二章(五)

 予定通り、この日、本社の連中がぞろぞろとやってきた。その中心には、あの人が、本部長がいる。私と来実と所長、それから職員の数人で、彼らを出迎えた。

「ご足労いただきありがとうございます」

 思ってもいないような冷めた声で、所長は淡々と告げる。本部長は、バカにするように鼻で笑うだけだった。何度会っても、やはりこの人のことは好きになれそうにない。それから、本部長は私の方へと視線を向けてきた。すると、途端に表情を変えて、忌々しいものでも見るような、物凄く嫌そうな顔をした。今までこんな顔をされたことがなかったので、不思議に思っていると、隣にいる来実の横顔が目に入る。ちらりと見れば、彼女は怖いくらいに、にこにこと微笑んでいた。本部長は私ではなく、来実を見て表情を変えたのだ。もしかして、この二人、これが初対面ではないのだろうか?

 私と来実と所長、そして本部長の四人だけが、応接室にいた。他の本社の連中は、別室で職員たちが応対している。

「去果、来実。座りなさい」

 所長はいつものように、ソファへと案内してくれる。だが、それを気に食わない者が、一人いた。

「クローンなど、立たせておくか、床にでも座らせておけ。人間のように扱う必要はないだろう」

「座りなさい」

 所長はその言葉を無視して、再度促してきた。私が遠慮なく座れば、来実もそれに倣って座る。当然、本部長は面白くなさそうだ。彼からすれば、クローンと人間を対等に扱うなど、信じられないし考えられないのだろう。

「去果だけでなく、来実まで娘扱いし始めたのか?」

「それが、今回の突然の訪問の理由ですか?」

 嘲笑う本部長を再び無視して、所長はさっさと本題に入るよう催促する。本部長はふっと笑って、話し始めた。

「ここの職員からタレコミがあったんだ。そこの二人が、夜な夜な外出していると」

 にやりと弧を描いた目が、ちらりとこちらを見てきた。

 やはり、バレていたのか。おそらく、その告げ口をした職員に、見られていたのだろう。

「どうやらそれを、お前は黙認しているようだと聞いたが、実際はどうなんだ? 知っていたのか」

「はい。知っています」

 所長は言い訳するでもなく、きっぱりと言い切った。

「そうか。外出禁止の命令を破るクローンに、原付二人乗りの違反行為をするクローンか。前代未聞だな。しかも、それを、一施設の所長が黙認しているとは」

「申し訳ありません」

「そもそも、クローンやら命令やら関係なしに、十八歳未満の深夜徘徊は禁止だ。そいつらは、確か十七だろう。父親面するなら、きちんと保護責任を果たしたらどうだ?」

「仰る通りです。それにつきましては、私の監督不足です」

 珍しく、あの人が真っ当なことを言っている。ただそれも、所長を貶したいだけで、決して私たちを人間扱いしているわけではない。

 至極真面目な雰囲気の中、誰かが部屋の扉をノックした。

「失礼いたします。お茶をお持ちいたしました」

 そう言って、職員が部屋に入ってくる。彼の持つお盆の上には、二つの湯呑が置かれていた。それは当然、所長と本部長の分で、私と来実の分はないということだ。まあ、これもいつものことだが。

「お茶はいらん。下げさせろ」

 ところが、この日初めて、本部長はお茶を拒んだ。毎回、出されれば飲んでいるし、今更拒否する必要などないというのに。突然、どうしたのだろうか。

「折角いれてきてくれたのに、申し訳ない。後で飲むから、キッチンに置いておいてくれるか?」

「分かりました。失礼いたします」

 所長が丁寧に断れば、職員はお茶を持ってすごすごと部屋を出ていった。

 しんと静まり返り、居心地の悪い空気が流れる中、先に話を切り出したのは、所長だった。

「今回の件に関しては、全て私の責任です。処分は受けます」

「いいや、結構。処分はお前ではなく、そいつらに受けてもらう」

 これまで冷静だった所長の、顔色が変わる。思いもよらぬ言葉に、私も来実も驚きを隠せない。

「お前が黙認したのは、そうやって、自分が責任を取れば良いと思ったからだろう?」

「彼女たちに、どう責任を取らせるつもりですか?」

「そうだな。新薬でも試すか、あるいは、腎臓の一つでももらおうか」

 新薬ならまだ良い。だが、腎臓を取られたら、私はともかく、来実は……。

「いや、それならいっそのこと、全部の臓器をもらう方が手っ取り早いか!」

 こいつ、私たちを殺す気満々じゃないか!

