episode.31 自身に宿る力

 首に掛けられた手には徐々に力が込められていく。

 睫毛が触れそうなほど間近で、ライアンはノアと相対していた。彼は一度も瞬きすらしていなかった。じわじわと首を締められていたノアが僅かに唇を開く。

 言葉を発そうとしたノアの小さな変化を彼は見逃さなかった。彼は口元に冷酷な微笑を浮かべる。下劣な笑みすら品があり、優美なものに見えるのが不思議だった。

「言ってみろ。聞いてやる」

 人を惑わす妖力を含んだような、甘さすら感じる声に導かれ、いつの間にか心の大部分を占めるようになっていた言葉が口を突いて出る。



「…………まだ、死にたく、ない……」



――自分の中に芽生え始めた、死に対する恐怖。


 いつから私は生に執着するようになったのだろうか。自分の生死など、つい先刻まではどうでも良かった筈なのに。何故、今、私は死に怯えているのか。



 その言葉を聞き届け、ライアンはノアの首から手を離す。圧迫されていた気道が突然解放される。咽帰るノアを彼は静かに見下ろしていた。

「漸く多少は見られる顔をするようになった」



 咳込んでいるノアを立たせたライアンは、ノアの肩に手を軽く乗せる。途端に、指の一本すら動かせなくなる。氷の杭でも刺されたようだった。強い圧迫感と共に、全く体の制御が効かなくなった。他人に体を自由にされることがこの上なく不快だった。


「私に何をなさるおつもりですか」

 殺気とは異なる、得体の知れない恐怖に声を震わせるノアを、ライアンは鼻で笑った。

「喜べ。貴様を私の犬にしてやる」

 この男は何を言っているのか。非難の目を向けたノアはおとがいを掴まれる。

「気に食わぬ面だ。貴様の生死は私が握っていること、ゆめ忘れるなよ」

 屈辱的な表情のノアを見て、帝国随一の魔術師は不敵な笑みを浮かべる。

「そう案ずるな。大人しくさえしておれば、悪いようにはせぬ」


 肩に手を置いたまま、ノアが着ているシャツの襟元を開く。長い爪が左側の鎖骨の下に一本の線を引く。微かな熱さを感じるその線の上に、ライアンは掌を重ねる。同時に、体の中の力を抑えていた蓋がスッと消えたのを感じる。抑制剤の強硬な抑えが外れると、押し込められていた魔力が一気に解放される。強力な薬の効果を容易く解いてしまう目の前の男に恐怖を覚えた。



「うっ…………」

 全身に何かが散っていく不可思議な感覚に気分が悪くなる。急速な変化にノアは頭痛を覚え、背後の壁に体重を預けた。動けるようになっていることから考えるに、いつの間にか全身の拘束は完全に解かれていたらしい。まるで息をする方法までも共に奪われたかのごとく苦しい。胸を手で押さえる。

「ふむ。こんな酷い魔力酔い、久々に見たわ。立っているのもやっとか。澱んだ古い魔力が体に溜まっておるからな。それにしても、呼吸の仕方から分からなくなるとは。貴様、魔力に酔いやすい体質か?」

「しりませんよ。そんなこと」


 首筋に黒々とした痣が現れ始めたことに勘付き、咄嗟に隠そうとしたノアは手首を掴まれる。

「待て。よく見せろ」

 繁々と興味深そうに痣を観察しているライアンは、新しい玩具を与えられた子供のように嬉々としている。

「ほう。お前を生かすことを選んだ私の見立ては間違っていなかった。闇の属性の魔力を持つとな。知っているか? 闇属性の魔力を持つ者は千年以上も前に絶滅したと史実に記されておる。実際その力を見ることが出来る日が来ようとは、夢にも思わなんだ」

 長々と流暢に話しているライアンをノアは睨みつけた。

「刃向かう犬ほど、懐かせる甲斐があるというものよ」

 スッと腕を伸ばしたライアンがノアの目を手のひらで覆う。

「目を閉じよ。余計な事は考えるな」

 ノアが目を閉じた事を確かめるように、瞼の上に手を滑らせる。


「一度しかやらぬ。覚えろ」

 肩に手を乗せられると、ノアの中でぐちゃぐちゃに散らばっていた魔力が糸で引き寄せられるように体の中央に集まる。ここが本来収まるべき場所であるというように、体を彷徨っていた魔力が落ち着いた。

「分かるか。これが魔力を収めた状態だ」

 それだけ言って、ライアンが手を離す。自分でやってみろということらしい。補助が無くなるとすぐに再度散らばろうとし始める魔力を、なんとか中央に押し留める。息苦しさは多少マシにはなったが、苦しいことに変わりはない。

「次だ。澱みになっている古い魔力を外へ放出し、新たなものと入れ替える。貴様、魔力を使ったことはあるか?」

「自分の意思で使った事はありません」

「古くなったものは初めて扱うには都合が悪い。手を貸してやる」



 ノアの左腕に触れ、真っ直ぐ前に伸ばさせるとライアンはふと動きを止めた。

「ついでに面白い物を見せてやる。目を開けろ」

 目を開けたノアを壁から引き剥がし、ライアンはノアの背後に回る。凭れ掛かる物を奪われた体がよろけそうになると、二の腕を掴まれ後ろに引かれた。体重を預かったライアンは、ノアの左肩に顎を乗せる。耳元から重々しい声が聞こえてくる。

しるべは示してやる。古に滅失したとされる深淵の力が再び失われるのはあまりにも惜しい」


 ライアンは一つ指を鳴らした。高らかな音が鳴ると、少し離れた場所に分厚い巨大な氷塊が完成する。突如現れた天井に届きそうなほど高い氷塊のせいで、広かった部屋が狭く感じられる。ライアンはノアの左手首に触れ、手の平を氷塊に向けさせた。


「対象物をどうしたいか、自分の中に明確なイメージを作れ。明確であればあるほど精度が上がる。今回は私が操作するがな。


 ――刮目せよ。貴様に宿る力を」


 溜まっていた魔力が、手の平を通して放出される。氷塊という的に向かって、矢を射るような感覚だった。一瞬で体の中央にあった魔力が空になる。

 濃い紫色を帯びた光が一瞬で氷塊を覆う。しかし、すぐに光は消えていった。



――何事も起こらないではないかと思った次の瞬間。



 ガラスを割ったように透き通った音を立て、氷塊が破砕されたのだった。


 いとも容易く粉々に壊されていく、巨大な壁のようだった氷塊。輝きを放ちながら、キラキラと散っていく水の粒。恐ろしい質量に対する暴力的な破壊は不覚にも美しかった。ノアは瞬き一つできずに、幻想的な様子に見惚れていた。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る