第9話

 えっ、かわいい……。


 駅の改札を抜けると奏がいた。胸の前で腕を組んで仁王立ちしている彼女を見て、思わず心の中で呟いていた。


 奏は黒パンツにミニ丈の黒パーカー、グレーのへそ出しタンクトップという優太朗が最も苦手とするファッション――つまり恐怖で童貞を殺す服を着ているのに、恐怖より先にかわいいがくるなんて重症だ。


「へ!? あ、ありがと……」


 奏は驚いた後、頬を赤くして視線を逸らした。かわいいって声に出ていたらしい。優太朗は慌てて否定した。


「あっ、今のは違……」


「否定しないでよ、彼女なんだから」


 奏は顔をしかめて言った。


「ま、いいけどね。本音だって分かるから」


 彼女はこっちを見ながらニヤニヤと笑った。バカにされているはずなのに、なぜか全然嫌な気持ちが湧いてこなくて、恥ずかしさばかりが募った。


「大丈夫、ゆうゆうもちゃんとかっこいいよ」


 お世辞にもならない雑なフォロー。なのに嬉しいと思う自分がいた。


「じゃ、行こっか」


 いつものように先に歩きだす奏。優太朗は彼女の側に駆け寄りたい気持ちを抑え、ゆっくりとついていった。


 15分くらいで着いた奏の家は、よくある普通の一軒家だった。


「さあ、どうぞっ」


 奏がドアを開けて招待してくれるので、優太朗は「お、お邪魔します」と呟きながら、恐る恐る中に入った。


「こっち~」


 奏がスタスタと階段を上っていくので、優太朗はその後についていく。


 当然見上げる形になる。強調される臀部にキュッと引き締まった腰、揺れる金髪。小麦色の肌にわずかに食い込むタンクトップがクロップドパーカーから見え隠れするフェチシズム。思わず優太朗は生唾を呑み込んだ。


 ゴクッと思ったよりも響いたその音が聞こえたのか、奏が振り返った。そして、


「むっつり」


 半眼で優太朗を責めた。


 新しい扉が開いた気がした。優太朗は熱くなった顔を彼女に見られないように下を向いた。


「ここで待ってて。ジュースとか持ってくるから」


 優太朗を部屋へ案内した奏は、またすぐに階段を下りていった。取り残された優太朗はキョロキョロと部屋を見回す。女の子の部屋なんて初めてなんだからしかたない。


 奏の部屋はごく普通の女の子らしい部屋だった。枕元にぬいぐるみが一つ二つ置いてあって、本棚には少女漫画が並べられていた。ギャルらしいヒョウ柄やショッキングピンクの類いはなかった。


 かえってそれが優太朗の心を落ち着かなくさせた。女の子の部屋に来ていると実感すると余計にソワソワして、心臓がバクバクしだした。


 このままでは体が持たないので落ち着くために深呼吸をする。


 スーハー、スーハー。


「なにしてんの!?」


 いつの間にか戻ってきていた奏が驚きの声を上げた。見ればジュースとお菓子の皿を載せたトレーを持った状態で入口の所で固まっていた。


 まずいと思った。この状況。女子の部屋の空気を吸い込む妖怪に見えなくもない。


「あっ、これは、違っ……」


 慌てて否定しようとするが、その前に奏が言った。


「気持ち悪っ」


 ストレートな罵倒が胸に突き刺さり、優太朗の中で開いていた新しい扉が勢いよく閉まった。今後の高校生活三年間ずっと妖怪としていじめられることが確定して絶望した。


「ごめん、言い過ぎたかも」


 奏の呟きに優太朗は藁にも縋る思いで彼女を見上げた。


 すると彼女は顔を少し赤らめて目を逸らしながら言った。


「そういう事したい気持ち、アタシも分かるし」


 え?


