第37話 明石1 入道の家
寛弘三年(一〇〇六年)、秋。
「源氏物語の写本の数がやや伸び悩んでるが、大丈夫か?」
「人は恋バナを求めるもので、須磨の隠棲の話はその点では地味かもしれません。
ただ、一度辛い境遇に堕ちて、そこから再起する所まで行けば、苦しんできた人たちも共感するはずです。
あと少しの辛抱ですな。
麿が思うに、あの須磨の名月は後世に語り継がれるのではないかと。」
「女房どもには分らんかもしれないが、ああいう暮らしは憧れるな。
政界から引退したらやってみたいものだ。」
「この物語が女房だけでなく、男どもからも支持されるには、こういうストーリーも必要なのでしょう。
若くしてハーレムでイチャイチャして許せないとか言ってた男たちも、さぞ溜飲を下げてることでしょう。」
藤式部
「それでは今日も始まり始まり。」
なお雨風はやまず、雷も静まらないまま日々が過ぎて行きました。
全く憂鬱なことばかり重なります。
これまでもこれから先も悲しいことばかりだと思うと、希望を持とうにもなかなか難しいものです。
「どうしたらいいものか。
こんな状態だからといっても、都に帰った所でまだ世間が許してくれたわけではないし、ますます物笑いの種になるだけだし、だったらもっと山奥に籠って誰にも知られることのないところに行ってしまおうかと思っても、『波風にまでも嫌われたか』と嫌な伝説になって後世にまで面白おかしく語り継がれるのではないか。」
と思うとどうにも身動きが取れません。
夢にもただいつもおなじ光景が繰返し現れ、すっかり取り憑かれてしまってます。
雲が切れることなく何日も過ぎて行くと、京都からの便りもますます滞るようになり、このまま世間では死んだことにされてしまうのだろうかと不安に思っても、首を外に出すことすらできないような悪天候に、わざわざやってくる人もいません。
そんな中、二条院からの使者がやけにみすぼらしい姿でびしょ濡れでやってきました。
道ですれ違えば人なのかどうかもわからないような状態です。
本来なら真っ先に追い払って然るべき下賤の者でも親族に会えたかのように喜んでいることに、我ながら恥ずかしく、つくづく落ちぶれたもんだと身にしみて思うのでした。
その手紙には、
《いつになっても降り止むことのない今日この頃のお天気に、ますます心まで閉ざされたうわの空で、何も手に付かないまま過ごす日々です。
海べりの風はどうなの想像を
しては何度も袖は濡れます》
悲しい気持が切々と綴られてます。
ますます涙の水位が上がったのでしょうか、目の前が真っ暗です。
「都でもこの雨や風は、とにかくやばい不吉な前兆だということで仁王会なども行なわれているって話です。
宮中に出入りする上達部なども外出できなくて、政治の方も滞っていて‥‥。」
というようなことを話すのですが、どうにも頭が悪そうで要領を得ず、それでも都の方のことを思えばいろいろ知りたいこともあるので、自分の前に連れて来させて尋ねました。
「ただこんな雨が止むことなく降り続けて、風も時折吹くような状態がもう随分と長く続き、前例のないことなのでみんなびっくりしてます。
それでもこんな地の底までも貫くような雹が降ったり、雷が止まないなんてことはありません。」
など、こちらがあまりにひどい状況なのに驚いて怖気づいて顔面蒼白なのを見ると、ますます不安になります。
「このまま世界は破滅するのか」と思っているうちにも、そのまた次の明け方から風がひどく吹き荒れ、高潮が押し寄せ、波は音を荒げて岩も山も飲み込んでしまうかのようです。
雷が光っては鳴り響くさまはこれ以上言いようがないくらいで、「落ちて来るぞ」と思った瞬間は誰も彼もが理性を失っています。
「わわわわわっ、こんなひどい目にあって、一体俺は前世でどんな罪を犯したってゆうんだーーーーっ。」
「父さん母さんにも逢えなければ最愛の妻の顔をも見ることなく、ここで朽ち果てるのか。」
と嘆くばかりです。
「住吉の神よ、どうかこの辺りを静め、守ってくれ。
本当に御仏の我が国に現れたる神ならば助けてくれ。」
と幾多の衆生救済の大願を求めました。
みんな自分の命のことはともかくとして、これだけの大人物が異常な事態にあってこの地に沈んでいることに大層心を痛め、発心し、ちょっとでも信心のあるものなら我が身に代えてもこのお方を救ってくださいとどよめきが起こり、声を合わせて神仏に祈りを捧げました。
