2話 「空白の宿木」
微睡みの中で、ルカはゆっくりと目を覚ます。
ルカのために与えられた個室は質素で物が少なく、ベッドの質がとてもいい。ふかふかで暖かい毛布の中に包まったまま、ルカは完全に目覚める前のふわふわとした意識に身を委ねていた。
「ルカ」
「……局長さん」
「おはよう、ルカ」
局長の言葉に、ルカはのそりのそりと体を起こして伸びをする。そしてあくびをしながら局長に挨拶を返した。
「おはようございます」
「ああ。こっちにおいで、朝食ができているよ」
ルカは局長に手を引かれながら食堂へ赴き、食卓につく。今日も見たことのない料理が並べられていた。いただきます、と手を合わせてからルカは朝食に手をつけた。
ここに来てからは目まぐるしい日々だった。起きたらまず検査をされ、朝食を取る。その後でもう一度検査をされ、検査の一環だと言い簡単なテストを行われる。最近はもっぱら、それの繰り返しだった。
「研究は行わないんですか?」
最初に聞かされていた研究とやらは、まだ一度もされていない。ルカがそれを不思議に問えば、局長はああ、とルカの頭を撫でた。
「研究の前には精密な検査を重ねなければならないからね。検査が終わったら、研究に入るつもりだよ」
それは一体どんな研究なのだろう。ルカは自分では想像もつかないな、と思いを馳せながら食事を終えた。ご馳走様、ともう一度手を合わせる。
「おーい」
職員の誰かがルカと局長の元へやってくる。その手には白いケースを持っていた。
「ルカ、君の服が出来上がったよ。着替えさせてあげるからこっちへおいで」
ここにやってきてから今まで、ルカは仮の服としてずっと病衣を着ていた。
薄っぺらい病衣は心許なく落ち着かないし、ちゃんとした服が着られるのならそれに越したことはない。ルカは快諾して職員の後についていく。
大きな鏡が置かれた部屋で、ルカは数人がかりで職員のされるがままに着替えを施されていった。
純白のワイシャツのような襟のある大きめの服に、フリルやレースがふんだんにあしらわれている。腰から下げられている大きな白いリボンは、たれの部分がフリルのように幾つもプリーツがおられて白い刺繍とレースがふんだんにあしらわれていた。
日常使いで着るには少々豪華すぎる服に、ルカは裾を持ち上げて戸惑うように職員と局長を見た。
「あの。ちょっと……いやかなり、豪華すぎる気がするんですけど……」
「心配はいらないよ。見た目よりも頑丈な作りになっているから、鳥籠で暮らす分には何も支障がないから、安心して。研究の時は専用の服に着替えてもらうから、何も心配することはない。ほつれたらすぐに言いなさい、ちゃちゃっと直してあげるよ」
鳥籠で暮らす分には問題がないということは、不意に外に出ないように動きを制限する役割もあるのだろう。ルカは職員の言葉に頷き、素直に受け取ることにした。
こうしてみると、少しだけここにも馴染んできた気がする。元々ルカは前の世界で三千年という時を生きてきたおかげで思考が成熟しており、どこでも馴染める順応性も持っているのだ。
「ルカ、きつい部分はないかね? 動きにくくはないかい?」
いつも優しくしてくれる局長。無意識のうちにおじいちゃん、とルカは口にした。
「あ」
ルカはしまった、といったふうに口元を抑える。そんなルカに対して、局長は優しく微笑んだ。
「いいよ、好きに呼びなさい」
「……おじいちゃん」
ルカがもう一度その名を口にすれば、局長は満足そうに頷いた。
「君は特別な存在だ。困ったことがあればなんでも言いなさい」
局長はルカの頭を優しく撫でて笑う。この人が本当の祖父だったらよかったのに、とルカは思いながらそれを受け入れていた。
空白の宿木。物語のかけらや来訪者を研究するために建てられたこの場所は、見た目と違って広々とした空間が広がっている。
外観と内装の大きさが明らかに違うこの施設は、さまざまな機能を持った区間で区切られている。
大きな棟で分けられた区間は、大きく分けて五つある。来訪者たちを収容する「鳥籠」に、解剖や実験を行う「研究室」と実験中の検体を収容する「フラスコ」に加えて出来上がった成果などを一定期間飾っておく「標本室」がある。そして施設の中には、実態がまちまちと変わる「遊技場」がある。そこは上位存在たちが来訪者と遊ぶための重要な場所だった。
「遊技場?」
職員から話を聞いていたルカはこてんと首を傾げる。職員は少し興奮した様子でルカに捲し立てる。
「そうそう! 上位存在さまたちがいつか君に会いにくるからその時はよろしくね。なにせ君が来るまで使ったことのない場所だったから。どんな遊びを君と上位存在さまはするのかな」
