三章
「行ってきなさい。気を付けて」
私たちは頷いて、電車に乗り込んだ。ホームにいる所長に向かって、来実は子どものように無邪気に手を振る。彼は軽く手を振り返した。
今日は、本部長との一件の翌日だ。昨日の今日であれば、本社の連中も油断しているだろうし、準備も整っていないから、監視の目も厳しくないと踏んでの強行だった。
電車が走り出し、所長の姿が遠ざかる。
「心配そうだね」
「大丈夫よ。絶対に上手くいくわ」
「違うよ。所長のことだよ」
そう言われて、ドキッとする。まるで、心の内を見透かされたようだ。
私は何も言わず、席に座った。彼女もついてきて、隣に座る。
「心配なんでしょ?」
彼女は諦めず、追求してきた。
「……どうして彼は、ここまでしてくれるのかしら」
電車の乗り継ぎや時間を調べて、切符を事前に買って用意してくれて。今日だって、駅まで送ってくれた。私たちが必ず海に辿り着けるように、彼は尽力してくれたのだ。何一つとして、彼の得にはならないというのに。
来実はからかうように小さく笑うと、私の腕に抱き着いて言った。
「ふふ。そんなの決まってるよ。去果のことを、愛してるからだよ」
そう言われても困る。そんなこと、心の奥底では分かっているのだ。彼は昔から変わらずに、私を娘だと思って愛してくれていると。
私が黙っていると、来実はまた小さく笑った。
「去果も所長も、そんなに意地を張らないで、素直になれば良いのに」
「所長のことはもう良いわよ。それよりも、今日一日は二人で楽しみましょう」
もし、今日が無事に終わったなら、所長にありがとうの一言くらい、言ってみても良いかもしれない。
途中の駅で降り、次の電車に乗り換える。
電車に揺られながら、座って話をしていると、来実が不意に手を握ってきた。そして、もう片方の手で、私の両目を覆い隠す。
「なあに?」
「去果。私が良いって言うまで、目を瞑っててほしいの」
「分かったわ。閉じたわよ」
目元に触れていた手が離れたのが、見えなくても分かった。
「去果、立てる?」
「ええ」
立ち上がるも、揺れる車内で足元がふらついて、思わず手探りで彼女の腕に縋りつく。
「大丈夫? 気を付けてね」
「いざという時は、貴女が支えてくれるでしょう?」
「うん。勿論だよ」
手を引かれ、どこかへと導かれる。
「去果、止まって」
そう言われて、足を止める。彼女は私の手を、手すりのようなものに掴まらせた。
「もう良いよ。目を開けて、前を見てみて」
ゆっくりと瞼を持ち上げる。開いた目に飛び込んできた、きらきらと輝く鮮やかな青に、思わず音が聞こえるほどに息を呑んだ。
「この電車、海沿いを走るんだよ」
「……そう。これが、海なのね」
私は今、ずっと憧れ夢見ていた海を、自分自身の目ではっきりと見ている。その事実に、感動で胸がいっぱいになって、涙がじわりと滲んだ。
「来実。ありがとう。私、貴女がいなかったら、一生海を見られずに死んでいたわ。貴女がいたから、私は海を見られたの。本当に……ありがとう、来実」
これまでは、どうせ叶わぬ夢だと、挑みもせずに諦めていた。そして、これからも変わらずに、海を見ることなく死ぬはずだった。来実に出会うまでは。彼女が私に、勇気と希望をくれたから、私は海を見られたのだ。彼女がいたから、私は今この瞬間を迎えられたのだ。
来実は優しく微笑んで、私の目元をそっと指先で拭った。
「電車を降りたら、砂浜まで行って、近くで海を見ようね」
「ええ」
「見て、来実! 海よ!」
電車を降りれば、ホームからは海が一望できた。身を乗り出す勢いで、柵に駆け寄り海を眺める。
「ふふ。去果、楽しそうだね」
「ごめんなさい。つい、はしゃいじゃって」
一人で先走って、これじゃあまるで子どもみたいだ。
「ううん。去果の喜ぶ顔が見られて、私も嬉しいよ」
そう言って、来実は手を差し出してくる。
「行こっか」
「ええ」
彼女の手をしっかりと握りしめ、私たちは階段を下りていった。
