第35話 須磨3 須磨の月

 「源氏物語ってどんな話かと思ったけど、旅立ちの挨拶回りに、手紙ばかり。

 やはり枕草子の方が面白いわね。」

 「面白くないと思ったら、聞いてても時間の無駄。損切りができない人は出世しないわね。」

 「枕草子で会話力を磨いた方がいいわ。」

 「大体彰子様の女房達ってオタクでコミュ障の集まりで、話が通じない。」

 「そうよ、定子様の所はそんなんじゃなかった。」

 「行こ、行こ。」

 「出た。須磨帰り。」

 「須磨帰り、草萌ゆる。」

 「ああいう忍耐力のないのに限って、よくわからないでその場で勢いのある人に飛びついて、一緒に没落するのよね。」

 「旧定子派あわれ。」

 「せっかく復帰できても、あれじゃあね。」

 「少納言の方が、潔く隠棲してるだけまだまし。」

 「何のかんの言って、力のある者に尻尾振って行く。」


 藤式部

 「はいはい、人の悪口はそれぐらいにして、今日も物語を楽しみましょうね。」





 須磨では今まで以上に気を滅入らすような秋風が吹き、海は少し遠いものの在原行平ありわらのゆきひら中納言の「関吹き越ゆる」と詠んだ浦に寄る波は夜ともなるとすぐそばのように聞こえて、これ以上悲しくない所はないような秋となりました。


 お側で待機する人もまばらな部屋で早々に寝入ったものの一人目が醒めてしまい、枕を縦にして身をやや起こして周囲で吹きすさぶ嵐の音を聞くと、波があたかもここまで押し寄せてくるような錯覚にとらわれ、涙がこぼれたと思うか思わないかのうちに、枕が涙の海に浮かんでいるような心地にになりました。


 七弦琴をすこしばかりかき鳴らしてはみるものの、自分でもあまりに悲しげな音色なので曲を途中で止めて、


 ♪報われぬ恋に泣いてる浦波は

     都から吹く風によるのか


と歌い上げると、お仕えしている者たちもその見事な演奏と歌に感動しつつも悲しみに堪えきれず、そのまま起きてはしばらくの間、涙に鼻をかんでいました。


 「まじ、いろいろ思うこともあるんだろうな。

 こんな俺のために親兄弟はもとより、彼らなりに大事に思うものもあって一時も離れ難い家を捨てて、こんな放浪の旅に付き合ってくれているんだ。」

と思うと、いたたまれなくて、

 「こんな沈んだ所ばかり見せては先が思いやられるだろう。」

と思い、昼はあれこれ冗談を言っては紛らわし、することもないままいろいろな紙を継ぎ足しては書の練習をしました。


 なかなか手に入らない中国製の綾織りの布に様々な絵を思いつくがままに描きまくった屏風の表など、本当に見事で一見の価値があります。


 前に誰かが「海や山の景色などをご覧になれば、絵なんかも驚くほど上達しますよ」と言ってたように、今までは遥か遠くだと思っていた景色も今は間近に見ることができて、実物を見たことのなかった磯の景色などもここぞとばかりスケッチしまくりました。


 「今時の名人とされている千枝ちえだ常則つねのりなどに頼んで、精緻な彩色を施してもらえたらなあ。」

と皆残念がりました。


 何の屈託もなく親しげにふるまう様子に周りの者も世間の憂さを忘れて、傍で御一緒できることを喜び、四五人ほど四六時中くっついてまわりました。


 前庭には花が色々と咲き乱れ、晴れた気持ちのいい夕暮れには海を見渡せる廊下に出て佇んでいる姿が危険なくらい美しく、場所が場所だけにこの世のものとは思えません。


 柔らかい白い綾に紫苑色を配した繊細な直衣に、無造作に着くずした帯といういでたちで、

 「釈迦牟尼仏の弟子」

と名乗りを上げ、ゆるい感じでお経を読む様子もまた、いまだかつてこの世にあったでしょうかという感じです。


 沖の方からは何艘もの船が大声で歌をわめき散らしながら通り過ぎて行く音が聞こえてきます。


 小さな水鳥が浮かんでいるのがかすかに見えるのも今にも消え入りそうな中に、列をなした雁の鳴く声が梶の音と入り混じるのがにわかに聞こえてくると、こぼれてきた涙を拭う手に巻いた黒檀の数珠がきらりと光り、故郷に残してきた妻が恋しい従者たちは皆涙ぐみました。


