1話 初めて君がきた夜のこと

 真夜中と深い海の底が混じったような、青くて暗くて白い箱庭。小さな世界を囲む森はほの暗く生い茂り、森の中にぽっかりと穴を開けるように、小さな村が四つ円を書くように点在している。

 黒い森と村に囲まれるようにしてそびえ立つ、不自然なまでに白い施設がある。「空白の宿木」と呼ばれているそこは、研究所と病院の真ん中くらいの印象を与える場所だった。

 この箱庭で「人間」と呼ばれる朧げな存在たちは、施設に捧げるために森の中を徘徊して煌めくものを探している。そう、この世界には物語というものが存在しなかった。

 ただ命令されるままにかけらを集める、意志のない存在たち。上位存在は彼らを支配して保護しながら、この場所を管理している。

 ある日そこに、白髪の少年が運び込まれてきた。森の中で発見されたという彼は、淡く光る青い蝶の群れとともにわずかな光を纏っている。

 研究員たちに引き渡された少年は、確かな体温がなければ人形だと勘違いされていただろう。それほどに美しく、儚くて脆かった。

 白衣を着た老人が、少年の姿を確認して歓喜のため息をつく。

「これが……話には聞いていたが、本当に存在するとは」

「局長、奇跡ですね」

 研究員や職員たちも高揚感を隠せない様子で少年を眺めた。研究員の言葉に老人はそうだな、と頷いた。

「そっと連れて行こう。みんな、頼んだよ」

 局長の合図とともに、研究員たちは目を爛々と輝かせて白髪の少年を取り囲む。やがて少年は台に乗せられて施設の中へ運ばれていく。

「……、あの」

 一言も声をかけられず放っておかれた、白髪の少年を発見してここまで運んで報告をしにきた人間。職員は人間を一瞥してそっけなく言い放った。

「ああ、まだいたのか。お前は帰っていいよ」

 発見された希少な少年と、何も持たない人間。研究員にとっては扱いに差が出るのも無意識のうちの行動であり、他意など全くなかった。

「……はい」

 見つけた賞賛も運んできた礼もなく、ただぞんざいに言葉を投げかけられた人間は一言だけ言葉を紡ぐ。

 人間は、職員に追い払われるまでずっと煌めく白髪の少年を目で追っていた。


 閉鎖された研究室の中。少年の眠る台の周りを囲むように研究員たちは並んでいる。上座に座っていた白衣の老人──この施設の最高責任者である局長が口を開いた。

「彼こそが『物語のかけら』だろう。そしてここに来た最初期の来訪者にもなる。丁重に扱わなければ」

 この施設のリーダーである局長はまじまじと少年を見る。

「しかし。本当に物語のかけらを招くことができたとは」

 局長や職員、研究員たちの視線を浴びても少年は目を覚さない。まるで人形のように静かに眠ったまま、胸元を呼吸に合わせて動かすだけで身じろぎひとつ起こさない。

 これはむしろ都合がいい、と局長は思った。彼が眠っている今のうちに一通りの検査をしてしまおう。

 局長の合図で職員たちは各自やるべきことのために動き出した。

 ──物語のかけら。それはこの空っぽな王国が最も焦がれる存在であり、それを追い求めるためにこの施設「空白の宿木」が生まれたと言っても過言ではない。

 外なる世界には必ずあるという、人々が生きてきた証である物語。それがこの箱庭には決定的に欠けていた。だからこそ、彼らは外なる世界の物語のかけらたちを渇望し追い求め研究するのだ。自分達にない、憧れを追い求めて。

 やりたいと思っていたことのうち、必要な検査はすべて終えた。それによりこの少年がどんな人物でどんな物語を紡いできたのか、その輪郭が朧げながらも見えてきた。

 ルカ。それが少年の名前らしい。彼は物語の中では救済の国クロレスを興し、三千年という長い間を生きた不老不死の魔法使いだという。

 詳しくは彼が目を覚ましてから話を聞く必要があるが、軽く調べただけでこれだけの情報が出てくる。どんな物語を紡いだのか、彼は何を思って長い時を生きてきたのか。研究員たちの興味は尽きることはない。

「しかし、局長。これだけ検査をしたのに目を覚ましませんね」

 研究員の誰かが、不安そうに少年を見る。それもそのはず、物語のかけらと呼ばれる来訪者は彼が初めてなのだ。経験も知識もまだ足りない中で試行錯誤を強いられている研究者たちは、それでも爛々と目を輝かせて少年を見つめている。

