第17話

 五月十七日、金曜日。

 午後六時過ぎ、京香は自動車を走らせていた。

 陽は落ちようとしている。都心部から離れる道は、混んでいる時間帯だった。


「ねぇ。吸ってもいい?」


 助手席の三上凉が、返事を待つより早く電子タバコを取り出している。


「一応、窓開けてください」


 京香はタバコのことをよく知らないが、凉の吸っているものは匂いがしないと把握していた。それでも、念のために換気を促した。

 もっとも、タバコの種類が何であれ、断れないほど居心地が悪かったが。

 凉は窓を少し開けた後、タバコの電源を入れた。


「いやー、想像以上に絞られたね。参ったよ、ほんと」

「ですねぇ……。すいません、三上さんまで、わざわざ」


 京香だけでなく凉も――以前から、本社の経営陣に呼び出されていた。痺れを切らし、週末の今日、午後から直帰で向かった。今はその帰りだ。

 新商品であるスティックケーキの開発遅れを、ふたりで詰められた。それが半分。


「まあ、私はいいんだけど……京香はご愁傷さま」


 もう半分は、それと関連して、京香が部長職としていい加減な立ち振舞をしていることだった。早く経営側に移るよう、今日もうるさく言われた。

 京香としては、前者は建前であり、呼び出しの目的はどちらかというと後者に感じた。


「あはは……。弾除けなら、任せてください」


 苦笑して見せるが、実際とても堪えていた。妙泉一族みうちの問題を凉に見せることになり、なおさらだった。見せつけるために凉を呼び出したとすら思う。


「京香さ……本当に大丈夫?」


 ハンドルを握って運転している京香に、凉の表情は見えない。

 だが、声色から――何に対しての心配なのか、なんとなく察した。


「はい。私のモラトリアムは、まだまだ続きます」


 京香は明るい声を作って答える。

 まだ部長を続けて大丈夫? 凉からそう訊ねられたのだ。

 凉が部長の座を欲しているのか、わからない。だが、今は少なくともその意図が無く――純粋に気遣われているように、京香は感じた。

 意向通り本社の経営側に移れば、このように責められることは無い。凉としても見ていて辛かったのだろうと、京香は思った。


「そっか……。それなら、ちゃんと結果出さないとね。円香ちゃんみたいに」


 結局は、新商品の開発が遅れていることから、付け入る隙を与えた。商品開発部として経営陣を納得させれば、まだ対抗可能だ。


「そうなんですけどねぇ」


 だが、目の前に立ちはだかる壁からも、逃げ出したい気持ちだった。

 京香は、乗り越えられる気がしなかったのだ。

 スティックケーキの現状は、五つのフレーバーの内、チョコレートと抹茶とチーズの三つは決まっていた。

 凉が提案した四つ目――柑橘系であるレモンかオレンジは、試作の結果レモンに決定した。

 こうして四つが決まるも、最後のひとつが難航していた。アイデアを出しては片っ端から試作するも『五つの商品』として考えた場合、どれもバランスが悪かった。いっそ、一度全て白紙に戻した方がいいとの意見が出るほどだ。

