三章(五)

 あれから、一週間がたった。来実は日に日に、目に見えて衰弱していった。彼女が死に近付いていく姿を見るのは、心苦しく辛かったが、それでも片時も離れることはなかった。

「本社に行けば、適切な治療を受けられる。そうすれば、そいつと一緒にいられる時間も長くなるんだぞ? ここで死を待つよりも、ずっと良いじゃないか」

 本社の奴らは、未だにこの施設に留まっていた。そして、本部長はといえば、毎日のように来実のもとへやってきては、こうして甘い言葉を囁くのだ。弱っている彼女に付け込むような、卑劣なやり方だ。

「そんな甘言には騙されないわよ。本社に着いたら、すぐに殺すくせに」

 奴らはどうしても来実を本社に連れて行きたいようだ。その思惑を、もう隠そうとしなくなった。そして、私も同じように、敵意を隠すのをやめた。

「お前には聞いてない。私は来実に聞いてるんだ。決めるのはお前じゃない」

 互いに目を逸らさずに、無言で睨み合う。

「去果」

 その時、来実がか細い声で私を呼んだ。

「どうしたの?」

 すぐさま振り返り、上体を起こした彼女の身体を支えるように、すっかり細くなってしまった肩と腕に手を添える。

「本部長。私、本社に行きます」

「来実!?」

 その言葉はあまりに衝撃的で、驚きを隠せなかった。

「どうして……」

 震える唇から、そんな呟きが漏れる。彼女はこちらを見ようともせず、俯いて口を閉ざし、何も言おうとはしなかった。

「あっはっは。それじゃあ早速、準備に取り掛かろう。早ければ、明後日にでも行けるだろう」

 勝ち誇ったような顔でそう言って、本部長は背を向けて去ろうとする。

「待ちなさい。来実が本社に行くなら、私も一緒に行くわ」

 私の言葉に、彼は立ち止まり振り返ると、鼻で笑った。

「はっ。どうせまた良からぬことを考えているんだろう。お前には散々辛酸を舐めさせられたんだ。邪魔をされたら困る」

「本部長。去果が一緒に来てくれるのなら、私の心が変わることはないでしょう」

 来実はそう口添えして、そのまま言葉を続けた。

「それに、本部長が言ったんじゃないですか。本社に行けば、去果と一緒にいられる時間が増えるって。それは、嘘だったんですか?」

「……仕方がない。去果。お前も一緒に連れて行ってやる」

 来実の気が変わることを危惧したのだろう。眉間にしわを寄せ、あからさまに嫌そうな顔をしながらも、私の申し出を了承した。

 本部長が部屋を出て行った数秒後、私は堪え切れなくなって、つい笑い声を零す。

「……ふふ。私たち、中々の演技力じゃない?」

「うん。迫真の演技だったよ」

 私たちは顔を見合わせて、悪戯っぽく笑う。

 そう。本部長とのやり取りは、全て演技だった。私たちの計画は、すでに始まっている。

 ことの発端は、三日前の夜だった。



「ねえ、去果。臓器移植が、一度だけ成功してるって、知ってる?」

「いいえ。知らないわ」

 来実は唐突に、そんな話をしてきた。

「その人は、クローンの心臓をもらって、今も生きてるんだって」

「あいつが言ってたの?」

「ううん。所長が口を滑らせたから、私が問い質したの。そしたら、渋々だけど教えてくれたんだ。所長より後に入った職員たちは、知らないことなんだって」

 確かに、生まれてこのかた施設暮らしの私でも、噂ですら聞いたことのない話だった。だが、何故隠す必要があるのだろう。臓器移植の成功は、この研究所にとって悲願であるはずなのに。

「そのクローンは、自ら望んで心臓をあげたの。……去果。どうしてその子が、心臓をあげたのか、分かる?」

「クローンの子は、その人のことを愛してたんじゃないかしら。だから、心臓をあげた。違うかしら」

「正解だよ。心臓をあげたクローンと、心臓をもらったその人は、恋人同士だったんだって」

 臓器をもらう側であるレシピエントは、臓器提供者がクローンであることを知らない。ごくまれに知っている場合もあるが、当事者同士が対面することは決してないのだ。だから、対面しているどころか恋人同士だったということは、その心臓をもらった人というのは、よほどこの研究所に関わりの深い人物なのだろう。

「その人は、自分に移植された心臓が、恋人のクローンのものだと知っているの?」

「うん」

「そう。……愛する人の心臓で、一人生き続けているその人は、どんな思いで生きてるんでしょうね」

 その悲しみや苦しみは、想像を絶するものだろう。だけど、これから私も、一人残される側になるのだ。

「……そうだね。でも、心臓をあげたクローンは、きっと幸せだったんじゃないかな。愛する人と出会えなければ、その子はクローンとして知らない誰かのために殺されるだけだった。だけど、その人と出会えたから、その子は一人の人として生きられて、愛する人のために死ねた。……生まれた時から、結末を決められてるクローンが、そんなふうに生きて死ねたなら、それ以上幸せなことはないよ」

「そうね」

 生き方も死に方も決められている私たちクローンが、愛する人と出会えることは、奇跡のようなものだ。来実の言う通り、そのクローンの子は、幸せだっただろう。だけど、私はどうしても、心臓をもらって残された方に感情移入してしまった。

