第18話 その煙草が消えるまで

 だいたい二時間くらいは四人で飲んでいただろうか、飲み放題の制限時間が来る頃、野々垣に会計に呼ばれる。

「私たちもう帰んなきゃ。なんかみくちゃんがやばいし」

 河田は伸びるように机に体を預け、頬を真っ赤に染めていた。

「恋バナしたいです! きゅんきゅんするやつ! 」

「もーそれ十回くらい言ってる」

「まだ足んないっす! 持留さんの話も聞きたーい」

 厄介なことになりそうな予感しかない。独特なタイプの絡み酒で、平常時なら面白いが今は駄目だ。

「俺も聞きたーい」

「俺も俺も! 」

 山口と石田が囃し立ててくるのを、うんざりした目で見る。山口も相当酔っ払っている。石田は一杯目のビール以降、ウーロン茶を頼み続けているしまだ素面のはずだ。無視して、困り顔の野々垣と話した。

「野々垣さん、この二人つれて帰れる? 」

「や、まあ歩けそうではあるし……多分大丈夫だけど」

「タクシー呼ぼうか。ごめん、全額出すのは厳しいけど僕も割り勘で出すよ」

「いや、そんな悪い」

 話し込む二人の間に一万円札が差し出される。野々垣と持留、示し合わせたように同時にお札を手にする石田を見やった。

「タクシー代、使ってくれよ」

「え、なんで」

「その代わり持留の恋バナ聞かせろ」

「聞かせろー! 」

「お願いします持留さん! 」

 河田と山口が性懲りもなく騒いでいる。一万円のタクシー代と交換にする自分の恋愛の話。適当にそれっぽい話をしてお茶を濁せばいいのだろうが、どうにも言葉が出ない。言いたくないことを無理やり言わされる。

 持留は苦しげな顔をして、石田を見つめた。

 悪ふざけの冗談だとでも言いたげな、楽しそうな様子だったが、持留の表情を見て彼は笑顔を引っ込めた。そして、切り替えるようにわざとらしく咳払いをする。

「まじで二人酔ってるな。年上がいながらこんなに酔わせて申し訳なかった。野々垣さん、悪いけどこのお金で二人、連れ帰ってくれ」

「ええっ! 恋バナはどうなるって言うんですか」

「酔いすぎだ、河田さん」

 何を話そうかとぐるぐる考えていた。話題が変わって、体の力が抜ける。

「ほら、持留。早くタクシー呼べよ」

 タダより怖いものはない、という言葉が浮かんだが、この状態の三人を徒歩で帰らせるのも怖い。頷いて、タクシーを配車するため裏で電話をかけた。幸い、すぐに来てくれるようだった。

 卓に戻ると野々垣が遠慮をして、タクシー代を押し返しているところだった。

「もー本当に申し訳ないので! 初めて会った人にこんなことしてもらうの」

「いいって。俺が調子乗って飲ませたし」

「……じゃあせめて、お会計は持ちます! ほら、二人とも財布出して! 」

「いや、それもいいって」

 二人の押し問答を見ていた。食事もタクシーも奢りというのを気がかりに感じる野々垣の気持ちが分かったので、会計の金額を見せて三人から代金を受け取る。その段になったら流石に石田も身を引いた。

 タクシーが店の前に到着して、河田と山口を連れていく。二人は支え合うみたいに手を繋いで歩いていた。カップルをタクシーの後部座席に押し込んで、野々垣は助手席に乗り込む。

「石田さん、色々ありがとうございました。楽しかったです」

「いえいえ! また来ることあったら一緒に飲もうよ」

「俺、今度石田さんのお店行きます」

 山口が身を乗り出して、そう言った。

「ぜひ、あ。でもさっき言った通りだから、広島の方に来てね」

 広島、という単語が耳につく。なんの話をしていたのか気になった。

「持留くんも相手してくれてありがとうね。迷惑かけてごめんね」

「いや、迷惑なんかじゃないよ。気をつけて帰ってね」

 野々垣と持留が話している間に、石田は後部座席側の扉から追加の一万円札をタクシーの現金トレーの上に置いた。野々垣が気づいて、返そうとする動作を見せたがその前に石田は扉を閉める。空気を読んだ運転手が車を発進させた。