 ♪初雁はいとしい人をつれてくる

     旅の空飛ぶ声が悲しい


源氏の君ミツアキラが口ずさむと、源良清ミナモトのヨシキヨ


 ♪過ぎ去った昔をみんな連れてくる

     雁はその頃の友ではないが


 民部大輔みんぶのたいふ惟光コレミツ


 ♪楽園を捨てた旅路に鳴く雁を

     雲の彼方と思っていたが


 禊の日の仮随身だった右近の丞チカノブ、


 ♪楽園を追われた旅の雁がねも

     列に遅れなかったのが救い


 そして、

 「仲間とはぐれてしまったらそれこそ大変です。」

と言い添えました。


 親が常陸に赴任されて下向しても一緒に行かずに、ここに来たのでした。


 内心忸怩じくじたるものがあるにせよ、それを億尾おくびにも出さずに、元気いっぱいにふるまってました。


 月の光が煌々と差し込んでくると、「今夜は十五夜だったな」とふと思い出して、宮廷にいた頃の楽器の演奏に耽ったのが恋しく、「みんなじっとあの月を見ているのかな」と思うと、みんなの顔が月になって見守っているかのようです。


 ♪三五さんご十五夜さなかの月の色は鮮やか、

  二千里彼方の古い友の心となる。


と白楽天の詩を口ずさむと、例の面々も涙をこらえきれません。


 あの尼さんになった宮様ヤスコが「九重ここのえは霧が深いのか雲の上の月の遠さを思うのみです」と詠んだ頃のことがどうしようもなく恋しくて、あれやこれやいろんな記憶が蘇り、わんわん泣きました。


 「もう夜も遅いっすよ。」

と言われてもなお、部屋に入ろうとしません。


 「見ていれば気が紛れるんだ帰りたい

     月の都は遥か遠いが」


 その夜は、今の御門みかどと親しく昔話などしたときの様子が今は亡き崋山院にそっくりだったことなどを懐かしく思い出して、話して聞かせると、

 「恩賜の御衣みぞは今でもここにあり」

と口ずさみながら部屋に入っていきました。


 実際、御門から賜った御衣おんぞは肌身離さず寝床の横においてました。


 「辛いことばかりと思うわけじゃない

     涙の袖は左右両方」


   *


 その頃、大弐だいにが都に戻る途中でした。


 物々しく親類縁者をたくさん引き連れ、女もたくさんいて姦しいので、奥方達は船で都に向ってました。


 海岸に沿ってゆっくり旅をしていたところ、須磨の辺りは他になく面白そうなところなので期待していた上に、源氏の大将ミツアキラが隠棲していると聞けば、その気はなくても好奇心いっぱいの若い娘達は、船の中でさえ恥ずかしさに固まってました。


 まして五節ごせちの女君のコトコは、このまま船が曳航されていってしまうのが残念に思っていた所、七弦琴の音色が風に乗って遥か彼方から聞こえてきて、土地柄、弾いている人の身分、その調べの悲しさ、どれをとっても心を持たない人でない限り泣きました。


 大弐だいにそちから源氏の所に手紙が届きました。



 《大変遠くにいたものですから、京の都に戻った折には、まず真っ先に尋ねて都のことなどいろいろ聞こうと思っていたのですが、思いもかけずさる事情で暮らしている所を通り過ぎなくてはならず、誠に恥ずかしくもあり残念でもあります。

 知り合いがしかるべき所まで出迎えに来ていて、それがかなりの人数なのでご迷惑をおかけすると思いまして、あえてここにはお顔出しできません。

 また別の機会に御伺いします。》



とのことです。


 持って来たのは大弐だいにそちの息子である筑前のかみでした。


 この人物は源氏が蔵人に引き立てた人だっただけに何とも悲しく悪いことをしたなと思うものの、大勢人が見ていることもあり、噂になるのを気にして、挨拶程度で立ち去ろうとしています。


 「都を離れてからというものの、以前から親しかった人たちに逢うこともできなくなってしまってたので、こうしてわざわざ立ち寄ってくれて‥‥。」


と答えました。


 大弐だいにそちへの言付けもそんなものでした。


 泣く泣く源氏のもとを後にして、その様子をみんなに語ると、そちはもとより、迎えに来た人たちまでもが思うようにできなかったことにいらだち、泣くばかりでした。


 五節コトコの手紙もどうにかこうにかして何とか届きました。



 《琴の音に船引き止めるもやい綱

     揺れる心をあなたは知らない

 

 ふしだらな女に思われるかもしれませんが、お許しください。》



と書いてありました。


 にんまりしてそれを読むのですが、今の自分が何とも恥ずかしくなります。



 《意思あって引いてた綱がゆらぐなら

     留まればいいのに須磨の浦波

 