「去果。私も、そんなふうに終わりたいの。ここでクローンとして、ただ死を待ちたくない。私は最期まで、自分として生きていたい」

 先ほどまで穏やかに語っていたのが、どんどんと眉間にしわが寄って、思い詰めた表情に変わっていく。そして、来実は私を一瞥すると、意を決したように言った。

「去果。私を連れ出してくれる?」

 一瞬だけ合ったその目は、酷く不安そうに揺れていて、布団を握りしめた手は、小さく震えていた。それは、いつも自信に溢れた彼女が見せた、十七歳の少女らしい弱さだった。

 ここにいる限り、彼女はクローンとして扱われ続ける。彼女が押切来実として、最期を迎えるために、私ができることは……。

「来実」

 ぴくりと彼女の肩が跳ねる。未だに震えている来実の手に、そっと自らの手を重ねた。

「覚えているかしら。貴女が初めてこの施設に来た日。貴女は私をここから連れ出してくれたわよね。今度は私が、貴女を連れて行くわ」

 すると、彼女はぱっと顔を上げた。見開かれた瞳に、じわりと涙が滲んでいく。

「……本当に? 去果。本当に、連れ出してくれるの?」

「どこだろうと、貴女が望む場所へ、連れて行くわ」

 来実の目から、ついにぽろぽろと涙が零れ落ちた。そして、彼女は飛び込むように、私の胸に顔を埋める。

「ありがとう、去果」

 すすり泣く彼女の身体を、しっかりと抱きしめる。以前は柔らかかったのに、今では骨の当たる感触がする。残された時間がもう僅かであることは、明白だった。

 どこへでも連れて行くと、彼女にはそう豪語したが、結局私一人の力では叶わない。頼れるのは……彼だけだ。



 日付が変わる前の深夜。私は所長の自室の扉をノックした。もう寝ているかもしれないと思ったが、まだ起きていたようで、すぐに扉が開く。

「去果。どうした?」

 夜遅くにもかかわらず、彼は嫌な顔一つせずに、優しい声色で尋ねてきた。

「話があるの。中に入っても、良いかしら?」

「ああ。入りなさい」

 部屋に入り、扉を閉める。所長はソファに向かっていったが、私はその場から動かなかった。

「どうしたんだ?」

 それに気付いた彼が、心配そうに尋ねてくる。私は何も答えず、無言のまま土下座をした。

「去果?」

「お願い。来実をここから連れ出したいの。でも、私一人の力じゃどうにもできないわ。だから、協力してほしいの」

 彼は何も言わない。それでも私は、ただただ頭を下げ続けた。私には、それしかできないからだ。

 足音が聞こえてきて、彼が近付いてきたのが分かる。

「とりあえず、顔を上げなさい。私はそんなこと望んでない」

 そう言われて、ゆっくりと顔を上げた。彼のはっと息を呑む音が聞こえる。

「去果。……泣いてるのか」

「わざわざ言わないで頂戴」

 だから顔を上げたくなかったのだ。小さい頃ならまだしも、今の私は十七歳だ。泣き顔なんて、見られたくないに決まっている。それなのに、どうしても涙を止められなかった。

 大好きで大切な、あの子の最後の望みだから、絶対に叶えてあげたい。だけど、本当は、死んでほしくないのだ。

 泣き続ける私に、所長がおずおずと腕を伸ばしてくる。そして、躊躇いながらも、彼は私を軽く抱きしめた。懐かしい温もりと香りに包まれた瞬間、酷く安堵感を覚えて、私は堪え切れずに嗚咽を漏らして泣いた。

 しばらく泣いて、ようやっと落ち着きを取り戻してきた頃、所長はそっと身体を離して尋ねてきた。

「本気なのか? 本気で、来実をここから連れ出すつもりか?」

 私は鼻を啜り、真剣な眼差しで彼を見据えて答えた。

「ええ。本気よ」

「そんなことをすれば、今度こそ庇いきれないぞ」

「庇わなくて良いわ。責任は全て私が背負う。どんな罰でも受けるわ。だから、お願い。あの子をここから連れ出す手助けをして」

「……殺されるとしてもか? あの子のために、命を懸けるのか」

「あの子のために死ねるのなら、本望よ」

「……そうか」

 私の意志を確認すると、彼は目を伏せて微笑んだ。

「本当に、あの子のことが大切なんだな」

 その笑顔は悲しげなのに、どこか晴れ晴れとしているようにも見えた。

「分かった。君にそこまでの覚悟があるのなら、協力しよう」

「迷惑ばかりかけて、ごめんなさい」

「構わない。子どもは大人に迷惑をかけるものさ」

 所長は幼子を宥めるように、私の肩をぽんぽんと優しく叩く。それから、無言でじっと私を見つめてきた。

「なあに?」

「いや。子どもの成長は早いなと思っただけだ。腕の中に収まるくらい小さかったのに、いつの間にか、こんなに大きくなっていたんだな」

 彼は感慨深げに、しみじみとそう言った。

 きっと、父親代わりが彼じゃなかったら、協力なんてしてくれなかったはずだ。それどころか、とっくに見限られて殺されていただろう。私が今、こうして生きていられるのは、間違いなく所長のおかげだ。彼が育ててくれたから、私はクローンではなく、見留去果として生きてこられた。彼にとって私は、血の繋がりも何もない、ただの実験のためだけの、偽物の娘にすぎないのに……。

「でも、土下座するのはやめてくれ。そんなことしなくても、君の願いなら叶えてやるさ。何か頼りたい時は、普通に言いなさい」

「分かったわ。……ありがとう」



 こうして、私たちの計画は始まった。

 とりあえず、来実が本社に行くことを承諾し、私もそれに同行できるようにするという、第一目標は達成できた。あとは、護送中に上手く逃げ出して、電車に乗れば良いだけ。それだけだ。失敗は許されない。何としてでも、成し遂げる。

 私は来実の手を、両手でしっかりと握りしめて言った。

「来実。必ず貴女をここから連れ出すわ」

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