第35話 見ている女(ひと)の憂鬱⑥

(もの言わぬ魚、大海へ…)

「行きましょう。なぎさんの大切なところへ」


「私は、自分の好きなことをやっていいのでしょうか? 本当に?」


なぎさんのこのホロスコープの二番目の円の右側真ん中にある月の記号、これは、約二十九年という人生のサイクルの中においての心理的変化を見ていくことが出来るのですが、ちょうどその進行の月というものが七番目の部屋に入ったところなんです。これ、デビューの時期って言うんですよ。社会で、これまで以上の人たちに見つけられてしまう時期だからデビューなんです。同じことをしていても、別の時期ですと発見されにくいんです。今からは活動が外から発見されやすくなっていって、例えば作品があればそれが表に出やすくなるとか、そういう影響があります。ですから、今回のことは無自覚なところで、自分がそろそろ表に出る時期であることを知ってるということになります」


「で、びゅー…」


「それまでに準備が出来ていた人は、その準備を土台とした上で、ということですから、もちろんこれからでも遅くはありません。その気になればOKです。」


「その…気…」


「だからこそ、周囲の知っている人たちが、どんどん前に出ていくように、活躍していくことが多く視界に入るようになっていたと思われます。気にならなければなんてことないわけですが、気になってしまった。気になりすぎるほど周囲が活躍していって、不思議に思った…。それは自分の番だよ、何かで自分が今以上に自分サイズで外に向かう時期が来ているよっていうお知らせだったんです」


「私の好きなことを…」


「そうです。お手伝いから始まるとか、発表とか、セッションや講師とか、色々可能性はあると思いますが、ご自身がやはりこれだと思ったものが、それ、です」


「学んでいる先生から…やってみないかって言われていることがあります。私は勉強不足、人前に出ることなんて力不足過ぎて、まだまだ無理だって。それに先生もハッパかけているだけで、まさか本気じゃ無いと思って…私」


「本当に、軽い考えや気持ちで、その方は言っているのでしょうか?」


「そうしておきたい…、私がいます。いました…ああ、でも、いいんでしょうか…」


「いいと思いますよ。やってみなくちゃわかりません。どこまでいくか、どこまで何をしていけるのか…動いてみると、その先が見えてくることになるでしょう。またそこで、立ち止まって考えて決めていくんです。その繰り返しです。その先生も何らかのなぎさんの動きとか発言を待っていらっしゃるかもしれません」


「ああ、なんてことでしょうか。そう思うと、膨らんできます。前が広がっていくような感じがします。目の前で魚が…跳ねて、海上に跳び上がって、陽の光を浴びて光っているんです、今」


「ええ、そうですね」


「見えているんですね、七色さん」


「さぁ、どうでしょうか…。私にはなぎさんの肩の力が抜けて、胸の前の方が先ほどより大きく広がっているように見えています。この方が随分と呼吸がラクですね」


「あぁ、はい。呼吸…そうですね。ラクです。今、なぜか前が広がっていくような気がしているんです。あの、魚を、いえ、あの魚のようにこれまでの場所を飛び出して、南へ、大きな海の方へ、行けばいいということなのでしょうか?」


「はい。なぎさんは、もうご存じだったんですよ。ご自身のこと。もう、水を得た魚、ってそのままじゃないですか。お魚さんも随分違っているように思われます。活き活きとして、力強さもあって、同じとは思えないような推進力で」


「ええ、ええ、そうなんです。魚がなんだか逞しくなっているんです。私の家の中で見えていた時は、小さくてただ泳いでるっていう感じだったのに、飛び出した後からは真っ直ぐに、目的があるかのように、なんです。私は、随分と長い間、自分のことを縛ってきていたということでしょうか。誰もやっちゃいけないなんて言ってなかったんですよ。本当にそうです。勝手に自分が自分のことを出来ない人だって、やっちゃいけないんだとさえ思ってきたんですから…」


「でも。来ちゃってますね。その時期が。占星術で見ると、七ハウスに進行の月が入った、という言い方になります。環境に出て行く時が、発見されやすくなる時がもう来ました。南の海を行く魚は…、もう、呼んでるってことですよね、なぎさんのことを…」


 これまでの思いが一杯、胸の奥に詰まっていたのだろう。ひとしきり話し終えると、七色が新たに注いだハーブティを気持ちを落ち着けるかのように飲んでいた。


 その時、なぎは初めて、カップの下のソーサーの真ん中に一頭の小さな「蝶」がいることに気が付いた。羽を広げているようから見て、飛んでいる瞬間なのかもしれない。白地のカップ&ソーサーなので色は無いが、凹凸のほんの少し影になる部分に薄いグリンが入っている。先ほどまで気が付かなかったのに、今はその白く見える蝶が浮き出てくるように見えて驚いていた。


「あ…」


「七ハウスはもともと天秤座の場所なんですけれど、今現在、なぎさんの進行の月というのがその七ハウスに入ったばっかりなんですね。一つの星座には三〇度あるのですが、その一番最初の一度、そのサビアンシンボルという象徴文が「蝶」なんですよ」


「蝶…」


「環境に出て行く始まりを表わしている天秤座の一度のサビアンシンボルは「突きとおす針により完璧にされた蝶」というものです。そしてなぎさんは、その蝶が描かれていることを知らずにこれを最初から選んでいた…。活躍している人たちばかり…というのは、知らずその蝶を外の世界に見ていたということでしょう。」


「でも、針って…」


「これは標本にされている蝶のことです。羽を広げることで、その蝶の持つ特徴が明確になるという例えです。何を他者にどう伝えたいのかを明確にすること、そして自分が環境からどう見える存在になっていくのかということを意識していくことで、何をしている人なのかということが、ハッキリわかりやすくなって、その人の存在感が社会という環境の中で広がっていきます。敢えて標本の蝶のようであろうとする人ほど、わかりやすさによって環境から受け入れられやすい、とも言えるでしょう」


「ふ…不思議ですね…でも、そう…なんですね」


「はい。すべては用意されていたかのように、だと思います。なぎさんが壁面のあの棚から選んだこの白地のカップとソーサーは、これまでの固くなっていたものを大きく変えていこうとする時期を表わしていると思われます。変えたい、だけどまだ具体的にどうしたらいいかはわからない…というような思いでいらしゃったのではありませんか?」


「このままでは、嫌だというか、ダメだ、という気持ちになることが増えてきていたんです。だからといって、どうしたらいいのか…」


「まずはあまり能力や具体的な準備が…と深く考え込まずに、リフレッシュするような気持ちで旅行に行くとか、夢で見たように海に飛び出して泳いでいく、魚みたいに、というのもありだと思います。いつもと違う環境で、のびのびと両手両足を思いっきり伸ばして深呼吸した時に、自分がもっとどうしたいかということが見えてくるかもしれません。これも可能性です」


「実は…島で過ごす一週間というワークに行くことを迷っていたんです。好きだっていうだけで、学ぶだけでまた何にもならないのに行くなんて…それで家を長く空けるだなんて、それは良くないこと、やってはいけないことのように思えて、やっぱり申し込むのを止めようって考えていました…」


「はい」


「でも…、そういうことですよね。飛び出すって。環境も、自分も、変えたい、変わりたい、そう思っているんです。ひょっとしたら、その先にこの「蝶」が、他の誰か…では無くなることもあるのかもしれませんよね」


「ええ、そうですね。その今は白地の蝶に、花の蕾に、なぎさんらしい何らかの色が新しく入って来る、ということが待っているでしょう」


「あの…七日目でここに来れたんです。きっと、たぶん…なかなかですね、私も」

 凪はようやく笑ってそう言った。


 「はい。なかなかで…いらっしゃいます」

 緩み始めた彼女の姿を見て、七色も笑った。




 

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る