「帝王の深き宮に育って、幾多の風流を楽しみ得意になっていたところはあったものの、この日本の津々浦々に至るまで民を深く愛し、埋もれていた人材も発掘してきたんだ。
今何の罪あってここで邪悪な波風に溺れるというのか。
天地の道理を明らかにせよ。
罪もないのに罪人となり、官位を剥奪され、家を離れ都を追われ、明けても暮れても安らぐことなく嘆いているというのに、こんなひどい仕打ちで死んでしまうというのは前世の報いによるのか現世での犯罪によるものなのか、神仏よこの世にいるのであればこの災厄を鎮めてくれ。」
と住吉社の方角に向って、様々な願い事をし、また海の中の竜王や八百万の神に願い事をすると、雷はますます大きな音を立て、居間から寝室へと続く廊下に落ちました。
炎を上げて燃え上がり、廊下は焼け落ちました。
理性も感情も失い、ただみんな呆然とするばかりです。
後ろの方にある
空は墨を磨ったような状態で日も暮れました。
やっとのことで風もおさまり雨脚も緩むと星の光が見えてきて、このすっかり変わり果てた居間にいつまでも居させるのも何とも申し訳なくて、寝殿に戻らせようとすると、焼け残った方も目を背けたくなるような状態で、そこらかしこ右往左往する人の足音がごろごろ鳴り響き、御簾なども皆風で散乱してました。
ここで夜を明かすしかないかと何とか辿り着いて、
月の光も差し込み、柴の戸を押し開けて辺りを見回すと、波がすぐそばまで押し寄せた跡もなまなましく、その余波なのか今でも波は荒々しく寄せては返すのでした。
こんな田舎では、今のこの状況を理解できて、過去の事例やこれからどうなるかをすばやく判断して、これはこうであれはこうなんだと即答してくれるような人はいません。
得体の知れない猟師たちが偉い人がここにいるから何かわかるのかと集まってきて、わけのわからないいことをあーだこーだと騒ぎ立てるのも何とも困ったものですが、追い払うわけにもいきません。
「この風がもう少し吹いていたなら、高潮で全部持っていかれただろうな。
神頼みというのも馬鹿にはできないな。」
という声が聞こえてくるものの、それにしてはあまりにも頼りなく馬鹿です。
「海に住む神の助けがなかったら
渦巻く潮に流されてたな」
強がってはみても、丸一日吹き荒れていた風の騒ぎにすっかり
申し訳程度の居間なのでただそこいらの物に寄りかかってうとうとしていると、亡き崋山院が生きていた頃のそのままの姿で目の前に立っていて、
「何でこんなとんでもないところに留まっているんだ。」
と言って手をつかんで引き寄せます。
そして、
「住吉の神がお導きになるのだから、早く船に乗ってこの海岸から離れるんだ。」
と言うのです。
なんだか嬉しくなって、
「あなたのその畏れ多い御姿とお別れして以来、いろいろ悲しいことばかりたくさんあったので、今はこの浜辺で身分を捨てて隠れ住むつもりで‥‥」
と申し上げると、
「それはいけない。
これはちょっとした天罰だ。
われは在位の頃、悪気はなかったのだが結果的に罪なことをしてしまい、その罪を生きている間に償いきれなくてこの世のことにかまっている暇もなかったんだが、あまりにも悲しみに沈んでいるお前のことを見ていると我慢できなくて、海に入り渚に上りえらく苦労をしたもんだが、せっかくこの世に舞い戻ったのだから、ついでに内裏に行っていろいろ言いたいことがあるんでこれから京都へ急がねば‥‥」
と言って去っていきました。
もっと一緒にいたいのに思うと、とにかく悲しく、
「お供します。」
と言って涙をぼろぼろ流しながら見上げると、そこには誰もいず、月の顔だけが煌々として、夢見ていたとも思えずまだ崋山院の気配がそこにあるような気がして、空の雲が悲しそうにたなびいてました。
今となっては夢にも見ることがなく、逢いたいと思ってもかなえられなかったそのお姿を、ほのかにではあるがはっきりと見ることができただけに、その面影を思い浮かべては、「俺がこんな悲しみのどん底にいて死にそうになっているのを助けようと、空のかなたから駆けつけてくれたのだ」と思うとすっかり感激して、それもこれもこの一連の事件があればこそだと、去って行った後のこの月夜が限りなく心強く嬉しく感じられるのでした。
胸がきゅんとなってかえって気持ちを落ち着けることができず、現実の悲しいこともすっかり忘れて、夢とはいえ何一つまともな受け答えができなかったもやもやが残るだけに、もう一度逢えないかと何とか寝ようと努力するのだけど、ますます目が冴えてしまったまま夜も明けてしまいました。