 衝撃の事実に呆然と奏を見つめていると、彼女はいつものように表情を一変させてキッと優太朗を睨んだ。


「違うから!ちょっと思うってだけで、ゆうゆうみたいに本当にやったりしないから!」


「……ですよね」


 そりゃそうだ。優太朗の匂いを嗅ぎたい女子なんているわけないし、そもそも彼女は罰ゲームで優太朗と付き合っているのだから、どれだけ優太朗に都合のいいことを言ったとしても、それは全て演技だ。


 昨日彼女という沼にこれ以上浸からないようにしようと精神統一したのに、さっそく両足沈むところだった。


 ふぅー危ない危ない、と一息ついて額の汗を拭ったが、危機はまだ去っていなかった。


「もうっ」


 トレーを机に乱暴に置き、コップと皿を並べた奏は、


「ほら、映画見るよ」


 机に置いたスマホスタンドにスマホを横向きに置いて優太朗の隣に座ってきた。甘い匂いがして、優太朗は一瞬で沼に引きずり込まれた。


「テ、テレビで見ないんですか?」


「リビングにあるけど家族が帰ってきたら気まずいじゃん。パパとか」


 テレビなら離れて見ることができるという優太朗の望みはすぐに打ち砕かれた。


 でも不幸中の幸いというべきか。ギャルの親父はヤンキーだと相場で決まっているので絶対に手出しできない、という考えが頭を冷やしてくれて冷静になれた。


 じゃあ始めるよ、と映画の再生ボタンを押した奏は、よいしょとお尻を動かして座り直した。


 結果二人の間の距離は潰れ、体が密着することになる。肩や太ももから柔らかな感触が伝わって優太朗はまたガリガリと理性を削られる。


 まずいまずいまずいまずい。


 エロイムエッサイム、エロイムエッサイム、南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏。


 正気を保つために両手を合わせて神仏に祈願した。


「今日おかしいよ。何かあった?」


 奏に眉をひそめられたので両手を離す。


「後で感想聞くからねっ、ちゃんと見てよ!」


 その声にはたしかに苛つきが含まれていた。


 それを敏感に感じとった優太朗は縮み上がった。最近は奏に絆されて忘れていた。優太朗はギャルの恐ろしさを思いだし、冷や汗を滝のように流した。


「……すみません」


 震える声で謝罪し、映画に集中することにした。


 映画は少女漫画を実写化したものだった。優太朗は漫画ならなんでも読む。数は少ないが少女漫画も読む。この映画の原作はたまたま読んでいた。


『俺で妥協しない?』


 主人公の女の子は幼馴染みに告白してフラれ失恋してしまう。校舎裏で泣いていると、隣に座った学校一のモテ男がこう言う。「俺で妥協しない?」


 最初はからかわれていると思って本気にしない主人公だったが徐々に惹かれていき……というゴリッゴリの少女漫画的なストーリーの作品だ。


 ドキッとするシチュエーションや両片思いの描写が多くて胸がキュンキュンと締めつけられる作品だ。原作の甘々でキザキザな行動を現実の人間がするとどうなるのか優太朗は興味があった。


 これなら最後まで集中して見れそうだと思った。


 残念ながら思っただけだった。集中できたのは最初の数分だけで、すぐに横が気になった。


 奏が意識的にやっているのかどうかは分からないが、彼女は普通に座るより明らかに密着していた。そのため彼女が身じろぎする度にその感触がダイレクトに伝わってきて、全神経が右半身に集中した。そのせいで彼女の息づかいまで聞こえるようになって頭が沸騰しそうになった。


 奏はどうなのだろうか。こんなに密着して気にならないのだろうか。気になって横目に見ると彼女は熱心に画面を見つめていた。


 自分は眼中にないんだなと残念に思う暇もなく見惚れた。しっとり輝く瞳に覆い被さる長い睫毛まつげ。ふっくらした頬には赤みがあって、ほんのわずかに開いた唇には艶があった。何かに夢中になる彼女の横顔は美しかった。


