第07章『大雨』
第19話
六月四日、火曜日。
午前七時半、京香は大雨が降るの中、自動車で自宅を出た。
梅雨や台風の時期にはまだ早いが――数日前から言われていた通り、熱帯低気圧の停滞によるものだ。
天井から雨音が、車内に重く響く。フロントガラスのワイパーを最速で動かしても、視界が悪い。いつも見ている小学生の登校風景が今朝は無く、歩道の疎らな通行人は傘を広げているも、大変そうだった。
カーラジオからは、この地域に大雨洪水警報が発令され、一部の鉄道区間が運休したと伝えられている。
「はぁ」
しくじったと、京香は思った。
このまま自宅に引き返したいが『今日の仕事』をこなさないといけないため、仕方なく出社した。
京香は午前八時過ぎに到着するとすぐ、製造部のオフィスへと向かった。始業前だが、各部署の管理職を集めた。
この工場に『工場長』という役職は存在しない。京香が実質、工場内の最高責任者であった。
従業員の一部が出勤不可能であること、そして鉄道運休が最寄り駅まで押し寄せる可能性があることを確かめる。今日を臨時休業とする理由としては、それだけで充分であった。
京香は本社へと電話し、経営陣にその旨を進言した。そして、承認されたことを管理職に伝えると、この場は解散となった。なお、本社の地域も同じ状況であり、どの道休業の通達があったようだ。
昨日時点でこうなることが予想できたはずだと、管理職達から責められなかった。しかし、京香は悔やんだ。結局は判断が遅れた本社に責任があるが、
午前八時半、始業のチャイムと共に、京香は三上凉と共に開発一課のオフィスに向かう。凉の報告通り、今日は三名が出勤していなかった。自動車通勤は部長である京香のみであり、全員が電車或いは自転車を使用している。
「――というわけだから、電車止まらないうちに早く帰ること。いいわね?」
「やったー! 今日、休みになるんですねー!」
両川昭子が喜ぶ。学生かと、京香は内心で呆れた。
視界の端――オフィスの隅でぼんやりと立っていた全身白色作業着の小柴瑠璃が、黙って部屋を出ていった。
京香は瑠璃の住所を知らない。まだ最寄り駅は電車が動いているにしろ、帰宅できるのか少し心配だった。だが、この場で『派遣風情』に声をかけられなかった。
皆が帰る中、京香は工場責任者として、建物の戸締まりまでを確認した。
時刻は午前九時過ぎ。『今日の仕事』が片付いた。出社して一時間ほどだが、とても疲れた。
明日、生産管理課から在庫状況と生産計画への支障を報告される。それ次第では、今週ではないにしろ本社が土曜出勤を考える。『後』のことを想像すると、憂鬱だった。
「私らも帰ろうか」
「そうですね」
凉が最後まで付き合ってくれた――のではなく、自宅まで送って欲しいのだと京香は察していた。凉もまた電車通勤だが、この大雨の中、傘をさして駅まで歩くことすら嫌なのだろう。
ふたりで駐車場へと向かうと、建物の陰からショートボブヘアの人影が現れた。
「妙泉部長、あたしも送ってくれませんか?」
にこやかな昭子から訊ねられ、京香は苛立つのを超えて頭が痛くなった。天気は悪化する一方だ。どうしてわざわざ待っていたのか、感覚や考えが全く理解できない。世代によるものではなく、昭子個人がおかしいと思う。
京香は怒鳴るのをぐっと堪え、凉に横目を送った。
「まあ、駅までならいいんじゃない?」
私は自宅までだけどね――言葉には出さずとも、凉からそう付け加えられたような気がした。
昭子も凉も面倒だが、これが落とし所として最適だと、京香は納得した。
「わかったわ。乗りなさい」
「ありがとうございます!」
昭子が自動車に駆け寄り、助手席に乗り込む。
いつもは凉が助手席だが、後部座席が上座になるため間違ってはいない。とはいえ、京香はなんだか釈然としなかった。凉が不満な様子を見せることなく後部座席の扉を開けたので、特に何も言わなかった。
「わぁ。凄いですね」
京香は運転席に座ってエンジンをかけるも、助手席の昭子が鬱陶しかった。高級車でもないため、何が凄いのかわからない。物珍しそうに車内を見渡し、手に届く設備に片っ端から触れていく。
「じっとして貰えるかしら?」
「はい!」
引きつった笑みで京香は制止させ、自動車を出した。後ろで凉が小さく笑っていた。
「あたし……今度は晴れの日に、妙泉部長とドライブしたいです」
