三章(三)
「いつになったら、来実に会えるの?」
あれから二日もたったが、自室に監禁され続け、未だに来実に会えずじまいだった。
「すまない」
所長はただ一言、謝罪した。
私の見えないところで、彼が尽力してくれているであろうことは、分かっている。だが、こうしている間にも、来実の命は削られているのだ。あの子が死んでしまうかもしれないという焦燥感から、文句を言わずにはいられなかった。
「去果」
顔を上げると、所長は私の前に、一つの鍵を差し出した。
「なあに?」
「君がいつも、検査を受けてる部屋があるだろう?」
「ええ」
「その隣の部屋に、来実がいる。これは、その部屋の鍵だ」
私は奪うように、その鍵を手に取った。だが、鍵があっても、この監視下で、どうやって会いに行けというのだろう? 扉の前には常に職員がいて、お風呂かトイレの時にしか部屋から出られない。出られたとしても、見張りがそばにいるのだ。こうなったら、シーツでも結んでつなげて、窓から逃げようか? 鍵を見つめながら考える私に、所長は言った。
「トイレに行くふりでもして、ここを出るんだ。そうしたら、隙をついて走って、奴らを撒きなさい。来実のいる部屋に入ったら、すぐに内側から鍵を閉めるんだ。鍵はあの人しか持っていないから、あの人が来るまでは、彼女と一緒にいられるだろう」
彼は考えなしに、鍵を渡したわけではなかった。
「私も時間稼ぎはする。ただ、チャンスは一度きりだ。失敗したら、同じ手は使えない。それでも、やるか?」
「ええ。やるに決まってるじゃない」
胸元で鍵を握りしめ、きっぱりと告げる。迷いは一切なかった。
「そうか。君ならきっとできるだろう」
彼の言葉は短かったが、私を奮い立たせるには十分だった。だけど。
「ねえ。貴方はどうして、私のために、ここまでしてくれるの?」
私をただの実験体と思っているのなら、ここまでする義理はないはずだ。この前は怖くて聞けなかったが、これならば、彼が私をどう思っているか、分かるかもしれない。
緊張しながら答えを待っていると、すっと彼の手が伸びてきた。その指先は触れるのを躊躇うように、頬の近くでぴたりと止まる。私がじっと所長を見つめれば、彼は少し切ない眼差しを浮かべ、優しく微笑んだ。ただそれだけで、何も答えてはくれなかった。
一時間後。所長が出て行ってすぐは怪しまれるだろうと、時間を置いてから、扉を開ける。
「お手洗いに行きたいのだけれど」
こちらの思惑を決して悟られぬように、いつもと変わらぬ態度で、見張りの職員に声をかけた。ポケットに、しっかりと鍵を忍ばせながら。
左右を職員に挟まれた状況で歩きながら、隙をうかがう。折角、所長がくれたチャンスなのだ。失敗するわけにはいかない。慎重に、だけども大胆にいかなければ。
服の上から、ポケットの中の鍵を握りしめて、覚悟を決める。
今だ! そう思った瞬間、私は駆け出した。後ろから、引き留める声と足音が聞こえてきたが、振り返らずに一直線に、来実のいる部屋を目指す。途中で職員とぶつかったが、それも無視して、走り続けた。そして、彼女のいる部屋までたどり着いた!
