第18話

「うるさいわね! あんた派遣のくせに、何様よ!?」


 京香は心配する瑠璃に、怒鳴り散らした。

 あの日の夕方、ふたりきりの会議室に『ぁぉU』を呼び出してから、一ヶ月が過ぎた。自分の所有物にならなければ正体を言いふらすと、脅迫した。ひどく怯えた瑠璃の顔を、今でも覚えている。

 それから強制的に『ママ活』をさせるも、金銭を払う者と受け取る者、強者と弱者――立場の上下を明白にしていたつもりだった。

 だから、半人前風情が一人前を心配するなど、おこがましい。京香は無能な派遣社員から、同じ高さで視線を向けられたように感じたのだ。


「あ……ああ……」


 キッチンから香ばしい匂いが漂うと共に、何かの焼ける音が聞こえる。それに混じり、瑠璃の困惑した小声も京香は聞こえた。

 瑠璃が怯えるというより――軽いパニック状態のように、京香は見えた。オドオドしながら、目には涙を浮かべている。

 怒鳴られても動揺しない人間など居ないと、京香は思う。それでも、この反応は尋常では無かった。かつてないほど畏縮しているように見えた。

 それに少し驚くも――面白かった。ある考えが浮かび、口元に笑みが浮かぶ。

 京香は持っていたグラスに手の指先を入れ、溶けかけた氷に触れた。冷たさを感じながら、指先を充分に濡らす。


「汚れちゃったわ。ねぇ……舐めて綺麗にしてくれない?」


 グラスから手を上げると、指先からフローリングの床へ水滴が落ちる。指先を床に向けたまま、命じた。

 瑠璃は慌てた様子で、黒いマスクを外す。

 一瞬たりとも逆らわない従順な態度に、京香は感心するが――手を掴まれ、激怒した。


「跪きなさい!」


 立ったまま済まそうとすることが、気に食わなかった。『下』の立場であると自覚すべきだ。


「は、はい!」


 再び怒鳴ると、瑠璃の身体がビクリと小さく震える。

 すぐ床に膝をついた。涙を浮かべた目で、真っ赤な舌を京香の手へ伸ばした。


「まずは、キスからよ」


 京香はそう命じると、瑠璃の震える唇が指先にそっと触れた。そして、濡れた指先に舌を這わせた。ピチャピチャと、小さな音が聞こえる。

 まるで小動物のようだと、京香は思う。犬猫のような愛玩動物ではなく、ただの畜生だ。

 実に無様であり、身分相応だった。これが本来の、あるべき姿だ。

 舌の温もりと柔らかさを感じる度、京香は背筋がゾクゾクと震える。恍惚に、口元が歪む。

 少なくともこの時は、弱者を支配する優越感で――仕事での嫌な気分が消えていた。

 時間なら、たっぷりとある。今夜は弱者を徹底的に辱め、立場を教育しよう。何をしたって構わない。私の所有物モノなのだから。


 京香は酩酊の頭でそのように考えていると、瑠璃の頬に涙が伝うのが見えた。

 一瞬で酔いが吹き飛び、素面に返った。

 いや、ニュートラルに戻るならば、どれほどよかっただろう。優越感が正反対の位置まで反転し――罪悪感が押し寄せる。


 京香は瑠璃の顔から手を引き離した。少し歯が触れ、痛みが伝わった。

 グラスをキッチンカウンターに置くと、ソファーに戻った。膝を抱えて座り、膝に顔を埋めた。

 いったい、何をしていたのだろう。不機嫌だから、酒が入っていたから――そのような言い訳が通じないことをしでかしたと、京香は思う。

 京香が当初頭に描いていた『脅迫』のイメージは、まさにこれだった。弱者の尊厳を、完膚なきまでに踏みにじるつもりだった。

 しかし、こうして実行するまで想像できなかったのだ。この行為で愉悦を得ることが、たまらなく情けなく――そんな自分が嫌になることに。

 倫理観の問題ではない。ただ、小物臭さが際立つ。やはり『その程度の人間』だったのだと、思い知らされる。


 京香は凄まじい反動に押し潰され、膝に顔を埋めたまま涙を流した。自業自得と言えば、それまでだ。

 頭の中はぐちゃぐちゃだった。もう何も考えられないが、今日一番の最悪な気分だった。

 それでも、京香の耳にはキッチンからの何かを焼く音が耳に届く。

 所有物が料理を投げ出して部屋を出ていっても、不思議ではなかった。しかし、ソファーからすこし離れたところに、ひとつの人影を感じた。オロオロした様子だと、顔を上げなくともわかった。

 あれだけのことをしでかしたのに――実に鬱陶しいと、京香は感じる。


「なによ……。ざまぁみろって思ってるんでしょ? 笑いながら帰ったら?」


 自分の空間に『異物』を取り込んでしまっている。今さら取り除けない。

 京香はこの情けない格好を弱者に見せていることに言い訳ができず、開き直った。


「ワケがわかりませんけど……。帰れと言うなら帰りますんで……とりあえず、今日の『お小遣い』くれませんか?」


 鼻をすすりながらの声が、京香に聞こえる。思いもしなかった言葉が飛び出し、思わず笑ってしまった。

 とても、ついさっきまで泣いて怯えていた人間とは思えない。小心者なのか図太いのか、わからなかった。

 どちらにせよ、瑠璃の行動原理は一貫している。金銭のみを求めている。『ママ活』なのだから、当然だ。

 ふと、テーマパークで遊んだ時のことを京香は思い出した。瑠璃が見せた無邪気な笑顔も、所詮は『紛い物』だ。金銭以上の――何か特別な感情は、少なくとも瑠璃からは存在しない。

