第06章『自己嫌悪』

第16話

 五月十四日、火曜日。

 大型連休が明けて落ち着いた頃、京香を待っていたのは賞与査定だった。

 妙泉製菓も一般的な会社と同じく、夏と冬の二度、賞与が支給される。査定の目的は一応伏せられ――各部署の管理職は、課員に個人面談を執り行わなければならない。

 京香としては面倒だが、第三会議室が空いたこの日、仕方なく行うことにした。

 午前十時。まずは、開発一課の課長である三上凉からだ。京香は密室で、向かい合って座った。


「えーっと……三上さんはいつも通りといった感じで……これからも、益々の活躍を期待しています」

「そう? ありがとう」


 京香は居心地が悪く感じながらも、作り笑顔で当たり障りない言葉――しかし紛れもない本心を述べた。

 凉の御蔭で部長職を務められているのは事実だ。無条件で満点の評価を下すつもりだった。賞与がもしも業績不相応の額なら、問い詰められる可能性すらある。頭が上がらない。

 本来の面談では、今後のキャリアについて訊ねなければならない。


「三上さんから会社に、何か要望ありますか?」


 だが、京香は敢えて飛ばした。

 部長への出世について、とても触れられなかった。実際に出世欲あり、邪魔者と思われているのか、未だにわからない。

 課長職へは、キャリアとして他部署への興味を訊ねることも一般的だ。凉を手放したくないため、これにも触れられない。だが、実際どう思っているのか、少しだけ気にはなっていた。


「うーん……。年間休日、百三十日ぐらい欲しいなぁ」

「わ、私もです。重々伝えておきますね」


 製造業かつ中小企業で、無理な相談だと京香は理解している。

 冗談のつもりなのか、凉の意図はわからない。だが、全力で頷いた。


「あと――異動は勘弁してね。今のところ、不満は無いから」


 凉は微笑み、席を立った。

 こちらの知りたい情報を察していたのだと、京香は思った。そして、凉の気持ちに胸を撫で下ろした。


 京香はその後も順番に、個人面談を続けた。残りは凉に任せても良いのだが、凉から拒まれた。これぐらいはと、仕方なく引き受けた。

 やがて、昼休憩を挟んだ午後二時――最後のひとりが会議室に入ってきた。


「失礼します、妙泉部長」


 カシスブラウンのショートボブの女性は緊張感が微塵も無いどころか、にこやかな様子だった。まるで、この場を楽しみにしていたかのように。

 本人に悪意は無いのだろうが、舐められているような態度に感じ、京香はあまり良い気がしなかった。


「両川さん、お疲れさま」


 京香は椅子を指差し、新入社員の両川昭子に着席を促した。

 入社一年目の初回賞与は、寸志と決まっている。この面談で額が変わることは無いため、京香としては話す意味も無いと思うが――そういうわけにはいかない。げんなりした気持ちを隠し、着席した昭子と向き合った。


「貴方、とっても頑張ってるわね。このままの調子でお願い」

「はい!」


 昭子の研修評価など興味が無いため、実のところ知らない。凉から聞いたことを、当たり障りなく伝えたに過ぎない。


「五年後、十年後のキャリアイメージあるかしら? 絶対に叶えないといけないわけじゃないから、大体の目標程度に考えてちょうだい」

「妙泉部長の右腕になって、頑張りたいです!」


 即答する昭子に、京香は苦笑した。ふざけているとしか思えないが、新入社員相手に怒るわけにもいかず、落ち着くことを心がけた。


「ごめんなさいね。やっぱり、もうちょっと具体的に……」

「そうですねぇ……。大ヒットする新商品作って、五年後にはひとまず課長の席に座っておきたいです」


 内容自体は、新入社員としての定型文だ。

 しかし、にんまりと笑う昭子に、本気の目標なのだと京香は思った。この世代にしては珍しく、確かな野心を持っている。上司として喜ぶべきところだが、これまでの昭子の印象から、危険だと感じた。