鍵を差し込み、追ってきた職員たちを気にしながらも、開錠する。急いで部屋の中へと逃げ込んで、所長に言われたように、すぐさま鍵を閉めた。
「去果! 開けなさい!」
職員たちが叫びながら、ドンドンと激しく扉を叩いたが、私はドアノブを握りしめて、必死に耐えた。そのうち、彼らはいなくなったのか、外が静かになる。それでようやく緊張の糸が切れて、私は息を切らしながら、その場に座り込んだ。荒い息を無理矢理抑えて、すぐに立ち上がる。
無機質な部屋の真ん中に、ぽつんとベッドが置かれている。そこに、彼女はいた。心電図モニターの穏やかな電子音が、彼女が生きていることを伝えてくる。私はゆっくりとベッドに近付いて、彼女の顔を覗き込んだ。ほんの数日前までは、あんなにも生き生きしていた顔が、今は青白くて、心なしか、頬もこけたように見える。
「来実……」
小さな声で、彼女の名を呼ぶ。彼女は目を閉じたままだ。眠っているだけだと分かっているのに、反応を示さない身体は、すでに息絶えているかのようだった。
冷たい手に自らの手を重ね、膝を屈め、ベッドに顔を伏せる。
「去果?」
消え入りそうな、弱々しく掠れた声が、私の名を呼ぶ。はっと顔を上げれば、来実は薄っすらと目を開けて、こちらを見つめていた。
「来実?」
「やっぱり、去果だ。会えて、嬉しい」
その儚い笑顔に、涙がじわりと滲む。私は勢いよく、彼女を抱きしめた。
「去果、泣いてるの?」
「ごめんなさい。私のせいで、貴女は……。ごめんなさい」
涙を止められず、嗚咽交じりに言う。
知らなかった。大切な人を永遠に失う恐怖を、私は知らなかったのだ。
「去果、謝らないで。悲しませて、ごめんね」
背中に腕が回され、抱き寄せられる。
「貴女が謝る必要はないのよ」
微かに伝わる呼吸や体温や鼓動に、彼女が生きていることを実感する。来実が生きている。それが、たまらなく嬉しかった。
抱きしめ合いながら泣き続けていると、ガチャガチャと音がして、部屋の扉が激しく開かれた。誰が来たのか、見なくても分かっていたが、渋々顔を上げる。
「折角、来実を殺さずに生かしてやったというのに、恩を仇で返してくるとはな」
本部長は、怒りで引きつった笑みを浮かべながら、ずかずかと部屋に入って来た。そして、私の肩を掴んで、来実から引き離すと、今度は胸倉を掴まれ、壁に押し付けられる。
「来実を助けてくれたのは、貴方じゃなくて、所長でしょう」
そのまま睨み合っていると、遅れて所長がやって来た。
「何をしてるんですか!」
この状況に、彼は焦った様子で声を荒げ、本部長を突き飛ばした。解放された私は、背中を壁に引きずりながら座り込む。
「去果」
所長はそばにしゃがんで、心配そうに顔を覗き込んできた。そして、はっと目を見開くと、本部長を鋭く睨みつける。
「貴方が泣かせたんですか?」
「人聞きの悪いことを言うな」
あれだけ泣いていたのだから、私の頬には涙の跡がしっかりと残っていた。それを見て、本部長が泣かせたのだと勘違いしたのだろう。
所長はまだ疑っているようで、本部長を睨み続けていた。
「去果。君は来実のそばにいなさい」
目が合うと、彼は促すように頷いた。私は立ち上がり、来実のそばに寄る。本部長を止めようとしたのか、彼女は上体を起こしていた。その身体を支える腕は震えていて、今にも崩れてしまいそうだ。
「大丈夫? 横になった方が良いわ」
「うん……」
背中を支えながら、彼女の身体をそっと横にする。その間に、所長と本部長は対峙していた。来実の手を握りながら、二人の会話に耳を傾ける。
「遅かったじゃないか。大事な娘を守りたいなら、走って来たらどうだ?」
「私が走れないことを知っていて、嫌味ですか?」
走れない? 本部長が何も言わないところを見ると、嘘ではなさそうだが、どういうことだろう。彼の足は悪くないはずだが。
「いい加減、諦めたらどうですか。彼女たちの実験が失敗したと言うなら、ここまで執着する必要はないでしょう。彼女たちを自由にしてあげてはどうですか」
「お前とあいつを特別扱いして、自由にさせた結果、どうなったのか。お前が一番知っているだろう。自分の娘が、自分と同じ末路を辿るのを見たいのか?」
「いいえ。同じ結末にさせないために、私がいるんだ」
その言葉に、私も本部長も息を呑んだ。所長の覚悟を感じたのだ。
「続きは外で話しましょう。邪魔をするのは野暮だ」
そう言うと、彼は扉の方へと歩き出した。本部長はちらりとこちらを睨んでから、フンと鼻を鳴らして去っていく。部屋には、私と来実だけになった。
「去果」
「なあに?」
来実の目線の高さに合わせて、膝立ちになる。すると、彼女は腕を伸ばして、私の頬に残った涙の跡を拭った。
「もう二度と、会えないんじゃないかと、思ってた。だから、また、去果の顔が見られて、本当に、嬉しい」
途切れ途切れに伝えられた言葉に、また泣きそうになる。だが、何とか涙を堪えて、私は精一杯微笑んだ。
「私も、貴女の顔が見られて、貴女の声が聞けて、本当に嬉しいわ」
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