「それはあまりにも重すぎます。彼女たちが、そこまでの罪を犯したとは思えません」

「そうか? もし、本社のクローンが同じことをすれば、とっくに処分されてるぞ?」

「それなら代わりに、私の腎臓を取れば良い」

 そう言った彼の眼差しに、一切の迷いはなかった。どうして彼は、私たちのために、そこまでしてくれるのだろう? 私は彼の手を握りたくて、仕方なかった。

「そこまでして、そいつらを。いや。去果を守りたいのか。そいつは、お前とあいつの娘だもんな。あいつを幸せにしてやれなかったから、せめて娘だけは幸せにしてやりたいんだろう?」

「……去果の前で、あの子の話はやめてください」

 握りしめられた所長の拳が、微かに震えている。彼にとって、あの子の話は禁句だ。本部長はそれを分かっていて、わざと話したのだ。

「今回のそいつらの行動も、昔のお前とあいつにそっくりだもんな。お前はあの時の失敗を、そいつらで取り返そうとしているんだろう?」

「……そんなつもりは、ありません」

 あの時の失敗? 一体、何のことだろう。所長が話さないせいでもあるが、私は彼の過去を、あまりにも知らなすぎる。一応、彼は私の父親代わりだというのに。

「あっはっは! 家族ごっこも大概にしろよ! 少しの間、あいつと一緒に育てただけで、そいつはお前と血の繋がりも何もない、ただの実験体のクローンなんだぞ!」

 本部長の、耳障りな高笑いが響き渡る。所長は俯いて、黙り込んでしまった。そんな中、来実がおもむろに立ち上がる。

「ちょっと、来実?」

 小さな声で咎めるが、彼女は聞く耳を持たず、そのまま本部長の方へと歩き出す。一体、何をするつもりなのだろうか。嫌な予感しかしない。

 次の瞬間、来実は本部長を殴った! あまりに突然のことに、私も所長も呆然と、目の前の光景を眺めるしかできなかった。さらに来実は、殴られた衝撃でよろめいた本部長を蹴り飛ばし、ソファから落として地面へと這いつくばらせた。

 何てことをするのだろう! 大人しくしていろと、私にも所長にも釘を刺されていたというのに!

 来実は、倒れ込む本部長のそばにしゃがんで、にこりと微笑んだ。

「ただの実験体のクローンに、殴られる気分はどうですか?」

 その満面の笑みが、彼女の狂気を引き立たせている。本部長は怒りや驚きで言葉を失い、わなわなと震えていた。

「さっき、お茶を断ったのは、以前、私にお茶をかけられたからですか?」

 この二人、やはり初対面ではなかったのか。おそらく、彼女の家に来た本社の奴らの中に、本部長もいたのだろう。それにしても、お茶をかけただって? 所長が念を押していたのも、本部長が嫌そうな顔をしていたのも、この前科があったからなのか。

「ふざけるな! たかがクローンの分際で!」

 彼女の言葉に、堪忍袋の緒が切れたのか、本部長は勢いよく起き上がると、来実に殴りかかった! だが、その拳が、彼女の白い頬に当たることはなかった。所長が庇って、代わりに殴られたのだ!

こう! そこをどけ! そいつはお前の娘でも何でもない、ただのクローンだぞ!」

 怒りの収まらない本部長は、もう一度、拳を振り上げる。

「クローンでも、彼女は女の子だ。いい歳した男が、女の子を殴るなんて、みっともないことです」

 みっともないという一言が効いたのか、その拳が振り降ろされることはなかった。上げたままの腕を震わせて、本部長は悔しげに所長を睨んでいる。

「来実。君も殴るのは良くない。反省しなさい」

「ごめんなさい」

 所長は本部長だけでなく、しっかりと来実のことも叱った。流石の彼女も、珍しくしょんぼりとしている。

「少し席を外します。去果、来実。一緒に来なさい」

 私たちが部屋を出ようとすると、後ろから笑い声が聞こえてきた。思わず足を止め、振り返る。

「ははっ。光。そうやって父親面して、守ったつもりになっていれば良いさ。どうせ、あの時と同じになる。あの時のことを、よーく思い出すんだな」

 床に座り込んだまま、本部長は負け惜しみのように、所長の傷口を抉るようなことを言ってきた。

 やっぱり私は、この人が嫌いだ。そう再認識する。

 前を向けば、所長は震える手を強く握りしめていた。胸を締め付けられながら、その背中を見つめて様子をうかがう。彼は何も言い返さずに、歩き出した。私と来実もそれに続き、部屋を後にした。



 キッチンに着くと、所長は重い溜息を吐いて、テーブルに寄りかかった。

「大丈夫? 冷やしましょうか?」

 殴られた頬が少し赤くなっているのを見て、つい心配になって声をかける。

「いや、大丈夫だ。あの人に殴られるのは、これが初めてじゃない」

「所長。私のせいで、ごめんなさい」

「構わない。私も若い頃、君と同じように、あの人を殴ったことがある」

 今の本部長と所長という立場では、難しいのだろうが、ただの父と子だった頃は、やり返すこともできたのだろう。

「私は、あの人のところに行ってくる。君たちはそのお茶でも飲んで、待っていなさい」

「一人で行くの?」

 本部長のところへ戻ろうとする所長を、引き留める。彼は立ち止まり、こちらを一瞥した。

「……あの人との会話を、君には聞かせたくないんだ」

 そう言うと、彼は行ってしまった。

 彼が聞かせたくないのは、あの子の話だろう。さっきも、本部長が少し口にしただけで止めていたし、所長自身も、決してあの子の話をしようとしない。だけど、どうしてそんなに頑なに、教えてくれないのだろう? あの子は、私の……。