 残された二人は手を振って彼らを見送る。

「……石田さん、お金使いすぎじゃないですか」

「大学生に奢んの楽しいんだよな」

「満足してるならいいですけど」

 知られたくないことは、おそらく知られずに三人を帰すことができた。その安堵が強く、また気前よく友人に奢る姿を見たこともあり、石田への憤りはあまりなかった。

「あ、お店ほったらかしだ。僕、戻ります」

「俺ももうちょい飲む。……なぁ、あとでちょっといいか」

「え、なんですか」

「今忙しいんだろ。後で」

 店内に戻ると、お客さんに声を掛けられて、注文を聞いた。バッシングやら皿洗いやら、山口たちを帰らせている間に随分やることが溜まっていた。石田から何を言われるのか、という不安は一旦横に置いておくことにした。



 閉店間際、お客さんは皆帰ったらしい。厨房で皿洗いを終えて、持留はひと息つく。

 普段とは違う疲労感があった。びっくりしたり心配したり、神経を尖らせたからに違いない。

 社員の方が作ってくれた賄いが冷蔵庫の中に入っていた。余ったお刺身海鮮丼。お腹が空いていたが、食べる前に石田と話さなければいけない。

 ホールに顔を出すと、石田と香坂が並んで座って話していた。

「あ、香坂さん。皿洗い終わりました」

「はーい、ありがとう」

「レジ締め、どうしましょうか」

「あ、大丈夫。こっちでやっとくからもう上がってもらっていいよ」

「了解です」

 石田の方を見るが、彼はこちらを見ない。どうしたらいいのか困ってしまう。

「えーっと、とりあえずタイムカード切ってきます」

「外で待っとくから」

 こちらを見ないまま、そう声をかけられる。

「煙草吸いたいから……、店の前で待っとく」

「……分かりました」

 店内では駄目な話なのか。一度更衣室に戻り、タイムカードを切る。敢えて制服のまま着替えずに、裏口から外に出る。煙草の匂いが私服につかないように、誘われて断る一つの理由になるように。

 店の入口に行くと、しゃがんでいる石田が見える。初めて話した時の斉賀の姿が重なって、心臓がどきんと音を立てた。

「お待たせしました」

「いや、早いよ」

 石田は煙草をふかしていた。その横にしゃがみ込む。エプロンを引きずらないように腿の裏に挟んだ。

 少し暑い。彼は何も言わない。電車の時間もあるから、そうのんびりとはしていられない。

「話ってなんですか」

「あー、うん。その……お前って可愛いよな」

「なんですか、突然」

 石田は眉間を拳で叩く動作をしながら、睨みつけるように煙を目で追った。

「可愛いから、舐めてた。ごめんな、さっき」

 思い当たることが多すぎて、どれに対する謝罪なのか考えた。

「……恋バナのやつですか」

「うん。お前、なんでも笑って許してくれてただろ。怒ったり悲しい顔したりしてるの見たことなかったし」

「そうでしたか? 石田さんが怒ることしなかっただけじゃないですか。今日のは、ちょっと……困りました」

「うん……ごめん。なんか適当にあしらってくれるって勝手に思ってた。泣きそうな顔させてごめんな」

 肩を落として謝る姿は、石田らしくない。それこそこんな彼を見たことはなかった。思わず、慰めを口にする。

「いや、そんな、そこまで怒ってないですよ」

 煙草を吸って吐いて、また静かになる。沈黙は気まずい。この人、こんな静かだったか、と記憶を探る。お喋りな人という印象があった。

 煙が夜の空気に融けて消えて、ようやく石田は口を開く。

「持留、俺さ。今度広島に転勤になるんだよ」

 山口と石田の会話に合点がいく。広島、行ったことのない場所だった。

「そうなんですか。寂しくなりますね」

 こぼした言葉は甘言でも嫌味でもなく、我ながら意外なことに本心だった。知り合いが遠くに行くのは少し寂しい。会わない、のと会えない、のは同じようで違った。わがままだけれど。