「この施設は物語のかけらを研究するために建てられた場所なんでしょ? 僕が来るまで誰も来なかったの?」
ルカの疑問に、職員たちは神妙に頷いた。
「そうなんだよ、君が来るまでこの場所は──空白の宿木は、ちゃんと機能が活用されてなかった。いつ君たちが来てもいいように準備として紛い物の研究はしてたかな」
「紛い物?」
「そう。黒い森に流れ着くかけらたちを集めて調べて解剖して……来訪者のように人格を持たない朧げな記憶のかけらだし、すぐに壊れて無くなってしまうから結局そこから物語の痕跡は取り出せなかったけれどもね」
「へぇ……」
「もし気になるようだったら、局長に掛け合って保存庫を覗かせてもらうといいよ」
「……前々から思ってたけど、あなたたちもおじいちゃんも僕に甘くないかなぁ……?」
少しだけ心配そうにルカは職員に問う。職員が何かを言いかけた時、上から局長の声が降ってきた。
「君は最初の来訪者だからね。多少甘くなっても仕方がないさ」
「あ、おじいちゃん」
「局長」
局長の姿を見たルカは、嬉しそうに局長に駆け寄っていく。
「ルカ、おいで」
局長はルカの手をそっと握る。ルカも局長にされるがまま、職員に手を振りながら手を引かれていく。
「じゃあ、またね。またいろんなお話をしようね」
「ルカ君、行ってらっしゃい」
「いってらっしゃーい」
二人の姿が完全に見えなくなった後で。職員たちは思い思いの感想を述べてはしゃいでいた。
「ルカ君も局長に懐いているように見えるけどね」
「ね。かわいいよね」
「かわいいねぇ」
職員たちは一斉に頷きあった後に、それぞれの職務に戻っていった。
一方その頃。ルカの小さく柔らかな手を握っていつも通りの道を連れていく局長は、不意に口を開いた。
「ルカ。もう私が怖くはないか?」
「え?」
「ほら、最初は戸惑っていたじゃないか。今はもう大丈夫かな?」
「……ああ」
ルカはすっかり忘れていた、といった風に頷いて言葉を返す。
「僕、前の世界では長い間ずっとみんなを見守ってきたんです」
ルカの話を、局長は相槌を挟みながら静かに聞いている。
「それが嫌だったわけではないんだけど……こうして素直に甘えられるのが新鮮で楽しいかな、って最近は思ってる。……おじいちゃんが、僕の本当のおじいちゃんみたいで」
物語のかけら──ルカにとっての前の世界では、ルカは神の眷属であり原初の「赤い瞳」であり、救済の国クロレスの元帥である。遥か昔に政治からは引退しているが、救済の国クロレスには欠かせない存在だった。
不老不死であり時止めの青き蝶として長い間人々の営みを見守り手を差し伸べ、あの世とこの世を繋ぎ均衡を保つ魔法使いとして暮らしていた。
それは三千年という途方もない長い時。ルカはそんなにも長い時の間を、誰かを助け続けながら生きてきた。
ルカの話を聞いて、局長はなにやら頷く。
「頼ってくれて私もとても嬉しいよ。これからも思う存分甘えなさい」
「……、それなら、ひとつだけ」
ルカは少しだけ言いにくそうに口を閉じたり開いたりしながら言葉を選んで、やがて独り言のように願いを呟いた。
「会いたい人がいるんだ。……いつか彼も、ここに来てくれるかなぁ」
「ふむ。確証はできないが、できる限りのことはしよう」
局長が返事を返せば、ルカは握っていた手をぎゅっと握り返す。局長はさらに言葉を続けた。
「もしよければ、その人の話も聞かせてくれると嬉しい。もしかしたらルカの力になれるかもしれないよ」
「……うん」
ルカはぽつりぽつりと、最愛の人や己の片割れのことを口にする。局長はルカの口から語られる物語を、検査室についてからもしばらくの間ずっと聞いていた。
検査が終わって、少しだけ休憩をした後で。局長に連れられるがまま、ルカは「鳥籠」に戻ってきた。
「いいかい、ルカ。何度も言ってるからもう覚えたとは思うが……」
「『鳥籠』の外に出てはいけない、でしょ?」
ルカの返答に、局長は満足そうにルカの頭を撫でる。
「いい子だ。この世界は曖昧がゆえに危険も多い。鳥籠の中は安全が保障されているからね。もし足りないものや欲しいものがあれば職員に言いなさい。できる限りのことは叶えよう」
「ありがとう、おじいちゃん」
ルカは局長に手を振って見送った。局長と別れてからルカは食堂に戻ってくる。
広々とした最低限の職員以外誰もいない空間は、ほんの少しだけ寂しい。
「……いつかここも、賑やかになれば嬉しいな」
ルカはテーブルを撫でて、寂しそうに笑っていた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます