第36話 須磨4 兆し
「いやあ、前回は感動したぞ。
須磨の月、一遍見に行ってみたいものぞなあ。
息子にも話してやったが、まだ子供だからそんな恋だとか隠棲だとかいうのはわからないけど、須磨の月に興味持ってたな。」
「宮中に上がる日が楽しみだね。
その頃には源氏物語も完結してるかな。」
「まあ、本当に須磨へ行くなんてことはあっては困るけどな。」
「彰子様もこうした物語を聞きに来る女房達に交じって、明るくなったな。」
「前は本当に喋らなかったからな。
藤式部が来たことでいい影響が出てると思う。」
「定子様の時代に比べると、学問も芸術も格段にレベルは上がってる。
ただ、そのレベルの高さが、日常の他愛のないお喋りのレベルを越えてしまったのが彰子様の周辺の人達なんだと思う。」
「そうだな、お前の書と一緒だ。
なかなかついて行くことが難しくなってしまったな。」
「なかなか楽しそうだな。何の話だ?」
「源氏物語が素晴らしいって話です。」
「そうだな。そろそろ始まるな。」
明石の浦は海伝いに行けばすぐなので、
父の入道は、
「言いたいことがある。
軽く会ってみたい。」
と書いてよこすものの、承諾は得られそうもないため、出向ていって空しく手ぶらで帰ってくるのも馬鹿らしいと、心も折れて行こうとしません。
世間ではなかなか理解されない高い志を持って、播磨の国では播磨の守の縁のものばかりが尊敬を集めているけど、心がねじけているのか長年にわたり一向に敬意を払うこともなく過ごしてきたところ、
「先の
思ってもみなかったことじゃが、これもあの子の前世からの宿命に違いない。
この機を逃さず源氏の君のところに嫁がせたいのじゃが。」
と言い出すのでした。
それを聞いて、
「あらまあ、はしたないったら。
都から来た人の話を聞けば、高貴な奥方をたくさんかこっていながら、それでも足りずにこっそりと御門の女にまで手を出して、こんな世間をお騒がせている人が一体こんな怪しげな田舎者に興味持つとでも思ってるのかえ。」
むっとして、
「知ったことか!
わしにも考えがあるんじゃ。
すぐに準備じゃ。
何かかにか理由をつけてでもここに連れて来い。」
と怒鳴り散らすあたり、いかにも頑固そうです。
見てて痛いくらい立派な調度を整え、可愛がって育ててきた娘です。
妻の方はというと、
「なんぼ高貴な人でも罪を犯して流された来た人を、最初の縁談にわざわざ望むもんかえ。
それに相手が気に入ってくれるならともかく、冗談にもそんなことはあるはずもないでしょうよ。」
と言うと、輪をかけてまたぶつぶつ言います。
「罪人になることは中国でも本朝でも、あまりに才能があって何をやっても人と違ってしまうような人間にはよくあることじゃ。
それをお前は一体なんだと思ってるんじゃ。
あれの母というのはな、わしの叔父にあたる
並々ならぬ器量がたちまち評判となったので宮中に出仕させたところ、国王も大変な熱愛ぶりで他に類を見ないほどだったのじゃが、それを妬む女たちがたくさんいて死んでしまったがのう、あの
こんなふうに、女というものは最高の男に仕えるべきものなのじゃ。
わしもこんな田舎者になってしもうが、その志を捨ててはいない。」
などと言うのでした。
この娘はそれほど美人ではないのですが、捨てがたい品の良さと機転の利くところなど、超一流の家系の娘にも全く劣る所がありません。
今の境遇をしみじみ落ちぶれ果てたものだと身にしみてまして、
「高貴なお方はわたしのことなど物の数にも思ってないわな。
だからいうて適当な所で妥協するのは嫌っ。
いつまでも生きていて父上や母上にも先立たれてしまうんなら、出家もええわな。
それとも海の底に沈んだろか。」
などと思っているのでした。