木々を抜ければ、纏わりつくような生温い風が、潮の香りを運んでくる。そこはもう砂浜だった。視界を遮るものはなく、この目いっぱいに海が映っていて、そして、隣には来実がいる。念願の海を、大好きな人と一緒に見られるなんて、これ以上のことはない。
私の視線に気付いた来実が、こちらを見てくる。そして、何も言わずに微笑んだ。その瞬間、愛おしさが込み上げてくる。
あの写真の、所長とあの子が、どんな気持ちでいたのか、分かったような気がした。
貝殻を拾い集めたり、海水がしょっぱいのかを確かめてみたり、靴を脱いで波打ち際ではしゃいだりして。その後は、少し歩いて、展望台へとやってきた。そこから二人、海を眺める。
「来実。今日はありがとう。今まで生きてきた中で、今日が一番幸せな日だったわ」
「私も、この日のことは、一生忘れないよ」
「……また二人で、どこかへ行けるかしら」
これが最初で最後になるだろうと、分かっていた。それでも、次を願わずにはいられなかった。
来実が、私の肩に頭をもたれてくる。
「じゃあ、今度は去果が私を連れ出して。私が初めて施設に来た日に、去果を連れ出したみたいに」
「私に、無免許運転しろって言うの?」
彼女は小さな声で笑って、頷いた。
「良いわ。やってやろうじゃないの」
二人で顔を見合わせて、笑い合う。だって、私たちは、とっくに共犯者なのだから。
後ろから足音が聞こえてくる。他の見物客が来たのだろうと、そこまで気に留めなかった。来実はちらりと後ろを見ると、その瞬間、表情を一変させた。
「来実?」
見開かれた目と、青ざめた顔に、嫌な予感がする。まさか。
振り返ってみれば、そこには、所長と本部長と、本社と施設の奴らが数人いた。所長は眉間にしわを寄せ、心苦しそうに俯いている。対する本部長は、私たちが自分たちの存在に気付いたことに、にやりと口角を上げた。
おそらく、私たちの脱走を知った本部長が、所長を詰問して居場所を吐かせたのだろう。そうなることは当然分かっていたし、その時は教えて良いと彼には言ってあった。海を見るまでの時間を稼いでくれただけで、十分だ。
私は一歩、来実の前に出て、守るように片腕を軽く上げる。
「御機嫌よう。どうして本部長殿が、こんなところにいらっしゃるのかしら。貴方たちの居るべき場所は、研究所でしょう?」
「そう言うお前たちの居るべき場所こそ、ここではなく研究所だろう」
「確かに、仰る通りだわ。それでわざわざ、私たちを迎えに来てくださったの? 夜までには帰ると、所長には言ってあったのだけれど、彼から聞いていないのかしら?」
「いいや、聞いている。だが、それがどうした? クローンの戯言など、信じられるか」
「私たちの言葉は信じられなくても、自分の息子の言葉は信じられるでしょう?」
「そんなわけないだろう。こいつには、前科があるからな。一度のみならず、二度もクローンに情を持たれては困るんだ」
どういうことだろう? 一度目は私に、二度目は来実にということだろうか。
「まあ、そんなことはどうでも良い。責任を取って、お前たちのどちらかには死んでもらうぞ」
来実が私の肩に手を添えて、身を寄せてくる。
予想していた言葉ではあるが、どう切り抜けようか。威勢はあれど、自信がない。
「待ってください。この子たちには、役目があります」
すると、その時、所長が助け舟を出してきた。
「役目? そんなのとっくに終わってるだろう。来実の実験は失敗した。去果に関しても、もう十分だ」
だが、そのかいもなく、本部長は鼻で笑って、軽く一蹴する。
「そうだ。光。去果と来実。どちらを殺すか、お前が選べ」
「は?」
とんでもないことを言い出した本部長に、今度は私が思わず口を挟む。
「海に行きたいと言ったのは私よ。だから、私を選べば良いわ」
「あっはっは! 光! 聞いたか? お前が大事に大事に守り育ててきた愛娘は、お前が愛したあいつと同じことを言っているぞ! お前に殺せるはずがないのにな!」
あいつと同じこと? あの子も、お母さんも、私と同じことを言ったの?