いかにも小さな船が近くの渚に接岸し、二三人ほど
「はて、どちら様で?」
と尋ねると、先の播磨の守で今は出家したばかりあの爺さんが、明石の浦から船を遣わせて来てたのでした。
「源の少納言がおられるならこちらへ来て取り次いでくれ。」
と言いました。
源少納言
「あの入道は播磨の国にいた頃交流のあった人で、長く懇意にさせていただいてたっすが、個人的に少々感情的な問題があって長いこと疎遠になってて、こんな海の方から人目を忍んで一体なんなんすかねえ。」
と首をひねります。
「早く会ってこいよ。」
と言うと、船の方に行って対応しました。
あれほど風が吹いて波も高かったのに、一体いつ船を出したんだと何とも不可解です。
「以前三月最初の巳の日の夢に、見たことのないような身なりの人お告げがあって、何とも信じがたいことだったのだが、
『十三日に新たな兆候を見せる。
船を用意して必ず雨風が止んだらこの浦に接岸せよ。』
と何度もお告げがあって、試しに船を用意して待っていると、雨も風も激しく雷もゴロゴロ鳴りだしたので、中国の皇帝にも夢を信じて国を救ったというような話がたくさんあるのを引用するまでもなく、この神罰の日を逃さず、このことをお話したくて船を出すと、不思議なことに弱い風がそこだけ吹いてこの浦にたどり着いたのだから、これぞまさに神の導きに違いない。
そちらにももしや心当たりがあるのではと思ってな。
突然でいかにも失礼なことではあるが、このことを伝えてくれ。」
と言いました。
「世間で逃げ出したというような話になって、いろいろ後の人に非難を受けることを心配するあまり、本当に神様が助けてくれているのかもしれないのを拒むなら、そっちの方がもっと人の物笑いの種になる。
実際の人の心ですら怖いのだから、まして神ともなれば‥‥。
これまでのどうしようもない状況を考えても、ここは自分より年長で、それに地位もあって、自分よりも時流に乗って輝いている人には、それにうまく取り入って気に入られるようにしない手はない。
長いものには巻かれろと昔の賢者も言っていることだ。
実際、こんな生きた心地もしないような、この世にそうそう起こるはずのないようなことばかり見せ付けられ、それで後の評判を恐れて逃げたのでは武勇伝にはならない。
夢の中で父である
そう思ってこう答えました。
「見知らぬ土地で滅多にないような災厄をこれでもかと見てきたけど、都の方から見舞ってくれる人もいない。
ただ行方も知れぬ日月の光ばかりを故郷の友と眺めていたところ、何とも嬉しい迎えの釣り船ではないか。
そちらの浜辺に静かに隠れてすごせるような場所があるなら‥‥。」
それを聞くとこの上なく喜んで姿勢を正してこう言いました。
「とにかく夜が明けてしまう前に舟に乗りなさい。」
そういうわけで例の親しい四五人を引き連れて乗り込みました。
するとさっき言われたようにそこだけ風が吹いて、飛ぶように明石に到着しました。
普通にこっそり舟を出したとしてもすぐ着いてしまうような距離とはいえ、それでもまるで意思を持っているかのような不思議な風でした。
*
この浜辺のあたりはまったくの別天地といったところです。
人が多いのだけは難点ですが。
明石の明寂入道の所領は海に面したところから山の向こう側まで広がり、四季折々の興を咲かすと思われる苫屋に、お勤めをして死後の成仏に思いをはせるにふさわしい山水に面したところに荘厳なお堂を立てて修行に励み、現世での生活は領内で取れる秋の田の稔りを頼みとし、長い老後に備えて立ち並ぶ米蔵はあたかも一つの町のようで、どこを見てもどれを取っても目を見張るようなものがここに集められてます。
ここ最近の高潮を恐れて、娘のナミコなどは高台の家に引っ越させていたので、この浜辺の館に誰にも気兼ねせずに気ままに暮らしいるようです。
船を降りて牛車に乗り換える頃には陽もようやく昇り、
太陽も月も手に入れたような気になって、せっせと源氏のご機嫌をとろうとするのも理由あってのことです。
自然の景色はもちろんのこと、造営された庭の趣向もまた、立ち木、庭石、植え込みなどの見事さといい、言葉にできないくらいすばらしい入り江の水といい、絵に描こうにも才能のない絵師ではとても書くことはできないでしょうね。
ここ何か月かの住まいに比べれば、明らかに格段の差があり、すっかりお気に入りです。
部屋の調度などもあり得ないくらいのもので、中の様子は都の大臣クラスの家にもなんら遜色ありません。
