episode.30 暴かれた隠し事

 蓋の四辺の角が丸く削られている以外には人の手が加えられていない、究極的にシンプルな箱。何の変哲もない箱。


 よく見覚えがある箱を目の前に出され、背筋が凍る。上着の裏地を密かに改造し、誰も気付かないであろう所に隠しておいたというのに、何故彼がこの箱を持っているのか。

 頭の中が疑問と後悔で埋め尽くされる。しかしそれを悟られないように、ノアは表情一つ変えずに応じる。

「私の持ち物に関して、公爵様に口出しされる筋合いはありません」

 ライアンはその返答を聞き、軽く鼻を鳴らした。ノアの身体を舐めるように眺めながら、彼は悪辣に口の端を歪めた。

「お前の持ち物ならば尚更問題だ。このようなもの、の人間は必要としないからな」

「お言葉の意味を分かりかねます」


 腕を組み、前のめりになったライアンはノアの顔を覗き込む。ノアの返事を聞くつもりは微塵もないらしかった。

「答えよ。いつから使っている?」

 ノアは僅かに苛立ちを滲ませる。

「一体何の話をなさっているのですか。公爵様」

「ふむ……」

 不機嫌さを隠す事もせず、ライアンは顎に手を当てた。


 空気が凍てつく。ライアンの指に触れている桐の箱の底面に霜が張り始める。人を呑み込むことすらできそうな程の莫大な魔力の奔流をひしひしと肌で感じる。

「自分の立場が分かっておらぬようだな。随分と舐めた真似をしてくれる」

「公爵様が勝手に私の物を持ち出されたのでしょう。早急にお返し頂きたい」

 ライアンは苛立たしげに鼻を鳴らす。

「は。図々しい。貴様は聞かれた事にだけ答えろ」


 ライアンは一歩、また一歩と距離を詰める。彼は重怠そうに首を傾げた。動きに合わせ、彼の耳に付いている大ぶりの金の耳飾りが煌めき、音を立てる。僅かに動かれるだけで殺気とは似て非なる、魔力の重圧が増していく。身の危険を感じ後ずさるノアを、じりじりと壁際まで追い詰めていく。


「――頭が高い」


 威光を含む凛とした声を浴びせられる。

 健全な状態であったとしても、抵抗する事が馬鹿らしく思えるほどの魔力の圧。万物を傅ける凄まじい力。

 それは病み上がりのノアに十分過ぎる程の効果を発揮する。自然と地に膝を付き、首を垂れたノアの頭をさらに手で押さえつけ、暗黒に染まった笑みを浮かべる。

「良い眺めだ。初めから従順であれば良かったものを」

 そしてノアの耳に顔を寄せ、声を顰めた。


「此度が最後の機会だ、ヴィンセント。答えよ」


 更に圧が増す。部屋全体の温度が著しく下がり、箱だけでなく建物の壁や床に至るまで凍り付き始めている。ノアは俯き、強く奥歯を噛み締める。爪が手のひらに食い込むほどに拳を握りしめた。


「黙るか。ならば貴様の望み通り、否応無く口を割らせてやる」


 悍ましい色をした液体が入った瓶を口元に近づけられる。

 重い罪を犯した者に対して使われる強力な自白剤。飲まされた後、最低でも半日はまともに思考が出来なくなる物だった。非常に危険な物であるため、帝国内での流通は固く禁じられている。しかし、裏社会にまで広い情報網と強い繋がりを持つこの男に限っては、帝国の法すら通用しないらしい。

 弾かれたように顔を上げたノアは吠えるようにライアンの言葉を遮る。


「十三年! 十三年、前……から」



 ――魔力抑制剤の使用。



 誰にも知られたくない事だった。知られてはいけない事だった。ずっと隠して生きていくつもりだったのに。


 魔術に関わる者は遠縁にも一人たりとも居ないのに、自分だけが持ち合わせてしまった恨めしい力。全く自分の身の丈に合っておらず、自分には手に余る力。もし人に知られれば厄介なことになるに違いなかった。


 魔力を持つ者は特別な存在だ。

 古来から魔術家以外に魔力を持つ者が産まれた場合には、魔力を持つ事が判明した時点で一人残らず行方を眩ませている。生死すらも不明である。魔力を持つ事が知れた時点で大事になるのは確かだった。人に魔力を持っている事を悟られない為には常に抑制剤が手放せなかった。

 しかし、長年絶えず服用し続けているせいで効かなくなってきており、効果に対して割に合わない副作用の影響を体が強く受けるようになり始めていた。




 ライアンは声を顰めたまま続ける。依然として圧は感じるが、凍り初めていた部屋は何事も無かったかのように元の様相を取り戻している。自白剤もノアが知らぬ間に、何処かへ片付けられていた。

「十三年だと? 十三年もこれを使い続けてきたのか?」

 ノアは視線を斜め下に投げたまま答える。

「……いいえ。初めは弱い物で十分でした。次第に効きが悪くなっていき、その度に強い物に変えていく必要がありました」

「これ以上に強い薬はない」

「存じております」

 今の薬が効かなくなれば……。その後のことは考えたくもなかった。

「体が薬に耐えられるのは、長く見積もってもあと半年だ」

「そうですか。どうか、今だけ知らなかったことにしては下さいませんか。魔力を持つことが知れた時点でどのみち私は」


 ライアンは異様に低い声でノアの言葉を遮る。



「――よく分かっておるではないか。そうだ。貴様は死ぬだろうよ」



 俯いていたノアはゆるりと顔を上げる。ライアンは声を抑えたままノアに告げる。長い爪でノアの喉を撫でた。

「これまでの例に漏れず、お前に魔力があると何処からともなく聞き付けた魔術師達は、如何なる手を使ってでもお前を殺そうとするに違いない」

 ライアンはノアの首に白い手を掛ける。ノアを逃してはくれない、淡い水の色をした瞳からは何の感情も読み取れない。


「魔術師達を統率しているのは、この私だ。貴様を生かすも殺すも、私の判断一つ――」


 抑揚のない声で宣告する。それから、首筋を通っている太く青白い血管を指で辿り、位置を確かめる。

 今までに何度も戦地に赴き、必要とあらば自身も手を血で汚してきたノアは他人の殺気に敏感だった。目の前の彼が、幾度となく自らの手を汚した経験がある者だということはノアの本能が察していた。背筋が泡立つ感覚を覚え、ノアは息を呑んだ。

 そして、今まで自分の中に存在した事がなかった『ある』気持ちが、湧き上がっていることに気付き驚く。ノアは動揺し激しく瞳を揺らす。



「安心しろ。貴様のこれまでの功績に免じて、楽に逝かせてやる」

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