天井から重い音が響く中、昭子がぽつりと漏らす。
京香は、ワイパーが忙しく動いているフロントガラスを眺めて運転している。昭子の表情はわからない。何にせよ、聞かなかったことにして流したいと思った。
「いいじゃないですか、ドライブ。行ってあげたらどうですか?」
だが、後部座席の凉が拾った。
声色から面白がっているだけだと、京香は察した。余計なことをしてくれたと内心思うも、言えるはずがない。
「えー。私、インドア型ですし……そんなに運転好きでもないですよ」
代わりに、適当な理由をつけて否定の方向へ向けた。どちらもあながち嘘ではなかった。
「そういうことなら、両川さんが車出さないとねぇ。まあ、部下なら当然でしょ」
「はい! 免許はありますから、レンタルでもして用意します!」
凉に話を掻き乱され、京香は逃げ場が狭まったような気がした。もしも昭子がレンタカーを用意して運転を引き受けるなら、断り辛くなる。
頭が痛くなりなるが、ハンドルをしっかり握る。
「うーん……。両川さんの運転、なんだか怖いかも」
京香は苦笑して、なんとか誤魔化した。たとえ冗談でも、頷く気配すら絶対に見せてはいけない。
「そんなことないですよ。妙泉部長のためなら、安心安全です!」
二十二歳という年齢から、運転の経験はそれほど無いはずだ。根拠も無いくせにと、京香は思った。
その後もドライブの話が続くも、なんとか躱しながら駅まで運転した。工場からたった五分ほどだったが、体感一時間ほどだった。
京香は昭子の次に、凉を自宅まで送り届けた。
時刻は午前九時半。ふと適当なコンビニに駐車し、携帯電話を取り出した。
オフィスからずっと、瑠璃のことが心配だった。ようやくひとりになった今、確かめようと電話をかけた。
強まる雨をフロントガラスから眺めながら――コール音が少し鳴った後、通話が繋がった。
『ママ? どうしたんですか?』
「もしもし。ちゃんと帰れた?」
『いえ……途中で電車止まっちゃって……あと一駅なんですけど』
確認してよかったと、京香は思った。電話越しに聞こえる雨音は遠いことから、瑠璃が屋内に居ると察した。おそらく、途中下車した駅の構内で、立ち往生しているのだろう。
そうだとすれば、取るべき行動はひとつだと思った。
『まあ、残りは歩いて帰れますんで……』
「ダメよ。私が送るから、そこでじっとしてなさい――命令よ」
京香は意識せずとも、言葉に強制力を持たせた。脅迫している立場のため有効であるが、少なくともこの時は頭に浮かばなかった。
一駅分ならば、現実的に歩ける距離だ。しかし、この大雨の中を歩くのは現実的ではない。
『えっ、マジですか? ありがとうございます』
感謝の言葉と共に、少し明るい瑠璃の声が耳に届いた。このような状況だが、京香はひとまず安心した。
瑠璃から現在地を確かめ、自動車を出した。
運転すること、約十五分。京香はとある小さな駅のロータリーで停車し、再び瑠璃に電話をかけて到着を知らせた。
タクシー乗り場で行列が出来ているのが見えた。電車が運休した以上、この駅で立ち往生している社員が他にも居る可能性を――京香は考えすらしなかった。周りの目を気にすることなく、早く瑠璃が現れるのを待った。
やがて、傘を広げた小さな人影が、自動車に近づく。京香は助手席の扉へと手を伸ばし、開けた。
「ホントもう、最悪でしたよ……。助かりました」
瑠璃の開口一番が、それだった。
「出勤させて、ごめんなさい。ちゃんと送るから……」
京香は真剣な眼差しを瑠璃に向ける。
今でもやはり、この事態の責任を重く感じていた。たとえ、この女性が自分の所有物だとしても――ひとりの従業員でもあるのだ。
「こうなったのは、しょうがないんじゃないですか? けど、まあ……嬉しいです」
キャップとマスクの隙間から、瑠璃の気だるい瞳が微笑んだ。京香の罪悪感が、幾分か和らいだ。
「それじゃあ、出すわよ。道案内、お願いね」
「はい」
瑠璃が何気なくシートベルトを締めたのを確かめると、京香はサイドブレーキを解除した。
ここでようやく、瑠璃の自宅の所在地を知るのだと気づいた。
興味が無かったわけではない。だが、瑠璃との関係で一線を引く意味で、これまで避けてきたのだ。
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