「正しさ」と文学

MITA

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 小説とはなにかという問いは、近代文学の端緒とされる『ドン・キホーテ』から現代のライトノベルに至るまで、文学史上飽きるほど繰り返されてた問いの一つです。そしてこの問いに答えるうえにおいて小説がフィクションであるということは、私たちが普段それを単に当たり前のこととして捉えていること以上に、実は重要なことなのです。


 さて、私たちが小説を読むとき、ふつう私たちはその小説が現実にあったこととして考えて読むことはありません。どれほど写実的な描写がなされていても、小説に書かれていることは全てウソであり、作者の作りごとであることは明らかです。


 このことを理解するために、作家として目の前にあるひとつの焚き火を描写することを想像してみてください。小説が小説であるためには、その焚き火を「焚き火」という三文字に落とし込んで描写しなければなりません。そこには必ず、「焚き火」とそれ以外という恣意しい的な切り分けが存在します。ある焚き火を文章の形式に従って描写するとき、まずはじめに現実すべてのことがらから焚き火ということがらが切り離されます。そしてさらに焚き火ということがらについて、「焚き火」という三文字の前にその他のすべての具体的なことがらが切り離されるのです。


 このように切り分けたあとに生まれた「焚き火」という言葉は、現実を表すものとしては明らかにウソですが、小説においては必要なウソでもあります。もしこの種のウソをつかないと宣言したならば、小説を書き上げることは不可能でしょう。一つのことがらに延々と文章の分量を割くことはとうてい現実的とはいえませんし、だいいち読者の忍耐は無限ではありません。したがって作者は、テーマ上の必要と場面上の必要、その小説を読むと想定される読者の期待や読解力、忍耐力などを考慮して描写を限定します。これこそが小説の中で絶えず行われている「文体スタイル」という名のウソであり、一般的には物語と呼ばれているものの正体なのです。


 しかし、小説内で進行する物語がウソであると分かっていても、私たちはたいていそのような物語を単なるウソ以上のものとして捉えているようです。ここでは、私たちは物語をウソというよりはむしろ真実に近いものとして捉えています。それは私たちが生来もつ能力が、物語を自分ごととして捉えることを可能にしているからです。


 おそらくこの能力は、はじめは原始的な社会で集団生活を営む人類が、生活で起きた争いごとを解決したり、サバイバルにおける重要な知恵を口伝で継承したりするうえで必要不可欠なものだったのでしょう。その種の社会的に重要なことがらを自分ひとりの善悪の尺度や損得計算ではかっていては、いずれ不満や負債がたまって社会全体が崩壊するか、自分がほかの個体に後ろ指をさされ、社会から疎外されたり、追放されてしまいます。そこで物語を通じて「正しさ」について合意し共有するプロセスを踏むことで、社会は有機的な結合を果たしてより強固な存在へと変化することができたのです。


 さて、そのようにして手に入れた能力は、しかし周囲の環境が人間にとってより安全なものへと変化していくと、本来の用途とは少しずれた形で発揮されることになります。すなわち、ウソをウソと理解していながらその作りごとをまるで本当におきたことのように感じ、そして楽しむことに利用されていったのです。ロシアの作家トルストイは「芸術は人々に芸術家の経験する心持ちを感染させることが目的である」と表していますが、以上のことをふまえればトルストイが指摘していることの核心は明らかです。物語は誰彼構わず読んだ人に無差別に伝えられ、それを受け取った人の意志とは関係なくその人の心に影響を与えるのです。


 とはいえ、私たちは物語ならなんでも感情移入するのかと言われると、そういうわけではありません。小説を書き始めて間もない人は、受け手に伝えたいことが先走って書きたいことを箇条書きのように書いてしまい、結果として小説全体が百科事典のようないびつなものになってしまうことがあります。人が感情移入して大衆のあいだで人気を博し、次世代に受け継がれるような物語には一定の構造があるのですし、逆を言えば、多くの人に”ウケる”構造を持っていない物語は、たとえそれがどれだけ一面の真実を写していたとしても、決して人びとから顧みられることはないのです。


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 いっぽうで、この事実は物語の正しさ、より正確に言えば、物語に感情移入する私たちの心の正しさに対して大きな疑問を投げかけます。私たちはふだん、物語に感情移入する時、その感情移入自体の正しさを考えることはありません。楽しんだり、悲しんだり、慰められたり、怒ったり、考えさせられたりして物語が自分たちの心を満足させてくれるとき、私たちはふつう、それは「よい物語である」と考えます。


