第03章『強制ママ活』

第07話

 四月十五日、月曜日。

 午前八時過ぎ、京香は商品開発部のオフィスへと出社した。

 週始めの憂鬱さが全く無いわけではない。だが、それ以上に上機嫌だった。良い週末を過ごしたからだ。


「おはよう」

「おはようございます、京香部長」


 京香は商品開発部の社員達と挨拶を交わし、部長席へ座る。

 オフィスを見渡すと、隅では帽子、マスク、作業着――全身白色の小柄な栄養管理士が、今朝もぼんやりとした様子で立っていた。帽子とマスクの隙間から覗く瞳は、やはり気だるげだ。

 京香が視線を送るが、小柴瑠璃は無反応だった。まるで、先週末に何事も無かったかのように。

 瑠璃があの夜の出来事を正社員や会社側に告げる可能性は、確かにあった。だが、今朝のオフィスの雰囲気から、無かったと京香は断定する。心配すらしていなかった。ふたりで楽しんだという手応えがあった他――その意図でなかったとはいえ、金銭えさまで与えたのだから。

 いつも通り『空気』に徹している瑠璃から無視されても、京香は構わなかった。白い作業着の下はどのような格好なのだろうと思い、小さな笑みが漏れた。


「妙泉部長、おはようございます!」


 ふと、カシスブラウンのショートボブの女性社員が近づいてくる。部長席の前に立ち、瑠璃を眺めていた視線を遮られた。


「おはよう、両川さん」


 月曜の朝から暑苦しい人物が来たと思うものの、京香は両川昭子に笑顔で挨拶を返した。

 新入社員が同僚や上長に挨拶をするのは、確かに礼儀として当然だ。だが、京香としては不要だった。どちらかというと、昭子より瑠璃からの挨拶が欲しい。


「今週も研修頑張ってね。期待してるわ……」

「はい!」


 当たり障りの無い言葉を投げて早く追い返そうとするも、昭子は席を離れなかった。


「あの……。部長はこのお休み、どのように過ごしてたんですか?」


 京香にとっては、実に鬱陶しい質問だった。

 他愛ない会話ではなく、上司への露骨な『ゴマすり』に感じた。段階を飛ばして部長へと直接絡むことからも、顕著だ。

 しかし、目を輝かせている昭子から、純粋な興味にも感じた。『計算』なのか『天然』なのか、京香にはわからない。


「買い物や食事に行ったり……まあ普通よ」


 土日を振り返りながら、適当に漏らした。

 早く会話を切り上げるつもりだったが――ふと、ある作り話が頭に浮かんだ。


「そうそう。友達が旅行で留守にするからって、ネコちゃんを預かったのよ。ちっちゃくて可愛い黒猫でね……」

「わぁ。良いですね、子猫ちゃん」

「最初はあんまりだったんだけど……それでも可愛がると、ちょっとずつ懐いてきたわ」


 京香は昭子越しに、見えない瑠璃へと視線を向ける。口元が歪むのを、ぐっと堪えた。出来ることなら、この会話を瑠璃に聞かせたい。


「わかります! あたしも昔、実家で犬を飼ってました。懐かなくて反抗的な子をしっかり躾けて従わるのって、快感ですよね!」

「え、ええ……」


 昭子が明るい笑顔でとんでもないことを口走っているように、京香は感じた。共感できない内容だ。

 少し驚くも、表情には出さずに相槌を打った。


 やがて午前八時半になり、始業のチャイムが鳴り響く。

 京子はしばらくパソコンに向かい――午前十時半、休憩しようと席を立った。

 誰も居ない給湯室で、コーヒーを淹れる準備をした。今日はこれで二杯目だ。

 携帯電話を取り出し、SNSのアプリを開いた。『専用』のアカウントに切り替え、タイムラインを追っていると『ぁぉ∪』が今朝投稿した写真が目に留まった。


『今日のお尻』


 その一文と共に、青いTバックショーツを履いた尻が写っていた。

 特定のフォロワーに『身バレ』したにも関わらず、活動が続いている。京香には強がりとも金銭のためとも捉えられるが、瑠璃の真意はわからない。何にせよ、素直に嬉しかった。

 瑠璃とは会社で会えると思っていた。確かに会えるが、接触は出来ない。部長が派遣社員の栄養管理士に直接近づくなど、不自然だ。

 瑠璃はこの時間、試作室に居るだろう。周りの目を気にしながら覗いてみようかと、京香は考えていると――狭い給湯室に、ふとひとつの人影が現れた。

 オリーブベージュの耳出しショートヘアとパンツスーツから、中性的なシルエットだった。だが、身長は自分とさほど変わらず、そもそも女性であると京香は知っている。


「やあ、姉さん」


 落ち着いた佇まいから、笑みも物柔らかだった。

 この女性は京香の六歳離れた妹、妙泉円香よしずみまどかだ。


「まーたあんた、こんな所までサボりに来たの?」

「ひどい言い様だなぁ。仕事で通りがかったから、立ち寄っただけさ」


 自分と違って怠けているわけではないと、京香自身がよくわかっていた。げんなりしながらも、コーヒーをもう一杯淹れた。


 円香も京香と同じく、いずれ経営側に就く人間だ。現在は本社にある営業部で、一課課長の身だ。

 仕事柄、ここを通りがかるのは確かに珍しくない。以前から、度々立ち寄っている。だが、京香としてはたったひとりの姉妹に、あまり会いたくなかった。仲が悪くはないが、苦手な存在だった。

