終章
「来実の臓器を移植した被験体たちですが、全員の手術が成功したそうです」
「そうか」
施設の職員全員が集まる中で、それは伝えられた。
来実は人生を全うした。クローンの最期としては、これ以上ないほどの幸せな終わりだといえるだろう。
しんと静まり返る中、どこからともなく、鼻を啜る音が聞こえ始める。そして、ついには私と所長以外の全員が泣き出してしまった。
「お前たち……去果がいるのに、泣くんじゃない」
「良いのよ。あの子のために泣いてくれる人がいて、私は嬉しいわ」
すると、押し殺すように泣いていた職員たちは、堪え切れなくなったように、嗚咽を漏らして泣き出した。
所長は呆れていたが、私は本当に嬉しかったのだ。来実の死を悲しんでくれるということは、彼女を一人の人として見てくれているということなのだから。だけど、大の大人の男たちが、号泣している姿を見るのは、正直少し面白かった。
ちなみに、これは余談ではあるが、あの時、本社の奴らに手を出した職員たちには、数カ月の減給処分が下されたそうだ。
所長は溜息を吐くと、私の方に振り向く。
「去果。一緒に来なさい」
泣き続ける彼らを残し、部屋を後にする。この真っ白な廊下にも、すっかり慣れてしまったが、居心地の悪さは相変わらずだ。私たちがいるのは、いつもの施設ではない。本社だ。
私たちがずっと暮らしてきたあの施設は、閉鎖されることになった。そのため、所長と職員たちは本社勤務となり、私もここで生活することになったのだ。元々あの施設は、所長が私を本社から遠ざけるためだけに作ったものらしい。
所長について行き、たどり着いた場所は、屋上だった。ここに来るのは、これが初めてだ。並べられたベンチの一つに、彼は迷うことなく向かっていく。
「座りなさい」
促されるまま腰掛けると、所長も隣に座る。そして、懐から何かを取り出すと、それを私に差し出してきた。
「君に頼まれていたものだ」
受け取ったガラスの小瓶には、白い粉が半分ほどまで入っている。
「ありがとう」
私は小瓶をぎゅっと胸に抱きしめた。これは、来実の遺灰だ。私が所長にお願いしていたのだ。
クローンも人間と同じように、死んだら火葬され、遺灰は業者に引き取られ、遺骨は土に返される。だが、人間と違って墓標はなく、誰かが墓参りに来ることもない。ただ、今は所長が一人で花を植えて、墓参りにも行っているらしく、昔ほど寂しい場所ではないそうだ。
会話が途切れ、私も所長も黙り込んでしまう。来実の死や本社への引っ越しで、ばたばたと忙しく、こうして二人きりになるのは久々で、何を話して良いか分からない。……いいや。本当は、彼に言わなければならないことがある。来実と約束したのだ。父親だと思っていることを、ちゃんと彼に伝えると。だが、いざ言おうと思っても、勇気が出ない。だって、もう長いこと、親子らしい会話なんてしていないのだ。だけど、あの時。駅のホームで、所長が本部長を殴った時。彼は私を娘だと言った。そして、私も、彼をお父さんと呼んだ。あの言葉は、本当なのだろうか。彼は本当に……私のことを、娘だと思ってくれているのだろうか。
ちらりと横目で、所長をうかがう。彼は眉間にしわを寄せて、険しい表情を浮かべていた。だが、そわそわと視線をさまよわせ、どこか落ち着かない様子だ。もしかしたら、彼もこの状況に、緊張しているのかもしれない。
「ねえ。来実から聞いたのだけれど、臓器移植に成功して、今も生きてる人がいるんでしょう?」
そう尋ねると、彼はぴくりと肩を震わせた。
「……ああ。彼女から、どこまで聞いたんだ?」
「どこまでって言われても、その臓器をあげたクローンと、心臓をもらった人が、恋人同士だったということくらいしか聞いてないわ。……どうして?」
「いや……何でもない」
何だか、歯切れが悪い。そういえば、問い質したら渋々教えてくれたと、来実が言っていたから、彼はこの話をしたくないのかもしれない。
「貴方はその人に、会ったことがあるの?」
「……ああ。どちらもよく知っている。心臓をもらった方も……心臓をあげた、クローンのことも」
もしかして、所長はその二人と深い親交があったのだろうか。
「どんな人だったの?」
「……どちらが?」
「どちらもよ」
彼は目を伏せて、考えるように黙り込む。そして、しばしの沈黙の後、ゆっくりと語り出した。
「……男は生まれつき、心臓が悪かった。彼の父親は、この研究所に勤めていて、彼にクローンの心臓を与えることにしたんだ」
「自分の息子を実験台にしたの?」
「いつまでたっても現れないドナーを待ち続けて死ぬよりも、一か八か、クローンの心臓を移植して死んだ方が役に立つと考えたんだ」
同じ死ぬなら、その方が合理的かもしれないが、いささか心が無さすぎやしないだろうか。まるで、本部長みたいな父親だ。
「男はそれを了承し、本社で入院生活を送り始めた。退屈だった彼は、夜になると屋上でギターを弾いていた。それをこっそり聞いていたのが、後に彼に心臓をあげることになる、クローンだった」
それが、運命の出会いであり、悲劇の始まりでもあることを、私は知っている。だって、私はすでに、二人の結末を知っているのだから。
「クローンの子が隠れて聞いていることに、男は気付いていて、ある日、声をかけたんだ。それから、二人は毎日のように屋上で話すようになり、すぐさま恋仲になった。だが、そんな幸せも、長くは続かなかった。クローンの子に、臓器提供の話が舞い込んできたんだ。だから、二人は逃げた。でも、まだ若く、何の力もない二人が逃げたところで、どうすることもできない。……君も分かるだろう?」
