持ってきます」


 リビングからキッチンへと消える。

 この部屋で座れる場所といえばベッドか、テーブルに面したひとつの座椅子ぐらいだ。京香はどちらも避け、硬い床に腰を下ろした。そして、部屋を見渡す。

 テーブルには化粧品の他、いくつかのピアスと睡眠薬の箱。ベッドにはウサギの、ぬいぐるみとクッション。部屋の隅にあるキャビネットには、大型連休にテーマパークで京香が瑠璃に買い与えた――『屋敷』のキャニスター缶と妖精のぬいぐるみが、それぞれ置かれていた。瑠璃が言っていた通り、本当に飾っているのだと、京香は思った。

 物寂しい部屋ながらも、確かな生活感があった。


「お待たせしました」


 チープなグラスをふたつ持ち、瑠璃が現れた。

 京香はひとつを受け取って、飲む。麦茶だった。美味しくはないが、冷えていたため爽やかだった。


「で、どうですか? こんな世界もあるんだって、驚きました?」


 瑠璃が座椅子に座り、自嘲する。

 貶すなら、早くどうぞ――そのように言われているように、京香は感じた。いや、そのために部屋に上がったと思われているようだ。


「驚いてないと言えば、嘘になるわね。なんていうか……良くも悪くもあんたらしい、って感じ」


 京香は正直に部屋の感想を述べた。微笑み、悪意が無いことを示す。

 口にするのは、あくまでも感想だけだ。瑠璃に関することを知ることが出来たのは、少し嬉しい――本心は胸内に仕舞った。


「派遣の暮らしなんて、こんなもんですよ」


 思っていたような回答が得られなかったからだろう。瑠璃はつまらなさそうな表情で、自虐気味に漏らす。

 京香は同僚の部屋に上がることが滅多に無いため『普通』の基準がわからなかった。とはいえ、この部屋がそれほど悪いとは思わない。

 強いて悪い部分を挙げるならば、立地だ。駅まで歩くことも含め、工場への通勤が大変に違いない。


「ねぇ――」


 どうせなら、職場の近くに引っ越してきたら?

 京香はそう提案しようとするも、口を閉じた。

 そう。瑠璃は派遣社員なのだ。七月の契約更新があるかもわからないのに、引っ越しを勧められない。


「あんたの実家は、どこなの?」


 黙るのは不自然であり、代わりに浮かんだのが、どうしてかそれだった。この部屋に住んで何年になるのか訊ねればよかったと、京香は後になって思う。実家のことは深入りだと感じた。


「実家ですか? 有るには有りますけど……もう有りません」


 瑠璃はそう答え、グラスの麦茶を飲み干した。

 地名ですらない。言葉の意味が、京香にはわからなかった。


「どういうこと?」

「わたしが十歳の時、両親を交通事故で亡くしました。それから、親戚に引き取られて……専門学校を卒業するでるまで、そこに居ました」


 この場合、実家はどっちになるんでしょうね――そう付け加え、瑠璃が苦笑する。

 訊くべきではなかった。その半生を知りたくなかった。『地雷』を踏んだと、京香は後悔した。

 瑠璃の言葉から、ひとり娘だったのだと察する。どのような気持ちで親戚の元を離れたのか、わからない。

 何にせよ、家族が鬱陶しい自分とは正反対だと感じた。瑠璃には家族が居ないのだ。


「わたしには、帰る場所なんて無いんですよ。それなのに……」


 派遣社員としての生活を送っている。

 京香は自嘲する瑠璃から、環境のせいでこうなったと言っているわけではないと、察した。原因が何にせよ、あらゆる意味で『弱者』なのだと感じた。

 そう。不憫に思うほどに。


「ご両親のこと、残念ね」


 触れてしまったことを謝罪するのは失礼だと、京香は思った。代わりに悔やんだ。


「そうですね……」


 瑠璃はぼんやりと相槌を打ち、虚空を眺めた。

 結果的に触れてしまったとはいえ、気まずい空気に京香は居心地が悪かった。何か命令する気分でなければ、この場から立ち去ることも出来ない。

 なんとか会話を続けようと、頭を働かせる。


「どうして栄養管理士になろうと思ったの?」


 先程の台詞から、専門学校に通って資格を取得したのだろう。その進路を選んだ理由が、気になった。選ばざるを得なかった、といった口振りではなかったと思う。


「衣食住のどれかだと、とりあえず仕事があると思ったからです」

「へー。意外としっかりしてるのね」

「意外と、は余計です! ていうか――」


 京香は強引に、いつもの調子でからかう。

 いつもの調子で、瑠璃はムキになった。


「何でもありません……」


 だが、何かを言おうとして口を閉じた。

 それこそが栄養管理士を目指した真の理由だと、京香は思った。そもそも、どうして衣食住の『食』を選んだのだろうか。

 知りたくないと言えば、嘘になる。しかし、この流れの手前――わざわざ伏せた瑠璃に、とても訊けなかった。

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