 あと少しでゴールに辿り着けそうな距離のはずなのに、全く見えてこない。開発一課としてはラストスパートをかけるどころか、次第に萎えていた。


「まあ、頑張ってみようよ」


 凉の言葉が、京香はなんだか他人事のように聞こえた。

 実質の責任者である凉を責めたいところだが、形式では自分なのだから何も言えなかった。凉を管理する能力など、京香には無かった。

 それでも、自業自得の一言で済ませるには腑に落ちない。以前から凉に緊張感が無いのは、自分ひとりの責任でもないと思う。


「はい。週明けにも、またミーティングしましょう」


 京香はハンドルを強く握り、苛立ちを抑えた。

 考えるほどに、自身を正当化しようとする。だが、かろうじて傾かなかった。


 凉を自宅まで送り届けた後、京香はスーパーマーケットに向かった。駐車場で自動車を停車させたのは、午後七時過ぎだった。

 京香は携帯電話を取り出し、小柴瑠璃に電話をかけた。すぐに繋がった。


「もしもし。着いたわよ」

『わかりました』


 たったそれだけの会話で、通話が切れる。

 そして少しの間を置き、エコバックを持った瑠璃が現れ、助手席に乗り込んだ。


「待たせたわね」

「まったくですよ」

「そこは、ほら……わたしもちょうど買い物が終わったところ、みたいに言ってくれない?」

「嘘ついてどうするんですか」

「はいはい。そうね」


 京香は苛立っているせいか、瑠璃の態度が少し鼻についた。改めて生意気に感じるが、まだ堪えられる程度だ。

 今週末も、瑠璃を自宅に呼んで夕飯を作らせることにした。京香は本社からの直帰であるため、瑠璃をスーパーマーケットで向かわせ、食材の買い物をさせておいた。

 きっと、瑠璃が買い物を終えたばかりではないだろう。済ませた後どのぐらい待って、どのように時間を潰していたのか、京香は知らない。どうでもよかった。


「そうだ――忘れないうちに、先に渡しておきます」


 シートベルトを締めた瑠璃から、京香はレシートを渡される。食材費の請求だ。以前のように、金銭を先に渡していない。


「こういうところはしっかりしてるわね……。帰り際に、まとめて出すわ」

「よろしくお願いします」


 京香はレシートの数字を見ることなく、スーツのポケットに仕舞った。ただでさえ不機嫌なのに苛立たせないで欲しいと思うが、口にはしなかった。

 自動車のギアをパーキングからドライブに変え、サイドブレーキを解除する。帰路を走らせた。


「今夜は何作ってくれるの?」


 メニューは特に指定していない。以前のようにサプライズを楽しむ気分でもなく、運転しながら訊ねた。


「チキンのハーブ焼きと、野菜多めのペペロンチーノです」

「へぇ。そういう小洒落たやつ、作れるのね」

「別に、手は込んでませんよ。超簡単です」


 以前は家庭的な料理とリクエストしたところ、オムライスが出てきた。今度も似たような系統だと思っていたが、ガラリと変えてきたこと――そして、酒に合う料理であることが、京香は嬉しかった。

 運転しながら料理を想像していると、ふとある疑問が浮かぶ。


「ちょっと待って。ハーブって、スーパーで買えるものなの?」


 京香は料理とあまり縁が無いため、スーパーマーケットの野菜売り場に足を運ぶ機会も少ない。それでも、商品として見た記憶が無かった。この国での家庭料理にはあまり馴染みが無く――そもそも野菜扱いなのかすら、わからないが。


「スーパーで香辛料としてそれっぽいのが売られてますけど、今ひとつです。チューブのニンニクが使えないのと同じです」

「その例えがよくわからないけど、そうなのね」

「というわけで、ネット通販で買っておきました」

「え? わざわざ? ありがとう……」


 京香が今夜のことを瑠璃に伝えたのが、二日前だった。すぐ準備に取り掛かなければ、間に合わない。

 瑠璃に対して気だるい印象を持っていたので、その行動が意外であり――嬉しかった。自然と感謝の言葉が漏れた。

 助手席の瑠璃が照れているのか、わからない。京香は覗き込むことなくフロントガラスを眺めながら、上機嫌に帰路を走らせた。


 京香が自宅の扉を開けたのは、午後七時半だった。

 自分の空間に入ると、仕事からの開放感と共に――疲労感も込み上げた。一週間が終えたのだと、京香はようやく実感する。

 瑠璃の料理で酒を飲み、そして瑠璃を『可愛がる』ことが楽しみだった。

 しかし、本社での嫌な気分は消えて無くならない。今も留まり続けている。


「出来るまで時間かかりますから、先にお風呂入りますか?」

「ううん。とりあえず、飲みたい。仕事でちょっとムシャクシャしてるから……」

「わかりました。空腹なんですから、飲み過ぎないでくださいね」


 京香はさっそく料理の準備に取り掛かる瑠璃からキッチンカウンター越しに、氷の入ったグラスを手渡される。

 確かに暑いので氷は有難いが、ウイスキーをストレートで飲むなという意図を察した。

 着替えることすら面倒であるため、京香はそのままリビングのソファーに腰掛けた。そして、テーブルに並んでいるウイスキーの瓶を適当に取り、グラスに注いだ。

 キッチンから、香ばしい匂いが漂ってくる。京香は二杯飲んだ後、溶けた氷の水っぽさが気になった。氷を捨てようと、立ち上がる。

 しかし、頭の中が揺れ動き、足元がふらついた。なんとか踏み止まるものの、胸の鼓動が耳に届く。まだ思考は働くが、酩酊状態なのだと自覚した。


「ちょっと、何やってるんですか。飲みすぎないようにって、言いましたよね?」


 危ない様子が、キッチンから見えたのだろう。瑠璃が慌てて飛び出してきた。

 心配されていると、京香は理解していた。だが酒の入った今、それ以上に生意気だと感じた。

 自分の空間へやに『異物』が紛れ込んでいる。ただの所有物が、持ち主へしゃしゃり出ている。同じ目の高さに立っている。

 自分は『これ』と同じ価値なのだと――自己嫌悪に陥った。

 だから、苛立ちが堪えられずに溢れ出した。


「うるさいわね! あんた派遣のくせに、何様よ!?」

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