「……ええ」
所長の諦めたような力のない笑みに、胸が痛む。
「捕まえに来た大人たちに、男は抵抗した。だが、その時に……運悪く、心臓発作が起きたんだ。そして、意識を失って、目が覚めた時には……その子の心臓が、彼の中にあった」
最後の方の言葉は、絞り出したかのように掠れて震えていた。
「あの子は、誰か知らない人の心臓になるのではなく、愛する人の心臓になることを選んだ。あの子は彼に……生きてほしかったんだ」
私は思わず息を呑んだ。彼の言葉にではない。彼の目から零れ落ちた一粒の涙に、息を呑んだのだ。そして、そのまま、彼は静かに泣き出した。
「でも、彼は……そんなことは望んでいなかった。一人生き残るくらいなら、一緒に死にたかった。だけど……本当は。本当は、あの子と一緒に生きたかったんだ」
所長は胸元を強く握りしめていた。
彼の言葉、彼の涙を目の当たりにして、私の頭の中に、一つの答えが浮かんでくる。
「……まさか、貴方が?」
心臓をもらった男というのが、所長だとするのなら、辻褄が合うのだ。だって、彼の父親は本社勤めで、彼の趣味と特技はギターで、彼は愛する人を亡くしていて……。彼が走れないのが、クローンの心臓をもらったからだというのなら。本部長が言うあの時のことが、二人で逃げたことだというのなら。全て、全て、繋がるのだ。
「……そうさ。その男は、私のことだ」
そうか、そういうことだったのか! 彼が、クローンの臓器移植の唯一の成功例で、そして、彼に心臓をあげたクローンというのが……。
「じゃあ、貴方に心臓をあげたのは、束咲さんなのね」
「そうだ。あの子の他の臓器は、どこかの誰かに移植されたが、全員すぐに死んでしまった。心臓をもらった私だけが、今日まで生きているんだ」
ぽろぽろと涙を零し続ける所長に、私は言葉を選びながら、ゆっくりと言った。
「私には、医学的なことや、科学的なことは分からないけれど……だけど、この世界には、医学や科学では説明できない何か……目には見えない不思議な力があると、私は思うの。束咲さんは、貴方に生きてほしくて、心臓をあげたんでしょう? そんな束咲さんの愛が、貴方を今日まで生かしたんじゃないかしら」
だって、そうじゃなきゃ、説明がつかないだろう? 束咲さんの臓器をもらった他の人は死に、所長以外に臓器移植に成功して生きている人は、誰一人としていないのだ。これを、愛の力だと言わずして、他に何というのか。
「そうかもしれないな」
所長が穏やかに微笑むと、その目に溜まった涙の雫がぽろりと落ちた。それが、最後の涙だった。彼はもう泣いてはいなかった。
「昔の私と同じ選択をする君を見て……嬉しかったんだ。結果はどうであれ、あの時の私の選択は、間違っていなかったと。そう思えて、救われたような気持ちになった。だからこそ、君には私と同じ悲しみは味わわせたくなかった」
「だからずっと、私たちの味方でいてくれたのね」
「ああ。束咲がくれたこの命は、大切な娘を守るために使うと決めていた。束咲を亡くしても、君がいたから、私は生きてこられたんだ」
さらりと言われた言葉に、どくんと大きく心臓が跳ねて、息が止まる。
「私、貴方に……ずっと聞きたかったの。貴方は私のことを……娘だと、思ってくれているの?」
「当然だ。血の繋がりはないが、君は私の、私と束咲の大切な娘だ」
その言葉に、一瞬で視界が滲む。それは、私がずっと聞きたかった言葉だった。
「束咲と一緒に君を育てていた時から、変わらず君を愛してる。君からしたら、私は良い父親ではないかもしれないが」
自信がなさそうに俯いた所長に、私は思いっきり抱き着いた。抱き着かずにはいられなかった。
本当は分かっていたのだ。彼が私を娘だと思ってくれていることも、愛してくれていることも。だけど、成長するごとに会話が減り、一緒にいる時間も少なくなり、段々と自信が持てなくなっていって。だから、どうしても彼の口から、この言葉を聞きたかったのだ。
「貴方はずっと、私の自慢の父親よ。大好きよ、愛してるわ……お父さん」
「……はは。その呼び方は、久し振りだな。本当に、随分と、久し振りだ」
背中に腕が回されて、しっかりと抱きしめられる。
私たちは、血の繋がりはないけれど、確かに親子だ。確かに家族なのだ。
「束咲さんの……お母さんのこと、もっと教えてくれる?」
「勿論だ」
「ありがとう」
これまでの時間を埋めるように抱きしめ合って、それからゆっくりと離れる。
「貴方に一つ、お願いしても良いかしら」
「何だ?」
「私が死んだら、私の遺灰と来実の遺灰を、海に撒いてほしいの」
私もきっと、彼を置いていくことになるだろう。そうしたら、彼は本当に一人ぼっちになってしまう。こんなお願いをしておきながら、それが申し訳なくて、彼の顔を見られず俯いてしまった。
「去果。娘の願いを叶えられるなら、父親冥利に尽きるものだ。だから、そんな顔はしなくていい」
私の心の内など、お見通しなのだろう。顔を上げてみれば、彼は優しく微笑んでいた。
「必ず果たすと約束しよう」
「ありがとう。お父さん」
そして、どちらからともなく、再び抱擁を交わした。
こんな日が来るなんて、思ってもいなかった。きっと、来実と出会わなければ、こんな日は訪れなかっただろう。この瞬間、この未来があるのは、他の誰でもない彼女のおかげだ。そして、今の私があることも。
私は生きていく。最期まで、私らしく生きていく。
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