「じゃあ、娘の大切な奴を殺すか? そんなことをすれば、お前は愛娘に一生恨まれるだろうな! あの時と同じだ。お前はどちらも選べずに、今度は大切な娘を失うのさ! あっはっは!」
まただ。また、あの時だ。そこで一体、何があったのだろう。
所長は唇を噛みしめて、拳を震わせている。彼には選べないだろう。それに、選ばせるような残酷な真似はさせたくなかった。
「もう良いわ。御託は結構よ。私たちのことは、私たちが決めるわ」
私は来実の手を握りしめ、顔を見合わせた。私がこれからやろうとしていることを、彼女は理解しているのか、見つめた瞳は不安げに揺れている。だが、その表情は、決心がついていた。私が頷けば、彼女も頷く。そして、私は覚悟を決めて、柵に手を掛けた!
柵の向こうは断崖絶壁で、その下は海だ。溺れるかもしれないし、死ぬかもしれない。だが、何も怖くはなかった。憧れの海を見ることができた。しかも、大好きな人と一緒に。だから、ここで終わるのも悪くないだろう。
ところが、私は柵を乗り越えられなかった。突然、真逆の方へと、強い力で引っ張られたのだ。振り返れば、来実の身体がゆっくりと倒れて、そのまま地面に横たわった。
「来実?」
彼女は青白い顔をして、目を閉ざしている。
「来実っ……来実!」
慌てて肩を揺さぶれば、鼻から血が流れ出した。喉が鳴るほどに、息を呑む。
今、目の前で、死が訪れようとしていた。
「ああ、そいつの状態は良くなかったからな。もう限界だったんだろう」
何て無情で冷めた言葉なのだろう。私は本部長を睨んで、叫ぶ。
「この子はまだ生きているのよ! 貴方たちなら、救えるでしょう!」
「ただのクローンの実験体を、どうして助ける必要があるんだ?」
「私の心臓でも命でも、何でもあげるわ! だから、お願い。来実を助けて。お願いよ……」
声が震えて、最後の方は小さく掠れる。こいつらの前で泣きたくなかったのに、溢れた涙は止められなかった。
「ははっ、ははは! その台詞を聞くのは、二度目だな」
一度目は誰が言ったのか。そんなこと気にしていられなかった。
泣きながら項垂れていると、誰かの足元が視界に入る。はっと顔を上げれば、そこには所長がいた。彼は、地面に倒れている来実を抱き上げた。横抱きにされた彼女の身体は、力なくぐったりとしている。
「光! 何をしてるんだ!」
「去果。一緒に来なさい」
本部長を無視し、所長は私に一声かけて歩き出す。私は涙を拭いながら、よろよろと立ち上がり、彼の後をついて行った。
「どうするつもりだ?」
本部長の一言に、所長はぴたりと足を止めて言う。
「死なせるのは、貴方としても不本意でしょう。連れて帰るのが、先なのでは?」
正論に言い返せないのか、本部長は舌打ちをする。そして、歩き出した私たちの後ろを、奴らは何も言わずにぞろぞろとついてきた。
施設へと戻る車内で、所長が声をかけてくれていたような気がするが、はっきりと思い出せなかった。
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