 時間だけは無限にある。長年進めてきた下準備のおかげで、物語のかけらである少年が壊れても復元する方法は確立している。だからこそ局長は大胆な方法をとった。

「何かが足りないのかもしれないな。……そうだ、あの時作った薬品を使おう」

 局長に指示をされて、研究員は少年の腕に点滴の針を指す。ぽた、ぽたとゆっくり流れていくそれは、昔拾った褪せたかけらを抽出する際に偶然できた気付け薬だった。

「……、ん……」

 ようやく少年が目を覚ます。彼の瞳は柘榴と空を溶かしたような、色違いの瞳を持っていた。

 朧げで眠そうだけれど少年の瞳にある確かな煌めきに、研究員たちは歓喜のため息をこぼす。

 もし、物語に出て来る魔法使いというものを思い浮かべるのなら。それは彼にこそ相応しいと誰もが実感していた。


「……え、あれ」

 白髪の魔法使いは目を覚ます。そこは、何もない白い部屋だった。

 どうして自分はここにいるのだろう。困惑と疑問は尽きることがない。

「おはよう。気分はいかがかな」

 戸惑って辺りを見渡していると、唐突に声がかけられた。

 いつのまにか、そこには白衣を着た老人と白衣の人たちが自分を取り囲むように立っている。再び、老人から声をかけられる。

「初めまして、来訪者。私はここの施設『空白の宿木』の局長だ」

 聞きなれない単語をいくつも並べられ、少年はおうむ返しに繰り返す。

「来訪者、施設? ここはいったい……僕はなんでここに」

「その前に、君の話を少し聞かせて欲しい。返答次第で説明が変わってくるからね」

 ここは大人しく従ったほうが良さそうだ。少年はおずおずと頷く。素直に従う少年を満足そうに頷き、局長はカルテを片手に少年に幾つか質問を投げかける。

「君の記憶はどこまである?」

「僕は自分の国……救済の国クロレスで魔法使いをしていました」

「ここに来る直前の記憶はあるかね?」

 そう言われて、少年は少し考え込んだ。昔の記憶は鮮明に思い出せるのに、ここに来る直前──もっと言えば少し前の記憶が、ごっそり抜けていたのだ。

 自分はどうやってここに来たのか。皆目見当もつかない記憶に、少年は戸惑って口ごもる。それを察した局長は、もう一度頷いて何かをカルテに書き込んだ。

「わかった、ありがとう」

 あらかた欲しい情報を聞き出した局長は、少年に説明を始めた。

「ルカ。ここは君の暮らしていた世界ではない。この施設は『空白の宿木』と呼ばれる場所でね。君たち『物語のかけら』を招き入れるために建てられたんだよ」

 聞き慣れない言葉をたくさん聞いて、少年──ルカは思わず黙ってしまう。ルカの様子に構わず、局長は話を続けている。

「今からここが、君の新しい居場所だ」

 いきなりそう言われても、ルカはいまだに話も状況も飲み込めない。それを見た局長は、ゆっくりと言葉を投げかけた。

「まだ何も理解しなくていい。時間は十分にある。これから少しずつ、わたしたちの理解を深めていこう」

 老人は笑ってルカに手を差し出した。

「ルカ。一番最初の来訪者。私たちはあなたを歓迎します」

 ルカは少しだけ迷ってから、老人の手を取った。

「……、よろしくお願いします」

 ルカの返答に、職員たちはわっと湧き上がる。

「ああ、そうだ。君が眠っている間に少しばかり検査をさせてもらったよ」

「はぁ……」

 そう言われても、ルカにはいまいちピンとこない。それでも構わず局長は続けた。

「最初期にやってきた物語のかけらであり、この箱庭に落ちてきた来訪者。物語のかけらは……そうだな、『柘榴のゆめ』とでも仮定しておこうか」

 柘榴のゆめ。聞いたことのない単語だが、どうしてかルカには一番馴染みのある言葉に聞こえた。

「さあ、これからどんな研究をしようか。楽しみでならないよ」

 研究。その言葉に少しだけルカは不安になる。ルカの不安を取り除こうと、局長は言葉を重ねた。

「安心するといい。ここでは君は丁重に扱われる」

「……痛いことがないなら、それでいいです」

 とうとう、ルカは考えることを諦めた。なにせ三千年の時を生きてきた不老不死の魔法使いなのだ。突拍子のない事態には慣れている。記憶も確かではないしどこかへ行くあてもないのなら、彼らに身を委ねてしまえばいい。ここで暮らしていく中で、自分のやりたいこと、やるべきことを探そうとルカは決めた。


 鳥が海の中を潜りながら飛び、魚が空を泳ぐ。それを不思議そうに眺めながら、ルカはぼうっと窓の外を見る。

 魚が空中を泳ぎ鳥が水中を飛ぶ、夜と深海が混ざったような深い青色の景色。青色に遮られて遠くが見通せないが、あの向こう側にはどんな世界が広がっているのだろうか。

 唐突に、皺だらけの手がつるりとした硝子窓を撫でた。

「外に出てはいけないよ」

「……局長さん」

 ルカが振り返ると、そこには穏やかな顔をした局長が立っていた。

「君が自由に過ごしていいのは『鳥籠』までだ。それ以上外に出ることは許可できない」

 局長はルカの隣に並んで窓の外を見る。窓から視線を外さないまま、局長はルカに言った。

「この場所はいまだに安定しなくてね。君がやって来たおかげで鳥籠は安定しつつあるが、施設の中でも空間が捻じ曲がっている場所がいくつかあったりする。だから外に出てはいけないよ」

「わかりました」

 そこまで噛み砕かれた説明をされれば、わざわざ危険を冒してまで外に出る気もない。ルカは頷いてもう一度窓の外を見る。

「それにしても、幻想的で綺麗ですね」

「この景色は、私も気に入っているよ。心が安らぐ」

 ここも案外、悪くない場所なのかもしれない。二人はしばらく、窓の外を見つめ続けていた。

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