その父の入道はあれこれ干渉して窮屈で、年に二度住吉の神に詣でなくてはなりません。
神様が願いをかなえてくれることを密かに願うのみです。
須磨では年もあらたまり、日も長くなる中だらだらと時を過ごしていると、植えた若木の桜が少しづづ咲き始め、いい天気の日が続き、都でのいろいろなことを思い出しては涙がこぼれることもしばしばです。
*
二月の二十日も過ぎると、昨年京に別れを告げた時、別れを惜しんだ人たちの様子などがとにかく恋しく、南殿の桜は今が盛りだろうか、いつの年だったか神々しいまでの崋山院の姿が殿上に眼前にいるかのように現れて、自分の作った詩句を詠みあげたことなどが思い出されます。
「いつになく大宮人が恋しいのは
桜の宴が今日だったからか」
とにかく退屈していた頃、
それでもそんな世の中がとにかく嫌でどうしようもなく、行事があるたびに源氏のことが恋しくなるばかりで、世間でよからぬ噂を立てられ罪を問われてもかまわないという気持ちになり、急にやってきました。
再会を果たした瞬間はこれまでなかったような嬉しさに、涙がひとしずくこぼれ落ちました。
源氏の住居の様子は言いようがないくらい中国風になってました。
絵に描いたような風光明媚な土地に竹を編んだ垣を張り巡らし、石段や柱のように立つ松の木など、一見無造作なようでもなかなか有りそうにもない面白い住居です。
山奥の樵になったかのように、許し色の薄紅も黄ばみ、色あせた青の狩衣と指貫もくたくたになっていて、わざとらしく田舎者を装っている所もとにかく思わずにんまりしてしまうほどクールです。
使っている調度品もその場限りのもので、居間寝室などの居住空間も外から見えるので覗き込んでみました。
碁盤や双六の盤、調度、
ふるまわれた食事もわざわざ地産品を用いて、いろいろ趣向を凝らしてました。
漁師が潜いて獲って来た貝などを持ってきたときには、わざわざ中に呼び入れて自らご覧になりました。
海辺で長年暮らすのがどんなものなのか聞くと、いろいろといつどうなるかもわからない生活の苦しさを語り出します。
よく聞き取れない方言で滔々と喋るのを聞いては、人の心というのはどこへ行っても同じなんだなとしみじみ思いました。
何頭もの馬を近くに並べて、遥か向こうに見える蔵のようなものから稲を取り出して食べさせている様子なども珍しそうに眺めてました。
♪飛鳥井に宿を借りよう、影も良い、
水も冷たく馬草もよいな
と催馬楽の『飛鳥井』を少しばかり口ずさみ、ここ何ヶ月かのことを話しては泣いたり笑ったり、若君が世の中の変化など全く知らぬかのように過ごす悲しさを、先の
二人の会話は尽きることなく、到底全部ここでお聞かせすることはできません。
一晩中寝ず、朝まで漢詩を作ってました。
そうは言っても世間が何を言うか気になるので、急いで帰りました。
何とも不完全燃焼です。
盃を持ってきて、
♪酔いの悲しみに、
涙をそそぐ春の盃の内」
と白楽天の詩句を二人して口ずさみました。
お供の人たちもみんな涙を流します。
みんなそれぞれしばしの別れを惜しんでいるのでしょう。
朝ぼらけの空に雁が一列に飛んで行きます。
「故郷にいつの春にか行きたいな
うらやましいのは帰る雁がね」
「かりそめの楽園とても去りがたく
花の都も道に迷いそう」
持って来た都のお土産もそれなりのものでした。
家の主人はお返しにするほどのものもなくすまなそうに、黒い馬を持たせました。
「汚らわしいと思うかもしれないが、北風に吹かれた馬は故郷を思い出していななくとも言うので‥‥。」
と申し添えました。
なかなかそこいらにはいないような馬です。
「これを俺だと思って思い出してくれ。」