 石田がこちらを見る。改めて子どもっぽい顔をしている。迷子になって不貞腐れた子どもみたいだった。目を合わせて、話の続きを促す。

「なかなか持留に会う機会も無くなるかと思って。最後会いに来たわけだ」

「わざわざすみません。メッセージ送ってくれたらそれでよかったのに」

「いや、自分のためなんだよ。色々片付けないといけないから」

 そう言って石田はポケットから小さな箱を取り出した。白色の紙箱に真っ赤なリボンがラッピングされている。苺のショートケーキみたいだった。

「これ、二十歳の誕生日プレゼント。やるよ」

「え、えっ」

 驚きのあまり、差し出されたそれを受け取ることもできない。胸に押し付けられて、ようやく手に持った。

「今僕もう二十一、ですけど」

「二十歳になったお前にあげたくて去年の五月に買ったんだよ。買って、でもその後から会えなくなったから」

 斉賀と出会った後から、石田と距離を置いていた。あの頃からずっと、渡すために持っていてくれたのかと思うと、軽い箱がずっしりと重たく、罪悪感で胸が痛い。

「ありがとうございます。開けていいですか」

 頷いたのを見て、リボンを解いた。中にはジッポライターと記憶の中の石田がいつも吸っていた煙草が一箱入っていた。痛みが増す。

 成人したらあなたと同じ煙草を吸いたいと言ったのは持留だった。

「これ……僕が言ったの覚えててくれたんですね。ありがとうございます」

 石田の顔を見れなかった。性欲を解消し合うだけの仲だったはずなのに、渡されたものから優しさが伝わってきて、それだけではなかったのだと今更気づく。

「お前、煙草吸ってないんだろ」

「二十歳成りたての頃、ちょっと吸ってたんですけどやめちゃいました」

 その理由は言えなかった。

「そうか」

 二十歳になったその日、携帯灰皿を買ったときに、石田の分も買おうかと悩んで結局買わなかったことを思い出す。もし、あの時買っていたなら渡すために会っていたかもしれない。そうしたら、もっと早くこれを受け取っていただろうか。