 京香はそれが少し残念でもあると同時、少し安心した。


「ちゃんと出してあげるから……私を慰めなさい。仕事でちょっと、嫌なことがあったの」


 顔を上げ、瑠璃をじっと見つめる。一切の拒否を許さない命令だと、訴えかけた。

 瑠璃はまだ瞳に涙を浮かべながらも、大きく溜め息をついた。そして、キッチンでコンロの火を止めた後、警戒しながら京香の隣に座った。


「慰めろって言われても……どうすればいいんですか? エロいこと要求されても、わたし下手なの知ってますよね?」

「ちょっと待ちなさい。どうしてそっちにいこうとするのよ? やっぱり痴女なの? 少しは察しなさいよ」


 京香は半笑いで制止した。確かに、詳細に言わない自分にも非があるかもしれないが、瑠璃のペースがおかしいと思う。


「うーん……。今大変なのは、なんとなくわかります。似たようなやつばっかり、作らされてるんで……」


 部署内の状況やプロジェクトの進捗を、末端の派遣社員が知るはずもない。だが、栄養管理士としての仕事から、感じることもあるのだろう。嘘ではないと、京香は思った。


「ママが具体的にどんな苦労してるのか、わたしにはわかりません。でも、わたしに絶対出来ないことをやってるのは、凄いと思います……この前の、個人面談とか」


 瑠璃の言葉に、京香は既視感のようなものを覚えた。

 そう。以前、瑠璃がこの部屋でオムライスを作った時だ。同じ内容で褒めたことを、思い出した。無理に言葉を捻り出したのではない。素直にそう感じ、瑠璃を肯定したのであった。

 だから、都合が良いが――これも瑠璃の本心のように感じた。


「……こんな感じでいいですか?」

「ええ。ありがとう」


 隣で不安げに見上げる瑠璃の頭を、京香は撫でた。そして、瑠璃へと倒れ込み、太ももへと頭を置いた。


「もっと褒めなさい。命令よ」


 この言葉になのか、それとも突然の膝枕になのか、京香はわからない。困惑する瑠璃の顔を、ぼんやりと見上げた。


「ぶっちゃけ、ママのことクソほどムカついてます。でも……美味しい料理食べさせてくれたり、遊びに連れて行ってくれたり……なんていうか、わたしの知らない世界を見せてくれるのには、感謝してます。悔しいですけど、カッコいいですよ」


 ネガティブな意見も含まれていることから、京香はやはり瑠璃の本音のように聞こえた。

 まるで、雨のように――天井方向から頬に涙が落ちたのを感じ、確信した。


「だから、ビックリしたというか……怖かったです」


 つい先ごとの出来事に、未だ恐怖しているのだろう。瑠璃は泣いていた。

 カッコわるかったです――わざわざ口にしなくとも、それに繋がるのだろうと京香は察した。

 ネガティブな意見に、腹は立たない。むしろ、ここで初めて瑠璃への罪悪感が生まれた。自らの言動で自己嫌悪に陥ったが、瑠璃を傷つけたことは事実なのだ。


「ごめんなさい」


 京香は自然と謝罪すると同時、自身も涙を流していた。それほどまでに、罪悪感に蝕まれていた。

 弱者であり所有物でもある瑠璃に対しては、どのような言動も許されるはずだった。だから、どうしてこれほど心が痛むのか、京香にはわからなかった。

 瑠璃の膝枕から、起き上がる。溢れる涙を指先で拭っている瑠璃を、そっと抱きしめた。

 何も言えなかった。もう二度と怒鳴らないと、約束できない。そして――慰め方がわからないのは自分の方だと、呆れた。


「ごめんなさい!」


 その代わり、心から謝罪した。

 瑠璃が失望して離れてしまわないよう、強く抱きしめた。


 しばらくして、ふたり共泣き止んだ。

 疲労感に包まれながら、京香は財布から一万円札を三枚取り出した。

 瑠璃に手渡すが、首を横に振られた。


「後でいいんで……とりあえず、ご飯食べませんか? わたし、お腹好きました」


 真っ赤な瞳の瑠璃は苦笑すると、キッチンへと向かった。

 泣き疲れたからだろうか。京香もまた、空腹を感じた。

 いくら金銭の関係とはいえ、他者が希望に応えてくれた際にどう言えばいいのか、京香は知っている。


「ありがとう」


 すぐに瑠璃が夕飯の準備をし、ダイニングテーブルに向かい合って座った。

 チキンは少し焦げていたが、ハーブの香りがしっかりと付いていた。京香は美味しいと感じ、瑠璃の料理を褒め称えた。

 食事と共に、くだらない談笑をした。

 あのような出来事があったにも関わらず、瑠璃はいつもの気だるい感じだった。

 強引に切り替えたのか、自然な立ち振舞なのか、京香にはわからない。後者だとすれば、やはり独特のテンポを持つ面白い人間だと、京香は思う。

 一方で、京香の罪悪感や気まずさは消えない。しかし、少なくとも今は――仕事での嫌な気分を忘れ、瑠璃との食事を楽しめた。



(第06章『自己嫌悪』 完)


次回 第07章『大雨』

京香は瑠璃の自宅を訪れる。

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