三章(四)

 ベッドに座り、来実の穏やかな寝顔を眺めていると、誰かが扉を叩いた。きちんとノックするということは、本部長ではないだろう。扉を開けたのは、所長だった。彼は静かにこちらに歩いてくると、ちらりと来実の様子をうかがう。

「今日はもう誰も邪魔しないから、二人の時間を過ごしなさい。それだけだ」

 本当にそれだけ言って、彼は部屋を出て行こうとする。

「ちょっと待って」

 私は所長を引き留め、ベッドから降りた。

「どうかしたのか?」

「もし、時間があるなら、一緒にお茶でもしない? 私、お腹が空いちゃって、丁度キッチンに行こうと思ってたの。あの子は今、眠っているから。……どうかしら?」

 真剣な話だと思って構えていた所長は、少し拍子抜けしたような、けれども安堵した様子で、表情を和らげた。

「そうだな。良いだろう」

 断られるかと思ったが、意外にもあっさりと了承してくれた。

「そうめんで良いか」

「良いわよ」

 キッチンに着くと、所長はてきぱきと準備を始める。座って待っていなさいと言われたので、私は大人しくその通りにしていた。

 彼は出来上がったそうめんを、私の前に置く。

「食べなさい」

「ありがとう。いただきます」

 私が食べている間、所長はアイスカフェオレを飲んでいた。この間に、会話は一切ない。それでも、何年かぶりの所長との食事は、ささやかながら心が温まるものだった。

「ごちそうさま。美味しかったわ」

「そうか」

 食事を終えて、二人でちびちびとアイスカフェオレを飲む。

「随分とゆっくりしているが、来実のところに戻らなくて良いのか?」

「ええ。こういう時にしか、貴方と話ができないでしょう?」

 私はグラスを置いて、じっと所長を見つめた。彼はちらちらとこちらを見たり、逸らしたりして、視線をさまよわせている。

「私、貴方にずっと隠していたことがあるの」

「何だ?」

「私が海に行きたかったのは、小さい頃に写真を見たからなの。貴方と、私の知らない人が写った写真よ」

 グラスを傾ける手が、ぴたりと止まる。

「貴方とその人は、とても幸せそうに笑っていたわ。あの写真の人が、私のお母さん……ツカサさんなの?」

 パリンと、ガラスの割れる音が響いた。所長の手から落ちたグラスが、テーブルの上に散らばる。中身のカフェオレは残り少なかったとはいえ、床にまで飛び散っていた。

「ちょっと、大丈夫?」

 慌ててティッシュを何枚か取って、テーブルの端から滴るカフェオレを食い止める。流れ落ちたカフェオレは、所長の白衣に茶色い染みをいくつも作っていた。それでも彼は微動だにせず、座り続けている。仕方なく新しいティッシュを取って、テーブルの上を拭いていると、手首を掴まれ止められた。

「どうして……その名を知っているんだ。どこで知った? あの人が言ったのか?」

 その声は酷く震えていて、瞳は微かに潤んで揺れていた。

「いや、言わなくて良い。私の前で、その名を口にしないでくれ」

 彼はそう言うと、立ち上がってティッシュを取り、テーブルを拭き始める。その手を、今度は私が掴んで止めた。

「……小さい頃、私を寝かしつけてる時に、貴方の方が先に眠ってしまうことがあったわ。その時に、貴方が呼んでいたの。泣きながら、呼んでいたのよ。一度だけじゃないわ。毎回よ」

 無自覚だったのか、彼は驚きと困惑の表情を浮かべて、明らかに動揺している。

「あの写真の人はお母さんで、お母さんの名前はツカサさんなんでしょう?」

 間違いないことは、この反応を見れば分かったが、彼の口から聞きたかった。すると、観念したのか、彼は溜息を吐き、椅子に座り込む。

「そうだ。見留束咲。君の母親の名前だ」

「ツカサさんって、どういう字を書くの?」

「花束の束に、花が咲くの咲くで、束咲だ」

 なるほど。そういう字を書くのか。束咲さんのことは、一度写真で見ただけで、どんな人なのかは全く知らない。だけど、お母さんにぴったりな、良い字だと思った。

「君がどの写真を見たかは分からないが、私と一緒に写っていたなら、束咲で間違いないだろう」

「可愛らしい人だったわよ」

 お母さんの印象を告げると、彼はふっと小さな声を漏らして笑った。

「そうだな」

 その穏やかで柔らかな笑みは、あの写真に写っていた所長の笑顔と同じだった。

 ああ。彼は本当に、束咲さんを愛しているのだ。たった一言なのに、声色や表情から、束咲さんへの愛が伝わってくる。

「君はまだ子どもだが、何も分からないほど、子どもじゃない。束咲がもうこの世にいないことを、君は分かっているんだろう?」

「……ええ」

「束咲のことは、いつかは君に話さなければならないと思っていた。代わりでも、覚えていなくても、君にとっては母親だからな」

 貴方だって、私にとっては父親よ。そう思っても、伝えることはできなかった。

「じゃあ、聞いても良いかしら。本部長が言う、あの時のことって何なの? 所長と束咲さんに関係してるんでしょ?」

 すると、所長は途端に表情を暗くした。やはり、これを聞くのは早計だっただろうか。

「……すまないが、今は話したくない」

「分かったわ。貴方が話したくなったら、聞かせて頂戴」

 これは私の推測でしかないが、あの時のことというのは、お母さんが亡くなった時のことなのではないだろうか。そう考えれば、彼が話したがらないのも頷ける。誰だって、自分の愛する人が亡くなった時のことなど思い出したくないし、話したくもないだろう。

「去果。そろそろ、来実の元へ戻りなさい」

「ここを片付けてから戻るわ」

 流石に、この惨状を放っておくわけにはいかない。だが、彼は鋭い視線を向けて、きっぱりと言った。

「いいから、行きなさい。君は彼女のそばにいるべきだ。分かるだろう?」

 彼の言いたいことも、私のやるべきことも、分かっていた。

 私が頷けば、彼は僅かに微笑む。

「行きなさい」

 私は所長を残し、キッチンを後にした。だが、すぐには来実の元へ行かず、こっそり彼の様子をうかがっていた。

 割れたグラスの破片や、飛び散ったカフェオレを、彼は淡々と片付けていく。その時、彼の目から、前触れもなく涙が零れ落ちた。すすり泣きながらも、片付けを続けていた所長だったが、ついに堪え切れなくなったのか、胸元を押さえながら、とうとうその場に泣き崩れてしまった。聞こえてくる嗚咽に、胸が痛む。居たたまれず、私はそっとその場から立ち去った。

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