episode.32 過ぎ去りゆく嵐

「魔力酔いは治ったな」

「はい」

 ノアは全ての魔力を放出したせいで、虚脱感に襲われていた。古い魔力と入れ替わり、体の中が冷涼な魔力で満たされていく。ノアの体内にあったものとは比べ物にならない、桁外れに純度が高く、それでいて澄み切った魔力だった。


「これは……?」

「私の魔力を貸してやっているのだ」


 突き放すように冷たく、当然のように体の中に傲慢に押し入って来る最上の魔力を、ノアは従順に受け入れていた。

「まるで魔力に公爵様のお人柄が反映されているかのようですね」

「ほう。減らず口を叩く余裕があるとな。些か甘やかし過ぎたようだ」

 体内が十二分に魔力で満たされ、体の自由が効くようになったノアはライアンに預けたままだった体を起こした。一歩前進したノアの肩がぐっと引き戻される。

「何処へ行く。まさか。終わりだと思っているのではあるまいな?」

「はい?」

 間の抜けた声を上げるノアに、ライアンは愉悦の笑みを向ける。

「飼ったばかりの犬は直ぐには懐かぬ。主に牙を向けぬようにする為には、時間をかけて可愛がってやらねばならない。そうだろう?」



 数時間後。ノアは唸り声をあげていた。

「何を怠けておる。最優の剣の使い手のくせに、この有様とは情けない。早う立て」

「今日初めて、魔力の扱いについて知った人間にやらせることではないですよ。これ」

 何十回も体内に魔力を注ぎ込まれ、その度に様々な使い方で放出させられた。魔術の用途の多様さには驚くものがあった。しかし魔力を使うことに慣れていない体には疲労が蓄積していく。


 抜け殻と化しているノアの腕が易々と引き上げられる。ノアはゾッとした顔でそれを成した背後の男を見る。ノアに幾度となく魔力を与え続けているにも関わらず、調子が衰える兆しすらないこの男の体は一体どうなっているのか。無尽蔵の魔力でも持ち合わせているのか。


「化け物……」

「ほう。よく聞こえなかった」


 逆鱗に触れたらしく、氷よりも冷えきった魔力で雑に体内を満たされる。鈍い声を漏らしたノアは、無慈悲な事で名高い彼から非常に丁寧に扱われていたことに初めて気付いた。

 全く精製されておらず、荒々しい魔力は耐え難い痛みを与える。ライアンの前ではひたすらに無力なノアはただ彼の手の平で転がされていた。

「失言をお詫び致します公爵閣下」

 ノアは早口で言い切る。ライアンはノアの顎を掴み、横を向かせると、酷薄な笑みを浮かべる。本当に治癒術師なのかと疑いたくなる、慈悲のかけらすら感じられない薄青の目で威圧する。

「ほれ。続けるぞ」

「今日はもう……」

 頑なに首を横に振り必死の抵抗を続けるノアに、ライアンは不満気に舌打ちをした。

「つまらぬ。私はまだ遊びたかったというのに。今度は私の気が済むまで付き合わせてやる」

 聞き違いかと疑いたくなる言葉が最後に聞こえた気がしたが、ノアは気のせいだと思い込むことにした。

 ライアンは袖口から薄い桐箱を取り出すと、ノアに押し付けた。ノア自身すっかり忘れていたが、事の始まりは、この桐箱の所持の発覚なのである。返された桐箱を両手で受け取る。



 用は済んだと言わんばかりに、彼は気怠げに手を横に一閃し空気を払う。彼の周囲の空間が不自然に歪み始める。歪みの中に身を置きながら、ライアンは一度ノアの方を振り返った。


「言い忘れるところであった。一つ、娘に伝えておけ。

 

『その星からは決して逃れられぬ』とな。

 

 否が応でも、近いうちに意味が分かるだろうよ」


 それだけ言い残し、ライアンの姿は歪みと共に消えていった。



 突然やってきた嵐が去り、ノアは桐箱と共に部屋に残された。

 疲れ切っていたノアは近くにあった机に腰を下ろすと、目まぐるしく進んでいった出来事を思い返す。半日前には命の危機に瀕していたというのに。そのことがとうの昔に思える。何度も魔力を扱う経験をしたおかげで、魔力の制御を自分で出来るようになっていた。


 ノアは胸に手を当てる。

 自分の中には冷たい魔力の存在が感じられた。十二分な程に注がれた魔力で体が満たされている。所々に垣間見えるライアンの優しさにこそばゆい気持ちになる。ノアは気が抜けたようにふっと笑った。

 一応中身を確かめておこうと、手に持っていた桐箱の蓋を取る。そして、中に入っているものを見るやいなや、ノアは蓋を手に持ったまま硬直した。


「…………これは」


 中に入っていたはずの薬瓶が、一つ残らず無くなっていたのだった。


 薬瓶の代わりに、箱の中には更に一回り小さな箱が入っていた。簡素な桐箱とは正反対に、艶やかで高級感が漂う漆塗りの木箱である。箱の上面には、百合の花を基調としたオルクレイル公爵家の紋章が彫られている。ノアは恐る恐る木箱を開けた。


 現れたのは、純金製の細いブレスレットである。


 繊細な煌めきを放つブレスレットをそっと手に取ったノアは目を瞠る。ブレスレットの中央に、美しい乳白色の石が嵌っていたからだ。


 複雑な色彩をしており、一見濁っているように見える石は微量の魔力を含んでおり、陽の光を浴びせると不思議な原理で透き通るようになる。それは公爵領でしか産出されない大変貴重な石で、巷には一切出回っていない品である。その存在は誰もが知っているものの、皇族すらもなかなか手に入れる事ができず、幻の石と呼ばれているほどだった。


――オルクレイル公爵家当主が直々に認めた者のみに与える、稀有な品。



 ノアは困惑していた。

 ライアンがこの上なく貴重で価値が計り知れない物を自分に渡した理由が分からなかった。ノアはブレスレットに傷を付けないよう、細心の注意を払いながら箱に戻し蓋を閉める。

「……これはお返しせねば。私が頂いて良いものではない」

 額に手を当てたノアは深い溜息を吐いた。

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