 円香が自分と違い、家業いえを真剣に考えているからだ。経営側に早く就きたい気持ちがあるものの『現場』で売上すうじを上げることから離れられない様子だった。営業部自体が頼りないとも、エースの円香が必要不可欠とも、京香は思わない。円香が、若い現在だからこそ無茶をして自分を試しているように、感じていた。

 要するに、妹は仕事にやりがいを持ち、楽しんでいる。過去より、家業への姿勢は姉妹で真逆だった。


「いい加減、本社に来なよ。社長かあさんが一番待ってるよ」


 給湯室で立ったまま、ふたりでコーヒーを飲む。

 京香は頭が痛くなった。円香を苦手にしているのは、姿勢の違いだけではない。立ち寄る度に、こうして小言を言われるのが嫌だった。


「しつこいわね。跡継ぎなら、あんたに譲るわよ。長女が絶対やらなきゃいけないだなんて考えは、もう古いんだから」


 現場で実績を残している人間には下の者が付いてくるように、京香は思う。円香の人望は社内で厚い。自分よりも遥かに、社長に相応しい人間だろう。


「それには同意するよ。でも、そうじゃないんだ。私みたいな攻め思考の人間は会社を危険に晒すから、トップに向かない。姉さんみたいな安定思考を置かないと」

「安定思考? 違うわね。私はヘタレなだけよ」

「たぶん、それぐらいで丁度いいんじゃないかな。その方が、安心して背中を任せられるからね……」


 もっともらしい意見に京香は聞こえた。確かに、組織は一方向に偏るより、均衡を考えるべきだ。

 だが、釈然としなかった。円香の本心なのか適当な理由付けなのか、わからない。

 どちらにせよ、過去より円香から貶されることはなく、慕われていた。

 親からそのような教育を、姉妹で受けていた。だから京香は、妹からの好意的な意見を――たとえ悪意が無くとも、皮肉にも捉えていた。


「それに、姉さんの方が賢いじゃないか。頭の良い人間が立つべきだよ」

「あのねぇ……。こんな歳にもなって学生時代を擦りたくないけど、勉学と仕事は別物なの。この国は、コミュ力が全てなの」


 京香は私立の中高一貫校と国立大学を卒業していた。学歴の必要偏差値では、円香より優れていると自覚がある。

 しかし、社会人としては無能であるとの自負もある。過去も無能であって欲しかったと、今は思う。現在が、より情けなかった。


「私は、そうは思わないけどなぁ。まあいいや。それじゃあ、しばらく本社に来る気はやっぱり無いんだね?」

「だから、言ってるでしょ? ここで優秀な部下達に囲まれて、まだまだ好きにやらせて貰うわよ」

「なら――優秀な部下達を使って、スティックケーキの開発急いでくれないかな? 各所に営業したいんだけど、目新しい『弾』が欲しいんだよね」

「うっ」


 穏やかな笑みを浮かべている円香から、仕事のことを責められ、京香は言葉を詰まらせた。営業の人間として、何も間違っていない意見だ。

 妙泉製菓は創業九十年であり、現在は合計十六種類の焼き菓子と水菓子を生産している。老舗としての手堅さはあるが、それだけで通用するほど市場は甘くない。マンネリが続けば、他社にシェアを奪われる。それを防ぐのが、商品開発部の役割でもある。


「せめて、夏までにはね……。経営会議で姉さんが庇うにしても、限度はあるよ。突かれないように、頑張って」

「はいはい。心配してくれて、ありがとう」


 京香は嫌な気分でコーヒーを飲み干す。

 円香も、空になったカップを置いた。仕事で追いやられている状況に変わりはないが、ようやく妹が立ち去ることに、ひとまず安堵した。


「そうだ。確か、新卒入ったでしょ? 煮詰まると、フレッシュな意見に案外助けられるかもよ」

「そうかもしれないけど……あの子、今からでも営業で引き取ってくれない? ここでは持て余すぐらい、超優秀だから」


 京香が苦手だと敬遠していた両川昭子を、採用会議で押し付けたのは円香だった。あの時ばかりは、京香は円香からの悪意を感じた。

 確かに新入社員の意見は貴重かもしれないが、昭子に求める気にはならなかった。


「いやー、こっちも今の新卒だけで手一杯だよ。それじゃあ、また来るね」


 ひらひらと手を振りながら、円香が笑顔で去っていく。

 京香はげんなりとした表情で見送った。給湯室でひとりきりになると、大きく溜め息をついた。


「もう二度と来るな……」

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