 ふと奏がこちらを見た。目が合って睨まれたので慌てて前を向き映画を見る。


 数分するとまた横が気になりだし、いかんいかんと前を向く。


 何度も繰り返すうちに、いつの間にか映画が終わっていた。


「はぁ~終わったぁ」


 奏は満足げに背を伸ばした。優太朗はとりあえず無事に映画を見終わったことにほっと一息吐いた。


「面白かった?」


「お、面白かったです」


「ほんとに?」


 奏はひざを抱えながら不安げに眉を寄せた。


「は、はい。バックハグするところとか冴木君が昔からずっと主人公のことを好きだったことが分かるシーンとかラストの『私で妥協しませんか?』って主人公が言うシーンとかよかったです」


 映画は半分くらいしか見れていないが原作を読んでいるのでストーリーは理解している。漫画を読んだ時の記憶を呼び起こして無難に話を合わした。


「よかったぁ」


 奏は緊張が解けて弛んだ笑みを浮かべた。


 とてもかわいいと思った。自分の好きな映画を褒められて喜んでいるだけだと分かっている。ここにいるのが他の誰でも同じ反応をするはずだ。なのに胸がぴょんぴょんと飛び跳ねた。


「男役の俳優くっそかっこいいし、ヒロインもかわいいし、ストーリーめっちゃキュンとして最高っ!」


 分かっていたことなのに、自分と真逆のイケメン俳優を褒めているのを見て、やっぱり僕なんか眼中にないんだなと改めて実感して悲しくなった。


「また見たいね」


「は、はい……」


 奏は甘ったるい笑みを浮かべた。本当にそうだったらいいのにと思うが、これは罰ゲームだ。二度目はないだろう。そう思うと胸がせつなくなり、苦しかった。


「駅まで送ってくよ」


 玄関先で奏は寂しげにはにかんだ。そして先へ歩きだした。優太朗は思わず立ち止まった。


 なんでそんな風に、まだ一緒にいたいみたいな表情をするのか。これ以上好きになったらいけないのに、どんどん好きになる。これ以上はもう耐えられない。


「好きです」


 不思議そうに振り返った奏に優太朗は慈悲を乞うように告白した。


 奏は罰ゲームで優太朗と付き合っている。デートして手を繋いであーんもした。なのにまだ交際は続いている。いつ終わるのか。それはきっと優太朗が惚れたらだ。


 ドッキリは相手が本気で信じ込んでいないと面白くない。ネタバレしていたら興ざめだ。交際していると信じ込んで本気で惚れたところで現実を突きつけ、ショックを受ける優太朗の表情を哄笑するつもりだろう。


「やっと言ってくれたね」


 奏はいたずらっぽく笑った。


 そりゃもちろんフラれたら傷つくだろう。でも引き延ばせば引き延ばすほど傷は深くなる。なら早い方がいい。


 覚悟はできている。さあ来い。


 優太朗は殴られる直前のようにギュッと目を瞑った。


「嬉しいよ」


 優太朗がハッと顔を上げると、ほんのりと頬を赤くした奏が満面の笑みを浮かべていた。


 陰キャというのは人付き合いなんかどうでもいいと言いながら人の顔色ばかりうかがっている生き物なので人の感情に敏感だ。だから分かる。


 ああ、これ本気だ。


 直感で理解した瞬間、優太朗は顔がボッと赤くなった。


「じゃあ、いこっ♪」


「い、いや、一人で帰れるんで……」


 優太朗は腕に絡みついてきた奏をうつむきながら引き離し、


「そ、それじゃ……」


 逃げるように早足で立ち去った。


 曲がり角を折れたところで我に返る。すると、奏は僕のことを本気で好きなんだという実感が湧いてきて、たちまち彼女との思い出が次々と浮かんできた。


 告白の時も手を繋いだ時も名前を呼びあった時も。彼女は本気だった。本気で僕のことを好きだったんだ。


 その事実は優太朗には大きすぎた。胸が苦しくて全身がむず痒かった。耐えられなくて、いてもたってもいられなくなり、優太朗は走りだした。


『あああああああああああああッッッ!!!!』


 心の中で叫びながら住宅街を走り抜けた。


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