と言って、名高い名品の笛だけを贈りましたが、人から悪く勘ぐられそうなものはもちろん形見にはできません。
日がだんだん高くなり気持ちもせかされてきたので、こちらを振り返りながらも行ってしまうのを見送る様子は、どうにも未練たらたらのようです。
「またいつか逢える日もあるのだろうな。」
「まあ、こんな状況だからどうだか。」
との返事に
「雲の上を飛びかう鶴よ空を見ろ
私は春の曇りない身だ
いつか帰れるという期待は抱いていても、昔の偉い人でもひとたび都を追われて出て行ってしまうと、中央の政界に返り咲くことは難しかったので、いまさら都の景色をふたたび拝むなどとは思うべくもないがな。」
と言いました。
「雲上に手づるもなくて一人泣く
比翼の友のこと思っても
比翼の友なんて馴れ馴れしく言うのもお恥ずかしいことで、実際は何もできない自分を悔いてばかりなんだ。」
と何とかあまり湿っぽくならずに別れて帰って行った後、ますます悲しく塞ぎこんで日々を過ごすのでした。
*
三月の最初の
「運気の落ちている人は今日この日に禊をするといいっすよ。」
と知ったかぶりで言う人がいたのと、海も呼んでいるということで出かけました。
何とも大雑把にあたりを垂れ幕で囲い、この国に赴任していた陰陽師を呼んでお祓いをさせました。
船に仰々しい人形を乗せて流すのを見るにつけ、我が身のように思い、
「見も知らぬ大海原を流れ来て
人形とはいえ悲しいもんだ」
と座って歌う様子など、このような晴れの日には申し分のない眺めです。
海面は光りに溢れ波風もおだやかで、この先どこへ行くとも知れず、過去や未来をずっと思っては、
「やおよろずの神も哀れに思うはず
何一つ罪を犯してないので」
なんて言っていたら、急に風が吹き出して空も黒い雲に覆われました。
御祓いも中断して大騒ぎです。
「
巨大な波が襲っては、人々の足が宙に浮かびます。
海面が
いつ落ちてくるかと震えながら、どうにかこうにか家に戻り、
「こんな目にあったのは初めてっすよ。」
「こういう風が吹くときは、普通前兆とかがあるだろう。
こんなひどいのはいくらなんでもないよ。」
とすっかり取り乱すものの、それでも雷はそこかしこで鳴り続け、雨脚は屋根を突き破るかと思うほどバラバラと音を立てます。
「この世の終わりはこんなものか」と心細くなって途方に暮れていると、
日が暮れると雷は少し鳴り止んだものの、風は夜も吹き荒れました。
「あまり多くのことを願ったもんだから、そのせいっすよ。」
「もうちょっとあんな状態が続いてたら、波にさらわれて海にひきこまれていたところだったな。」
「高潮というものでしょうね。
急にやってきては多くの死者を出すと話には聞いてましたが、こんな何の前触れもなくというのは聞いたことがありません。」
暁の頃になって、みんなやっと寝入りました。
「わが宮殿に招待したというのに何で来ないのだ。」
と言いながら何かを探し歩いているようなので、びっくりして、
「さては海底に住む竜王はたいそう美しいものが大好きで、この俺を引きずり込もうとしているな。」
と思うとどうにもうざくて、この家での暮らしにこれ以上我慢ができなくなりました。
「最初の方で明石へ行ってたのって、源良清だったんだ。」
「良清の名前が出た所でそうだとは思ったけど、これで確定。」
「初出は帚木巻。」
「須磨から帰ったら滝口の武者になって、源氏に拾われた。」
「そう言えば嵐になって、高潮が来て、天罰?」
「そんなあ、源氏は無罪だもん。」
「そういや、源氏をディスってた連中、須磨帰りでいなくなったなあ。」
「須磨は嵐でも、こっちは静かすぎて気味が悪い。」
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