「いい目標じゃない。貴方なら、きっと出来るわ」


 とはいえ、否定するわけにもいかず、焚き付けた。


「ありがとうございます!」

「両川さんから、会社に何か要望あるかしら? 困ってることでもいいわよ」

「あたしの歓迎会、いつやるんですか?」


 目標の割に凄くどうでもいいことが気になっているのだと、京香は内心で呆れた。


「私はそのへんの話聞いてないけど……やるとしたら、七月の試用期間が終わってからじゃないかしら」

「そうなんですね! あたし、早く妙泉部長とお酒飲んでみたくて……楽しみにしてます!」


 昭子が無邪気に笑う。

 京香としては、昭子を歓迎する気持ちが全くと言っていいほど無い。むしろ、試用期間で何か大きな問題を起こさないかと期待すらしている。


「へ、へぇ……」


 肯定することもなく、相槌を打った。

 部署内の親睦会については、凉や幹事役が仕切っている。京香が口を挟むことは、ほとんどない。

 ただ、現実的に開催されるであろう昭子の歓迎会は、適当に理由をつけて逃げようと思った。


 全員の個人面談を終え、京香は会議室を出た。オフィスへ戻る前に――試作室へと、ふと立ち寄った。

 扉を開けると、甘い匂いが鼻につく。白色の作業着に全身を包んだ小柴瑠璃が、気だるい瞳を京香へ向けた。


「お、お疲れさまです……」

「お疲れさま」


 会釈する瑠璃に、京香は微笑んだ。

 この部屋には今、ふたりきりだった。部屋の周りに人気も無かった。誰にも入室を見られていないはずだ。いや、もしも見られていたとしても――スティックケーキの状況確認の体裁にすれば、何らおかしくない。それでも、京香としては他人の目を警戒しての密会なので、少しの背徳感があった。


「はー。個人面談、ダルかったわー」

「そうですか」


 京香は、淡々と調理している瑠璃の隣に立つ。

 おそらく、正社員を対象とした個人面談のことは、瑠璃の耳にも入っているだろう。しかし、対象外である瑠璃本人には興味が無くて当然だと思った。


「あんたで最後よ。私と面談おしゃべりしましょ」

「は?」


 瑠璃が作業の手を止め、顔を上げる。

 京香は、何か目的があってここを訪れたのではない。なんとなく瑠璃の顔を見たかっただけに過ぎない。話す内容など、どうでもいいため『ごっこ』に興じることにした。


「自分の五年後、十年後を考えたことある?」


 意地悪な質問をしている自覚が、京香にはあった。

 性的な副業は若い内だけしか出来ないと、瑠璃が以前言っていた。本人がそうわかっているにしても――人生設計を考えているように、京香には思えなかった。


「わかりません。生きてさえすれば、それでいいです」


 案の定だった。だが京香は、僅かながらの前向きな気持ちが感じ取れた。小さく笑った。


「私もよ。生きてるだけでえらいって言う人もいるけど、ホントそうよね」


 それほど遠くない未来で、きっと会社の経営側に就いていると京香は思う。十年後なら、代表取締役社長の可能性も、充分にあり得る。

 しかし、敷かれたレールを歩かされて――どのような気持ちでどのような景色を眺めているのか、わからなかった。自分の人生キャリアを、そこまで考えたくなかった。


「わたしはともかく……アナタはそれでいいんですか?」

「いいのよ。なるようにしか、ならないわ」


 呆れる様子の瑠璃に、京香はおかしく笑った。

 とはいえ、このようにふざけられるのは、跡継ぎという『最低限の保証』があるからだ。派遣社員の瑠璃とは、やはり立場が違う。偶然にも恵まれた環境に居るだけだと、改めて感じた。


「ねぇ……ここでの仕事、楽しい?」


 派遣社員に会社への要望を訊ねても、仕方がない。京香は瑠璃相手に、敢えて質問を変えた。


「まあ、普通ですけど……。アナタと出会ったことだけは、最悪ですね」


 減らず口を叩かれたと、京香は思った。きっと本心だろうが、質問の答えとしてははぐらかされたような気がした。

 瑠璃が妙泉製菓に派遣されて、およそ一ヶ月半となる。三ヶ月の契約終了まで、残り半分となる。

 人柄はともかく、仕事に関しては悪い話を聞かない。だから、一ヶ月半後には契約更新を持ちかけることは可能だろう。

 どうであれ、契約は打ち切るつもりだった。期限を迎えると、瑠璃を解放するつもりだった。

 だが気分が変わり、今は手放したくなかった。

 とはいえ、持ちかけたところで瑠璃は受けるのだろうか。


「あんたさ……」


 京香は訊ねようとするも、口を閉じた。

 もしも断られたなら、脅迫して強引に頷かせるだろう。拒否権など与えない。瑠璃の意思など、どうでもいい――知りたくない。


「何ですか?」

「今朝投稿した『本日の下着紹介』の答え合わせ、しましょうか」

「はぁ!? 場所考えてください! 誰か来たら、どうするんですか!?」

「どうせ誰も来ないわよ」


 身を守ろうとする瑠璃の作業着に、京香は手をかけた。何も、脱がせるつもりは無い。『確認』さえ出来れば構わない。それでも、この様子が誰かの目に触れたなら、大問題になるだろうが。

 退屈な日常に刺激が欲しいから、瑠璃に接触した。これが本来のかたちだと、自分に言い聞かせる。

 そう。京香もまた、そのようにはぐらかした。

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