「去果」

 声をかけられて我に返り、来実を見る。彼女は落ち込んでいるのか、いつものような覇気がなく、どこかか弱く見えた。

「ごめんね。去果にも所長にも、大人しくしてろって言われてたのに」

 私が黙っているから、怒っているのだと勘違いしたのだろうか。私は彼女を安心させるように微笑みかけて、優しい声色で言った。

「貴女は黙っていられるような子じゃないもの。貴女があの人を殴った時、正直スカッとしたわよ」

 私が怒っていないことに気付いたのか、彼女はおずおずと顔を上げる。

「でも、どうして殴ったの? あの人は別に、貴女のことは何も言ってなかったでしょう?」

「私にとって、去果と所長は大切な人だから。大切な人たちが悪く言われてるのを、黙って見てられないよ。去果と所長があの人に逆らえないなら、私が殴るしかないでしょ?」

「貴女のそういうところ、私は好きよ。でも、殴るのもお茶をかけるのも、これっきりにして頂戴ね。所長にも、良くないって言われたでしょう?」

「うん」

 私の言葉に、彼女はようやく笑顔を見せてくれた。

「まあ、所長に言われた通り、お茶でも飲んで待っていましょう」

 そう言って、椅子を引き、座るように手で指し示した。

 本来なら、本部長と所長に出されるはずだったお茶を、クローンの私たちが飲む。

「ねえ、去果」

「なあに?」

「さっき、所長たちが話してる時に言ってた、あいつとかあの子とかって、誰のことなの?」

 お茶を飲む手が、ぴたりと止まる。

「所長と一緒に去果を育ててたとか、色々言ってたけど……」

 私は湯呑を置いて、しばし考えてから答えた。

「私の名字、所長と違うでしょ?」

「うん」

「見留の姓は、私の母親代わりだった人の名字なの」

「じゃあ、あの子っていうのは、去果のお母さんのことなの?」

「そうよ。私の母親代わりで……所長の愛する人のことよ」

 そう。あの子というのは、私のお母さんだった人のことだ。あの海の写真で、所長と一緒に写っていた人である。

「名前は、何ていうの?」

「私が知っているのは名字だけで、名前も顔も知らないの」

 これは本当でもあり、嘘でもある。名前には心当たりがあるし、顔もあの写真の人で間違いないだろう。ほぼ確実だとは思うが、それを誰にも確かめたことがない。だから、知らないというのも嘘ではないのだ。

「そっか。……その人、今は?」

「聞いたことはないけれど、おそらく、亡くなっているんでしょうね。母親代わりだったのに、私はその人のこと、全く覚えてないんだもの。それに、所長のあの反応を見れば、何となく分かるでしょう?」

「……うん」

「所長がいなかったから良いけど、彼の前で、あの子の話はしないでね。あまりにも悲痛な顔をするから、見てられないのよ」



 一時間後。所長が溜息交じりに、キッチンに入ってきた。私と来実はほぼ同時に立ち上がり、彼のそばに駆け寄る。

「どうだったの?」

「何とか場を収めてはきたが、一ヶ月の謹慎処分を言い渡された。その間に、君たちが一歩でもこの施設を出れば、あの人は今度こそ本当に、君たちを殺すだろう」

 一ヶ月。来実の身体がどれほど悪いのか分からないが、それまで元気でいられる保証はどこにもない。それに、あの人が手を下さないとも限らない。

「じゃあ、海へは行けないの?」

「一ヶ月たったら、行けば良い。その時は、私も惜しまず協力しよう。だから」

「それじゃあ駄目なのよ!」

 所長の言葉を遮って、叫ぶ。二人の驚いた眼差しが、こちらを見つめていた。

「それじゃあ、遅すぎるのよ……」

 声が震える。目頭が熱くなって、泣きそうになった。

「来実。もしかして、去果に話したのか? 君の身体が、あまり良くないことを」

 彼女は無言で頷く。

「そうか。だからそんなに、海に行きたいのか」

 辻褄が合ったのか、所長は納得したようだ。

「どうにかできないの?」

「あの場を収めるのだって、苦労したんだ。海へ行こうものなら、殺されるぞ」

「それでも、私は行きたいのよ」

 所長はしばし黙って、それから、来実に問いかけた。

「来実。去果はそう言ってるが、君はどうなんだ?」

 彼女は一瞬だけ驚いた表情を見せたが、すぐに真っ直ぐな目で所長を見据えた。二人の真剣な眼差しが、ぶつかり合う。

「私は……諦めて、死ぬのを待つくらいなら、思いのままに生きて、死にたいです。それなら、たとえ殺されたとしても、後悔はありません」

「そうか。じゃあ、どうする? これから、君たちへの監視の目は厳しくなるだろう。ここから出られるかも怪しい。出られたところで、すぐに捕まって、海まで行けないかもしれない。何の力も持たない、まだ子どもの君たちに、何ができるというんだ?」

 厳しい言葉だが、その通りだ。だから、反論できない。

「二人とも、顔を上げなさい」

 俯いて黙り込む私たちに、所長が言う。

「君たちが、命を懸けてでも、海を見に行きたいというのなら……協力しよう」

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