 こんな所で漁師こくとは思わなかったわな。》



 菅原道真公は播磨国明石駅の長に一篇の詩を捧げたといいますが、源氏のこの返歌を聞いて五節コトコもここに住み着きたく思ったことでしょう。


   *


 都では月日が過ぎて行くにつれ、御門みかどを筆頭に源氏の君ミツアキラの復活を願う声も多くなってきました。


 特に春宮などいつも源氏のことを思い出しては密かに泣いているのを、見守る乳母はもちろんのこと、王命婦の君もとても悲しそうに見守ってました。


 出家した宮様ヤスコはそんな春宮のことを危険な存在だと思うばかりで、源氏の大将ミツアキラまでがこんなふうに遠くへ行ってしまったのをひどく気に病んでました。


 源氏の兄弟の皇子たちやそれに家族同然に仕えてきた上達部など、最初の頃は手紙をよこすこともありました。


 悲しげな漢詩のやり取りをしていたところ、それがまた宮中の評判になったため、皇太后リューコがそれを知って憮然として言い放ちました。


 「朝廷から処罰を受けた人間ってのは、自由に人生を楽しむなどもってのほかなのにね。

 気取った家に住んで世間を批判し、そんな『史記秦始皇本紀』の趙高みたいなのに卑屈に追随して、皇帝に献上した鹿を『馬』だと言ったやからみたいなまねをして‥‥。」

など罵詈雑言を浴びせれば、「面倒事は御免」とばかりに手紙をよこす人もいなくなりました。


 二条院の姫君サキコはいつになっても悲しみが癒えることはありません。


 東の対で源氏に仕えてきた女房達も、最初に姫君サキコの側に来た時は、「何でこんな小娘が」と思っていたものの、傍で世話をしているうちに、人懐っこく冗談を言っては細やかな気配りを忘れない、なかなか人の気持のよくわかる立派な人柄とわかり、辞めていった人はいません。


 身分の高い女房達はそのお顔もちら見したりします。


 「たくさんいる源氏の女の中でも特別ご執心しているというのもわかるわ」と納得しました。


 例の住まいに移って久しくなるにつれ、これ以上我慢ができないと思ってはみるものの、自分自身がまず、前世からの運命にしてもあんまりなこの家に、一体どうやって姫君サキコを呼び寄せて住まわせようかと思うと、いくらなんでも無理がありすぎると思い直すのです。


 こんな場所だけに何もかも今までとは勝手が違い、見知らぬ下人のと接する時などもどうしていいのかわからず、自分でも情けないやら恥ずかしいやら。


 時々煙がすぐそばまで漂ってくるのを、これが海人の塩焼く煙なのかと思ってましたが、住んでいる所の後の山で柴を焼いている煙でした。


 ついつい見入ってしまい、


 「山人の庵で焼いてるしばしばも

     尋ねてきてよ都の人よ」


   *


 冬になり雪の降りしきる頃、寒々とした空模様を眺めながら気ままに七弦琴を奏でては、良清に歌を歌わせ、惟光は横笛を吹いて遊びました。


 一心不乱に悲しげな旋律をたたき出すうちに、他の者は歌と笛を止め涙を拭いあうのでした。


 昔、毛延寿もうえんじゅに賄賂を贈らなかったばかりに胡の国に嫁がされた王昭君おうしょうくんのことを思い起こし、この世で最愛の人がそんなふうに遠くに行ってしまったらどんな気持ちになるのかななんて思っては見るものの、有り得ないことでもなく「あぶない、あぶない」と思い、


 ♪胡角一声霜の後の夢


と口ずさみました。


 月の光が大変明るく差し込んできては、旅先のがらんとした寝室の隅々まで照らしました。


 夜も深い空はすぐ床の上に見えます。


 沈みかかった月が寒々しく思えて、「ただ西へ行くだけだな」と独り言を言い、


 「この俺はどこの雲路に迷うのか

     月が見ているようで恥ずかしい」


と独りつぶやいて、いつものように眠れないでいると、暁の空に千鳥が悲しげに鳴きます。


 「友千鳥一緒に鳴いてくれるのか

     一人起きてる俺を励まし」


 まだ起きてくる人もいなくて、何度も独り言を言いながら横になりました。


 深夜に手を清めてお経を唱えたりするのも今までになかったことなので、周りの人もなかなか殊勝なことだと思い、突き放すわけにも行かず、正面切って退出することなんてできません。





 「今日は月見回。」

 「歌が多かったね。」

 「須磨の月で歌を詠んで琴を奏でて、お優雅ですわね。」

 「案外都にいるよりもお優雅。」

 「仕事ないもんね。」

 「なんか行ってみたくなったな。」

 「左遷してやろうか?」

 「須磨ならいいけど、もっと遠くに飛ばされそうだな。」

 「波の音なんて、話に聞くだけで、どんな音なんだろうな。」

 「大和国に赴任しただけだから、海は見てない。」

 「海を見に行ってみたいのですが、『群れいる鳥』ですわね。

 越前も行ってみたいわ。」

 「夏刈の玉江の蘆をふみしだき群れゐる鳥のたつ空ぞなき、源重之ね。」

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