まばゆいばかりのその華やかさは、むしろそれ以上と言ってもいいでしょう。
少しは気持ちも落ち着いた頃、京に手紙を書きました。
あの雨の中をやってきた二条院の使いも、今は「やばい旅路に出たばかりに悲惨な目にあった」と泣き崩れたままあの須磨に置き去りにされてたのですが、呼び寄せて不相応なほどの報酬を与えて発たせました。
いつも一緒にいた祈祷師たちの主だったところには、今回あったことを詳しく書いて、この人に託したのでしょう。
入道となった
二条院への手紙はというと、書こうにも胸がいっぱいになり何も書くことができません。
書こうとしては手を止めて涙をぬぐっている様子なども、それでも別格です。
《これでもかこれでもかと悲惨な目の限りを体験しつくした状態なので、俗世とさよならしてこのまま消えてしまいたいような思いに駆られるけど、鏡に映るならそれを見てと言ったあの時の君の姿を忘れた夜はなく、こんなにもいてもたってもいられなくて、ここでのいろいろあった悲しいことも吹っ飛んで、
こんなにも思いは遥か見も知らぬ
浦からさらに遠い浦へと
悪夢の中をもがくばかりで醒めることもできず、しょうもない愚痴ばっかりになってしまったな。》
と実際とりとめもないことを書き連ねているにしても、周りの者からすればついつい覗き込んでみたくなるもので、結構いろいろ気を使ってるんだなとあらためて感心するのでした。
ほかの人もそれぞれの実家に、いかにも心細いことを書いて送ったのでしょうね。
*
少しも止むことのなかった空模様も嘘のように晴れ渡り、漁に出る漁師たちもどこか誇らしげです。
須磨はひどく寂れたところで漁師の家もほとんどなかったが、ここは人が多くてうざいと思っては見ても、季節折々の風情にあふれ、何かにつけて気が紛れます。
主人の入道は、日々の修行やお勤めの時はいかにも悟りきったようなのですが、ただ例の娘一人が悩みの種のようで、とにかく見ていて痛いくらいで、時折愚痴をこぼします。
源氏も内心、なかなかの美人だと聞いていた人だけに、こんなふうに思いもかけず廻り合えたことは何かの縁ではないかと思ってはみるものの、そう言っても隠棲の身なので、仏道の修行のこと以外は考えまい、ただでさえ都に残してきた人から話が違うと言われると思うと気が引けて、無関心を装ってました。
ただ、話を聞けば聞くほど、性格といい容姿といい並々ならないのを感じとると、興味無きにしも非ずです。
入道の方も遠慮があってか、娘に会いに行くことはほとんどなく、大分離れたところの
本当は朝から晩まで傍にいたいといつも思っているようで、何としても良い縁談を見つけたいと神仏に祈るばかりです。
入道は六十くらいになるとはいえなかなかの美形を維持していて、修行のせいで痩せ細って人間的にも上品に振舞おうとしているのか、偏屈で常軌を逸したところはあるが、故事などにも詳しく、根は純粋で人情に精通している部分もあるので、昔のことなどをいろいろ聞いたりする分には少しばかり退屈も紛れます。
最近は公私共に忙しくてなかなかじっくり聞くこともできなかった昔あった出来事なども、少しづつ聞き出すことができました。
こういう場所や人に廻り合えなかったならほんと退屈だったな、と思うような面白い話も混じってました。
そうはいっても、これだけ親しくしていながらも、
本人も、どこを見回しても目の保養になるような人にめぐり合えないようなこんなところに、まったくこんな人もいるんだと思ってはみるものの、自分の身分を考えれば遥か彼方の人のように思うのでした。
親があれこれと画策しているのを知ってはいるものの、「所詮不釣合いやな」と思っては、今まで以上に悲しくなるのでした。
「やっぱり現れた新しい女。」
「お約束。」
「住吉の神のお導き。」
「住吉の神は罰を与えてたんじゃないの?
華山院の霊の導きでは。」
「御息所の時は本当に生霊が存在するかどうか微妙なところがあったけど、ここははっきりと御門の霊と住吉の神で展開して来たわね。」
「天変地異だし。」
「物語だからあり得ないとんでもないことが起こっても不思議はないけど、それがここまでってことになるのかな。」
「ヘタレの源氏は自力で頑張って帰るんじゃなくて、神の加護で帰るしかない。」
「それを言っちゃあ。」
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