「ずっと玄関に置いてたんだよな、それ。だから、家出る時も帰ってきた時もお前のこと思い出してた」

 きっとあの靴箱の上だ。石田の家にお邪魔したことがあったから想像がついた。

「引っ越しのために荷物整理してて、捨てようとも思ったんだけど、人のために買ったものだから。もらってくれるか」

「もらいます」

「よかった。もうオイル入れてるから、すぐ使える」

 火をつけてみたくて、早速キャップを開けて回転ヤスリを回した。しかし、うまく回らない。首を傾げつつ何度も試す。

 石田が手を伸ばして、持留の手からジッポライターを奪って手本を見せた。親指の腹を使って勢いよくヤスリを回すと火が点く。風に揺れても消えない、安定した火柱。

 小気味の良い音を立ててキャップが閉まると、火は銀色の中に消え失せた。

「すごい。ジッポ格好良いです。火点ける練習しないと」

「こんなんすぐできる」

 石田から返してもらったそれをじっと見つめた。横で彼が追加の煙草に火を点ける。

「石田さんって、思ってた人と違うかも」

「あ? どういう意味だ」

「なんか……モテるから、石田さんは」

「それはそう。俺はモテるために鍛えてるから」

 得意気に話すので、持留は彼が喜びそうな言葉を探した。こういう自慢したがりな人は何を言ったら喜ぶのかなんとなく分かる。

「ああ、相変わらずいい身体ですね。背中特にすごい」

「分かるか!? 最近僧帽筋重点的にやってるんだよ」

「すぐ分かりましたよ」

「だよな、背中って自分じゃあんま見れないけど、やっぱイケてるよな。触ってみる? 」

「いやいや、大丈夫です。僕なんか触るの失礼ですし」

 石田はむっとしたような顔をする。

「いや、俺は」

 その顔のまま、俯いて地面を見つめている。そして唸る。

「……ていうか、なんか話変わったな」

「あ、そうですね」

「思ってたのと違うって何が」

「……ん、なんかモテるから周りに男の人いっぱいいるだろうに、僕が欲しいって言ったもの覚えてて、それをプレゼントしてくれるのが意外でした」

 オブラートに包まず言うならば、石田は自分本意な人だと思っていたから、持留の話したことなど覚えているのは予想外だった。自分本位な人に合わせるのは、持留にとって楽なことだった。触れたい時に勝手に触ってくるのは、体だけの関係を持つ相手としてはすごく良かった。

 彼は相変わらず地面を見つめていて、自分の頭を乱暴に撫で擦っている。焦っているように見える。

「そんなん当たり前だろ」

「僕にとっては意外だったんです」

 石田がまた俯いて黙る。落ち着かない仕草から、何か言いたいことがあるのだと察する。最後なのだから、遅くまで付き合いたいが時間は残されていなかった。

「石田さん、その。僕終電あるのでもうそろそろ帰らないといけないかも」

 帰る手段が無くなってしまう。

「そうか、そうだよな」

 石田は新しく煙草に火を点ける。

「さっきの質問、答え最後まで聞いてない」

「……なんですっけ」

「俺と遊んでもよくね、ってやつ。なんで駄目なんだよ」

 彼は空いている手で、持留の手首を掴んで引く。山口たちが来る前の話の続きだ。改めて話すとなると小恥ずかしくて躊躇うが、時間もなかった。

「その、僕は。さっき石田さんに顔を触られた時に、好きな人のことを思い出してしまった」

 握る力が強くなる。

「きっと、誰とやってもあの人のことを想像しながらしてしまうから。だから嫌なんです。あの人のこと考えながら、違う人とセックスしたら自分のこともっと嫌いになるって分かる」

 彼の手が肌をたどって、持留の手の甲に移って、また握りしめる。知っている、ベッドの上でした動作。

「それ、今もか」

 恥じ入りながら頷く。自分は気持ち悪い。触れたこともない彼の手のひらが、自分の手元にあるような想像をしてしまう。やっぱりおかしい。

 手がぱっと開いて離れた。

「そんなん俺もやだ。そんなやつとするの萎える。……でも気持ちは分かる。とっとと離れていってくれたらいいのにな、こんな気持ち」

「そうですね」

 目を合わせる。ちっとも煙草に口をつけないから僅かな煙がじりじり燻っていた。

「その煙草が消えるまで、とか」

 持留が呟いた。その顔には諦観を感じさせる笑みが浮かぶ。石田は首を傾げつつ、その頬に手を添えようとして、伸ばした腕を途中で止めた。

「石田さんのもうひとつの質問、いつまで好きなのってやつ」

「ああ、聞いたな」

「期限を自分で決められたらいいのに。煙草が一本燃え尽きたら忘れるとか」

「……そうだな」

 石田は思い出したように、手元の煙草を見つめた。

「やばい、なんかポエマーですね。忘れてください」

「やだよ。忘れない」

「……意地悪ですね、相変わらず」

「俺は優しい」

 なんだか名残惜しくて、終わるのがさみしいが、持留は立ち上がってエプロンをはたいた。

「僕、帰らなきゃ。なんか他に言いたいことありますか」

「……大丈夫」

「福岡来る時、教えてください。いつかまた飲みましょう」

 石田は頷いて、寂しそうに煙草をくわえた。持留はもらったジッポライターと煙草の箱を、エプロンのポケットにしまった。

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