 しかし、もし人が物語に抱く感動が、自分で感動するかしないかを選べるような主体的なものでなく、むしろ物語のほうから人の性質に働きかけて感動させているのだとしたらどうでしょうか。そのとき物語は、本質的にウソであるにも関わらず、自らがウソであることを隠して、ある面はウソだとしでも、ある面は真実であるのだと、そうもっともらしく振る舞っているといえるのではないでしょうか。そうだとすれば、とても危険なことです。この危険性に着目した最も古い人物の一人はプラトンであり、彼は『国家』の中で、詩人はものごとの真実の姿を隠し、いつわりの姿を真実だと人びとに誤って認識させるという点で悪であり、国外に追放すべきだとまで言っています。


 だからこそ、近代文学が現代に入って真の意味で自由となったとき、作家たちにとって最大の問題は、物語そのものが有する暴力性に作家はいかに責任をとるかということだったのです。それまで宗教やイデオロギーといった「正しさ」=大きな物語グランド・ナラティブが文学を支えてきたとき、いっぽうでそれを読む人の間には小説の物語ナラティブの背景にある物語メタテクストが共通の認識として存在していました。「これはキリスト教的な考え方が背景にあるな」とか、「これは左派的な階級闘争の世界観で語られているな」などといった、小説の物語の裏にある背景知識が共有されていた――あるいは、共有されていることこそが読解の前提であった――わけです。


 このような世界では、すべての小説の物語は大きな物語が示す「正しさ」に対して賛成か反対かで分類できます。そのような「正しさ」には生活に根を張った問題意識があることが理解されていたため、各々の小説で示された物語のウソは「正しさ」の中で相対化・無力化され、議論を豊かなものにしたのです。


 しかしそのような紐帯ちゅうたいが消え失せたとき、作家たちはとりわけ民主主義社会において、自分たちが描く小説の物語が読者にどのような影響をもたらすのか想像できませんでした。普遍的な「正しさ」の探求が無意味とみなされるようになったポストモダン社会では、作家は小説の物語がもつ感情の感染力を使って読者にどのような「正しさ」もまた真実でありうると示すことができるようになってしまったのです。しかし逆に言えばそれは、いまや作家はどのような「正しさ」も文字通りの「正しさ」として信じることができなくなったということでもあります。


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 それゆえ、ポストモダン以降の現代の作家は、小説を書くうえで大きく分けて四つの態度しか持ちません。


 一つ目の態度は、大きな物語が未だに存在するかのように振る舞うことです。しかしこれは今日では不可能な試みです。既に失われてしまったものを今さらあるといったところで、それが大多数の読者に理解されることはありません。「正しさ」はいまや、一部の知的エリートの専売特許でないからです。生活に根を張らない「正しさ」は滑稽なものとして、懐古趣味を持つ一部の読者に”ウケる”のがせいぜいでしょう。


 二つ目の態度は、現在の状況に即した権威ないしは政治運動に加担することです。しかし「正しさ」が細分化したポストモダン以降の社会では、そのような試みは一部にしか”ウケる”ことはありません。その種の運動に共感をもつ一部の読者に”ウケる”ことはあっても、その他多数の読者は無関心な態度をとるか、あるいは心理的な反発を覚えることになります。


 三つ目の態度は、大きな物語の死を認めたうえで、読者との紐帯を持つことを諦めることです。残念ながら、これもまた失敗に終わらざるを得ません。そもそもこの選択肢では、芸術の効用である感情の感染そのものを諦めているという点において、小説という形を取る意味をなくしてしまっています。


 四つ目の態度は、「正しさ」とはなんであるかという追究を放棄し、むしろ場面に合わせた適切な「正しさ」使い分けるという矛盾を受け入れることによって、読者の娯楽に対して奉仕することです。そしてこれは、現代の作家がとる主流の態度でもあります。それは、「正しさ」の追求が無意味なものとなった現在において最も”ウケる”のは、「正しさ」そのものから距離を取ることだからです。この態度は、ある意味で最も現実を見ているといえるかもしれません。小説が意味のある媒体として生き残る道は、今のところ最後をおいて他にはないでしょう。


 しかしいずれにせよ指摘しておかなければならないのは、現代において小説という試み自体が深刻な機能不全を起こしているということです。四つ目の態度は確かに現実的かもしれませんが、「正しさ」に見て見ぬふりをするからといって、作家の心から「正しさ」を求める葛藤が消えてなくなるわけではありません。作家が自らの行動の裏付けとしてなんらかの普遍的な「正しさ」の裁可を求める限り、四つ目の態度は小説を救えたとしても、作家の魂を救うことはできないのです。

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